2017年3月12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ヨハネ12章1~11節
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
<要約>
香油は愛が動機:
マリヤは非常に高価で純粋なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り彼女の髪の毛でそれをぬぐったのです。マルコの福音書の記事によると香油の入った石膏の壺を割ってイエス様の頭に注いだと書いています。売れば300デナリ、今でいえば、300万円です。
ヨハネはマリヤが足に注いだと書いて、マリヤの謙虚さを強調したのでしょう。家は香油の香りでいっぱいになったとあります。その行為は全く贅沢な行為でした。しかし、見栄や高慢のかけらもない純粋できよい美しい行為でした。なぜ、彼女は突然のようにそのような行動に出たのでしょう。それは、一番にはイエス様がご自身で語っておられたことによるのです。十字架の苦難が間地かに迫っていること、そして地上でご一緒する時間が限られていることを感じ取っていたのです。彼女はありったけのイエス様に対する愛と感謝、そして、訣別の思いをこのナルドの香油に託したのです。かくして、マリヤは自分の全財産に匹敵する大切な高価な香油をイエス様に捧げたのです。それは、マリヤの献身です。イエス様を愛するということはどういうことなのでしょうか。私たちが本当に人を愛するなら損得勘定は無くなります。逆に、損得のために、何かの見返りを期待して、その人に良い事をしていたとしましょう。そしてそのことがその人に知れたら、それは、そのよいこと以上にその人を傷つけます。愛は見返りを期待しません。愛は一方的です。感謝をされなくても腹をたてません。イエス様を愛するというのも、同じです。イエス様の喜ばれることをします、損得はありません。また、見返りも期待しません。具体的には、イエス様が愛してやまない、あなたの隣人を愛することです。感謝をされなくてもよいのです。なぜなら、あなたの愛の奉仕はイエス様に届いているからです。イエス様はあなたの心の動機を見逃すことなくあなたを喜んでおられるからです。
主にあって無駄はない:
ところが、マリヤのその行為に対してイエス様を裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが猛反対します。ヨハネは、彼のことばの中に不誠実とどん欲を読んでいます。ユダは言いました、「300デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」と。しかし、真相は貧しい人々に心をかけていたのではなく、ユダは不誠実な盗人であって、金入れを預かっていたので、お金を盗んでいたというのです。ですから、ユダが怒ったのは、実は自分が損をしたためなのです。ここに、自己中心なのに大義を盾に、マリヤを激しく非難して、イエス様のお心を傷つけたユダがいます。それに反して、マリヤはイエス様の十字架の死を気遣っていました。マリヤの無駄と思える行為の中にマリヤのイエス様を大切に思うその思いがにじみ出ています。この世界は功利的です。国々は、自国の利益を第一として、隣国と摩擦を起こしています。中国の海洋進出、ロシアのウクライナ進出、アメリカ第一主義もそうかもしれません。自分の利益を追求して飽くことのない、人間の罪の仕業です。また、私たちの社会は、無駄を省いて効率を求めて邁進していると言えます。この社会の歯車に乗って振り回されているので、疲れます。無駄をしない社会、生産性のないものを受け付けない社会、が私たちの社会ではないでしょうか。しかし、わたしたち信者は、そういう功利的な価値観に振り回されてはいけません。何をするにも、マリヤのようにイエス様を愛する愛が動機でなければなりません。「何をするにも主に対してするように」とあります。仕事をするのも、奉仕をするにも、家事をするにも、です。福音宣教もその通りです。イエス様は、宣教を私たち信者に委ねておられます。イエス様は強制しません。マリヤのような自発的な奉仕を喜ばれるのです。また、福音宣教を考える時、伝道は無駄が多いと言われています。パンを水の上に投げるようなものだとも言われます。これは大変無駄ではないかという声もあります。しかし、伝道者の書にあるように、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」神は約束しておられます。蒔かれた種は、やがて植え付けられて芽が出て、実を結ぶ時が来るのだということです。ですから、種まきであきらめてはいけないと、聖書は勧めています。
献身から出る奉仕:
イエス様の応えは何でしょうか。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のためにそれを取って置こうとしたのです。」と。ここで、イエス様は、マリヤが香油を塗ったのは、もうすぐイエス様は十字架で死んで、埋葬されるので、そのためにしたことであると言われました。イエス様がすべての人の身代わりとなって十字架にかかる時が迫っていたからです。でもこの時点で、イエス様が十字架にかかるとわかっていた人はいなかったようです。マリヤもそこまでは分からなかったのです。しかし、いつもイエス様のそばでイエス様のお話を聞いていたマリヤは直感的に埋葬の備えをしなければと突き動かされていたのかもしれません。イエス様の死は私たちの罪を負っての死であり、その死によって私たちには罪の赦しという祝福が与えられました。イエス様がご自身のいのちを差し出すのであれば、私も自分の最上のものをもってお応えしたい。マリヤの行為の背後にはそういう思いがあったのです。神は何を大切にしておられるか。人はうわべを見るが神は心を見て評価されます。ユダは自分の損得で動いた人間ですが、マリヤは神のために心を注いだ人物でした。イエス様は人間を救うためにご自身を捧げました。マリヤはそのイエス様に自分を捧げました。イエス様は数日後に控えている十字架のみ苦しみを思い、心は騒ぎ緊張の中にあったのです。マリヤはそのことを直感していました。イエス様の気持ちに寄り添って、イエス様を少しでも慰めたい。そのために、マリヤは惜しみなく捧げたのです。香油の香りが部屋中に満ちたのです。イエス様の身体も香油の香りを放っていました。おそらく十字架につけられて死んで墓に入れられる時まで香っていたでしょう。それが、埋葬の備えをした、という意味です。神は心からの献身を喜ばれます。神は心からの愛の奉仕を喜ばれます。人の評価ではありません。神が喜ばれるのは愛と献身です。わたしたちもイエス様への献身の思いを行動で表すことができます。それが奉仕です。また、隣人愛の実践です。そして福音宣教です。周りの人を教会に誘ってきてください。また、教会の伝道会やその他のプログラムに家族友人知人を誘って連れてきてください。