渇きをいやす礼拝

2022年3月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書4章3~26節
【新改訳2017】
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

<要約>

渇くことのない生ける水:

イエス様は、彼女の行動を問題にするよりも、そのような行動をとってしまっている彼女の魂の悩み、苦しみに着目しています。イエス様は、なぜ人がそのような行いに走っていくのか?そこに人間の満たされない心の渇き、を見ているのです。それが霊的渇きです。人間は最初に地のちりで作られて、神からの霊のいのちを吹き込まれて生きるものになったとあります。しかし、最初の人アダムの罪以来、心から神を追い出してしまった人間は、霊のいのちを失い、人格の中心に空洞ができてしまいました。以来、人はむなしくなって、それを何かで満たそうとしています。それが霊的渇きです。しかし、その空洞は永遠なるもの、絶対なるもの、そして決して変わらないもの、すなわち神でしか満たすことができないのです。すべての人は、人格の中心にある霊の渇きを満たす生ける水が必要なのです。この女性と同様に、私たちにも心と魂を満たす生ける水が必要です。そして、世の中のどんなものもあなたの魂を満たし続けることはできません。その空洞を満たす方は神です。生ける水はイエス様ご自身を表し、すべての人の人格の中心にあるこの空洞を満たしてくださいます。人格の中心にイエス様が住んでくださり神のいのちとつながり、永遠のいのちにあずかるのです。

礼拝は神との出会い;

御霊と真実によって、礼拝するのです。真理は、イエス・キリストです。つまり、聖霊とキリストによって神を礼拝しなさいと言うのです。礼拝式には、三位一体の神のそれぞれのお姿が、そこに現れます。聖霊はみことばと一緒におられ、みことばをもってお語りになります。また、聖霊は、キリストの身体と血によって信者の罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。礼拝者はイエス様の御名によって、祈り賛美をささげます。万物の創造者である父なる神をほめたたえ、栄光をたたえます。ですから、礼拝式では、信者は三位一体の神と一つとなるのです。三位一体の強固な神の交わりの中に招かれるのです。それは、どんなにか祝福に満ちたときでしょうか。礼拝は神との出会いです。そして、礼拝は神との関係回復の道です。私たちも心にその生ける水をいただくことができます。それは、真の救い主イエス・キリストを心の内にお迎えすることなのです。

山上の説教の結論

2022年3月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書7章15~29節
【新改訳2017】
7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。
7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

<要約>

幸いな人生の土台:

聖書の中心メッセージは、神の御子キリストによる救いです。それが福音です。福音とは、神があなたを愛して、イエス・キリストにより、あなたを罪と死と悪魔から救ってくださったということです。聞いて行うということは、信じて従うということです。その福音を聞く者が最終的にとる応答はこの二通りに分かれるのです。すなわち福音を信じて受け止める人と、それを信じないで受け止めない人です。受け止めなければ、福音はその人のところには届きません。そこで、イエス様は、みことばを聞いて行う人は岩の上に家を建てた賢い人のようだ、といわれたのです。岩の上の岩とは、神を信じる信仰ということができます。みことばを聞いて行うというのは、信じてみことばに従うことです。真に幸いな人生の土台とは、信仰に立って、みことばを実践することです。

幸せな人生のガイドライン:

信仰に励みなさいと言われても、具体的にはどうすればよいでしょうか。何を指針として歩んだらよいというのでしょうか。ガイドラインが必要です。それが十戒です。十戒は私たちと神との正しい関係、そしてそれに基づく隣人(自分以外のすべての人)との正しい関係を教えています。十戒は関係のルールと言えます。信仰を土台として、私たちがまず励むことは、十戒の第一戒から第三戒であるといえます。まず、神との関係をただし、神との関係を最も大切にしていくことです。それが礎となって、第四戒、父と母を敬いなさい、から第五戒、殺してはならない、第六戒、姦淫してはならない、と、隣人との関係に続いていくのです。つまり、第四から第十までは、隣人関係についてのガイドラインです。十戒は、人間のあらゆる罪を指摘します。同時に、人間のあらゆる行いの勧めが書かれています。だから、十戒は神の御心と言うことができます。神様が十戒をお与えになった理由は、私たちが、十戒に表わされた神の要求を満たすことのできない存在であることに気づくことです。つまり、神様の思いから遠く離れている自分に気づくことです。自分が罪びとであることを悔いてキリストの十字架で示された愛を受け入れることなのです。そのうえで、罪赦されたものとして、十戒を人生のガイドラインとして歩みなさいというのです。

真に幸いな人生とは

2022年3月13日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書5章1~12節
【新改訳2017】
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

<要約>

神との幸いな関係:

心の貧しい人は傍におられる神に飢え渇きのために求め続けている人です。次に、この悲しむ者と言うのは最大級の悲しみを指します。最愛の人を失った悲しみも含まれます。そればかりでなく、自分の罪深さを悲しみ、悔い改めに至る悲しみもあります。次に柔和な人は幸いです。これは、優しさと粘り強さともいえます。義に飢え渇く者は幸いです。この義とは神との関係において正しいと言うことです。全ての人は罪を犯した、と聖書は指摘します。しかし完全な義をお持ちの方がいらっしゃいます。それは神であり人であるキリストです。キリストの生涯には一点の罪も汚れもありませんでした。そのキリストがあなたの罪の汚れの一切を背負って十字架で死んでくださったのです。ですから、キリストにあって、あなたの罪の一切は取り除かれ、神の御前で完全な義をいただいたと言えます。神と幸な関係にある人は、自分の弱さを覚え、心へりくだり、神に全面的におすがりする人です。心に神への叫びを常に持っている人です。そして、神に信頼を置く従順な人です。そのような人は、どんなことにも前向きに進んでいく人です。

人との幸いな関係:

心のきよい者は罪赦されたクリスチャンであるといえます。彼らは既に心と霊で神を見ているからです。そして、彼らは人の背後におられるキリストを見ています。平和は赦すことによって、やってきます。クリスチャンは神との平和を得ています。それはキリストが人と神との隔ての壁となっていた罪を取り除いてくださったからです。神との平和を持っている人は、人との平和を作ることができます。神の前に正しく生きようとするとき、信仰を守ろうとすると、迫害を受けることがあります。しかしイエス様は「あなた方は幸いです。喜び踊りなさい。」と、勧めています。山上の説教のはじめは、イエス様は八つの祝福についてです。まず「心の貧しい者は幸いです」で始まる祝福の教えです。これは クリスチャンライフの基本です。なぜなら、へりくだり、心を貧しくして、神にすがることから始まります。自分の無力を認め、罪を悲しみ、悔い改めるのです。そして、神との関係を正すことです。そうすれば、神と幸いな関係に入ります。神との幸いな関係は、人との関係にも及びます。人間関係も祝福されるのです。