2017年3月26 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ヨハネの福音書18章1~13節
18:1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。
18:2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。
18:5 彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
18:7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
18:8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
18:11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
18:12 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
<要約>
ゲデロン川渡って受難に向かう:
イエス様は、しり込みすることなく受難に向かっていかれました。イエス様を裏切ったユダが、案内をして、一隊の兵士、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちがやってきました。彼らは、ともし火と松明と武器をもってやってきました。イエス様はご自分の身に起ころうとしていることをすべてご存知でした。だから、進んで姿を現して、「誰を探すのか」と言われました。この受難が、父なる神からの差し出された杯であり、自らそれを受けるために来られたことをはっきりと示されたのです。ヨハネは、主イエスが主導権を握って、自らまっすぐに十字架を目指して歩まれた様子を描いています。
神の威信をかけた受難:
「それはわたしです」と言われました。これは、原語では「エゴーエイミー」といいます。神がモーセにかたられ、「わたしはあるというもの」と同じ意味のことばです。これはイエス様の存在の威信を示されたのです。イエス様は、天地万物を造られた創造者である神、すべての存在の基となったお方と同格なお方です。ですから、存在の根源にあるお方です。 そのイエス様の声を聞いて、彼らは後ずさりして地に倒れたと書いています。そこに神の圧倒的な栄光があったと思います。イエス様がこれから受ける苦難が、神の威信をかけたものであることを示しています。イエス様はもう一度、捕えに来た者たちに「誰を捜すのか」と問われました。そして、「目指しているのは自分なので、この者たちは去らせなさい」と弟子たちをかばいました。イエス様は、十字架の苦難は他の誰かとではなく、お一人で受けなければならないことをよくご存知でした。なぜなら、イエス様は人の罪を取り除く神の小羊として来られたからです。このことは、イエス様以外誰も人間にはできない事だからです。イエス様だけが、すべての人の身代わりに十字架で死んで罪を贖うことができたのです。すなわち、あなたの罪の身代わりとなって死んでくださったと言えます。その時、ペテロが剣でマルコスという大祭司のしもべの耳を切り落としました。イエス様はつかさずに、そのしもべの耳を癒され、ペテロに剣を納めなさいと命じられました。剣によっては神の国は来ないのです。イエス様は、武力ではなく、愛の赦しで平和の道を開こうとされました。イエス様は、ご自身を捧げて人類の救いの道をおつくりになりました。私は道であり、真理であり、いのちであると言われました。私を通して出ないとだれ一人神のもとに行くことはできない、と言われました。そして、この地上で、神の国をおつくりになりました。救いの道を完成されたのです。
苦難の向こうに勝利の喜び:
イエス様は武装した一隊の兵士たちに対して、無抵抗でした。それなのに、縛られてアンナスのところへ引いて行かれ、裁判にかけられるのです。イエス様を逮捕したのは、一隊の兵士と千人隊長、それはローマです。当時の異邦人世界の代表と言えます。それにユダヤ人が送った役人たちです。それは同国人の代表です。ですから、イエス様は、同国人からも異邦人からも罪に定められて、十字架につけられたことを意味しています。すなわち、全人類がイエス様を罪に定めたのです。それは、全人類の罪をイエス様に背負わせたともいえます。このように、イエス様の十字架と苦難は人類の救いのために聖書に預言されたことでした。神の子主イエスのこの受難は、一見外側から見れば、敗北であるように見えます。イスラエルの救いのために、そして、そこから全人類の救いへと広げるために主イエスが神から遣わされてきました。しかし、殺されてしまいました。ですから、逮捕された時点では、敗北であったようにも見えます。しかし、イエス様は逮捕される前に、最後の晩餐の後、みなで賛美をして、オリーブ山に向かわれた記事がマタイとマルコにあります。それは勝利の賛美であったと想像します。イエス様は、敗北とみられるような十字架の向こうに復活の勝利を見ていたからです。私たち、クリスチャンも苦しいこと、悲しいこと、望ましくないことを多々経験します。そして、ときに敗北を経験します。そして、そのようなマイナスなことは起こらないように願います。教会でも試みに合わせないでくださいと祈ります。しかし、現実には人生には、病気があり、困難に遭遇し、悩み、そして死があります。それが人生であるということです。しかし、マイナスに見える所に神の恵みがあふれるのです。負けと見える所に勝利の約束があるのです。イエス様が来られた目的は、それらのマイナスがなくなってしまい、いいことばかりになるということではありません。人生にはうまくいくことばかりではなく、失敗や敗北も経験します。そして、病気や失敗や困難を経験したことで、神の恵みを体験した証しを多く耳にします。昨年、徳永規矩の「逆境の恩寵」と言いう本を読みました。明治36年に43歳の短い一生を終えた人です。19歳の時に洗礼を受け、教育と実業に従事し、ようやく実を見る時に、結核を患い、吐血を繰り返し、病床にたおれてしまいました。火の試練を通されたのですが、キリストの恩寵に心から感銘して意気揚々神のみ元に凱旋したのです。クリスチャンライフは平たんではないのです。喜ばしいことも喜ばしくないことも多々起こるのです。しかし、苦難の向こうにイエス様が見ていたように希望を見るのです。信じる者には復活の勝利が約束されています。うまくいかないこと、あるいは敗北と思われるようなことの向こうに勝利の望みをもって生きるのがクリスチャンライフです。イエス様は十字架によって、アダムの罪以来失われていたと神との関係を回復してくださいました。私たち人間と神との関係に、愛と信頼を取り戻してくださったからです。イエス様を信じる者にはやがていただく復活のいのちが約束されています。そして、復活の喜びは今ある様々な困難や苦しみを跡形もなく飲み込んでしまうのです。