2017年9月 3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>マタイの福音書18章21~35節
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
<要約>
罪人をあわれみ救う神:
王はしもべと清算したいと思われました。一万タラントの借金がある男が呼ばれました。一万タラントという額は今の金額では、六千億円ということになります。彼は返済できなかったので、王は彼に、自分も妻子もすべての持ち物を全部売り払って返済するように命じました。「自分も妻子も売り払って」というのは厳しいことです。返せなければいのちをもって償うこと、それがルールです。罪の負債にはいのちを要求するのです。しかし、驚くべき大逆転が起こっています。その男がひれ伏して「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」と言ったので、王は、彼をかわいそうに思って、赦し、借金を免除した、というのです。父なる神のみ思いは、尽きない憐れみと言えます。罪に苦しむ人間に対する神の御思いは、かわいそうに思うこと、哀れみです。そして、罪の束縛から解放するために神は、イエス・キリストをお送りになったということです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」とある通りです。神は地上の人々の罪を清算しなければなりません。しかし、誰一人自分の力では償いきれないのです。清算できないのです。そこで、代わりにキリストが償ってくださったのです。父なる神はキリストの贖いのゆえに罪びとを赦すことができるのです。つまり、キリストが罪びとの身代わりとなってご自身のいのちで負債を払ってくださったのです。それが十字架です。
大きすぎて負いきれない罪:
なぜ、イエス様は、一万タラントという金額を例話に使われたのでしょうか。読者に何を、イエス様は分からせようとしているのでしょうか。それは、私たち人間は、自分の罪の大きさがわかっていないということです。そして、この男は、自分は六千億円を免除されたのに、仲間に貸した百万円は赦さなかったというのです。これは、「自分の罪がどんなに赦されているかがわからないので人の罪を赦すことができない」人間の罪深さを示しています。また、イエス様が一人の男の負債を一万タラントで表した理由は、人間一人一人がおっている罪の負債は、その人が自分の力で償うことはとてもできないことを示しています。創世記で、弟アベルを殺したカインが言った言葉があります。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」と。それは同様に、わしたちすべての人間の告白です。ですから、誰でもが、神の恵みが必要であります。神の恵みは、キリスト・イエスによる救いです。救いは、自分の内側には全くないのです。救いは外にあるのです。神が与えてくださるのです。それは受けるに値しない者への神の愛です。私たちは信じて、ただそれをいただくのみなのです。
赦すことによって赦される:
自分が罪びとであるということが自覚できなければ、自分がどんなに赦されているかもわかりません。自分には赦される必要があることもわかりません。私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。自分はそんなに罪があるとは思えない、みんなと大体仲良くやっている、うそをついたりごまかしたりしていない、税金も納めている、約束したことは守っている、テレビのニュースに出たあの人殺しの様な罪人ではない、今日一日罪らしい罪は何もなかった、と思うでしょうか。これは、イエス様から見て喜ばれる態度ではありません。ルカの福音書にある、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と言った取税人の祈りを神は喜ばれました。私たちの祈りはいつもこうあるべきです。私たちは、熱心に悔い改めることです。王から「悪い奴だ」と言われたその男は、しもべ仲間を牢獄に入れた結果、自分も牢獄に入れられたのです。赦さないならば、相手も自分も牢獄につながれます。自由を失うのです。赦すなら、相手も自分も解放されます。1945年フィリピンのキリノ大統領は、十万人の国民を虐殺した日本軍の戦犯137人(うち78人は死刑判決)全員に対して、国民感情を押し切って大統領権限で特赦を出しました。「赦さなければ、我々が前に進めない」「赦さなければ平和はない」と説いたのです。赦さなければ、いつまでも過去に縛られたままになります。謝罪されなくても赦す人は、自由になるのです。赦すことは自由を得ることです。イエス様は、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と宣言しました。赦しは宣言です。イエス様は、十字架の上で、自分を十字架につけののしる人々のために祈りました。「父よ。どうか彼らを赦して下さい、彼らは何をしているかわからないからです。」赦すことは勝利です。そして、赦すことは愛することです。キリストの十字架の贖いを信じる者を神は無条件で赦してくださいます。赦されたものは人を赦すことができます。人を赦すことで、自分も赦されていることの気づき神に感謝するのです。