歴史を通して明かされた救い主

2023年7月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き28章16~31節
【新改訳2017】
28:16 私たちがローマに入ったとき、パウロは、監視の兵士が付いてはいたが、一人で生活することを許された。
28:17 三日後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集めた。そして、彼らが集まったとき、こう言った。「兄弟たち。私は、民に対しても先祖の慣習に対しても、何一つ背くことはしていないにもかかわらず、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
28:18 彼らは私を取り調べましたが、私に死に値する罪が何もなかったので、釈放しようと思いました。
28:19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私は仕方なくカエサルに上訴しました。自分の同胞を訴えようとしたわけではありません。
28:20 そういうわけで、私はあなたがたに会ってお話ししたいと願ったのです。私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです。」
28:21 すると、彼らはパウロに言った。「私たちは、あなたについて、ユダヤから何の通知も受け取っていません。また、ここに来た兄弟たちのだれかが、あなたについて何か悪いことを告げたり、話したりしたこともありません。
28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派について、いたるところで反対があるということを、私たちは耳にしていますから。」
28:23 そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。
28:24 ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。
28:25 互いの意見が一致しないまま彼らが帰ろうとしたので、パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。
28:26 『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
28:27 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」
28:29 【本節欠如】
28:30 パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

<要約>

聞いても見ても悟らない人間社会:

聞いてもわからない、見ても見えない、心が鈍い、というのは内向きであって外で起きていることが心に入っていかない、結局、耳は聞こえず、目も見えていない状況です。当時のイスラエルの民はそのような状況になっていたのです。その姿勢は、現代社会に住む人々の内にも見られます。神から遠く離れているので、みことばを聞いても心に入らないのです。人は生まれながら「律法主義者」であると言われます。すなわち、だれでも自分の成績、実績に自分自身の存在意義を置くのです。どこまでも、人間は自己の中にある何物かを誇ろうとするのです。それが人間の本質です。その延長線上にあるのが、自分を誇り他人を見下す生き方です。それが私たちの罪の姿です。それは現代の日本人にも見られることです。日本人は遵法精神に富んでいて、善い行いに励む人々です。 善い行いをたくさんする人は、行いのない人々に不満を持つようになります。「私はこんなにしているのにあの人たちは何もしない。ずるいのでは」と、心に思うからです。これが行いを誇る生き方です。これは信仰ではなく、律法主義の生き方です。行いは、信仰から出るべきです。謙遜と感謝から出てくるのです。

全世界へ広がるイスラエルの希望:

ユダヤ人は歴史を通して、「希望」を持ち続けようとしました。ユダヤ民族には選民思想というのがあります。彼らは、神に選ばれた民であり、神はユダヤ民族を祝福し救ってくださると信じています。それが、時至って、神がイスラエル、そしてすべての国民に救い主を送って下さいました。ベツレヘムの田舎に、最も弱い小さなものとして来られました。不潔な家畜小屋でお生まれになったのです。クリスマスです。「全世界に広がるイスラエルの希望」と題してお話ししています。それは、神が人となって来られたということです。ここに希望があります。救いがあります。私たちは誰も自分で自分を救うことはできません。なぜなら、私たち全ての人は自らの罪により死んでいるからです。私たちはそのままでは、罪により永遠の滅びに至らざるを得ないのですが、キリストは あなたを罪と死と悪魔から救うために世に来てくださいました。現在、キリストの救いは全世界に届けられようとしております。聖書の預言が成就するのです。ですから、私たちは今、希望の時代に生きています。

教会を産み育てる聖霊

2023年7月16日(日)ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き11章19~26節
【新改訳2017】
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。
11:20 ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。
11:23 バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。
11:24 彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
11:26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

<要約>

人、状況を用いて宣教する聖霊:

エルサレム教会の執事をしていたステパノは、ユダヤ人たちから石打の刑に処せられ、殺されました。そして、他のエルサレム教会の信者たちにも迫害の手が迫っていました。信者にとっては苦境であり、マイナスの状況でした。しかし、その状況を聖霊は逆用して、福音を異邦人にも広げたのです。聖霊はこのように人を用いて働かれるのです。現状では、人は罪に捕らわれているために、自分が救われなければならない存在であることにも気づきません。罪の報酬は死です。そして、「人間には一度死ぬことと死後裁きを受けることが定まっている」と書いてある通り、罪の結果は死後のさばきと永遠の滅びです。イエス・キリストは自らの罪のために死と滅びに閉じ込められている人を救うために来られました。そして、すべての人の罪を背負って、身代わりとなって、十字架で自らの命を捨ててくださいました。それは、あなたが信じて神に立ち返り、真の命に生きるようになるためです。私たちが先に救われたのは、私たちの周りの家族、友人、知人にイエス・キリストの救いを届けるためです。

聖霊は教会を通して働かれる:

聖霊は教会を産み育て、教会でイエス・キリストの救い、イエス・キリストによる罪の赦しと永遠のいのちを提供しています。バルナバは、生活習慣が違う、ユダヤ人と異邦人との問題を取り上げてうんぬんするのではなく、ポジティブなものの見方をしています。バルナバの視点は、「神の恵みを見て喜んだ」ことです。そして、みな心を固く保って、常に主にとどまるようにと励ましています。違いがあっても、そこに神の恵みを見ています。これは、聖霊のみ思いです。私たちは、教会においてもその他の社会生活においても様々な問題に直面しながら生活しています。反対、つまずき、困難、苦難はつきものです。しかし、神の恵は変わらずに注がれています。聖霊は教会を通して、またその一員であるあなたを通して働いておられます。あなたは教会の身体の一部です。愛し合い、仕え合い、キリストの身体を立ち上げていくのです。まだ信じていない方は、是非キリストの罪の赦しといのちを自分のものとしてください。空の手を差し出して、キリストの赦しといのちを受け取ってください。身体の死の向こうにある復活のいのち、永遠のいのちをいただくことができるのです。

罪と世と悪魔からの解放

2023年7月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>出エジプト記2:23~3:10
【新改訳2017】
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。

3:1 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると【主】の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
3:3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
3:4 【主】は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
3:7 【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」

<要約>

苦しみ叫び痛みをみこころに留める神:

現代社会を見るときに、侵略戦争、災害、殺人、窃盗、自殺などが全世界のどこかで起こっています。大勢の人々がそのために悲惨を味わい、命を落としています。また、私たちは、平和をつくりたい、皆が仲良く暮らしたい、赦し合い愛し合う世界にしたいという願いを持っていながら、争いやいざこざをなくすことができません。そして、せっかく造った建造物も皆がれきにしています。罪と世と悪魔の力が働いているのです。それは、個人レベルでも民族レベルでも国家レベルでも同じです。神はイスラエルの叫びに耳を傾け、みこころに止められたと書いています。信者の叫びは届いています。すぐに答えが出ないから、聞いておられないというのではありません。神は最善の時を待っておられ、最善の方法で祈りを聞いてくださるのです。苦しみ叫び痛みをみこころを留める神と題してお話ししています。神は、あなたの苦しみ、叫び、悩み、痛みに向き合ってくださっているのです。イエス様は、十字架の上でこの「苦しみ、叫び、痛み」をあなたの救いのために担われました。ですから、向き合うことができるのです。

あなたを召し働きにつかせてくださる神:

信者はみな、神から呼び出された者たちです。ですから、すべての信者には多かれ少なかれモーセが体験したように、三つのステップで召命ないし使命を受けるといえます。第一番目が神の臨在に触れるということです。これは、現在の私たちに当てはめると、聖霊がみことばを用いてあなたの心に語りかけることです。第二番目は、聖別です。神は、神はモーセを聖別しました。イエス様を信じたとき、神が私達を聖め分かって、神の子どもとし、聖なる民に加えてくださったことです。それは、神はあなたに働きと使命を持っておられることです。第三は派遣です。神はモーセを呼び出して、使命を与えて、エジプトへ派遣しました。同様に、神はあなたを必要としている人々に派遣なさるのです。私たちすべての信者に与えられている使命は、福音を周りの人々に伝えることです。また、お一人お一人、それぞれに与えられている使命は、それぞれの力に応じて隣人にお仕えすることです。隣人愛の実践と言えます。人は自分のためにだけ生きていてもむなしくなるのです。隣人のために生きるときにこそ人は心に充足感を得るのです。人は、人のため神のために生きるときにこそ、豊かで充足した人生があるのです。