結果オーライの人生

2017年1月29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>士師記16章15~31節
16:15 そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」
16:16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。
16:17 それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」
16:18 デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。
16:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。
16:20 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。
16:21 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
16:22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。
16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」
16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」
16:25 彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、
16:26 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」
16:27 宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。
16:28 サムソンは【主】に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」
16:29 そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。
16:30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
16:31 そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。

<要約>

神の意に反した人生:

神から離れていたイスラエルの民はペリシテ人に支配されて苦しんでいました。そのような時に、神が送られたのがサムソンです。彼は、生まれる前から、神のナジル人の請願を立てていました。つまり、神に仕える者として選び分かたれた人物でした。サムソンは本来、主の霊に満たされてとてつもない力を発揮する男でした。選ばれた者の道をまっすぐに歩めば、いのちの祝福をもたらす太陽となれたのです。ところが、ナジル人の請願と、神が共にいてくださるという約束を無視して、サムソンは異国人の女に心惹かれて、不品行、好色に走りました。最後には、デリラという女性に騙されて、自分の力の秘密を漏らすのです。サムソンはデリラの魅力に引き込まれて、とりこになるのです。性愛の奴隷となったのです。ペリシテ人の領主たちが彼女の所に来て、サムソンを口説いてサムソンの秘密の力がどこにあるかを探るように言われました。デリラはサムソンに酒を飲ませて、「どうしたらあなたを縛って苦しめることができるか、私に教えて」と迫りました。最初は、新しい七本の弓の弦で自分を縛れば、自分は並の人と同じになると言って、うそをつきました。まだ、サムソンの力の秘密がばれることはありませんでした。デリラはサムソンの力の秘密を聞き出そうと必死です。「あなたの強い力がどこにあるかを教えてくださいませんでした」と毎日、繰り返しせがみ責め立てるので、サムソンは死ぬほどつらかったと書いています。ついにサムソンは、自分の心を皆彼女に明かしてしまったのです。デリラは強い酒を与えて、膝枕の上にサムソンを深い眠りにつかせて、一人の人を呼んで彼の髪の毛七房をそりおとしました。そして、サムソンの力は失せ、主が彼から去られました。サムソンは、縛られ、目をえぐられて失明し、青銅の足かせをかけられて牢の中で、臼を引いていたと書いています。悲惨の中に落とし入れられて、絶望の中にいたのです。彼は、過去を振り返り悔い改めの祈りをしていました。神を忘れ、神の賜物をないがしろにしていた自分を示されていたのでしょう。

サムソンの最後の選択・悔い改め:

「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」彼は自分の欲望を抑えられずに酒と女におぼれて落ちて行ったのです。神を忘れ、自分のうちにある罪の性質に身をゆだねて、罪の奴隷となり、高いところから低いところへ下降していったのです。しかし、彼には虐げられていた民を救う使命が与えられていました。このサムソンから、何を学ぶのでしょうか。反面教師と言いました。また、旧約聖書はキリストを証ししていると言われます。サムソンの人生もキリストを映していると考えます。サムソンは、自らの罪によって、士師という身分、つまり裁き司、救い手の地位から敵の囚人にまで落ちていきました。それに対して、イエス・キリストは、私たち人間の罪のために、神である身分を捨てて、低くなられて、極悪非道の囚人として数えられて、十字架につけられました。サムソンは、自分の罪のために神の高い地位から低いところに下降しました。キリストは罪のないのに私たちに代わって神の高い地位から低いところに下降してくださったのです。キリストは、あなたをその罪の呪いから救うために来てくださりあなたの代わりに十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が誰も滅びないで永遠の命を持つためです。かたや、神を認めず、神から離れた人間は、自らの罪によって死に下ります。最後は裁かれ永遠の滅びに落とされるとみことばは教えます。サムソンは最後に悔い改めて、神に祈ります。彼は神殿を支えている二本の柱によりかかり最後の力を振り絞って両手で柱を引き倒したのです。宮の二階にいた領主たちや集まっていた民全体と書いてあるように大勢のペリシテ人がそれにより死んだのです。そして、イスラエルの民をペリシテ人から救ったのです。サムソンは罪から信仰によって救われる者を映し出すモデルでもあります。自分の心の思うままに生きてきて、ついに死の床で、真の神に出会い、悔い改めて、信仰によって救われる人々がいます。十字架でイエス様と一緒につけられた囚人は極悪の犯罪人だったでしょう。しかし、その一人は、悔い改めて御国に入りました。すなわち、最後のところで悔い改める者は救われるのです。

共に戦ってくださる神:

サムソンのことについては、士師記のこの箇所以外には、新約聖書のへブル人への手紙11章に書いています。旧約聖書の聖徒たちの信仰がたたえられています。サムソンもその一人です。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」と書かれている通りです。クリスチャンライフは、結果オーライの歩みです。私たちは失敗と苦しみの人生であったと思えても、主はそこから栄光をおとりになるのです。サムソンは失敗の人生でした。悲惨な最期とも言えます。しかし、そのような中で信仰の火を燃やし尽くしたのです。これは主が共に戦っておられたことの証です。あなたが、悔い改めて、十字架を仰ぐなら、神はあなたのどんな過去の罪も拭い去り、まったく新しくしてくださいます。そして、サムソンと同じように、天では信仰者の一人として数え上げられるのです。

無力の中に働く神の力

2017年1月22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>士師記7章1~15節
7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。
7:2 そのとき、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
7:4 すると、【主】はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない』と言う者はだれも、行ってはならない。」
7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、【主】はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7:7 そこで【主】はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」
7:8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。
7:9 その夜、【主】はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。
7:10 しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、
7:11 彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。
7:12 そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。
7:13 ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」
7:14 すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」
7:15 ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。【主】はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」

<要約>

人間の力を無に帰する神:

イスラエル人は真の神である主を忘れ、他民族の偶像を神として不道徳に走りました。主は、彼らをミデヤン人に渡しました。ミデヤン人はイスラエル人の土地に侵入して、産物を荒らし、イスラエル人を襲いました。民は主に助けを叫び求めました。そこで、主は、民にお語りになりました。それは、彼らが、神の声に聞き従わず、不信仰になって、神から離れてしまったことです。そのために非常に弱くなり、周辺民族ここではミデヤン人から多大な圧迫を受けるようになったのです。主は、民をあわれみ、ギデオンを立てて彼らに遣わしました。いよいよ、ミデヤン人の陣営にギデオンが率いるイスラエル軍が戦闘を開始する時が来ました。ミデヤン人の軍隊は十三万五千人でありました。しかし、イスラエル軍は、三万二千人でした。圧倒的な劣勢です。しかし、主は「あなたと一緒にいる民は多すぎるからミデヤン人を渡さないと言われました。」それは、イスラエルが「自分の手で自分を救った」と言って神に向かって高慢にならないためでした。これは、人間の罪の性質を神はよく知っているからです。私たちは少しの手柄を誇り、自分の力に頼りやすいのです。そして、神はいらないと不信仰になるのです。さらに主は、主が選ぶ者だけが戦闘に加われるようギデオンに話します。そこでギデオンは泉の所へ民を連れて行き、精鋭三百人を残します。神は徹底的に、人間の力を打ち崩し、人間は誇ることはできない状況にギデオンを追い込まれました。私たちは自分の弱さ、無力さを知り、反対に神の力を知ることを学ばなければなりません。修道院ではラテン語で「メメントモリ」という言葉を挨拶に交わしていると聞いたことがあります。それは、「私たちは死ぬべきものであることを心に銘記せよ」という意味です。私たちのこの世のいのちはかないものです。明日もわかりません。どうせ死ぬのだからあきらめなさい、というのではなく、死があるからこそ永遠を与える神を恐れ信頼しなさい、というのが、「メメントモリ」です。私たちにいのちを与え、今、支えてくださっているのは造り主の神なのです。罪によって死が入ったと書いているように、私たちが死ぬべきものになったのは神を無視し、神から遠く離れた人間の罪のためです。あなたは、自分で生きているように錯覚しています。そして、神は必要ないと言います。神から心が遠く離れていることです。それは、神のいのちから断絶されている状況です。その罪を取り除き、人が神と和解し、本来のいのちである永遠のいのちを与えるために神のイエス・キリストが人となって来てくださったのです。

御力を現す神:

人間の力を無に帰した神は、そこで御力を現わされるのです。徹底的に力をそがれたギデオンは、人間の力が及ばないことを覚えました。ギデオンは、心の奥は不安と恐れで満ちていたと思います。恐れがあってもよいのです。神に申しあげればよいのです。神は、ギデオンが臆病なのをよくご存じで配慮なさったのです。私たちも恐れ不安の時は主に申しあげることです。主は恐れ不安を確信に変えてくださいます。ギデオンが、陣営に下って行って、そこで、耳にしたのが、敵の陣営で二人の歩哨たちの会話です。これによって、ギデオンは勝利を確信しました。そして、主を礼拝しました。また、具体的な作戦を立てることができました。それは、角笛とからの壺、そして松明です。その三つを用いて、300人が三つに分かれて周囲から攻め入る方法です。そして「主のためだ。ギデオンのためだ」と宣言するのです。真夜中の夜番が始まるころ、三体に分かれた男たちはまず、角笛を吹き鳴らしました。そして、手に持っていた壺を打ち壊しました。そして、「主のためだ。ギデオンのためだ。」と叫ぶのです。番兵が交代したばかりで、体制が緩んだ時でした、騒音で、びっくりした兵士は敵がすでに陣営に侵入したと思い、恐怖で包まれます。壺の割れる音や大きな叫び声で多くのラクダが暴走し始めたと思います。そして、三百の松明がうねるように山の上から降りてくる情景を見て大群の襲来と思い、恐怖に包まれて、パニックになりました。「陣営のものは走り出し、おお声を上げて逃げた」のです。混乱した兵士は、闇の中に浮かぶ影が味方なのか敵なのか判断できずに、同士討ちが始まります。ギデオンは大勝利をおさめて民を救ったのです。この戦いは徹底的に神の御力のあらわれでした。

勝利の秘訣:

ギデオンの勝利は、新約の民であるクリスチャンに勝利の秘訣を教えます。クリスチャンには三つの敵があると言いました。サタン、この世、私の不信仰な罪の性質。旧約の神の民は、不信仰のために世と妥協し世の誘惑に負けて失敗しました。サタンと世の力、人間の不信仰は強いのです。私たちは徹底的に無力を知って、神の力に頼るのです。私たちクリスチャンは、「世にあって世のものではない者たち」とイエス様が言いました。世と分離した存在です。しかし、同時に世の中で生きています。そして、世の光、世の塩として世に遣わされていると言えます。世の本質は不遜です。世は神に敵対しています。また、サタンは人々を神から引き離そうと一生懸命です。そして、私たちには神に頼りたくない不信仰があります。しかし、私たちは自分の力に頼らず神の力に頼るとき勝利するのです。なぜなら、キリストがすでにそれらに勝利してくださっているからです。死は勝利の飲まれたと聖書は宣言しています。キリストの十字架の贖いにより、信じる者は死からいのちに移されています。この肉体は死を迎えても神のいのちにつながっていますので、信じる者は永遠に生きるものとされました。それが福音です。この世にあっては艱難がある。しかし、勇敢でありなさい。わたしは世に勝ったのです。と言われた主イエスを心にお迎えして神により頼む人生こそ勝利です。

へりくだる者を高くする神

2017年1月15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書18章9~14節
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

<要約>

パリサイ人の祈り:

「自分は義人だと自任している」というのは、自己義認と言います。自己義認の典型が当時のパリサイ人や律法学者と言われる人たちです。彼らの祈りは、自らを誇り心の中で、他の人を見下げて、差別する祈りです。そして、自分は正しいものであると宣言しています。さらに、彼らは週に二回の断食と、十分の一をささげていると主張します。モーセの律法には、断食は年に一度、贖罪の日に行うことになっていました。彼らは、自分たちは、律法の要求以上のことをしていると誇っているのです。パリサイ人はおこないで神の前に自分の義を立てる人たちでした。外面的には、決まりを守り、正しい生活をしていたと言えるでしょう。しかし、神はその祈りを少しも聞かれませんでした。彼は、神に感謝しているようですが、その実、自分の功績を誇っています。彼は自分はこれでいいと思っているので、神に何も求めていません。彼は自分の罪に気付いていないので、悲しむことがありません。彼はプライドがあるので、神に助けを求めません。彼は神を愛していませんので、神より自分の事を考えています。彼は神を信頼していないので、神に心を開きません。イエス様は他のところでも、パリサイ人の真似をしてはいけないと注意しています。しかし、パリサイ人は特殊な人々ではありません。私たち自身の中にもパリサイ人はいるのです。どうしたら、パリサイ人になることから守られるでしょうか。それは、イエス様の十字架から目を離さないことです。「わたしのためにイエス様は十字架におかかりになった。私が無実のイエス様を十字架につけたのだ」と繰り返し心に銘記することです。

取税人の祈り:

それに対して、この取税人はどうだったでしょうか。彼は強い罪の自覚にありました。ユダヤ人は祈るとき、目を天に向けることが普通です。しかし、彼は、下を向いていました。自分が全く神の前に出るに値しないと思っていたからです。砕かれたへりくだった心です。また、胸をたたく、たたき続けたと訳すのが良いでしょう。それは、深い悲しみの表現です。そして、彼には取税人という仕事についての悩みや苦しみもあったでしょう。それらの内容は分かりません。しかし、彼は神のあわれみにすがるという一点でした。注解書によると、「神様。こんな罪人をあわれんでください。」の「あわれんでください」は原語では、「罪を贖う」「和解する」という意味です。ですから、ここは、「神様、わたしの罪を赦し、私への怒りを和解に変えてください。」と訳せます。彼は、深く自分の罪を覚えて、悲しみ、同時に罪の裁きを恐れています。彼は神の赦しを求めつつ、それに値しない自分を感じていました。ですから、彼の祈りは単純でした。彼の求めたものは、ただ、神のあわれみ、神の下さる賜物、キリストの贖いによる罪の赦しです。この取税人は、罪に悲しんでいました。そして、ひたすら罪を贖い赦すことのできる神に心を向けていました。それは、神ご自身が最も求めておられる「砕かれた、悔いた心」「全焼のいけにえに勝る砕かれた霊」です。

最もへりくだられた主イエス:

神はこの取税人を神の前で正しいものと宣言しました。この人には何の償いも功績もありません。しかし、罪赦され平安をいただいたと思います。行いではなく、信仰によって罪赦されて義と認められたのです。神の前に低くされ、心を注ぎ出した取税人は罪赦され同時に御国に受け入れられました。へりくだりの模範を示されたのはイエス様です。万物を支配し治めている神が、人となって、さらに最も貧しいものとなって家畜小屋でお生まれになりました。そして、無実なのに極悪人の一人として数えられて、十字架刑に処せられて、殺されました。これ以上のヘリくだりはどこにもありません。イエス様は子として父なる神の前で極みまでへりくだられたのです。それゆえ父なる神は、彼を復活させて、天に昇らせ、神の右に着座させられました。神がキリストを高く引き上げてくださったのです。キリストは私たちの罪のために十字架で死んで、私たちのいのちのために復活してくださいました。それにより、私たち信じる者は決して滅びることなく、キリストと同じ復活のいのちに与り、永遠に生きるのです。このような祝福を受けた私たちは、今後キリストを模範として歩むのです。キリストの御足の後に従うのです。具体的には、私たちは神を恐れ、愛し、信頼しなければなりません。神は侮れないお方です。罪に対しては容赦のない裁きを下されます。ですから、罪から離れなければなりません。また、神を愛するというのは、神のみことばを守ることです。キリストに従うということです。そして、神に信頼しなければなりません。どんな状況の中でも神に信頼して歩むとき、つぶやきはありません。神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じているからです。このようにへりくだり、キリストに従い、神を恐れ、愛し、信頼するものを、神は高く引き上げて、主の御用のために用いてくださいます。今年も、キリストに倣い、キリストに従っていきたいと思います。

主の祈りとは

2017年1月1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書6章5~15節
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
<要約>

なぜ、クリスチャンは祈るのか:

第一にそれは主の命令だからです。十戒の第二戒は教えます。「みだりに主のみ名を唱えてはいけない。」これは、神の名前で他の人を呪ったり、神の名の権威で自分を正当化したりしてはいけない、正しく神のお名前を用いなさいという命令です。正しい用い方とは、あらゆる苦難の時に「助けてください」と神を呼び求めることです。また、必要を願うことです。また、感謝することです。そして、神をほめたたえることです。これが正しい用い方です。クリスチャンが祈る理由の第二は、祈りは聞かれるという約束だからです。祈りが聞かれるというのは、願ったことがその通りになるというのではありません。しかし、神が最善のことをしてくださるということです。クリスチャンが祈る理由の第三は、主の祈りが与えられたからです。主の祈りが与えられたこと自体が、祈る理由です。私たちは主の祈りを唱えるたびに、自分の悩みに神が関心を持っていてくださることを知るのです。神の前にその悩みを出すようにとの招きなのです。神は私たちに祈らせることにより、神の偉大さに気付かせ、その愛の深さに気付かせるのです。

神に関する祈り:

最初に、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけます。イエス様が最初に天の神を父と呼びました。そして、私たちにも父と呼びなさいと言われます。万物を造られた全能者が遠い関係でなく身近な父となったのです。次に「御名があがめられますように」です。クリスチャンがみことばに従って聖い生活を送る時、御名が崇められます。すなわち、「御名があがめられますように」は、わたしを神の栄光を表すものと変えてくださいという祈りです。次に「御国が来ますように」です。天の御国とは「キリストによる支配」です。キリストが私の人生の主となり、私の一切を統治してくださることです。私たちは、神の御国が、すべての人々に来るよう願います。それは、宣教を通して、人々がキリストを信じて救われ御国の一員となることを意味します。すなわち、「御国が来ますように」は宣教の祈りです。次に、「御心が天で行われるよう地でもおこなわれますように」です。御心が私たちの人間社会でも行われるようにと願って祈ります。そうすると、霊的な戦いが起こります。敵であるサタン、この世、人間の罪の性質は地上で御心が行われることに抵抗します。その時、それは戦いの祈りとなります。私たちは、神がサタンとこの世と人間の罪の性質を打ち壊し無に帰してくださいと祈ります。

人間に関する祈り:

最初に、「私たちの日ごとの糧を、今日も与えてください。」です。この祈りで、日ごとの糧は神からの贈り物であることに気づくのです。また私たちが感謝をもってこれを受け取るようになるのです。日ごとの糧とは、私たちの肉体的な必要を満たすための全てを意味します。例えば、食べ物や衣服、住居、家庭、お金や財産、敬虔な両親や子供たち、信頼できる会社の同僚、誠実な上司、良い政府、季節に合った天候、平和と健康、秩序と名誉、真の友、良き隣人などです。神が私たちの日々の必要についてどんなに心を配ってくださっているかを知るのです。私たちは神が哀れみ深く神なくしては生きていけないことを知るのです。次に、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」です。私たちが毎日罪を犯し、その罰を受けるしかない人間です。しかし、神がその恵みによって罪を赦してくださるように祈ります。そして、私たちも、私たちに対して罪を犯す人々を喜んで赦し、心から良いことをするようにします。神は私たちの幸福を願っておられます。幸福を考えるときに決して避けて通れないのが赦しです。ただ大事なのは、個々の罪について私たちがそれを自覚し、その個々の罪が神に赦されたということを確認することなのです。次に、「私たちをこころみにあわせないで」です。神は誰をも罪へ誘うことがありません。しかし、私たちはこの祈りで、悪魔やこの世や私たち自身の罪の性質によっても、私たちが誘惑されないように願います。サタンは私たちが神を信じないように誘惑します。聖書を読まないように、礼拝に行かないように、祈らないように誘惑します。私たちクリスチャンの内側にも罪の性質が残っています。この罪の性質は、神を神とせず自分を神とし、自分の欲望を果たそうとする傾向です。最後が、「悪からお救いください。」です。まとめとしてこの願いで、たとえサタンが、からだや魂、または財産や名誉を侵すとしても、天の父なる神が私たちをサタンから救出してくださるように祈ります。そして、ついには死の時に神が、祝福された終わりを与えてくださいます。そして、悲しみのこの世から、天国のご自身のもとへ、私たちを引き上げてくださるように祈ります。国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。私たちの祈りが決して無駄に終わらないことを信じます。終わりに、あなたはアーメンといって、決して疑ってはなりません。神は確かに恵みをもってあなたに耳を傾けています。祈ることをやめてはいけません。毎日の生活は神に対する祈りで始まり、祈りで終わるべきです。