裁きと赦しの法則

2025年3月30日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
赦しの力;

目に見える世界に万有引力の法則があるのと同じくらい、目に見えない霊の世界にも法則があります。その一つに、2節にあるように、人を裁くと裁かれるという法則です。壁にぶつけたボールは強くぶつけただけの勢いで反ってきます。人を裁くと同じくらいの強さで自分に帰ってくるのです。同様に「あなたが量る通りの量であなた方もはかられる。」のです。また、もう一つに、人を赦すと赦されるという法則があります。自分の罪の大きさがわかると、人の罪が目立たなくなり、人を赦すことができるのです。そして自分の罪の深さがわかればわかるほど赦しの大きさがわかり、すなわち全ての罪が赦されている恵を実感するのです。イエス様は十字架で、裁きを赦しに変えてくださったのです。「赦すためです、主の十字架」という賛美があります。赦しが真の平和をもたらし、和解をもたらします。赦し合うことによって、真の幸いが来るのです。イエス・キリストは裁きの法則が主導している人間社会に、赦しの法則をもたらしてくださったのです。

福音は神の力:

聖なるものと真珠は福音のことを指しています。キリストの救いの福音は金よりも純金よりも真珠よりもはるかに価値のあるものです。神がその命を代価として差し出して産み出されたものだからです。神は人間を犬や豚ではなく、高価で尊い存在としてごらんになっています。しかし、真珠を踏みつける豚や犬のようにこれほど価値のある神の福音を拒んでしまうのも人間です。高価な真珠はそれを身に着ける人の価値を高めます。また、その価値を引き出す働きがあります。気品のある方が高価な真珠を身に着けるとその気品がさらに輝きを増すでしょう。福音の価値がわかればわかるほどに私たち自分自身の価値がわかってくるのです。自分がいかに神に愛されている存在なのか、そして自分を大切な存在として、「自分は神に選ばれたオンリイワン」であることに気づくのです。福音は私たちのよいところを引き出してくれます。自分の使命、用いていただきたいと言う願いが表れます。 福音は私たちを罪の滅びから救い出すばかりでなく、私たち人間が生きる意味や価値を明らかにしてくれるのです。福音はあなたを滅びから救い出し、永遠のいのちを与えます。さらに、あなたを神の最高の作品として輝かせるのです。それこそが福音の力です。

<聖書>マタイの福音書7章1~6節
【新改訳2017】
7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。
7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。

罪を赦すために来られた神

2025年3月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
罪と病いと死の関係:

当時の社会は、因果応報の考えが一般的で、病は罪のためであると考えていたようです。現代でも、罪と病は全く無関係とはいえません。罪からくる悪習慣による病気もあります。暴飲暴食からくる健康被害、喫煙がもたらす健康障害、性病などもそうかもしれません。しかし、多くの病は罪と無関係であるといえます。がんとか遺伝病も多くは罪と関係ありません。別の個所で、イエス様は、生まれつきの盲人に道でお会いになりました。そして、彼が生まれついたのは罪のためではなく、神の御業があらわされるためであると言って、彼の眼を開かれました。この場合、病は神の栄光のわざの顕われであったのです。かたや、病と死は創造の初めからあったものではなく、アダムの罪によって人類に入ってきたものです。ですから、根元的には、病気や死は罪の結果ともいえます。そのように罪と病と死は密接に関係しているといえます。イエス様はその根元的な罪を取り除くために来られました。あなたを罪と死と、そして、悪魔から救うために来られたのです。

罪を赦す十字架:

神であるイエス様が地上に来られた目的は、罪の赦しの権威を行使するためでした。つまり、人の罪を赦すために来られたのです。罪人にご自身を与えつくすために来られました。それは、実に、イエス・キリストは、十字架にかかるために来られたといえます。十字架とは何でしょうか。それは、死刑の道具です。無実の神が人の身代わりとなって罪の罰を負ってくださった。無実の神があなたの身代わりとなってあなたが受けるべき罰を受けてくださったのです。イエス様はあなたの罪のために来てくださった、神が家畜小屋で最も貧しい人となって生まれてくださった。それは、あなたの罪を赦し、新しい人としての再生させるために生まれてくださったのです。クリスマスには、世界中の人々がこの救い主の誕生を祝います。何からの救いでしょうか。罪と死と悪魔からの救いです。キリストの罪の赦しを受けたあなたは、過去、現在、未来のすべての罪が赦されているがゆえに、罪の責めを受けなくてもよいのです。そして、むしろ神に喜ばれることを積極的に行うことができるようになります。それは、隣人を愛するという行為となって表れるのです。罪の赦しの条件はただ一つ、イエス様を信じることです。

<聖書>ルカによる福音書5章17~26節
【新改訳2017】
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒?を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」

ゆるぎない平安

2025年3月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書6章25~34節
【新改訳2017】
6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

<要約>
人の不安はどこから:

生まれながらの人間は、罪人で、いのちの源である神から離れて、神を認めることができず、自分のいのちの意味を見出せない状態にあります。ですから、不安に陥る根源的な原因には、罪の問題があるのです。罪から来る報酬は死です、とありますように、罪の結果は死です。人の不安はどこからと題してお話ししています。私たちは、先が見えない、未来がわからない、自分がこの後、どうなるのだろうか?死んだ後どうなるのか?自分の存在はどうなってしまうのだろうか?自分がこの世の中で生きている意味は何なのだろうか?と不安になります。人の不安は、根源的には罪からきています。神との関係が失われて、神の恵みと愛、そこからくる平安を受け取ることができない状態になるからです。そして、聖書は、私たち人間はどこからきてどこへ向かっているのかを説明しています。最初があり終わりがあります。この世の中は最終的には、罪によって滅ぶのですが、新しい天と新しい地が用意されているので心配しなくてよいと語っています。

神がくださるゆるぎない平安:

イエス様は、体や命のことで心配しなくてもいい。神があなたに約束していることは、最終的には素晴らしい祝福と恵みの世界です。ですから、今、与えられたいのちを主のために用いなさいということです。優れたことのために用いなさい、ということです。神が与えるゆるぎない平安と題してお話ししました。私たちにはいろいろな心配事があります。明日のことは、明日が心配します。労苦はその日に充分あります、とある通り、私たちは、その日その日を心配するのみでよいのです。神が私たちの人生の最初から終わりまで、そして永遠に至るまで、責任を持って導いてくださいます。そのことをよく心しておく必要があります。ですから、今、私たちができることは神の国と神の義を求めること、つまり神をいつも心の中心において、神との関係を大切にして行く歩みが求められています。そうすれば、生きる上での様々な必要は、すべて、与えられます。キリストにあるものはゆるぎない平安を得ることができると聖書は約束しています。私たちはイエス様が与える平安をいただいています。それは揺るぎない平安です。最後の敵である死をも滅ぼし、復活のいのちに生かしてくださるからです。どんなときも心騒がせることなく、ひるむことなく、神を見上げて参りましょう。

地の塩、世の光

2025年3月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
塩気を保つクリスチャンライフ:

塩気を保ったクリスチャンライフは、みことばに立った生活を送るということです。聖書の中心である福音をしっかり押さえて生活することです。それはイエス様の十字架と復活をしっかり信じているということにかかっています。聖書の中心メッセージは、神は御子イエス・キリストによりあなたや私を罪と死と悪魔から救ってくださったということです。私たち人間は自らの罪のゆえに、死と滅びに定められています。神は、人が滅びるのを惜しんで、そのすべて人の罪を神の独り子キリストに背負わせて、身代わりとして十字架刑で死に至らせたのです。そこに神の愛があらわされています。そればかりでなく死んで3日目に復活しました。それを信じる者はに永遠の命を与えてくださいます。クリスチャンが塩気を保つことは難しいことではありません。まず、イエス・キリストを信じる信仰によって生きることです。そして、あなたが塩気を保つ 生活をするためには聖書のみことばに立って生活することです。そのために、聖書を読み、聖書に親しみ、みことばを蓄えなければなりません。

世の光として輝くクリスチャンライフ:

クリスチャンは地の塩ですが、塩の塩気は味わってみなければわかりません。しかし、光は外に向けて放たれ周りの人々に届いていきます。そこには積極的に生きる証のクリスチャンライフがあります。失敗を恐れず、前向きに生きることです。それぞれが遣わされている三つの職域、教会、家庭、職場あるいは学校、それぞれのところで最善を尽くすことです。神を愛し、人を愛する生涯です。あなた方の光をマスの下においてはいけない、隠れていてはいけない、世に出て行きなさい。光は闇を吹き払うのです。光は、目に見えるものです。ある時はそれは灯台となり、迷った人を正しく導くでしょう。世の光として輝くために、私たちは何に努力しなければならないかです。努力するべきことは、信仰に励むことです。行いではないのです。すなわち、神との関係に生きることです。具体的には、神を恐れ、愛し、信頼することです。神との関係が正されると、行いは自然と出てきます。あなたの光は輝きます。塩は塩気を取り戻し、あなたは世の中に良い影響を及ぼします。火があるところには必ず光が生じます。そのように信仰がある人は必ずよい影響を周りに及ぼしていくのです。

<聖書>マタイの福音書5章13~16節
【新改訳2017】
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。