2024年10月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明
<聖書>マタイの福音書18章21~35節
【新改訳2017】
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」
<要約>
罪がわからない人間:
自分が罪びとであるということが自覚できなければ、自分がどんなに赦されているかもわかりません。自分には赦される必要があることもわかりません。私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。アウグスブルク信仰告白に以下のように記述されています。「実に、人は母の胎内にいるときから悪への傾向と欲とに満ちており、生まれながら神への恐れもない」と。さらに、この原罪というものは、遺伝的罪であり、真の罪であると書いています。そのままでは、すべての人は、神の永遠の怒りのもとにあり、罪の裁きを受け滅びに至るのです。しかし、神は怒りの神である以上に憐みの神です。この例話の主君は家来をかわいそうに思って、家来の負債をご自身が担い帳消しとされたのです。イエス・キリストが、すべての人の罪を担い十字架で死んでくださり、そればかりでなく、三日目に今度は信じるすべての人のいのちのために復活してくださった。その事実を信じて、罪と死と滅びから救われるのです。王から「悪い家来だ」と言われたその男は、自分に百デナリ借金のあるしもべ仲間を牢獄に入れました。その結果、自分も牢獄に入れられたのです。これは、赦さない人は結果的に自分を牢獄につないでしまうということです。赦さない人はそれが自分にかえってきて自分を束縛し心の自由を失うのです。
赦された罪びととして人を赦し愛する:
人はそのままでは死と滅びに定められています。神は、人が滅びに向かうのを惜しんでおられます。そこで神は、すべての人の罪を赦すという決断をなされました。それは、罪のない神の一人子イエス・キリストに人類のすべての人の罪を着せて、すべての人の身代わりとして十字架で断罪し、死に至らせました。そのことにより、過去現在未来に至るまでのあなたの罪は赦されました。キリストは十字架で死んだばかりでなく、三日目に復活しました。それにより、信じる者は、罪赦されるばかりでなく、キリストが復活して生きておられるように、復活のいのちをいただき永遠のいのちに生きるのです。これからは、私たちは罪赦された罪びととして、隣人の罪を赦し、隣人を愛する人生を選び取っていくのです。それは、決してしぼむことのない自由と希望と喜びの人生です。ぜひそのことを受け止めて歩んでいただきたいと思います。