2019年05月26日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>Ⅰコリント12章12~27節
12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
<要約>
神(キリスト)を失った身体:
人間社会の歩を見ると、分裂と争いの歴史であると言えます。衣食住が満たされるようになっても、人口減や核家族化、高齢者の孤立化などがあります。依然として、将来に希望を見いだすことができない社会です。多くの人々が孤独とあきらめの中にいます。これは、はっきり言って、神を失った人間の姿であり、歴史と言えます。神よりも自分を上に置く人間は神を失います。そして、神を失った人の人格の中心には空洞ができています。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける者は救われます。あなたの人格の中心にあった空洞に聖霊が住まわれます。そして、あなたには決して奪われることのない平安といのちの喜びがきます。
教会員の多様性と一致:
人間の身体は、各器官が共に働いて生命活動をしています。それぞれの器官はかけがえのないものです。クリスチャン各自はその器官であり、各自が違っていてよいというのです。教会は一つのからだです。すなわち教会は多様な人々で構成されています。他の人と比較して卑屈になったり、ねたんだりしてはいけないというのです。その自覚に立って、自分に与えられた分で精いっぱいキリストのからだである教会のために全力を尽くすのです。人体の器官に優劣をつけることはできません。教会は多様な人々で構成されていて、キリストによって一つにされている統一体です。私たちはキリストのからだとして、兄弟姉妹の重荷を分かち合い、ともに苦しみともに喜ぶ教会でありたいと思います。
キリストのからだの使命と目的:
身体の各器官が体全体のためにあるのです。同様に、私たちクリスチャンも他の人々のためにあると言えます。さらに、キリストが頭となって、キリストの思うところをなし、キリストの望むところを探り行うのです。教会では、かえって、劣った人、弱い人、貧しい人を尊ぶのです。教会はキリストの花嫁で、キリストは教会のためにご自身を捧げられました。そして、教会をシミやしわやそのようなものが何一つない、清く傷のないものとしてくださいます。キリストのからだを建て挙げるというのは、教会が質的にも量的にも成長することです。