失われた人を捜し求める神

2019年08月18日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>マタイの福音書18章11~20節
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。
18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

<要約>

滅びないでいのちに至るために:

イエス様が来られた動機は、「失われている者を救うためであった」ということです。失われた者とは、神を信頼せず、神を恐れず、神を愛することを知らない人でいのちを失って、滅びに向かっている人です。たとえ話は、教会学校ではよく「迷子の羊」と題して語られるところです。羊飼いであるキリストにとってその迷っている一匹の羊はどれほど尊いものであるかを示しています。迷い出た一匹のために他の九十九匹を山に残して、捜しに出かけるというのです。普通、人は、九十九匹を危険な目に合わせてまで、迷い出た一匹を捜しに行くことはないが、神の愛はそうではありません、というところです。イエス様は一人の人も滅びることを望んでいません。すべての人が悔い改めに進むことを願っています。その為に、神はひとりの人も自らの罪によって滅んでいくことが無いように、十字架による罪の赦しと永遠のいのちを提供してくださっているのです。

天国の鍵を握る教会:

兄弟が罪を犯しているのを知ったなら、まず、最初に、「行って、忠告しなさい」というものです。しかし、その人がそれでも悔い改めず、忠告を聞かないならば、次には、他の一人か二人を連れて行きなさいというものです。他の証人を連れて事実確認にいかなければならないというのです。それでも聞き入れないならば、教会に訴えるのです。教会には戒規規定があります。それは、あくまでもその人を裁いて滅びに至ることを宣言するためではなく、悔い改めて救うためです。そして、「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」これは、ペテロを代表として教会が受けた「天国の鍵」の権威です。教会で戒規に処したことは、天国でもその通り執行されるということです。教会は、キリストの十字架による罪の赦しを宣言し、それにより神のいのちに与り、永遠のいのちが与えるところです。それと同時に、教会は罪に対する神の怒りをも伝え、悔い改めない魂は永遠の滅びに落とされることを宣言します。地上の教会の祈りが天を動かすのです。教会は、積極的に罪の赦しを宣言していきます。みことばと聖礼典を通して罪の赦しが宣言されています。