ゲッセマネの祈り

2018年03月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~52節
26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。
26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

<要約>

オープンな心で分かち合い祈る:

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、一緒に目を覚ましていなさい」と。その悲しみと苦悶はどこからくるのでしょうか。それは、罪を知らないキリストが「わたしたちの代わりに罪とされ」神の怒りを一手に受けなければならないこと。そして、私たちの代わりに神に呪われたものとなり、死に定められ、死刑を執行されるということからです。イエス様は、神でありまったく聖い存在です。それが、罪びととさせられるというのは、自己矛盾ともいえます。正義を定められた神が、ご自身を不義とするのは矛盾です。神は義によって罪を裁いて、人を滅びに定めます。しかし、人を愛して何とか滅びから救いたいのです。その相反することに筋を通したのが十字架です。そのことために、神が人となってこられたのです。キリストは処女が聖霊によって身ごもり生まれた神の子です。半分人間、半分神というのではありません。完全な人であり完全な神です。ゆえに、キリストは生涯一度も罪を犯したことがなく、まったく罪のない人でした。キリストは子なる神として、その使命を父なる神から託されました。それは人の罪を取り除くことです。その方法は、全人類の身代わりとなって神の怒りを受けることによってです。それがキリストの十字架です。イエス様の死に至る悲しみ、悩み、苦しみは誰も共有することができない性質のものでした。私たち人間にはいくら考えても理解できないでしょう。しかし、イエス様は「ここを離れないで一緒に目を覚ましていなさい」と言われました。それは、今、イエス様ご自身が受けようとしている苦難のために悲しみ、憂い、悩み、苦しみを少しでも弟子たちと分かち合いたいと願ってのことだと思います。私たちも様々な苦難にある時、ともに祈り、苦しみを共有してもらうことは大きな慰めであり励ましであります。友が一緒に苦しんで悲しんでもらう時、悲しみは半減します。逆に、友が喜びを一緒に喜んでくれると喜びが倍増します。それは、「喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しみなさい」という聖書の言葉が語っているとおりです。もとはと言えば、創造されたとき人間は、憎みあう存在ではなく、愛しあい、慰めあい、喜びあう存在でした。しかし、罪のために、多くの人間関係で、妬み、嫉み、憎しみ会うようになっています。傷つけあうような関係が多く発生しています。個人的にも民族的にも国家的にもそうです。お互いがお互いを傷つけるのです。イエス様は少し進んで、ひとりになられました。そこからは、父と一対一の対話になります。「できますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください」この杯は神の怒りの盃で十字架を示します。イエス様は私たちと同じひとりの人間として、その苦難を前にして、苦しみには会いたくないので、他に道はないのだろうか、と訴えています。それはつぶやきではなく、正直なイエス様の心であります。父に思いのすべてを打ち明けて、なおも、「わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」と。イエス様は父の御心をすでに知っていました。それは父への完全な服従です。イエス様は父に心を開いて、正直な自分の心をお伝えしました。ここにイエス様の父なる神に対する正直でオープンな祈りの姿勢を見ます。ここで、イエス様の弟子たちに対する、そして父なる神に対するオープンな心を学ぶことができます。閉じこもった堅い石の心でなく、開かれた血の通う肉の心です。神に対して、そして人に対してもオープンな生き方、それがクリスチャンライフです。

霊の目を開き祈り続ける:

イエス様は弟子たちのところに戻ってきて、彼らが眠っているのをご覧になられて、「たった一時間でも私と一緒に目を覚ましていることができないのか」と嘆かれました。イエス様の祈りが長引くにつけ、彼らは疲れて眠りこけてしまったのです。ここに人類がいかに心鈍く、恩知らずであるかがわかります。神が人を愛して、その罪から救うために苦しんでくださっているのに対して、人間は全く痛みも悲しみも抱くことなく平然としています。この弟子たちの姿はとりもなおさず、恩知らず情け知らずな私たち人間の姿です。人間は肉体を持った霊的存在です。霊は永遠ですが、肉体はやがて土にかえります。言うまでもなく、身体は疲れます。そして、睡眠が必要です。そして、受肉された神であるイエス様は、わたしたちと同じです。眠られ、空腹を覚えられました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」ゲッセマネの祈りは、これから弟子たちが遭遇する迫害の時代に祈る習慣を身に着けるための弟子訓練でもありました。クリスチャンの戦いは、霊的戦いです。そのことを覚えて、霊の目を覚まして絶えず祈りなさい、というのです。肉体があるがゆえに疲れが来るし、休息が必要となります。心と体の両方で安息が必要です。その為に神は安息日をもうけられました。私たち人間のために神が定めたものです。また、肉体があるゆえに、惑わしや誘惑があります。イエス様は「誘惑に陥らないように」と言われます。私たちクリスチャンは敵を知らなければなりません。クリスチャンの敵は三つあります。私たちを絶えず誘惑し、神から引き離そうとしている存在、それは、悪魔、サタンです。次に、この世です。世の本質は、不遜です。神がおられるのに神を認めません。ですから、サタンは世の君と言われ、この世を支配しています。そしてもう一つは、私の罪の性質です。神にも人にもオープンになれない。傷つくのが嫌だから自分は自分で生きる。神に従いたくない。安息日である主日にはみことばを聞くことより別のことをしたい。霊の人はそれらの声を聴き分けて御心を選ばなければなりません。「誘惑に陥らないように」するためにはどうすればよいのでしょうか。まず、三つの敵を知っておくことです。そして、霊の目を覚まして、絶えず祈ることです。それは、内に住んでおられる聖霊に耳を傾けること、そして、みことばに従うことです。

正義と愛で勝利する:

ペテロが、剣を抜いて大祭司のしもべマルコスの耳を切り落としました。イエス様は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と言われました。これも主の最後の弟子訓練と言えます。古来、剣で征服し権力を握った人は、剣によって倒されなかった例がないと言われています。真の正義は暴力を用いず、正義の力で勝つことです。真の勝利は、正義と愛による勝利です。武力は武力を生み、憎しみは憎しみを生みます。この悪循環は断ち切れないまま全人類を覆っています。平和は来ません。争いは争いを生むことを、歴史が証明しています。人々はそのことに気づいていますが、応報の連鎖を留めることができません。シリアでの政府軍と反政府軍の争い、イスラエルとアラブとの争い、アメリカと中国の経済戦争など。それは人の罪の性質によるものです。この後、ユダヤ人もローマも力によって、イエス様の弟子たちに弾圧を加える時代が始まります。イエス様は、そのことをご存じで「世は剣をもって迫害するが、あなた方は正義と愛によって対抗しなさい」メッセージを送っているようです。現代に生きるクリスチャンにとっては、かつてのような迫害はありません。わが国では、法で守られ、安全で自由な生活が保障されています。その様な状況の中で、多くの人々が人に関心を持たなくなり、孤立化の道を進んでいるように思えます。そして、信仰にも関心がなくなっています。この世の中を覆う暗雲に勝利するためには、クリスチャンの特権である、祈りの力が必要です。イエス様が勝利されたゲッセマネの祈りは、私たちクリスチャンひとりひとりの祈りでもあります。それには、オープンの心で祈る、霊の目を覚まして真剣に祈ることです。そして、正義と愛で勝利するのです。あなたには勝利の人生が約束されています。代わりにイエス様が戦って勝利してくださったからです。