タリタ クミ

2018年02月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マルコの福音書5章21~24、35~43節
5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)

<要約>

無力と失望の時こそ神のチャンス:

会堂管理者のヤイロはイエス様のうわさを聞いていたのでしょう。近くに来られたのを知って、自分の娘の病状が大変なので、イエス様にあって、癒していただくために来てくださるようにお願いしようと思ったのです。「私の小さなひとり娘が死にかけています。どうか、おいでください。娘の上に手を置いてやってください。娘が治って助かるようにしてください。」ヤイロは切実な思いでイエス様に会うのでした。信仰は難しいことではありません。キリストのもとへ来る。そして、願う、ことです。父親が愛する子どもの願いを聞いてかなえてあげたいと思うのと同様に、神はあなたの願いを聞きたいのです。イエス様は、その願いを聞いて、彼と一緒に出掛けられました。しかし、出かけようとすると群衆が押し迫ってきて、思うように足を進めることができなかったようです。私たちの周囲には妨げとなることもしばしば起こります。しかし、神の時を忍耐して待ちましょう。ヤイロは、「急いでいかないと手遅れになってしまう」と内心、不安と焦りで苛立っていたでしょう。その様なときに、「あなたのお嬢さんはなくなりました。なせ、この上先生を煩わすことがありましょう」という知らせを受けたのです。ヤイロは絶望感で、倒れそうになったでしょう。人間が無力になって、失望する時こそ神の好機が訪れるということです。ここで、イエス様はいのちの創り主で、生と死の主であることをお示しになられようとされていました。復活の奇跡は、イエス・キリストの復活の序曲のようであり、また、福音書の中心であります。そして、人間にとって絶対的な希望であります。イエス様は、その話をそばで聞いてすぐに会堂管理者ヤイロに言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」これは、神が働かれる一つの条件です。神を信頼するということです。私たちは神を信じてお頼りするしかないのです。神の全能の力を信じ、自分の無力を認めて、また、神は愛のお方であることを覚えて、すがるのです。神を愛し、信頼し、恐れるのです。

前向きに従う者の祝福:

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネ以外は誰をも同行させなかったとあります。イエス様はこの三人を特別に見ておられたようです。イエス様が高い山に上られて、御姿が変わられたときもこの三人を連れられました。また、十字架の前日、ゲッセマネで祈られたときもイエス様の近くにいるように命じられたのもこの三人です。如何してかということは書かれていません。この三人とも、人格者ではありませんでした。何が違っていたのでしょうか。おそらく、この三人は主のお言葉に前向きに良く応答したことでしょう。その反応の良さのために主の信頼を得たのです。ここに霊的な法則があります。「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」種まきのたとえにもみられるように、みことばを聞いて応答する人は、祝福倍増にあずかります。「人に量ってあげる量り」というのは、人に良く盛ってあげることです。人を良く評価して、気前良くしている人はそれが自分にも帰ってくるということです。豊かに与える人はますます豊かにされるのです。また、けちな人はますます貧しくなるという法則です。これは、人に対してばかりでなく神に対してもその通りです。神に明け渡して、神は良い方であると信頼してみことばに前向きに積極的に聞き従う人は、ますます、霊的にも世的にも祝福されるという法則です。逆に、みことばを信ぜず、神を信頼するより自分の経験にしがみついている人は、それ以上の霊的祝福を経験することなく、ますます、貧しくなるのです。ペテロとヤコブとヨハネは、その通り前向きに主のお言葉に従いイエス様から信頼を得ていたのです。前向きに従う者の祝福は、神に喜ばれ用いられるということです。この会堂管理者ヤイロも「ただ信じていなさい」というイエス様の言葉を受け止めました。そして、娘がよみがえるという最大の奇跡を見ることができました。そして、神の栄光を拝することができたのです。彼にあったのは前向きの信仰です。

復活のいのちに生きるとは:

「死んだように眠っていた」という言葉は時々耳にします。眠りは、必ず目覚めが来るので、外から見て死んでいるように見えても死んでいることとは全く違います。イエス様が、眠りという言葉を使ったのは、すべての人は肉体の死の後、世の終わりによみがえることを表しています。後に、キリストの十字架の贖いを信じて御国に招かれる人と信じないで罪により永遠の滅びに落とされる人があることを聖書が述べています。ですから、すべての人は世の終わりに目覚めるのです。そして、神の裁きに会うのです。この出来事で、死がすべての終わりであるとする私たちの固定観念を、今、取り去ろうとされているイエス様を見ることができます。この福音の最大の希望である復活は永遠に続く感謝と喜びと賛美です。家に着いて、イエス様は娘の手をとりいわれました。「タリタ、クミ(アラム語)」、これは特別な呪文のような言葉ではなく、アラム語です。訳すと「少女よ。起きなさい。」という日常的な言葉です。霊が戻って、死んだ娘は生き返り、起き上がったのです。そして、食事を取らせるようになさいました。アラム語で、「タリタ」は「少女よ」です。「クミ」は「起きなさい」です。当時のローマ社会では公用語はギリシャ語です。しかし、当時のユダヤ人の家では、アラム語が日常語であったようです。この少女にとって、「クミ」という言葉は、毎日聞く当たり前の言葉でした。内心「もう朝、良く寝た、お腹がすいた」と思ったかもしれません。もし、死という事実が無かったら、これは全く日常的なことです。主にある者たちは、イエス様にあっては死ぬということは次に「起きる」(復活)ということとつながっているのです。やがて、肉体のいのちが終わった時、この眠りにつきます。そして、「起きなさい」という主の声を聞いて朝を迎えるのです。イエス様が私たちの一人ひとりの手をとって、おきなさい、と声をかけてくださる、そのときがくるのです。そして、「さあ、天国の祝宴ですよ。来なさい。」と招きの声があるのです。イエス様が私たちの罪の報酬を十字架の上で代わりに払ってくださったので、私たちは信仰によって、永遠の命が与えられるのです。すなわち、復活のいのちをいただいています。イエス様の十字架の贖いを信じる者は皆この希望に生きるのです。

安息日の主

2018年02月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書12章1~14節
12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
12:4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
12:8 人の子は安息日の主です。」
12:9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。
12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。
12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

<要約>

神のお心を失った人間:

民の指導者であった律法学者やパリサイ人は、安息日にイエス様の弟子たちが麦の穂を積んで食べていたのを、安息日には仕事をしてはいけないので律法違反だと訴えました。当時、律法の専門家は律法をより詳しく解釈して、生活に当てはめることを人々に勧めていました。十戒の第三戒は、「安息日を聖なる日として、どんな仕事もしてはならない」とあります。「どんな仕事もしてはならない」というのはどういうことかをより詳細に解釈して、様々な決まりをつくったのです。それらの多くは、規則のための規則です。意味のない規則です。もう一つの訴えは、片手のなえた人の癒しです。安息日に病気の人を治すのは、律法違反だという考えから出たことです。安息日は人のためにあるのに、逆に安息日が人を苦しめたらどうでしょうか。人が安息日の奴隷、あるいは人が規則の奴隷になってしまいます。当時の宗教指導者たちは、自分は律法を守っているから正しい人間であると主張し、他人を裁くのです。それを律法主義と言います。神は奴隷状態で休みのない生活を送っていた民に、休息と自由を与えるために安息日を定めました。律法学者やパリサイ人を含む宗教指導者人たちは、その神のお心を失いました。代わり規則に規則を作り、民の自由を奪ったのです。さて、私たちは、神のお心を覚えて主の日を過ごしているでしょうか。休息と自由を得ているでしょうか。主日は、神が私たちに仕えてくださる日です。神が私たちのためにその時を定め、休息を与え、聖なるものに触れさせ、みことばを与え、罪を赦してくださる日です。また、同時に、私たちクリスチャンは、王である祭司ですので、日曜日に、祭司の務めとして伝道したり、愛の奉仕をしたりするのも良いことです。以前、あるクリスチャンが、日曜日が一番疲れる、と言っていました。それは神のお心ではありません。日曜日は、魂の安息、自由と喜びの日です。私たちは神のお心を失わないようにしたいものです。

神のお心を取り戻したキリスト:

安息日は、神が人間のために設けてくださった日です。今日の箇所を見ると、逆に安息日が、人間を苦しめているということがわかります。そこで、イエス様はかれらに神が大切にされていることは何かをお示しになったのです。イエス様はホセヤ書のみことばを引用して、『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』と言われました。ここでイエス様はご自身があわれみの神であることを示されました。一匹の羊を持っている人が、その羊が穴に落ちたら、安息日でも引き上げてあげるでしょう。しかし、羊よりはるかに価値のある人間にはあわれみのない対応をするというのは、何かおかしくないか、よく考えてみなさい、と問われているのです。そして、男の手をいやしてあげました。イエス様は、愛とあわれみが優先することを示されました。安息日に病人を癒してあげてもいいのだよ、それが安息日の規則を破っていることにはならないのだよ、と教えられたのです。イエス様のお心は、「わたしにはあなたは高価で貴いのだよ。あなたの代わりに裁かれ死に定められてもかまわないと思うほどにあなたを愛しているよ。」というものです。それは敵をも愛する愛です。その憐れみと愛の大きさをイエス様は十字架で示されたのです。これまで、旧約の民は神殿、つまり宮に折々に行き、神の臨在に触れ、また、動物や穀物の犠牲の贖いにより罪の赦しを、祭司を通して受けていました。イエス様は、「ここに宮よりも大きなものがいる」とご自分を指して言われました。これからは、私たちはイエス様のところへ行き、イエス様を信じて、罪の赦しを受け、神との正しい関係に入るのです。神はあなたを哀れみ、罪と死の束縛から解き放ち、救うために御子イエス・キリストを送られました。キリストは安息日の主としてご自身を提供されました。キリストを通して信じる者は永遠の安息に入れるのです。

御心を選び自由にされる:

イエス様を心にお迎えして、神のお心を知った者は、心に自由があります。神は私たちを幸せにするために律法を与え、安息日を定められました。神は私たちに十戒を守って幸せになりなさい、と命じています。特に第三戒の「安息日を聖なる日として守る」については、イスラエルの民は歴史を通しても守ってきたことです。彼らは真の神を礼拝することにより、自分たちが神の民であることの自覚を持ち続けました。神様のみ心は、「安息日を聖としなさい」です。すなわち、全世界を創り私たちをおつくりになった神を礼拝しなさいということです。聖書には、「安息日には、仕事をしてはいけない」と書いています。すなわち、「仕事に支配されてはいけない」ということです。優先順位をつけて、生活を律しなさいというのです。「時間に振り回されるのではなく、時間を支配しなさい」ということです。安息日を守り、あなたの神を礼拝しなさいという神の強い意志を見ます。私たちクリスチャンも毎週教会の礼拝に来ます。主日を守るという自己選択によって、あなたは自由であることを証明しているのです。神様の真意は、私たちが主日を守ることにより、時間にコントロールされるのではなく、私たち自身が時間に対する決定権を握っていることをわからせることです。礼拝は神様が準備して私たちを招いてくださっているのです。礼拝では、神様はあなたにみ言葉を与え、イエスご自身を与えてくださいます。時間からの解放と自由、それはとりもなおさず、やがて来る死からも自由にされることで永遠のいのちといえるでしょう。

召しに応えて

2018年02月 11日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書5章1~11節
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

<要約>

現代人に届く神の国の福音:

イエス様は群衆に押し迫られて、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の岸辺に立っておられました。それから、シモン・ペテロの船に乗り、岸から少し離れてから、船にお座りになりました。そして、岸に向かって群衆にお話をなさいました。イエス様が語られたのは「神の国の福音」です。イエス様は、旧約聖書に預言されたメシヤがご自分であることを伝えたことでしょう。そして、神のあわれみと恵みにより、人々を罪と死と悪魔から解放するためにこられたことを伝えたでしょう。現代人に当てはめて言うならば、悩みと苦しみにある人や心傷つき悲しみにある人、そして将来に不安のある人、そのような人々は安心しなさい。イエス・キリストがあなたに平安と慰めと癒しをもたらしてくださったから。また、真のいのちを失って、むなしい日々を過ごしている人や、人生の終わりの向こうにある永遠をあきらめている人、イエス様はそういう人を高価で貴いとみておられます。そして、喜びと感謝、驚きと感動の人生を約束してくださいます。なぜなら、イエス・キリストは永遠のいのちだからです。彼を持つものは祝福の尽きることないいのちの泉を持つからです。また反対に、自らの罪の裁きを恐れている人、その人たちは罪赦されているのです。なぜなら、イエス様があなたの罪を背負って十字架に身代わりとなって死んでくださったからです。あなたはキリストを信じて罪赦されます。イエス・キリストは、罪の赦しを信じなさい、そして、永遠のいのちを得なさいと勧めているのです。

砕かれた心に神を迎える:

お話が終わって、イエス様は、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網を下ろしなさい」と言われました。かれは、漁師としての経験から「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」とイエス様に返答しました。人間は自分のわずかな経験に頼り、イエス様の言葉をそのまま受け入れません。私たちも自分の経験や常識といわれるものによって第一歩を踏み出せないでいることはないでしょうか。み言葉はわかっている、しかし、そんなことは信じられないといってないでしょうか。しかし、幸いなことに、ペテロは「お言葉ですから」と言って、深みに漕ぎ出し、網を下ろしました。ペテロは主のお言葉に従って大いなる祝福を得ました。二艘の船がいっぱいになって沈みそうになったのです。人間の経験や常識では推し量ることができない神のわざが起こったのです。ペテロはイエス様が神であることを確信しました。それは、同時に彼の誇り、プライドが砕かれた瞬間でした。ペテロは言いました。「主よ。わたしのようなものから離れてください。私は罪深い人間ですから」そして、主の足元にひれ伏しました。神の聖さに触れて、自分の罪が鏡のように映しだされるのです。聖霊が心に触れるとその聖さのために自分の汚れに気付くのです。ペテロはイエス様の足元にひれ伏しました。圧倒的な神の力を経験したのです。今まで、しがみついてきた自分自身、そこによりどころを失ったのです。ここで初めて、彼は、自分の心の王座から降りました。そして、イエス様に座っていただいたのです。これが、神との関係が正される瞬間です。人は自分の無力に気付き、神などいらないと言っていた自我が砕かれます。すなわち、心の王座を占めていた自我が砕かれて、代わって、キリストの霊があなたの生かすのです。

神が召してくださる祝福:

ペテロは、これまで経験したことのないような大漁の奇跡を見て、驚き、そして恐れ、イエス様の前にひれ伏しました。「これから後、あなたは人間をとる漁師になるのです」と言われました。この一連のペテロのイエス様との体験は、ペテロが人間をとる漁師となるためのイエス様による実物教育でした。ペテロが人間をとる漁師としての働きをなしたのが、使徒の働きの記事にあります。ペテロが受けたのは伝道師への召命と言えます。「船を陸につけると、何もかも捨ててイエスに従った」のです。「これからあなたは、人間を取りようになる」というのは、伝道者、牧師など献身者として、召されるときに与えられるみことばです。「何もかも捨てて、イエスに従った」というのは、生活において、イエス様を第一優先とするということです。しかし、神の召しは伝道者、牧師、宣教師になるためだけではありません。神の召しはすべてのクリスチャンに及んでいます。イエス様を信じるときに、だれもが、イエス様に召されるのです。イエス様は、クリスチャンになろうとするすべての人に当てて、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」というのです。これは、イエス様に従いなさい、ということです。優先順位をイエス様にするということです。イエス様は、「悔い改めて神を信じなさい。そして、新しく生まれなさい」といいます。生まれるためには一旦死ななければなりません。それは、イエス様が十字架で死んで復活されたように、私たちも、古い自分に死んで新しい人によみがえることを意味しています。悔い改めて神を信じ、新しく生まれたひとには、神の子とされる特権が与えられます。天国の相続人になります。天国の祝宴に招かれています。そこで、永遠の安息と尽きることのない喜びに満たされて過ごすのです。それはこの上もない祝福です。

最初の奇跡

2018年02月 04日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章1~11節
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

<要約>

自由と喜びの時代の到来:

バプテスマのヨハネは律法を守るものにふさわしい禁欲的な生活をしていました。イエス・キリストの到来により、律法を守らなければ裁かれるという禁欲の時代は終わりました。そして、結婚式の祝宴に象徴される喜びと楽しみそして希望の時代が来たのです。自分の内面の罪に責められて、神の裁きに悩む律法の束縛の時代は終わって、罪の赦しと律法からの解放を喜ぶ時代が来たのです。私たちは、ああしていけないこうしてはいけないという生き方から、ああすることもこうすることもできるという生き方になっているのです。失敗を恐れて退くのではなく、失敗を益に代えてくださるイエス様にゆだねて前に進むのです。それが、クリスチャンライフです。

人の思いを超えた神のご計画:

さて、婚宴の席でぶどう酒がなくなってしまいました。イエス様の母は「ぶどう酒がありません」とイエス様に訴えました。彼女は、イエス様が特別な人であること、神の子であること認めていました。イスラエルを救うために来られたことを信じていました。そのイエス様が、ヨハネからバプテスマを受け、そして、弟子たちをも得て、ガリラヤに帰ってきたのです。マリヤはイエス様が民の救いのために立ち上がる時が来たのだ、とみていたと考えます。

母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と言いました。イエス様がその力を表して、ご自分を世に表すことをひそかに期待していたのです。それに対して、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と母マリヤに言われました。この後7章で、同様に「わたしの時はまだ来ていません」と、イエス様はご自分の兄弟たちにも言いました。イエス様の母マリヤも兄弟たちも、イエス様の時が、十字架を意味するとは思わなかったのです。私たち人間の思いと神の思いとは違うということです。私たちは現状を憂えて、何とかしてほしいと考えます。しかし、神の御心はそこにはないということがよくあります。この時点では、母マリヤも弟子たちもイエス様に別の期待を持っていたでしょう。イスラエルの民の願いは、ローマの圧政から、自分たちを解放するダビデの再来である王を願っていました。しかし、イエス様の心にあったのは、すべての人の救いです。神が人となって来てくださったことの意味です。バプテスマのヨハネが言ったように「世の罪を取り除く、神の子羊」となることです。人を滅びから救い出すためです。神と人間の和解となるために来られた。神との関係回復です。それにより人は人として回復するのです。現代社会に生きる人々は、神を無視して、神から遠く離れています。それが罪の元となっています。万物は神によって造られ、神によって存続し、神の栄光のために存在しています。ですから、歴史も世界も神中心に動いています。神から離れた人間は、世界は人間中心に動いていると思っています。否、自分中心に動いていると思っています。それは神のおつくりになった秩序に反した歩みです。だから、人間は目的を失っています。あなたが、自分中心から神中心で、神の栄光のために生きるなら、自由と喜び、感謝と賛美の人生を送ることができるのです。マリヤは、イエス様から拒絶の言葉をもらいました。しかし、マリヤはイエス様が、母の願いを何とかしてくださることを信じていました。それで、手伝いの人たちに「あの方が言われることは何でもしてあげてください」といったのです。これはマリヤの立派な信仰の態度です。私たちも、祈りがその時聞かれなくても神のみ旨を求め続け願いが聞かれる時を待たなければなりません。神は愛ですから、あなたの願いを必ずお聞きになるのです。私たちは目先のことしかわからない存在です。自分の思う通りに状況が開けなくても、神を信頼していくことです。神のなさることは最善であるということです。

恵みによって変えてくださる神:

無味な水を豊かで味わいの深い良質のぶどう酒に変えてくださったように、イエス様に来るものを、イエス様は、役に立たないしもべから高価で貴いものへとつくり変えてくださるのです。宴会の世話役は「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだ」と言いました。これは、最初はぶどう酒のおいしさがわかっても、飲んでいるうちに味覚はマヒしてきます。だから、後から質の落ちたぶどう酒をだしてもわからないというのです。そして、普通はそうするというのです。これが世の常だというのです。人間は、相手によって対応を変えます。身分の高い人やお金持ちにはそれなりの対応、貧しい人には質の低い対応をします。しかし、神の御子は人間のようではなく、だれにでも一貫して、最初から最後まで最も良いものをお与えくださるのです。キリストの福音は、だれにでも、どんなに罪深くても、重罪を犯した死刑囚に対しても最高のプレゼントとして提供されています。そして、私たちがどのような状況にあっても、病気であと一日しか命がないとしても、イエス様の救いの福音は届いています。信じれば救われます。どんな人も、イエス様の十字架により罪が完全に取り除かれて、神との完全な交わりに入ることができるのです。これが福音です。福音は、私たちを罪の奴隷状態から解放し、自由の身とするのです。イエス様は、あなたの人生を味わい深い良質なぶどう酒にたとえられるような豊かな人生にしてくださるのです。もし、信じるなら、あなたはキリストに結び合わされて、天に国籍を持つ、神の子どもとされるのです。