2017年9月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ルカ福音書12章13~21節、マタイ福音書6章19~20節
12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
<要約>
賜物の管理者としての人生:
イエス様は、愚かな金持ちのたとえ話をされました。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、人格に満足を与えることはできません。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」とあります。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富まない人生とは、神を認めない人生であるといえます。ですから、自分にあるものを自分で得たものと思うのです。神に栄光と誉を帰そうとしない人です。神のことより自分を優先する人です。結局、寿命が来て、自分のために蓄えたものを自分のために使うこともできなくなったのです。このたとえの金持ちが愚か者と言われた理由は、神のものを自分のものと思っていたことです。私たちにあるすべてのものは、神のものです。造り主のものです。それを自分のものと思っているところに誤りがあります。次に、私たちは何のためにそれらを所有しているのでしょうか。それは、管理するためです。創世記には、地上のあらゆる生き物を支配させるために人を造られたとあります。また、私たちの与えられた賜物を神の良い管理者として、互いのために用いなさいとあります。いのちは神のものであり、神の主権の中にあります。そして、それが私たち一人一人に与えられているのは、様々に与えられたものを管理するためです。金銭を含めて、家も土地も家族も健康もすべてが神から委託されて管理するためであります。
神の前に富む人生:
それに対して、神の前に富む人は、マタイ25章のたとえにあるように、神から預けられた二タラント、五タラントの財産を用いて、それぞれを倍にしたしもべのようです。賜物を豊かに活用した人です。それは天に財を蓄える人です。そして、主人からこう言われた人です。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』そして、そのような人は、(マタ5:29)『さらに与えられて豊かになる』ひとです。具体的には、自分に与えられたところで最善を尽くす人です。神を信じ、礼拝し、賛美して、祈る人です。神の喜ばれることを優先して、家族友人を大切にして、人に親切にする人です。神のわざに励む人です。その人は、キリストと知らずに隣人をもてなす人です。また、賜物と言われる能力や才能も人それぞれです。マタイの福音書25章のタラントのたとえでは、一タラント、二タラント、五タラントをそれぞれのしもべに主人は与えて旅に出かけたとあります。前にも話しましたが、一タラントは6000万円です。神が私たち一人の信者にお任せになっている賜物は決して小さなものではありません。預かった一タラントを土に埋めて、自分には神に用いていただく賜物はない、といった態度をとったしもべを神は怒られました。
私たちクリスチャンは、それぞれが与えられた賜物を思いと力を尽くして十分に用いていただく必要があります。神は、それを三十倍、六十倍、百倍に祝福してくださる神なのです。そこに「持っているものはますます与えられ、持たないものは持っているものまで取られる」という霊的な原則が働くのです。また、財やいのちは私たちにテストとして与えられています。いのちをどのように使うかが試されています。すなわちこの地上に生きている間にそのいのちを神の栄光のために、永遠の御国のために使うか、あるいは反対に、自分の満足、自分の欲のために使うかを神は見ておられます。今ひとたび、私たちは神から委託されたものを用いて主の栄光のために用いたいと思います。それは、別のことばでいえば、天に宝を積むということです。イエス様は地上の宝とはどんなものであるかを示しています。それは、「虫とさびで傷物となり、また、盗人に盗まれていく」ものであるといわれました。すなわち、どんなに蓄えても人の心を満たすものではなく、価値も変わるし一時的なもので、この世を去るときには全部残していかなければならないものだというのです。ですから、永遠に価値の変わらない、持つ人の心を豊かにして、この世を去るときも持っていけるような宝を積みなさいと言っているのです。
神は永遠のいのちを無償でくださる:
人類は、高慢になって神に届こうとバベルの塔を建てました。そこで、神は人のことばを混乱させて、言葉が通じないようにして、その町から人々は散らされました。人類はその事件以来、自分の力で文明文化を築き上げてきました。以来、人は神から離れて、神を認めず、神を意識せず、神なき世界を築いてきたのです。そして、文化や経済が人を豊かにし、人類を平和にし、個人のたましいに平安を与えると錯覚してきました。しかし、人は依然、罪に縛られて自由を得ることができずにいます。人類は平和共存を願いつつも自らの罪の力により争いから解放されることなく現代に至っています。この愚かな金持ちは、神を認めない人間の姿です。その様な自らを救うことのできない人類、そしてあなたを神は哀れんでおられます。神はあなたを、罪と死と悪魔から救い出すために御子イエス・キリストをくださいました。そして十字架という代価を払って贖いだしてくださったのです。あなたはそれを無償で受け取ればよいのです。いのちの主権は神にあります。神は呪いの神ではなく、祝福の神です。是非、神が無償で提供してくださるこのイエス・キリストという宝を思いを変えて受け取って永遠のいのちを自分のものとしてください。