たいせつなあなた

2017年7月 30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書19章1~10節
19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
<要約>

すべての人にある孤独の実態:

3節の「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。」という一文からザアカイの状況、日常が見えてきます。ザアカイは町の有力者でしたから、「ザアカイさん、前の方へどうぞ」と周りの人たちも声をかけてくれたと思います。しかし、誰もが彼を無視していたのです。そればかりではなく彼は、嫌われものでした。なぜかというと、不正な利をむさぼっていたからです。周りの人々からの彼への非難や悪口を耳にしていたでしょう。だから、周りの人々の敵意から身を守るためにますます人を遠ざけていたのかもしれません。そこに、彼の寂しさ、孤独が見えてきます。孤独は広辞苑では、「思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと」です。ことばと心の交流がない状況です。一人ぽっちでさみしい人格、満たされない心の空洞ともいえます。ザアカイは取税人の頭となり、大金持ち、何でも手に入る状況にありました。しかし、彼には、常に孤独、寂しさがありました。真に魂の平安と充足を与えるもの、ザアカイの人格の深いところで、求めていたことは明らかです。それは彼の「イエス様を何としても見たい」と言う思いからわかります。彼の心の求めが木に登るという行動に駆り立てたからです。ザアカイが求めていたものは、彼を孤独から解放するものです。それは彼の一人ぽっちでさみしい人格を満たすものです。心の空洞を満たすものです。先日、高校生が病院に来ました。朝、起きると体調が悪くなり、吐き気と頭痛で学校へ行けなくなってきているということです。診察して身体はどこも悪くなかったので、心に問題があるのです。彼女はいつも学校では大勢の友達と明るくふるまっているようですが、非常に孤独であることがわかりました。ネットで四六時中やり取りしていますが、それでは満たされないのです。逆に自己防衛のために、仲間外れにされないためにネットがつながるようにしているのです。いつもグループで行動していて、トイレに行くにもみんなで一緒に行くそうです。「なぜ」と聞いたら、トイレに行こうとして自分がひとり抜けると、残った友達たちがみんなで自分の悪口を言うからです。これは非常に孤独といえます。広く付き合うけれども本当の友達ができないのです。心の悩みや喜びを分かち合う親友がいないのです。今の高校生の孤独です。彼らには、心の居場所となって話を聞いてくれる人が必要なのです。心の居場所がない孤独です。何一つ不自由のない家族の中にいても孤独な若者もいます。家族の皆は高学歴で社会的な地位も高い職業についていますが、彼だけは、日雇労働していて収入が低いのです。年末年始に彼は家族の元へ帰ってくるのですが、居づらくて、すぐに自分のところへ帰ると言うのです。結婚したい相手がいるのですが、収入が低いので父親が反対しいています。彼は、孤独なのです。それは、自分がありのままに受け入れられていない孤独です。また、外目からは何の問題もないような夫婦にも孤独があります。同じ屋根の下に生活していますが、食事は別、部屋も別、一日口を利かないこともまれではないのです。これははっきりした孤独です。しかし、長年連れ添っていてお互いに分かりあっていると思っていても、ふとしたことから、夫婦もお互いに分かり合えないで孤独を感じているのです。これは人間としての限界だと思います。お互いが分かりあえない孤独です。最近は、家族のきずなも薄れて、独居老人が知らぬ間に亡くなっています。それを孤独死と言います。お互いの人間関係が疎になっています。周囲の無関心からくる孤独です。すべての人には、気づかないでいても孤独の実態があります。聖書は、すべての生まれながらの人は、失われているというのです。もともと、人は造り主である神によっていのちを与えられ、神のために生きる存在として造られました。ですから、人は造り主に出会うまでは心の空洞を満たすことができないのです。

あなたを見つけ出し孤独を満たしてくださる神:

ザアカイは先回りして、道端に植わっているイチジクぐわの木によじ登って、イエス様がお通りになるのを待っていました。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、イエス様を一目見たかった、自分が心の奥底で探していたものを持っておられるかもしれない。自分がずっと求めていた救いを与えてくださるかもしれない。その時です。イエス様の方で下から見上げて、名指しで呼んでくださった事です。イエス様は、ご自身のご計画の中にザアカイ訪問を組み込んでおられたのです。偶然の出来事ではありません。同様に、イエス様はここに招かれて集って来た方々に、声をかけておられます。イエス様が「あなたの家に泊まる」という意味は、「あなたを見つけ出し祝福する」ということです。今日、皆さんは偶然にここにきていると思っているかもしれません。それは違います。今朝、イエス様があなたを見つけ出し祝福しておられるのです。マックス・ルケードという人が書いた「たいせつなきみ」という絵本があります。ある町には、一人の彫刻家によって造られた様々な人形が暮らしていました。かれらは、金色のお星さまのいいねシールと茶色のだめシールを持っていて、それぞれが町で出会う他の人形にいいところがあるとお星さまシール、失敗やダメなところがあるとだめシールを張ります。その中で、パンチネロという人形はいつも失敗ばかりで、外見も美しくなく、彼に会う人形たちは彼にだめシールを張ります。ある時、だめシールだらけになって落ち込んでいると、シールが一つも張られていないルシアという人形と出会うのです。彼女には誰かがシールを張ろうとしてもシールはすぐ落ちて張り付かないのです。パンチネロは彼女に聞きます。どうして君にはシールがくっつかないの。彼女は、山の上の家にいる彫刻家のエリを紹介してくれました。ネロは勇気を出してエリに会いに行くのです。エリはネロを待っていたとばかり歓迎してくれました。そして、ネロのことは何でも知っていました。そして言いました。「わたしがお前を造ったのだよ。私の作ったものには失敗はないのだよ。お前は私のもの。わたしはお前を大切に思っている」と。「皆がお前をどう思うかより、私がお前をどう思っているかが大切なのだよ」と言いました。そして、「いつでも来なさい、待っているよ」と言われました。ネロは喜んで帰途につきました。だめシールは一つ一つが剥がれ始めたのです。主人公のパンチネロは、自分の作り主に会いました。それと同じように、もうすでに、あなたも、あなたを造りあなたに命を与えられている創造主なる神に出会ったのです。また、もし、あなたが心を開くなら、聖霊なる神があなたの魂の空洞を満たしてくださいます。あなたをおつくりになった神は、あなたを高価で貴いものとみておられるからです。

神があなたのうちに住んでくださるとき:

聖霊なる神によって、あなたの魂の空洞が満たされたとき、あなたは、真のいのちの充足を得ます。それはあなたのうちで尽きない泉となってあふれ出るのです。イエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ザアカイは「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。イエス・キリストを自分の救い主と信じて心にお迎えしたザアカイは、もうお金に縛られる人生から解放されました。罪から自由になったのです。イエス・キリストを心に迎えると、罪と死と悪魔から自由になります。死からさえも自由になります。その人の内側から永遠のいのちの水が湧き出ているからです。

悲しみは喜びの始まり

2017年7月 23日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔宰誠

<聖書>ヨハネの福音書11章1~44節
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。
11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

<要約>

奇跡を感謝するより苦難に感謝しましょう!

奇跡を見るために、体験するためには必ず通らなければならない過程があります。奇跡の前には、必ず苦難と合わなければなりません。絶望がない奇跡、悲しみがない奇跡は奇跡ではありません。絶望し、悲しむとき神様の奇跡、祝福を体験することができます。イエス様を信じる者に、この世は苦難を与えます。信じれば信ずるほど、誰も経験することのできない苦難に会います。しかし、奇跡を望むことのできない状況の中でも、イエス様を信じる信仰が奇跡を起こします。

苦難は私たちと隣り合わせています。

予告なしに、突然苦難は訪れます。自分と関係のないことだと思ったことが突然起きます。病に倒れたり、不幸になったり、自分か誰かが死を迎えるかもしれません。この時こそ、もっと神様を信頼し、霊的戦いに臨まなければなりません。苦難に負けて神様から離れてしまっては奇跡を見ることができません。いつもで続くかわからない戦いに、最後まで信仰を貫くことが隣り合わせの苦難を奇跡に変えられます。

暗い死の墓から真の光であるイエス様に出てきましょう!

人生の中で、神様の不在を感じることがあります。助けてくだされない。何かしてくださると期待したが、いつまでたっても何もない現状に絶望します。死んで四日もたって腐敗が進んでいたラザロ、すべての希望が消えたとき神様は「それでも、あなたは私を信じるのか。」と問いかけます。神様の問いかけに、心のどこかで自分の力で何とかできるという考えを捨てるとき、死んだラザロが生きかえたように、神様の奇跡は起こります。私たちの信仰が試されても、最後まで信仰から離れないことが一番大事です。

罪赦された女性

2017年7月 16日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書8章1~12節
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

<要約>

みことばは光と剣:

律法学者やパリサイ人らが、姦淫の現場でとらえた女性をイエス様と民衆の前において、イエス様を試しにかかりました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」もし、イエス様が、律法の通り石打にせよというならば、罪人の友として赦しを説いていた言動と大きく違うことになります。また、石打にしなければ、律法をないがしろにするものと糾弾されます。どちらを選んでも、イエス様は窮地に立たされます。イエス様の、「あなた方のうちで罪のないものが」という言葉を聞いて、訴えていた者たちは、年長者から始めて一人一人出て行きました。キリストのみことばによって、罪示されたのです。みことばが彼らの良心に届いたのです。年長者ほど、経験的に自分の罪深さを知っていたのでしょう。イエス様のことばは暗黙のうちに一人一人に届きました。聖書のみことばは、時として、光として私たちの心の深みまで照らし出します。それは自分の罪とか弱さとかが関わっていたことです。つらい、苦しい、恥ずかしい思い出であったと思います。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」みことばは、光として、あるいは剣として、聞く者の心に迫ります。朝、窓のカーテンを開くと光が部屋に差し込んで、明るくなり、部屋の埃が目に付くようになります。みことばは心の中を照らし、自分の罪がわかってきます。他者の悪いところばかりを見て、訴えていた律法学者やパリサイ人らは、自分の罪を思い知らされたのです。自分にはこの女性を裁くことはできないということを悟ったのです。

無条件の罪の赦しを受け取る:

イエス様は「婦人よ」と呼びかけています。これは敬意を表す丁寧な言葉です。そして、「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と聞いています。責のことばはありません、悔い改めなさい、とも言っていません。彼女は十分に罪を自覚していたのでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。これは赦しの宣言です。ここに、イエス様は罪人をどのようにお取り扱いになるかがわかります。最初に赦しがあるのです。赦しが提供されているのです。条件を付けていません。もう少し苦しんだら赦してやる、ある期間牢獄で反省しなければならないとも言いません。ただ、応答を求めておられます。あなたが神の赦しの宣言をどうとらえるかです。神はあなたに信仰を求めておられます。そのためには、あなたは思いを変えなければなりません。だれも自分で自分の罪を拭い去ることはできません。この女性は、自分の罪を自覚し、自分にはどうすることもできない、無力を覚えていました。そして、イエス・キリストに自分の身をゆだね、信じて仰いだのです。彼女はイエス様の罪の赦しをただ受けたのです。そして、「行きなさい」とのイエス様のことばに促されて、新しい出発をするのです。罪赦されたものは、二度と罪に支配されるのではありません。信じて従うものに与えられる自由な喜びに満たされて歩むのです。それがクリスチャンライフです。

イエス様は罪びとの友です。罪のない人にはイエス様は近づきになりません。罪を自覚し、悩む者の近くにおられます。なぜなら、イエス様は罪びとを招くために来られたからです。罪を自覚し、悔いた心をもっている人、自分は赦される必要があると思っている人の近くにイエス様はおられるのです。悔いた心、砕かれた心と神は喜ばれるのです。イエス様は、罪を憎まれましたが、罪人を愛されました。また、信仰を喜ばれますが、不信仰を嫌われます。不信仰は、信じる力がないというのではなく、イエス様のところへ行かないということです。

信仰によって前向きに生きる:

この罪を赦された女性は、イエス様のことばを受けて出ていきました。その後、どのような人生を歩んだかは聖書に書いていません。しかし、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と書いているように、イエス様に従い、もう決してやみに戻ることがなく、いのちの光をもって歩んでいったと想像します。罪赦されたものは、信仰によって前向きに生きることができます。後ろのものを忘れて、前に置かれた信仰の走せ場を一心に走るのです。最後には栄光のゴールが待っています。それが聖書の約束です。

罪と死からの解放

2017年7月 9日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書5章17~26節
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
5:18 するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
5:19 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。
5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
5:21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
5:22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
5:25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
5:26 人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と言った。

<要約>

病気と死は罪の結果か?:

家はいっぱいで、戸口まで人があふれていて、中に入ることはできない状況でした。そこに四人の男たちが中風を患っていた友人を床のまま四隅をもって屋上に上って屋根の瓦をはがして、寝床をイエス様の前につり下ろしたのです。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「友よ。あなたの罪は赦されました。」と宣言されました。イエス様は彼に病の癒しばかりでなく罪の赦しもお与えになりました。彼には、言葉で表せないほどの恵みで喜び踊ったのです。罪と病と死は密接に関係しているといえます。イエス様はその根元的な罪を取り除くために来られました。あなたを罪と死と、そして、悪魔から救うために来られたのです。具体的に罪とはどういうものでしょうか。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」聖書は、人の罪は心から出ているといいます。心が一番の上流で、次にことば、行動となるのです。殺人行為の上流にあるのが、憎しみです。ですから、憎しみは殺人罪であると聖書は言うのです。また、「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。神は人の心の思いをはかっておられます。神には何一つ隠しおおせることができないのです。死後、すべての人は神の法廷に立たされて、すべての罪が明らかにされて、神の前で弁明しなければならないのです。そして、赦しを受け取っていなければ、永遠の牢獄である滅びへと落とされるのです。

キリストは罪を赦すために来られた:

神であるイエス様が地上に来られた目的は、罪の赦しの権威を行使するためでした。つまり、人の罪を赦すために来られたのです。実に、イエス・キリストは、十字架にかかるために来られたといえます。無実の神があなたの身代わりとなってあなたが受けるべき罰を受けてくださったのです。イエス様を訴える口実を探るために来ていた律法学者やパリサイ人たちは、イエス様の「あなたの罪は赦されました」の宣言に対して「神のほかに人の罪を赦すことができる存在はない」と心の中で言いました。では、イエス様の地上で罪を赦す権威はどこからきているのでしょうか。これまで、イスラエルでは神殿で祭司は人々の罪の赦しのために、祭儀に携わっていました。罪を犯した人は傷のない聖い動物を携えて神殿に来ます。祭壇の前でその人はその動物の上に手を置いて自らの罪を動物に着せます。祭司はその動物を殺して血を流させることによりその人の罪の赦しを宣言します。しかし、それはやがて来られるイエス・キリストの十字架の型です。旧約の儀式は、時いたって罪のない神の子羊であるキリストが十字架ですべての人の罪を贖ってくださったことにより成就しました。そこに、イエス様が罪の赦しをお与えになることができる根拠があるのです。そして、同時にイエス様ご自身が神であることを示されたのです。罪を赦す権威はキリストだけにしか与えられていません。人類史上、罪を赦し神との和解を与えることのできる人間は誰もいません。ただ、100%神であり同時に100%人間であるイエス・キリストのみができるのです。そして、イエス様は、中風の人に、罪を赦す権威と病気を治す力を同時に示されたのです。イエス・キリストがもたらした罪の赦しによって、それを受け取るものは、罪の束縛から解放されて罪から自由にされます。死からも自由にされます。キリストの罪の赦しを受けたあなたは、むしろ神に喜ばれることを積極的に行うことができるようになります。それは、隣人を愛するという行為となって表れるのです。

神の赦しを信じて受ける:

このイエス様の宣言は、イエス様のところへ連れてこられたすべての人々への宣言と言えます。このことばは、このあと二千年間、信仰をもってイエス様に近づくすべての人に対しての宣言です。これまで、イエス様のこの罪の赦しの宣言受けて、罪と死から解放されて永遠のいのちに至った人々が無数いるでしょう。私の義父、淑子姉の父親は、2000年に天に召されました。80歳でした。義父は腎臓がんになり、秋田県本荘にある由利組合病院で手術を受けることになりました。しかし、主治医からは心臓も悪いことから手術は危険であると聞いていました。私たちは、父が入院する前に福音を語っておかなければならないと思い、盛岡から矢島まで車を飛ばして、行きました。そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださり、信じる者に永遠のいのちを与えるために復活してくださったことを話しました。父は最後までよく聞いてくださいましたが、「話は理解できたが、自分はまだ信じることはできない」と言われました。そのあと、手術が成功するようにと祈って盛岡に帰ってきました。手術は無事に済み順調に回復して管も取れた夜、今度は脳こうそくで意識が亡くなったのです。昏睡状態が続き、もう終わりかと思ったのですが、ある時、彼は不思議な体験をしたのです。意識のない状態で、夢を見たのです。それは、白い衣を着た人が、横たわっている義父の傍らに立って、「生きなさい。生きるように」と声をかけたのです。何度か繰り返しそのような体験をして、義父はみるみるよくなりました。なんと、6日月後には、杖をついて、新幹線で盛岡に遊びに来たのです。そして、盛岡月が丘教会で、洗礼を受けました。彼を訪れて「生きなさい」と声をかけたのはイエス様ご自身であることを義父ははっきりと認知したのです。それは、中風の人に「起きて歩け」と言われた同じイエス様の宣言でした。病が癒されるばかりでなく、罪も赦されて永遠のいのちをいただいたのです。

信じていのちを得るために

2017年7月 2日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書3章1~16節
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

<要約>

天国に入るためには?:

ニコデモは「神の国に入るための資格はなにか」「あるいは永遠のいのちを持つためには人は何をしなければならないのか」というような問いを持っていました。これは、すべての人の問いです。人間は肉体のいのちが終わったらどうなるのか、天国に入れるのか、永遠のいのちはあるのか、などの問いです。ニコデモは老年になって人間存在の意味を問うたのです。そこで、イエス様は、「人は新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。新しく生まれなければ救われないというのです。これはニコデモにとっても全く新しい考えです。これまで、正しい行いが正しい人間をつくる、と考えていました。そのためにニコデモは善行を積んで救いに到達するべく、努力してきました。貧しい人々に施しをしてきました。ニコデモはこれまでの自分の人生にプライドを持っていたでしょう。後ろ指さされるようなことは何もしていない、自分は正しい人生を歩んできたと自負していました。ですから、新しく生まれなおさなければ、天国に行けない、と言われて今までの人生を否定されたのです。ニコデモが積み上げてきたものが崩されたといえるでしょう。大方の日本人は正直で正しい人たちです。ニコデモとまでいかなくても、教育レベルも高く、まじめに生活をしています。隙があったら盗むようなことはしないし、正しい行いで生きていると思います。だから、聖書が「あなたは罪びとです」と言われても自分のこととしてとらえることができません。その点では、日本人の意識の中に、ニコデモと同じ気持ちがあるのではないかと思います。また、ニコデモと同様に、日本人の多くは、黙っていますが、この人生の問いを持っているのではないかと思います。そこで、ニコデモは、「新しく生まれなければ、」と言われて、頓珍漢な返答をしています。それで、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度母の胎に入って生まれることができましょうか」というのです。イエス様は、肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。と結びます。これは、肉体から生まれたものは肉体のいのち、聖霊によって生まれたものは聖霊のいのちがあるというのです。すなわち、二つのいのちがあるのです。肉体のいのちと霊のいのちです。肉体のいのちは終わります。それはだれも否定しません。また、霊のいのちは神との関係の中で生きるいのちです。しかし、人は罪のために神から離れて真のいのちを失っています。だから、人は、聖霊をいただいて神のいのちにつながる必要があるのです。

水と聖霊によって新しく生まれる:

新しく生まれるためには、古い自分に死ななければなりません。古い自分というのは、真の神を認めず、自分の力に頼り自分中心に生きていた自分です。「水と御霊」の水は、洗礼、バプテスマのことです。信じて洗礼を受ける者は救われます、と書いています。洗礼で用いられる水は、イエス様のみことばが結びついた水です。罪を洗い清める働きがあります。みことばと結びついた水があなたのすべての罪を取り除きます。また、キリストの死にあずかるバプテスマという言葉があります。キリストにつくバプテスマという言葉もあります。すなわち、洗礼によって、古いあなたは、キリストとともに十字架につけられて死にます。そして、聖霊により新しい人に復活するというのです。すなわち、洗礼によって、聖霊があなたのうちに住まわれるというのです。それが、水と御霊によって生まれるということです。イエス様は、新しく生まれなければ神の国に入れないと繰り返し言いました。聖書は、あなたがよくなれば、努力をすれば、あなたは救われるとは言っていません。あなたは自分に死んで、新しく聖霊をいただいて生まれなければならないといいます。さらに、イエス様は、これから起こるキリストの受難を暗示します。誰も天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です。イエス様はご自身を人の子と言いました。すなわちこれはご自分のことを指して、神が人となって地上に来られたというのです。それが、キリストであるというのです。今、あなたが聖霊をいただいて新しいいのちに生きるために決心しなければならないことがあります。

十字架を仰いで救われる:

人は自分の力や努力で天国に上ることはできないのです。神が上から下って、人となり人の身代わりとなったイエス・キリストが十字架にあげられなければならない、ということです。つまり十字架につけられなければならないというのです。すべての人は、十字架を仰ぎ見れば救われるということです。何の努力もいらない、ただ自らの罪を知ってイエス様の十字架を信じることで救われるというのです。これが福音です。神がその一人子であるイエス・キリストを世に送ってくださったその動機は、愛です。16節は、聖書の中の聖書と言われています。この中に、神のみ思い。神の目当て。神の取り組み。神が私たち人間に答えてもらいたいこと。それらが書かれています。すなわち、この聖句は聖書全体を一言で言っているといえます。その内容について見てみましょう。「神は実に、世を愛された」と書いています。神様のお心はこの世界に住むすべての人への愛です。あなたが滅びないでほしいという切実な愛なのです。「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神様はその愛のゆえに人間が罪のために滅んでしまうことを望まず、罪の責めである死と滅びから解放するために、神のひとり子であるイエス・キリストを世に送られました。神様の最大の関心は私たち一人ひとりの救いなのです。「そのひとり子をお与えになったほどに。」神様は、全く罪のないご自身のひとり子イエスに、滅ぶべき世の人の罪を背負わせて、十字架にかからせました。その御子の苦難と死によって、私たちは神様との和解の道が備えられたのです。「御子を信じる。」神様が私たち人間に求めておられることは、罪を悔い改めて、イエス・キリストが私の身代わりとなって十字架で私の罪を取り除いてくださったことを信じることです。