受難を超えて勝利へ

2017年3月26 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書18章1~13節
18:1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。
18:2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。
18:5 彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
18:7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
18:8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
18:11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
18:12 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
<要約>

ゲデロン川渡って受難に向かう:

イエス様は、しり込みすることなく受難に向かっていかれました。イエス様を裏切ったユダが、案内をして、一隊の兵士、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちがやってきました。彼らは、ともし火と松明と武器をもってやってきました。イエス様はご自分の身に起ころうとしていることをすべてご存知でした。だから、進んで姿を現して、「誰を探すのか」と言われました。この受難が、父なる神からの差し出された杯であり、自らそれを受けるために来られたことをはっきりと示されたのです。ヨハネは、主イエスが主導権を握って、自らまっすぐに十字架を目指して歩まれた様子を描いています。

神の威信をかけた受難:

「それはわたしです」と言われました。これは、原語では「エゴーエイミー」といいます。神がモーセにかたられ、「わたしはあるというもの」と同じ意味のことばです。これはイエス様の存在の威信を示されたのです。イエス様は、天地万物を造られた創造者である神、すべての存在の基となったお方と同格なお方です。ですから、存在の根源にあるお方です。 そのイエス様の声を聞いて、彼らは後ずさりして地に倒れたと書いています。そこに神の圧倒的な栄光があったと思います。イエス様がこれから受ける苦難が、神の威信をかけたものであることを示しています。イエス様はもう一度、捕えに来た者たちに「誰を捜すのか」と問われました。そして、「目指しているのは自分なので、この者たちは去らせなさい」と弟子たちをかばいました。イエス様は、十字架の苦難は他の誰かとではなく、お一人で受けなければならないことをよくご存知でした。なぜなら、イエス様は人の罪を取り除く神の小羊として来られたからです。このことは、イエス様以外誰も人間にはできない事だからです。イエス様だけが、すべての人の身代わりに十字架で死んで罪を贖うことができたのです。すなわち、あなたの罪の身代わりとなって死んでくださったと言えます。その時、ペテロが剣でマルコスという大祭司のしもべの耳を切り落としました。イエス様はつかさずに、そのしもべの耳を癒され、ペテロに剣を納めなさいと命じられました。剣によっては神の国は来ないのです。イエス様は、武力ではなく、愛の赦しで平和の道を開こうとされました。イエス様は、ご自身を捧げて人類の救いの道をおつくりになりました。私は道であり、真理であり、いのちであると言われました。私を通して出ないとだれ一人神のもとに行くことはできない、と言われました。そして、この地上で、神の国をおつくりになりました。救いの道を完成されたのです。

苦難の向こうに勝利の喜び:

イエス様は武装した一隊の兵士たちに対して、無抵抗でした。それなのに、縛られてアンナスのところへ引いて行かれ、裁判にかけられるのです。イエス様を逮捕したのは、一隊の兵士と千人隊長、それはローマです。当時の異邦人世界の代表と言えます。それにユダヤ人が送った役人たちです。それは同国人の代表です。ですから、イエス様は、同国人からも異邦人からも罪に定められて、十字架につけられたことを意味しています。すなわち、全人類がイエス様を罪に定めたのです。それは、全人類の罪をイエス様に背負わせたともいえます。このように、イエス様の十字架と苦難は人類の救いのために聖書に預言されたことでした。神の子主イエスのこの受難は、一見外側から見れば、敗北であるように見えます。イスラエルの救いのために、そして、そこから全人類の救いへと広げるために主イエスが神から遣わされてきました。しかし、殺されてしまいました。ですから、逮捕された時点では、敗北であったようにも見えます。しかし、イエス様は逮捕される前に、最後の晩餐の後、みなで賛美をして、オリーブ山に向かわれた記事がマタイとマルコにあります。それは勝利の賛美であったと想像します。イエス様は、敗北とみられるような十字架の向こうに復活の勝利を見ていたからです。私たち、クリスチャンも苦しいこと、悲しいこと、望ましくないことを多々経験します。そして、ときに敗北を経験します。そして、そのようなマイナスなことは起こらないように願います。教会でも試みに合わせないでくださいと祈ります。しかし、現実には人生には、病気があり、困難に遭遇し、悩み、そして死があります。それが人生であるということです。しかし、マイナスに見える所に神の恵みがあふれるのです。負けと見える所に勝利の約束があるのです。イエス様が来られた目的は、それらのマイナスがなくなってしまい、いいことばかりになるということではありません。人生にはうまくいくことばかりではなく、失敗や敗北も経験します。そして、病気や失敗や困難を経験したことで、神の恵みを体験した証しを多く耳にします。昨年、徳永規矩の「逆境の恩寵」と言いう本を読みました。明治36年に43歳の短い一生を終えた人です。19歳の時に洗礼を受け、教育と実業に従事し、ようやく実を見る時に、結核を患い、吐血を繰り返し、病床にたおれてしまいました。火の試練を通されたのですが、キリストの恩寵に心から感銘して意気揚々神のみ元に凱旋したのです。クリスチャンライフは平たんではないのです。喜ばしいことも喜ばしくないことも多々起こるのです。しかし、苦難の向こうにイエス様が見ていたように希望を見るのです。信じる者には復活の勝利が約束されています。うまくいかないこと、あるいは敗北と思われるようなことの向こうに勝利の望みをもって生きるのがクリスチャンライフです。イエス様は十字架によって、アダムの罪以来失われていたと神との関係を回復してくださいました。私たち人間と神との関係に、愛と信頼を取り戻してくださったからです。イエス様を信じる者にはやがていただく復活のいのちが約束されています。そして、復活の喜びは今ある様々な困難や苦しみを跡形もなく飲み込んでしまうのです。

エルサレム入城

2017年3月19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書12章12~26節
12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
12:17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
12:18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。
12:19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
12:20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
<要約>

人の思いにあるもの:

過ぎ越しの祭りのために外国からも大勢の人々が集まっておりました。彼らはイエス様のうわさを聞いていました。イエス様が数々の癒しや奇跡をおこなっていたことを聞いていました。生まれつきの盲人の目をあけました。また、極め付けは死んだラザロを生き返らせたことです。そのことを見聞きした人々は、イエス様こそ、民族が待ちに待っていたメシヤ、救い主であると思ったのです。ところが、イエス様は華々しい軍隊を連れてではなく、また、王が乗るにふさわしい立派な馬ではなく、荷物を運ぶロバの子に乗ってエルサレムに入城するのです。熱狂した群衆の多くは、イエス様がイスラエルをローマの圧政から解放してくれる民族の救い主であると期待して、「ホサナ」と叫びました。「ホサナ」は、「今、お救いください」という意味です。神の民が異邦人に支配されて、苦役に伏していたと言えます。それゆえに、解放者の現われに期待していたのです。民族が待望していたのは民族の救い主です。ですから、彼らにとっては、救い主は同国人の政治的リーダーでした。それによって自分たちの生活が良くなり暮らしが楽になることでした。神のみ心をしたい求める思いより自分たちの暮らしを立てることに心が向いていました。ですから、基本的には彼らは救い主を自分に都合の良いようにしか考えていませんでした。私たち現代人も、自分に都合の良いように神を解釈しようとします。神が愛の方であれば、大震災など起こされることはない、とか。国家間、民族間の紛争など放っておくはずがない、とか。神が正義であれば、どうして悪がこんなに栄えるのか、とか。しかし、まず、神はこういう方であると断定する前に、へりくだって、神のみこころは何か、神に聞く、聖書に聞くということが必要です。すべての事に、私たちにはわからない神の深いご計画があるのです。そして、群衆は無責任です。この「主よ、お救いください」と叫んだ同じ群衆が、今度は数日後には、ピラトによるイエス様の裁判で「十字架につけろ」と叫ぶのです。聖書は、人間とはどういうものかを描いています。人間の罪の深さを描いています。同時に聖書は、真実の鏡です。あなたの心を映し出すのです。聖霊が聖書のみことばと共に働いて、あなたに罪を示します。そして、あなたは、このままではいけない、自分には救いが必要であると思うのです。それが聖霊の働きです。もし、あなたが聖霊に心を開くのなら、聖霊のお取り扱いを豊かに受けます。

神のみ思いと行為:

イエス様は、ロバの子を見つけてそれに乗られたと書いています。それは、ご自分は、ロバの子に乗る平和の王であることをお示しになったのです。イエス様はご自分が王であることを認めておられました。また、偉大な預言者であることも知っておられました。しかし、それだけではなく、大祭司としての職務を覚えておられました。永遠の大祭司として、ご自身を神の小羊として、すべての人の罪の代価として犠牲として捧げることでした。すなわち、無実の神の御子キリストが十字架の上で、すべての人の罪を背負い、身代わりとなって裁かれて、死んだのです。そればかりではなく、イエス様は一粒の麦となって、麦の実が死んで豊かな実を結ぶ、という真理をご自分のいのちに当てはめました。十字架で死んで三日目に復活しました。そして、信じる者に新しいいのちである永遠の命をお与えになったのです。イエス様の職務は王であり、預言者であり、さらに大祭司であります。イエス様が大祭司であるということは、ご自身の血によって、すべての人の罪の贖いをすることです。すなわち、イエス様は、すべての人の罪を赦すために、そして滅びからいのちへと至らしめるために来られたのです。この神のご計画の動機は、愛です。十字架は、キリストによって世の人が救われるための神の行為でした。神は、イスラエル民族の救おうとなさいましたが、彼らは神が送られた救い主イエス・キリストを受け入れませんでした。そこで、この救いは異邦人へと届けられるようになったのです。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてある通りです。かくして、イエス様は永遠の大祭司として今もここにおられます。イエス様に来て悔い改めるすべての者の罪を赦し、父なる神にとりなしてくださっています。あなたが、「イエス様、今日も私の罪を赦し、私をきよめてください。今日も私を神のみ前に立たせてください」と祈るなら、その通りになります。そして、イエス様が受けるべきすべての良いものをあなたは受けるのです。神の子の身分と永遠の命です。なぜなら、イエス様はあなたの代わりに十字架ですべての負い目を代りに受けてくださったからです。あなたはキリストにより神の子とされ、御国の世継ぎとされていることを心に刻むべきです。すなわち、天にあるあらゆる祝福を受け継いだものであると自覚しましょう。あなたが本当に信じて願うなら、それはあなたのものになるのです。

主に明け渡した者の報い:

礼拝に上ってきた人々の中にギリシヤ人がおり、その人たちがイエス様に会いたいと申し出たのです。それを受けて、イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。福音は、イエス様の十字架の贖いによる罪の赦しです。この救いの福音が、ユダヤ人ばかりではなく、ここでは異邦人の代表であるギリシヤ人にも届いていることをイエス様は察知したのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」多くの人が永遠の命に至るためには一人の人が犠牲とならなければならない、ということです。それは、イエス様が十字架で死んでくださったという行為です。それゆえ、父なる神はキリストを高くあげて、すべての名にまさる名をお与えになったと書いています。それゆえ、今度は、イエス様はご自身に従うようにあなたに命じています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」とあります。それは、もし、あなたが永遠のいのちを願うなら自己中心を捨てて、イエス様についてきなさいというのです。これは、あなたをイエス様に明け渡すということです。イエス様を信じている者は、この世のいのちが終わっても、永遠のいのちに与ります。私たちは、これ以上どのような報いを求めるでしょうか。私たちが欲しいのは、神からのこの一言です。「よくやったね。あなたが自慢だよ。わたしは、あなたを名誉に思うよ。」 神の、この一言でよいのではないでしょうか。この世であった苦労、苦しみ、悲しみはすべて過ぎ去って、神のことばが残るのです。そして、御国の宴に招かれているのです。

最高の奉仕とは

2017年3月12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネ12章1~11節
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

<要約>

香油は愛が動機:

マリヤは非常に高価で純粋なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り彼女の髪の毛でそれをぬぐったのです。マルコの福音書の記事によると香油の入った石膏の壺を割ってイエス様の頭に注いだと書いています。売れば300デナリ、今でいえば、300万円です。

ヨハネはマリヤが足に注いだと書いて、マリヤの謙虚さを強調したのでしょう。家は香油の香りでいっぱいになったとあります。その行為は全く贅沢な行為でした。しかし、見栄や高慢のかけらもない純粋できよい美しい行為でした。なぜ、彼女は突然のようにそのような行動に出たのでしょう。それは、一番にはイエス様がご自身で語っておられたことによるのです。十字架の苦難が間地かに迫っていること、そして地上でご一緒する時間が限られていることを感じ取っていたのです。彼女はありったけのイエス様に対する愛と感謝、そして、訣別の思いをこのナルドの香油に託したのです。かくして、マリヤは自分の全財産に匹敵する大切な高価な香油をイエス様に捧げたのです。それは、マリヤの献身です。イエス様を愛するということはどういうことなのでしょうか。私たちが本当に人を愛するなら損得勘定は無くなります。逆に、損得のために、何かの見返りを期待して、その人に良い事をしていたとしましょう。そしてそのことがその人に知れたら、それは、そのよいこと以上にその人を傷つけます。愛は見返りを期待しません。愛は一方的です。感謝をされなくても腹をたてません。イエス様を愛するというのも、同じです。イエス様の喜ばれることをします、損得はありません。また、見返りも期待しません。具体的には、イエス様が愛してやまない、あなたの隣人を愛することです。感謝をされなくてもよいのです。なぜなら、あなたの愛の奉仕はイエス様に届いているからです。イエス様はあなたの心の動機を見逃すことなくあなたを喜んでおられるからです。

主にあって無駄はない:

ところが、マリヤのその行為に対してイエス様を裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが猛反対します。ヨハネは、彼のことばの中に不誠実とどん欲を読んでいます。ユダは言いました、「300デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」と。しかし、真相は貧しい人々に心をかけていたのではなく、ユダは不誠実な盗人であって、金入れを預かっていたので、お金を盗んでいたというのです。ですから、ユダが怒ったのは、実は自分が損をしたためなのです。ここに、自己中心なのに大義を盾に、マリヤを激しく非難して、イエス様のお心を傷つけたユダがいます。それに反して、マリヤはイエス様の十字架の死を気遣っていました。マリヤの無駄と思える行為の中にマリヤのイエス様を大切に思うその思いがにじみ出ています。この世界は功利的です。国々は、自国の利益を第一として、隣国と摩擦を起こしています。中国の海洋進出、ロシアのウクライナ進出、アメリカ第一主義もそうかもしれません。自分の利益を追求して飽くことのない、人間の罪の仕業です。また、私たちの社会は、無駄を省いて効率を求めて邁進していると言えます。この社会の歯車に乗って振り回されているので、疲れます。無駄をしない社会、生産性のないものを受け付けない社会、が私たちの社会ではないでしょうか。しかし、わたしたち信者は、そういう功利的な価値観に振り回されてはいけません。何をするにも、マリヤのようにイエス様を愛する愛が動機でなければなりません。「何をするにも主に対してするように」とあります。仕事をするのも、奉仕をするにも、家事をするにも、です。福音宣教もその通りです。イエス様は、宣教を私たち信者に委ねておられます。イエス様は強制しません。マリヤのような自発的な奉仕を喜ばれるのです。また、福音宣教を考える時、伝道は無駄が多いと言われています。パンを水の上に投げるようなものだとも言われます。これは大変無駄ではないかという声もあります。しかし、伝道者の書にあるように、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」神は約束しておられます。蒔かれた種は、やがて植え付けられて芽が出て、実を結ぶ時が来るのだということです。ですから、種まきであきらめてはいけないと、聖書は勧めています。

献身から出る奉仕:

イエス様の応えは何でしょうか。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のためにそれを取って置こうとしたのです。」と。ここで、イエス様は、マリヤが香油を塗ったのは、もうすぐイエス様は十字架で死んで、埋葬されるので、そのためにしたことであると言われました。イエス様がすべての人の身代わりとなって十字架にかかる時が迫っていたからです。でもこの時点で、イエス様が十字架にかかるとわかっていた人はいなかったようです。マリヤもそこまでは分からなかったのです。しかし、いつもイエス様のそばでイエス様のお話を聞いていたマリヤは直感的に埋葬の備えをしなければと突き動かされていたのかもしれません。イエス様の死は私たちの罪を負っての死であり、その死によって私たちには罪の赦しという祝福が与えられました。イエス様がご自身のいのちを差し出すのであれば、私も自分の最上のものをもってお応えしたい。マリヤの行為の背後にはそういう思いがあったのです。神は何を大切にしておられるか。人はうわべを見るが神は心を見て評価されます。ユダは自分の損得で動いた人間ですが、マリヤは神のために心を注いだ人物でした。イエス様は人間を救うためにご自身を捧げました。マリヤはそのイエス様に自分を捧げました。イエス様は数日後に控えている十字架のみ苦しみを思い、心は騒ぎ緊張の中にあったのです。マリヤはそのことを直感していました。イエス様の気持ちに寄り添って、イエス様を少しでも慰めたい。そのために、マリヤは惜しみなく捧げたのです。香油の香りが部屋中に満ちたのです。イエス様の身体も香油の香りを放っていました。おそらく十字架につけられて死んで墓に入れられる時まで香っていたでしょう。それが、埋葬の備えをした、という意味です。神は心からの献身を喜ばれます。神は心からの愛の奉仕を喜ばれます。人の評価ではありません。神が喜ばれるのは愛と献身です。わたしたちもイエス様への献身の思いを行動で表すことができます。それが奉仕です。また、隣人愛の実践です。そして福音宣教です。周りの人を教会に誘ってきてください。また、教会の伝道会やその他のプログラムに家族友人知人を誘って連れてきてください。

十字架と復活の道

2017年3月5日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章13~25節

2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

<要約>

怒られるイエス様:

イエス様は弟子たちを連れて、神殿にはいられました。エルサレム神殿では、巡礼者に便利なように、捧げものを売るところがありました。礼拝者は必ず、捧げものをもって神の前に出なければならなかったようです。また、その動物は傷や欠陥があってはいけないところから、商売人はレビ人や祭司などの宗教指導者と結託して、捧げものになる動物に厳しい基準を作って、高値を付けて、金もうけをしていました。また、外国の通貨は神殿に納めるためにはユダヤの貨幣に両替しなければなりませんでした。それらのゆえに、神殿は莫大な収入を得ていたようです。神が当時の宗教指導者やユダヤ人にお求めになっていることから大きく離れていました。祈りの家と呼ばれる神殿が、強盗の巣となっていたのです。神は「いけにえを捧げる前に心を捧げて従っていくことを求めておられます。すなわち砕かれた悔いた心」を求めておられます。私たちは毎週の礼拝で、この砕かれた悔いた心をもって見前に出ているでしょうか。もう一度、心を探っていただきましょう。イエス様は、細縄で鞭を作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちを追い出した、と書いています。イエス様は、律法学者やパリサイ人たちの偽善に対しては、その反発をものともせずにはっきりとその悪を指摘しました。「わざわいだ、律法学者、パリサイ人」と何度も言われました。結果的にそのイエス様の言動への反発のために、十字架につけられたのです。当時のユダヤ人は律法の表面的なことを守って、自分の義を立て高慢になっていました。イエス様は、隣人を自分と同様に愛しなさいと言われました。彼らにとって隣人とは、仲間のユダヤ人たちを指しました。しかし、イエス様は隣人とは、彼らが口を利くこともはばかっていた敵のサマリヤ人であると教えました。人を殺してはならない、と言われるが、殺人は心から発していると教えられました。すなわち、もし、私たちが正しく律法と向き合うならば、律法によっては自らを誇ることにはなりません。むしろ律法を全うできない自分に気付くことです。そして、罪を認めてへりくだって神を見上げ、信仰によって赦しを求め、神に近づくのです。イエス様は当時のパリサイ人や律法学者の律法解釈を批判しました。ですから、彼らから反発されたのです。イエス様は律法と人間の関係を正しました。律法は人々を神から離れさせるためのものではありません。律法により私たちは神を見上げ、信仰によって神に近づくのです。パウロはガラテヤ書で律法は養育係であると言いました。すなわち、律法は私たちをキリストに連れて行くのです。イエス様は、堕落したユダヤ人の宗教指導者たちに怒りをぶつけました。彼らが、神のみ心に反した律法の行使により民を苦しめて、自分たちの権力の座にあぐらをかいていたからです。

十字架と復活の予告:

「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」と、しるしを求めます。ユダヤ人指導者は、神殿を粛清するイエス様の態度を見て、怒りました。そして、何の権威によってこのようなことをするのか示せ、ということです。また、その権威があるならば、そのしるしを見せろ、と問いただしました。不信仰はしるしを求めます。信仰は目に見えないことを確信することです。「あなたが神ならば、しるしを見せろ」と人々は言いました。しかし、主は、不信仰な者にはしるしを見せませんでした。あくまでも、主は、あなたに信仰を求めておられるからです。神は、あなたが信仰によって近づく時、ご自身を表されるのです。ユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」と言われました。この時は聞いていた者たちは誰も、その意味を解せなかったのです。が、弟子たちは、後で、イエス様の復活を見て、イエス様は、ご自身の身体の神殿のことを言われたことに気付いたのです。エルサレムの神殿は、イエス・キリストのひな型であると言えます。それまでは、人々は神殿に来て、神と会見できました。傷のない動物を携えてきた人は、祭司がその動物の血を流し、神にとりなすことによりその人は神と会見できたのです。今は、イエス・キリストを通してどこにいても神とお会いすることができます。イエス・キリストが永遠の大祭司となり、神に来る者をご自身の血をもって神にとりなしてくださるのです。「神殿をこわしてみなさい、わたしは三日でそれを建てよう。」の「建てよう」は、原語では「よみがえる、復活」と同じ言葉です。すなわち、これは、「わたしを殺してみなさい、私は三日目によみがえるでしょう」ということを予言したのです。すなわち、十字架と復活のことを暗示されたのです。イエス様は宣教の始めから、ご自身がこの世に来られた目的をよく知っておられました。ユダヤ人たちの反発により十字架で殺されました。しかし、神は三日目にイエス様を復活させて、悪魔と罪にとらわれている人類そして、あなたを救う道を用意なさったのです。神の動機は、何でしょうか。それは愛です。神の愛の極みが、あなたのいのちのために、ご自身のいのちを捨ててくださったことです。

人を知って人のために:

このエルサレムで多くの人々が癒され、悪霊から解放されて、奇跡を見て、イエス様を信じたとあります。しかし、イエス様はご自分を彼らにお任せにならなかったのです。これは、イエス様は全能の神ですから、すべての人の心にあるものを知っておられたということです。主は十字架と復活の道筋を心に決めておられました。イエス様はご自身のご計画を遂行するために人間に心を赦さなかったのです。イエス様は人間の心にある罪の深い闇を知っていました。それゆえに来てくださったのです。闇は光に打ち勝たなかった、と。イエス様は、ご自身の主導で十字架の道を目指しておられました。人を知って、人のためにご自身を人の罪の贖いの代価として提供なさったのです。私たちも、知らなければなりません。人間というものはいかなるものであるかを。人間を知ると言っても、人は自分がわからないものです。他人のことは見えるのですが、自分が見えないのが人間の罪の性質です。私たち人間を死と滅びに誘うものが三つあると小教理で教えています。それは、サタンとこの世と私たちの罪の性質の三つです。サタンやこの世は自分の外のものですから、警戒しやすいのです。が、自分の罪の性質については聖霊による照らしによるしかわかりません。当時のユダヤ人指導者ばかりでなく、人の心は悪に傾きやすいのです。さらに、千五百年降って、中性の暗黒時代、教会は免罪符など発行して、金で罪の赦しを売ることをしました。それで莫大な富を得たようです。聖ペテロ寺院など歴史に残る大聖堂はその収益でできたと聞いています。現代社会を見ても、世の中には悪いことが多すぎます。森友学園の事件、毒物を使った殺人事件、高校生の殺人事件、これらの原因は人間の内側にある罪の性質から発しています。それは、神から離れた人間の腐敗した私の中にある罪の性質です。神は人の深い闇、そして悪に傾く腐敗した心、それを救いきよめるために来られたのです。何の見返りも期待せずに、イエス様は、私たちの罪を担い代わりに裁かれ、反対に私たちは天にある神の子の特権をいただきました。これを喜びの交換と言います。神が私たちに備えてくださったものがいかに素晴らしいことであるかを覚えたいと思います。