2017年1月29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>士師記16章15~31節
16:15 そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」
16:16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。
16:17 それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」
16:18 デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。
16:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。
16:20 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。
16:21 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
16:22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。
16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」
16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」
16:25 彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、
16:26 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」
16:27 宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。
16:28 サムソンは【主】に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」
16:29 そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。
16:30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
16:31 そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。
<要約>
神の意に反した人生:
神から離れていたイスラエルの民はペリシテ人に支配されて苦しんでいました。そのような時に、神が送られたのがサムソンです。彼は、生まれる前から、神のナジル人の請願を立てていました。つまり、神に仕える者として選び分かたれた人物でした。サムソンは本来、主の霊に満たされてとてつもない力を発揮する男でした。選ばれた者の道をまっすぐに歩めば、いのちの祝福をもたらす太陽となれたのです。ところが、ナジル人の請願と、神が共にいてくださるという約束を無視して、サムソンは異国人の女に心惹かれて、不品行、好色に走りました。最後には、デリラという女性に騙されて、自分の力の秘密を漏らすのです。サムソンはデリラの魅力に引き込まれて、とりこになるのです。性愛の奴隷となったのです。ペリシテ人の領主たちが彼女の所に来て、サムソンを口説いてサムソンの秘密の力がどこにあるかを探るように言われました。デリラはサムソンに酒を飲ませて、「どうしたらあなたを縛って苦しめることができるか、私に教えて」と迫りました。最初は、新しい七本の弓の弦で自分を縛れば、自分は並の人と同じになると言って、うそをつきました。まだ、サムソンの力の秘密がばれることはありませんでした。デリラはサムソンの力の秘密を聞き出そうと必死です。「あなたの強い力がどこにあるかを教えてくださいませんでした」と毎日、繰り返しせがみ責め立てるので、サムソンは死ぬほどつらかったと書いています。ついにサムソンは、自分の心を皆彼女に明かしてしまったのです。デリラは強い酒を与えて、膝枕の上にサムソンを深い眠りにつかせて、一人の人を呼んで彼の髪の毛七房をそりおとしました。そして、サムソンの力は失せ、主が彼から去られました。サムソンは、縛られ、目をえぐられて失明し、青銅の足かせをかけられて牢の中で、臼を引いていたと書いています。悲惨の中に落とし入れられて、絶望の中にいたのです。彼は、過去を振り返り悔い改めの祈りをしていました。神を忘れ、神の賜物をないがしろにしていた自分を示されていたのでしょう。
サムソンの最後の選択・悔い改め:
「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」彼は自分の欲望を抑えられずに酒と女におぼれて落ちて行ったのです。神を忘れ、自分のうちにある罪の性質に身をゆだねて、罪の奴隷となり、高いところから低いところへ下降していったのです。しかし、彼には虐げられていた民を救う使命が与えられていました。このサムソンから、何を学ぶのでしょうか。反面教師と言いました。また、旧約聖書はキリストを証ししていると言われます。サムソンの人生もキリストを映していると考えます。サムソンは、自らの罪によって、士師という身分、つまり裁き司、救い手の地位から敵の囚人にまで落ちていきました。それに対して、イエス・キリストは、私たち人間の罪のために、神である身分を捨てて、低くなられて、極悪非道の囚人として数えられて、十字架につけられました。サムソンは、自分の罪のために神の高い地位から低いところに下降しました。キリストは罪のないのに私たちに代わって神の高い地位から低いところに下降してくださったのです。キリストは、あなたをその罪の呪いから救うために来てくださりあなたの代わりに十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が誰も滅びないで永遠の命を持つためです。かたや、神を認めず、神から離れた人間は、自らの罪によって死に下ります。最後は裁かれ永遠の滅びに落とされるとみことばは教えます。サムソンは最後に悔い改めて、神に祈ります。彼は神殿を支えている二本の柱によりかかり最後の力を振り絞って両手で柱を引き倒したのです。宮の二階にいた領主たちや集まっていた民全体と書いてあるように大勢のペリシテ人がそれにより死んだのです。そして、イスラエルの民をペリシテ人から救ったのです。サムソンは罪から信仰によって救われる者を映し出すモデルでもあります。自分の心の思うままに生きてきて、ついに死の床で、真の神に出会い、悔い改めて、信仰によって救われる人々がいます。十字架でイエス様と一緒につけられた囚人は極悪の犯罪人だったでしょう。しかし、その一人は、悔い改めて御国に入りました。すなわち、最後のところで悔い改める者は救われるのです。
共に戦ってくださる神:
サムソンのことについては、士師記のこの箇所以外には、新約聖書のへブル人への手紙11章に書いています。旧約聖書の聖徒たちの信仰がたたえられています。サムソンもその一人です。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」と書かれている通りです。クリスチャンライフは、結果オーライの歩みです。私たちは失敗と苦しみの人生であったと思えても、主はそこから栄光をおとりになるのです。サムソンは失敗の人生でした。悲惨な最期とも言えます。しかし、そのような中で信仰の火を燃やし尽くしたのです。これは主が共に戦っておられたことの証です。あなたが、悔い改めて、十字架を仰ぐなら、神はあなたのどんな過去の罪も拭い去り、まったく新しくしてくださいます。そして、サムソンと同じように、天では信仰者の一人として数え上げられるのです。