2025年5月18日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明
<聖書>エペソ人への手紙2章1~10節
【新改訳2017】
2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
<要約>
悪い知らせ(1~3節):
人間は神によってつくられ、神によって存在させられている者たちです。従って神を離れて生きることなどできません。ですから、肉体的には生きていてもそれは本当のいのちから離れた状態で、あたかも糸の切れた凧と同じで、どこへ行ってしまうかわからないのです。どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。それが、「自分が犯した背きと罪」なのです。人生の意味や価値が失われてしまっているということです。そして、神から離れている人生は、「自分の肉欲に生き、肉と心の望むままを行っている」ということです。肉欲のとりこになっているというのです。ここの肉欲というのは、いわゆる情欲とか強欲というものだけではありません。生まれながらの人間の思いや言葉や行いは突き詰めるとすべて「自分のため」なのです。それは神のみ思いとかけ離れており肉と呼ばれるものです。すべての人は生まれながらの罪人なのです。これは、最大の悪い知らせと言えるのではないでしょうか。この死んでいるような状態から生き返らせることのできるお方は、ただ一人、すべてのものにいのちを与えられたつくり主で、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせられたお方以外にはありません。
良い知らせ(4~10節):
そのような、希望もなく、喜びもなく、滅びに向かっていた人間に対して、神は何をしてくださったでしょうか。人の「罪」のために、神が用意してくださった解決が、イエス・キリストです。私たちの罪にために死なれて、葬られ、三日目によみがえられました。そして信じ罪赦された者は、キリストと同じ復活のいのちが与えられるのです。神は私たち人間に、二つの相反する御思いを抱いておられます。一つは、私たち人間の罪のゆえに私たちを怒っておられるということ。もう一つは、私たちをご自身のいのちを捨てるほどに愛しておられるということ。神の怒りはキリストの十字架に落ちたので、信じるものの上には神の怒りはなく、もう一方の神の愛のみが注がれるのです。神からの賜物、プレゼントは神が与える救いです。それは、イエス様を信じて受け入れること、信仰を持って神の救いをいただくこと。そして罪と死と悪魔の力から救い出していただくのです。これ以上の良い知らせは この世界どこを探しても ありません。 それは あなたのために、神が用意してくださった救いです。ぜひ自分のものとしてください。