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炎のような分かれた舌

2018年04月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章1~13節
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。

<要約>

聖霊は舌としてみことばを用いる:

五旬節に、天からの激しい風が吹いてくるような響き、ゴーという暴風が迫ってくるような音だったのでしょう。家全体が振動したのです。また、「炎のような分かれた舌」がひとりひとりの上に留まったというのです。この舌という言葉は「言語」を表しています。また、舌はことばを発する器官です。舌はことばを司っているともいえます。ですから、ここの「炎のような分かれた舌」は、聖霊の激しい言葉を表しています。彼らは聖霊に満たされて、聖霊が話させてくださる通りに、それぞれが他国語で語り出したというのです。現代も聖霊は、ことばを用いて、ひとり一人にお語りになってくださいます。聖書のみことばを用いて、語ってくださいます。毎日語ってくださっています。先日のことです。わたしは病院を移転しました。それにつけ、お金の問題が出てきます。当然のことです。銀行からも借金をしました。そうしたら、銀行がある事業の話を持ち掛けてきたのです。今の私にとってできない事業ではなかったのです。そこで、私は神の御心を求めました。そうしたら、聖書通読の時にⅠコリ7:31「世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」というみことばを示されました。お金を用いすぎてはいけない、とはっきり示されました。そして、すぐにその話はお断りしました。その様に、聖霊は日々、あなたの求めに応えてくださいます。すぐにみことばが与えられなくても、聖霊に聞き思いめぐらし、祈りつつ決断する時に、神は私たちの思いを通して答えを用意してくださるのです。

聖霊は火として人を清め新たにする:

また、聖霊は「火のような分かれた舌」というように火として表されています。聖霊は悪を滅ぼしつくされます。聖霊は聖いがゆえに、私たち人間の一点の不正も罪も赦すことができないのです。その罪の裁きを免れさせるために「十字架を見なさい、あなたの罪は赦された」と人の心を十字架に向けさせておられるのです。素直な心で聖霊の導きにゆだねるとき、人はキリストの十字架に向かうのです。そして、人の心に火をともします。その火は心の虚栄を焼き尽くし、人を清め新たにします。人にはプライドがあります。自分を尊ぶ気持ち、自尊心は大切ですが、プライドが強すぎると虚栄になります。それは、アダム以来の罪の問題です。世の中は本来すべてつくり主である神が中心であるべきなのに、そこに人間は、自分を中心に持ってきました。それは、個人的にも民族的にも国家的にもその通りです。聖霊は、人のプライド、虚栄、自分中心の思いを火で焼き尽くし、神中心の思い、キリストの思いを思いとしていく生き方に転換してくださるのです。創造当初の世界は神中心でした。人の罪により人間中心の世界になったのです。ある姉妹の証しです。彼女の中学生の次男が教会のキャンプでイエス様を信じて洗礼を受けました。その時以来、聖霊が彼のうちにお住まいになりました。洗礼を受けてしばらくした時のことです。次男が夕方、息をハアハアさせながら帰ってきて、「今、小学校の近くで殴られてお金をとられた。」「自転車を置いて逃げてきた。」というのです。もう少し詳しく話させると、「小学校の近くの本屋に行ったら別の中学校の生徒に外に出ろと言われ、外に出ると何人かに取り囲まれ代わる代わる殴られた。」「お腹は腕組みをして守った。」「お金をとられたが、隙を見て逃げてきた。」と言うのです。車で現場に行ってみましたが自転車がありませんでした。警察に届けを出しに行きました。事情聴取に時間がかかって夜の10時過ぎになってしまいました。帰りの車の中、「お母さん、ぼく洗礼を受けていてよかったよ。聖霊様が助けてくれたよ。信じるって楽だね。憎らしいとか、悔しいという思いが出なくて。殴られているときずっと「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているか分らずにいるのです。」と言う言葉がずっと心に沸いていたよ」と言うのです。びっくりしました。なぜ洗礼受けたのに神様守ってくださらなかったの、と言ってもおかしくないのに。恐ろしくも痛くもあったでしょうに。神様がこの子の心を守ってくださったことを本当に感謝いたしました。この少年は、洗礼を受けて神様からのプレゼントである聖霊をいただきました。聖霊はこのように幼い少年にもキリストの心をお与えになるのです。そこには、これまで自分がしっかりしなければならない、自分がやらなければならないという考えから、神が導いてくださる神がなさせてくださるというスタンスに移されたのです。自分中心の生き方から神中心の生き方に変えられたのです。

聖霊は分かれ分かれを一つにする:

もう一つの聖霊の働きは、バラバラになった人の思いと心を回復して、一致を与えてくださることです。ノアの洪水の後、ノアの子孫は一つの国民、一つの言葉を語っていました。しかし、彼らが、一致して高慢になり、神の位に自分の名を挙げようとたくらんで、天に届く塔を建て始めました。神は一致して高慢になり、自らの思いを悪に傾けていく人間社会をご覧になりました。悪に急速に走っていく人間を押しとどめようと、彼らの言葉を混乱させました。それ以来、神を離れた人間の思いと意思は不統一、不一致、混乱へと進みます。世界には多くの国々がありますが、一つになることができません。人の言葉は幾多もありますが、福音の言葉は一つであることを示しています。すべての国語、国民に通じる神の大いなるみわざを語る方は一つです。また、すべての人を救いに導くに神のみわざは、キリストによる以外にないと明言しています。当時、このエルサレムには世界の国民を代表する人々が集められていました。一つの神のことばをめいめいが自分の国の言葉で聞いたのです。これは福音の世界宣教の序章と言えます。それは、キリストによる救いの福音です。聖霊が分裂して分かれ分かれになった人々の魂を一つにするのです。すべての人にとって必要な救いの御手が神から届いたのです。それは、罪と死と悪魔からの救いです。現在、この神の救いの福音は全世界に届けられようとしています。イエス様が復活して、天に昇っていく前に、この福音はあらゆる国民、国語の民に届けられてそのあとに終わりが来ます、と言いました。現在、何度もお話ししましたが、全世界に届けられつつあります。キリストの再臨が誓いと言えます。かつて、バベルの塔を建て天に届こうと高慢になった人間の力や知恵を滅ぼして、神の主権と神のご意志によって、神は一つの民、一つの国民として全世界を集めようとなさっています。それは、神を中心に据える人々を用いてこの救いをその家族知人と周りの人々に届けようとなさっておられるのです。

もう一人の助け主

2018年04月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書14章16~27節
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」
14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
14:25 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

<要約>

同居してくださる聖霊:

もう一人の助け主はパラクレイトスと言い、代弁者、弁護人とも訳されます。その助け主は聖霊のことで、真の神、三位一体の第三位格の神です。しかし、このお方はこの世の人々には全く知られることなく、また、この世の人には知られることのない仕方でイエスご自身の務めをしておられます。聖霊は世の人々にはご自身を隠されているともいえます。神は、信仰を通して近づいてくださいます。信仰がなければ神に喜ばれないとある通り信仰がなければ神もわかりませんし、キリストも聖霊もわかりません。人は信仰を通して聖霊を見ることができます。信じなければ聖霊の存在もわからないし、感じることもできません。聖霊は、非常に謙遜な方です。イエス様の影にお隠れになって働かれています。しかし、その働きは甚大です。現在は聖霊の時代ともいえます。聖霊は、ペンテコステの聖霊降臨のとき以来、信じる人を通して働かれ、教会を生み育てられています。全世界に教会が打ち立てられて、広がり続けています。その聖霊が「あなた方とともに住みあなた方のうちにおられる」とあります。これは、同居してくださるということです。しかも、あなたの家に、お住みになっているにもかかわらず、あなたの家の一番良い部屋を要求したり奉られたりすることを要求しません。代わりにあなたの家の最も隅っこに住んでいてくださいます。あなたがそのお方をあなたの家の一番良い部屋にお招きするか、または、台所の物入れの中に住まわせるかはあなた次第です。もし、あなたがそのお方をあなたの家の中心におらせるならばあなたは無限の祝福にあずかることができます。イエス様の愛は、「あなたが捨ててもあなたを捨てない」「あなたのためにいのちを捨てる」神の愛です。あなたは、これまで、神をないがしろにして、ある意味では神を無視するような生活をしてきたかもしれません。しかし、神はあなたを捨てません。それが神の愛です。ですから私たちは、その神の愛に応えて、ますます神を愛そうではありませんか。世の中の人々はイエス様を肉眼でも霊の目をもっても見なくなりますが、あなた方クリスチャンは霊の目でイエス様を見るというのです。そして、イエス様は生きておられ、信じる者たちもイエス様の復活のいのちが与えられているので生き続けるのです。ここにおられる皆さんも、霊の目でイエス様を見ています。皆さんは聖霊を信じています。聖霊はあなたとともに住みあなたと共に生活してくださっています。そして、聖霊はキリストのいのちをあなたに注ぎ続けておられます。

神と人を愛で結ぶ聖霊:

聖霊が天から来られる時には、「わたしが父におり、あなた方がわたしにおり、わたしがあなた方におる」ようになるというのです。すなわち、神とキリスト、キリストと信者は聖霊によって完全に結ばれるというのです。愛に根差した霊的一致です。私たちは神の中に生きており、そして、私たちの中にキリストが生きているのです。金魚は水槽の中でしか生きることはできないでしょう。私たち信者も実は神の中で生きています。否すべての人は神の中に生きているのです。世の人々はただそれを認めないか気付かないだけです。金魚は水がなければ生きていけないのと同様に、人も神の存在なくして生きることはできないのです。そして、神であるイエス様は私たち信者のうちに入っていてくださるというのです。私たち日本人は漬物を食べます。麹漬けでも糠味噌漬けでも、野菜をつけておくとつけ汁のうまみが野菜にしみこんで大変おいしくなります。同じように、私たち信者も神の中にどっぷりつかって、キリストがしみ込んできて、キリストの香りを放ち、味の良い人に変えられるのです。クリスチャンは神の漬物のように神にも隣人にも味わい深いものとされるのです。神を愛するというのは、神の戒めを守ることです。すなわち、みことばを守ることです。聖霊は、みことばと共に働きます。みことばを神のことばとして信じて守る人には聖霊がそば近くにおられるのがわかります。また、「わたしを愛する人はわたしの父に愛され」とあるように、イエス様を愛し、みことばを守る人は自分が神に愛されていることが分かるのです。みことばに親しむ人になりましょう。みことばに従うことが神への愛です。神を愛するというのは、隣人を愛することで表われます。裏切って出ていったイスカリオテのユダとは別のユダが、「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」と質問します。ユダはなおも、キリストと呼ばれるメシヤは、イスラエルに現われて、不信仰な者たちを裁かれる方であると思い込んでいました。ですから、イエス様が少人数の者たちにしかご自身を表さないことを不思議に思っていたようです。イエス様はユダの質問にそのまま答えることはせずに、神の国は、彼らが思っているようなものではないことを示されました。神の国は、神と神のことばを信じ守るもののところに来ます。そこに、三位一体の神が来られてともに住んでくださるのです。「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と書いているとおりです。注意して読んでいただきたいのは、「わたしたちは」と言って、複数形で書いていることです。すなわち、父と子と聖霊があなたと同居しあなたのうちに住まわれるというのです。しかも、それはイエス様だけでなく、父もそして聖霊も神の全存在をかけてあなたを愛し祝福するというのです。これは想像しただけでも身震いが出るほど素晴らしい慰めではないでしょうか。こんな素晴らしい神に愛されているのですから、わたしたちも真剣に神を愛しましょう。

キリストにある平安を与える聖霊:

聖霊はイエス様の地上での行動や言葉を弟子たちに思い起こさせるとあります。今も聖霊はキリストを指し示しておられます。キリストによって神が人類にもたらしてくださったこの救いのみわざは十字架と復活によって完成しました。それは、キリストによりあなたを罪と死と悪魔から救ってくださったことです。もはやあなたの罪は裁かれることなく赦され永遠のいのちが与えられています。死はもはや力を失いました。信じる者には復活のいのちがあります。この福音は全人類に与えられたものです。しかし、イエス様の昇天と聖霊降臨の後、約二十年間は、この救いはユダヤ民族にのみに与えられた福音と彼らは思っていたようです。現に弟子たちも最初はユダヤ人にしか伝道しなかったのです。しかし、ユダヤ人の迫害によりエルサレムを離れていったクリスチャンたちが異邦人にも伝えるようになりました。聖霊は異邦人にも働いて、信仰を得させてお救いになりました。すなわち、聖霊はかたくなな人の目を開いて福音を全人類に及ぼしました。そして、聖書は旧約聖書を通しても、福音はユダヤ民族だけにではなく全人類にあてられたものであることを示しています。そして、現代も聖霊は聖書の言葉を用いて語り続けておられます。時代も環境も違いますが、聖霊はどの時代の人にもどの国の人にも救いを得させる神の力なのです。最後に、イエス様は、弟子たちと決別するのに、別れの形見として、彼らに「平安」を残しました。それは世が与えるのとは違う平安です。この世の平安は、家内安全無病息災というものです。キリストの与える平安はどこが違うのでしょうか。キリストが与える平安は、第一に、神に対する良心の平安です。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」キリストにより心には、神の前で恥じることのない心、良心の平和を持っています。つぎに、罪による審判をまぬがれて、永遠の平安を持っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」キリストを信じる信仰により罪赦されて永遠の平和に置かされているのです。つぎに、神とキリストの愛による平安です。「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。―――私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」キリストの愛からあなたを引き離せるものは何もないのです。キリストの愛のうちに留まれば、どんなことからも守られて平安を持てるのです。それが神の約束で最も確かなことなのです。

神の国の建設と完成

2018年04月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き1章1〜11節
1:1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、 1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。 1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。 1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。 1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

<要約

神の国の土台:

イエス様は40日間弟子たちに現われて、神の国のことを語られたとあります。ですから復活のイエス様の教えは神の国です。神の国は何かというと、イエス・キリストを王として信者を国民とする国です。この世の国の王は人々を支配して権力をふるいます。すなわち、力によって国を治めます。つまり強い方がよいでしょう。強いアメリカ、アメリカファーストという言葉は力を国の土台に据えているところからきます。アメリカや中国やロシアなどの大国は軍事力、経済力を求めています。それは、力を土台としているからです。しかし、キリストの王国は、キリスト自らの苦しみから発しています。イエス様が苦しみを受けた、その苦しみは十字架を指します。神は、キリストの苦難の十字架を土台として、国を建てられました。神が苦難を受けた動機は、人への愛です。神はそのひとり子キリストをあなたにお与えになったほどにあなたを愛された、とある通りです。また、キリストの十字架は何のためでしょうか。そうです、赦すための十字架です。目的は人の、あなたの罪を赦すためです。ですから、神の国は、愛と赦しを土台として築かれているということです。神の国の土台は、愛と赦しであり、その表れが、十字架と復活です。それは信仰の土台でもあります。そして、神の国の推進力となるのは、一致した熱心な祈りです。これは教会の祈りともいえます。クリスチャンの皆さんは、イエス様の十字架を信じています。そして、復活を信じています。十字架は神の愛と赦しです。復活は永遠のいのち、永遠の祝福です。ですから、クリスチャンになるということは、神の愛と赦しを受け取って、神のいのちにつながり、永遠の祝福に生きることです。これはしぼむことのない希望です。神の国の王は復活のイエス・キリストです。その国民は、クリスチャンです。どの国でもそのトップによって国民は大分違います。トップが良いと国民は幸せです。トップが悪いと国民は悲惨です。キリストを王とする神の国の国民、すなわちクリスチャンは世界で最も幸福な国民と言えます。

神の国の拡大:

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」弟子たちはイエス様の復活の証人として宣教しました。そして弟子が弟子を生みました。その時から二千年の歳月が過ぎています。イエス様を信じバプテスマを受け、聖霊を受けたクリスチャンは全世界に広がり続けています。なぜなら今も世界中の人々に神のメッセージを語り継がれているからです。みことばは必ず成就します。福音によって、今も、多くの人々が死から命に移され、絶望がしぼむことのない希望に、苦しみが感謝に、悲しみが喜びに変えられています。これこそまさに福音の力なのです。聖霊は聖書のみことばを通してお語りになります。十字架も復活も歴史的事実です。そして、神がたてられた人類救済のご計画は、現在進行形で進んでいます。それは歴史を支配し、天と地のすべての権威を握っておられる方、イエス・キリストが導いておられます。聖霊が臨まれるとき力を受けます。イエス様が去って行った後に、天より聖霊が臨みます。それはペンテコステに起こった神の技です。聖霊は霊ですから目に見えません。でも、聖霊はその働きとしてみることができます。風は見えないけれども、木の枝が揺れることにより、風があるのがわかるというのです。同様に、聖霊は見えませんが、聖霊によってイエス様を信じて新しく生まれた人を見ると聖霊がいるのがわかるのです。ですから、聖霊はその働きによって知ることができます。まず、聖霊は力を与えるというのです。その力とは何でしょうか。「イエス様の証人」となる力です。それは福音を理解する力、そしてキリストの心を知る力です。聖霊の力は理解力ともいえます。神のみ心を知る力、聖書のみことばを理解する力、福音がなんであるかを知る力です。また、迫害に耐える力、困難に耐えて希望を持ち続ける力です。また、聖霊の力は、敵をも愛する十字架の力です。イエス様は十字架の上で敵を赦しました。さらに、聖霊の力は殉教をも恐れない力です。そのように聖霊が皆さん一人一人に臨まれた結果は、何でしょうか。それは、皆さんがイエス・キリストの十字架と復活の証人として生きることです。具体的には、皆さんがイエス様の心をいただき隣人に対して、小さなキリストとなるのです。

神の国の完成:

イエス様は弟子たちのみている前で上に挙げられました。雲に包まれて見えなくなりました。その時、白い衣をまとった二人の天使が彼らのそばに立っているのに気づき、視線を天から地上に落としました。天使たちは、言いました。「天に昇って行かれるのをあなた方が見た時と同じ有様で、また、おいでになります。」と。これは、再臨の約束です。イエス様は今、神の右に座しておられます。これは、天においても地においてもすべての権威を握っておられるということです。世界は一つの方向に向かって進んでいます。この世界の歴史の方向には、はっきりした、神のご意志と計画があります。その実現と完成がこの地上で明らかにされるのが、再臨の時です。聖霊によって教会が生まれ、教会は全世界に及んでいます。教会には、真のいのちを持つ人々が集まっています。教会の歩みのゴールはキリストの再臨です。再臨の時には、キリストは世を裁くために来られるといいましたが、キリストは公平な審判者としてこられます。キリストはすべての人の全生涯をさばきます。それは、行いばかりでなく、心のはかりごとまで全てを含みます。どんな罪にも神は怒りを持ってお応えになります。でも、ご安心ください。神は、世を愛し、あなたが滅びてしまうのを惜しまれ、罪を取り除くために一人の御子キリストをお与えくださいました。そして、罪のないキリストをあなたの身代わりとして十字架につけ断罪しました。それゆえ、もしあなたが信じるなら、御子の十字架のあがないによりあなたのすべての罪は赦されて、神のいのちが与えられます。神は、キリストにより、救いの道を完成されました。そして、その救いを全世界のすべての人々に伝えるために聖霊をお送りになりました。イエスの十字架と復活の証人である私たちを用いて全世界に宣教なさいます。教会はそのために建てられたのです。再臨は、信じる者にはこの上もない祝福と喜びなのです。

悲しみは喜びに嘆きは感謝に

2018年04月 08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書24章13~35節
ルカ 24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」 24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。 24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、 24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。 24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

<要約

目がさえぎられている人間

クレオパ夫妻は一切の出来事について話し合ったり論じ合ったりしていました。この「いっさいの出来事」は、空の墓や、御使いの話を指していると思います。彼らは、この出来事について、みことばを聞くというより、人間の考えに終始しており、解決を見ない議論をしていました。失望と落胆のただなかにいましたが、神に伺おうとしなかったのです。私たちが困難苦難にある時、神は「わたしを求めなさい」と招いておられます。私たちは、それにもかかわらず、神に祈りたずねることもなく、人間の考えに終始していないでしょうか。私たちの人生の歩みの中では、必ず、様々な困難、試練、そしてその時点で理解できないことが起こります。その時には、必ずすぐに、その問題を主に持っていくことです。具体的には、みことばに求めること、祈りに導かれることです。そこに復活なさったイエス様が近づいて彼らに尋ねられました。「何のことを話しているのですか?」二人は立ち止まって「暗い顔つき」あるいは「悲しい顔」になったとあります。これが彼らの心境です。クレオパ夫妻は、夫婦でイエス様に自分たちのすべてを賭けて付いてきた夫妻であると想像します。非常に大きな期待を持っていたでしょう。ですから、落胆と失望も大きかったと思います。イエス様こそイスラエルを贖ってくださる解放者、救い主であると望みを抱いていました。ローマの圧制から神の民を解放する方として期待を掛けていたのです。ところが、ユダヤの指導者たちが十字架に架けて殺してしまった。それは、他の弟子たちにとっても大きな落胆と失望でありました。イエス様が生前に何回も「人の子は苦しみを受けて祭司長や律法学者たちによって殺されて、やがて復活する」というお話をしていたにもかかわらず、さっぱりそのことが頭に入っていませんでした。望みをかけていたのに死んでしまって、失望していました。失望落胆があまりにも大きくて霊の目がさえぎられていたので私たちは失望落胆により、近くにおられる神が見えなくなっているということが多いのです。前後左右から困難が押し寄せて、もうお手上げだと思ったことはありませんか。私たちは、がっかりして、教会へ行くこともできなくなった、ということがないように、主を見上げて主の下へ行きましょう。イエス・キリストは歴史的人物であるとともに十字架で死に復活したという事実も世界中で認められているのです。しかし、キリストの救いの意味を理解して信仰にいたる人々は少ないのです。これは私たちの持っている深い罪からきます。ルーテル教会が共通に持っている和協信条によると、以下のように書かれています。「地上におけるもっとも有能な教養ある人々ですら、神の子の福音と永遠の救いの約束を読むとか、聞くとかする時に、自分の力でそれを認め理解し、会得し、信じ、真理であると考えることができない。これらの霊的な事柄を理性によって理解するために、より勤勉になり、より熱心になればなるほど、理解し、信じることができなくなる。聖霊によって照らされ、教えられるまでは、これらすべてを単なる愚かな話と考えるのである。」人間は理性や人間の知恵では復活のイエス様を信じることができない。いくら説得しても歴史的事実として説明しても人間のうちには信じる心が無いのです。それは人間の持つ深い罪によるのです。

心の目を開かせてくださる神

このような私たちに復活のイエス様が近づいてくださいます。私たちが希望を失い、落胆しているときにこそ、神は私たちの近くにおられると聖書は教えています。試練や苦しみの中にあるとき、神様が遠くにおられるように感じている時にこそ神はあなたと共にいてあなたを支えておられます。これはイエス様の一方的なあわれみです。暗く沈みこんでいる時にこそ近づいてくださる。聖霊様の働きなのです。神様の一方的な哀れみによって私たちは信じる信仰を与えられるのです。二千年も前にイエス様が私の罪を取り除いてくださった。こんな信じられないことを信じることができたのは御霊のわざなのです。自分で信じたと思っているのは誤りです。イエス様、聖霊様があなたに語り掛け、みことばを与えそして救いを理解する力を与えてくださったのです。あなたが、イエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んで救ってくださったのです。ですから選ばれた私たちはますます謙遜になるのです。試練のときこそ、主が共にいてくださることを覚えたいと思います。試練の時には私たちの心は内側に向いて自分の苦しみの中に埋没しています。そのようなときにこそキリストを見上げたいと思います。彼らの目的の村に近づき、家の手前まで来ましたが、いまだ自分たちと同行している方がどなたであるか、そしてどこへ行かれようとしているのかもわからなかったので、彼らは一緒にお泊りくださいと強く願ったのです。聖書には無理に願った、とあります。きっと、みことばをもっと続けて聞きたかったのだと思います。イエス様を求める気持ち、みことばをもっと聞きたいという気持ちが、復活のイエス様を見出すきっかけとなったのです。イエス様は一緒に泊まるために中に入られました。彼らが食事を用意して、席に着きました。そうしたら、お客であるイエス様がパンをとって、天を見上げて祝福の祈りをして、パンを裂いて彼らに渡されたのです。その素振りからイエス様であることが分かったのです。彼らの目が開かれたのです。その瞬間、イエス様は彼らの目には見えなくなったのです。肉体の目で見なくても、心の目が開かれたので、イエス様が見えたのです。私たちも肉体の目ではイエス様を見ないのですが、心の目、霊の目でしっかりイエス様を見ています。よく、見たら信じるという人がいますが、人は見ても信じないものです。しかし、心の目で見て信じた人は見なくても信じることができるのです。

悲しみや困難を通して恵みが来る:

二人は、メシヤはイスラエルを大国の支配から解放する使命を持ってこられると信じ期待していました。そして、その方が来られたと信じました。それは、神の栄光を受ける救い主でした。しかし、聖書は、メシヤの使命の暗い側面を予言しています。それは、だれもが認めたくない、受難です。栄光はそのあとに続くものでした。それが、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」キリストの受難は、十字架です。受難は預言に記されており、それは必ず受けなければならないものでした。キリストは苦しみを受けなければならなかった。しかしそれは終わりではなかった。キリストは栄光に入るはずであった。神は打ち負かされてはいない。キリストの受難を通して神は勝利された。キリストに続く私たち信者にも、この原則は当てはまります。人生には悲しみ、困難、苦難はつきものです。しかし、私たちの罪を背負って代わりに十字架で死んでくださったキリストにより、悲しみは喜びに、嘆きは感謝に変えられます。そして、最終的には、復活のいのちをいただき、主の栄光にあずかれるのです。苦難や、困難、悲しみに会う時は、そのあとに、神の栄光があらわされるときが「必ず」来ます。何という幸いな人生、喜びと感謝の人生でしょうか。

復活への期待

2018年04月 01日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書24章1~12節
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
24:10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
24:12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕
<要約>

死の三つの段階:

議員のヨセフは新しく作った自分の墓を提供してピラトに下げわたしを願いご遺体を急いで墓に運びました。また、以前夜イエス様を訪問したユダヤ人の指導者ニコデモもアロエと没薬を30キロ準備してやってきました。そして、二人はご遺体を亜麻布で包み墓に納め、大きな石で墓の入り口をふさぎました。十字架の下にいた女たちは、安息日が明けるまでに香料と香油を用意しました。そして、金曜日から数えて三日目の日曜日の早朝に、習わしに従って、ご遺体に香料と香油を塗るために日曜日の朝に墓にやって来ました。これは、故人を悼み、悲しむ思いからのものです。また、故人に対する尊敬と敬意を表す行為ということもできます。また、それらの行為はその人々には故人との別離の儀式となっていると言えます。人々は、死者はこの世を離れて、戻ることはないと考えています。ですから、死者を墓に弔い、折々に墓参りをするのです。それは、墓を死者と生きている者たちとの接点と考えているからです。そして、死者を祭るのが宗教の役目と多くの人は考えています。聖書では、死には三つ段階があります。第一は生きていても死んでいる状態です。霊的死です。私たちの霊は神と結びついて神のいのちにつながって生きる者とされています。霊的死は、神から離れていのちを失っている状態です。本来の生を生きていないことです。第二の死は、一般的な死です。地上的死とも言います。誰もが迎える身体の生命活動の停止です。人は、肉体のいのちが終わった後、魂または霊は一旦肉体と分離します。そして、世の終わりに再び結合して、永遠のいのちに定められるものと永遠の滅びに定められるものとに分けられます。第三の死は、永遠の滅びに落とされることです。これを永遠の死とも言います。聖書は人間の魂あるいは霊は不滅であると述べています。人の魂あるいは霊は死により肉体から分離した状態にあるということです。そして、キリストの十字架を信じて復活の希望に生きる人は、復活の時が来ると完全な体によみがえります。聖書によると、人の霊魂は不滅であり、信仰により罪赦された者は、神のいのちとつながり、死後復活により不滅の身体をもらいます。永遠を天国で過ごすのです。

勝利し復活したイエスに望みを置く:

女たちは、日曜日の早朝、墓についてみるともうすでに、石が墓からわきに転がしてあったのです。そこで、途方に暮れたとあります。誰かが主のご遺体を盗んでいったと思ったようです。復活されたとは、少しも思わなかったようです。そこに、まばゆいばかりの衣を着た天使が現れました。彼女らは恐ろしくて、顔を伏せたとあります。「あなたがたは、なぜ、生きている方を死人の中で探すのですか。ここにはおられません。蘇られたのです」と天使が語ります。女たちも弟子たちも、この時点では生きていた時のイエス様しか知らなかったでしょう。一緒に語り、一緒に食事をし、一緒に旅をした人間としてのイエス様です。そして、死んだラザロを生き返らせることのできる神の力を帯びた救い主です。その今は死んで死体となったイエス様を探していたのです。イスラエルを救う方と期待されていたイエス様は残念ながら、死んでしまったと思っていたでしょう。もし、死んでしまったイエス様を信じ御頼りしてもそれはむなしいことです。死んだままのイエス様には救いはなく、なおまだ、女たちも弟子たちも、そして信者であるわたしたちも罪の中で滅びる者たちなのです。ここで現れた天使たちは神の勝利のメッセージを携え持ってきました。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」「死人の内にはいません。生きておられるからです。」と宣言しています。サタンは救い主を亡き者にしようとして、当時の宗教指導者たちを用いて、ユダを用いて、イエス様をこの世から抹殺することに成功したでしょう。サタンは最初の人アダムを誘惑して落としました。最後のアダムと言われるイエス様も抹殺しました。これで、サタンは神に勝利したと思ったでしょう。しかし、神はそのキリストを復活させたのです。そこで大逆転が起きました。罪の結果としての死はすべての人に及んでいます。すべての人は肉体の死ばかりではありません。死後、その魂はゲヘナに投げ込まれると聖書は言います。その様に人間には死と滅びが定められています。しかし、ここに大逆転が起こりました。キリストは初穂として死人の内からよみがえったのです。イエス様を信じる者は肉体の死にあうがそれは大きな力を及ぼすことはなく、復活のいのちに生きることができるのです。イエス様はその復活によって、人類最後の敵である死を滅ぼされたので、信じる者には死に勝つ力をお与えになるのです。

素晴らしい期待で今を生きる:

復活がなければ、私たちは、この世の人生をベースに人生設計をします。80年90年でしょう。その間に何をするか、何ができるか、考えるでしょう。幸いな人生を歩みたいと思うかもしれません。でも、復活のいのちをいただいて、永遠をベースとして人生設計をするなら、目標は違ってきます。命の源であり全能の神を、愛し恐れて信頼していく人生を選び取ります。女たちは、天使のみ告げを聞いて、墓から戻って、十一人の弟子たちに報告しました。ところが使徒たちはこの話がたわごとであるとして信じなかったのです。しかし、ペテロは立ち上がって走って墓に行き、墓の中に入って、亜麻布だけがあったのを確認して、「見て、信じた」と書いています。女たちが言ったようにイエス様が墓にいないということは確かなことと納得しました。しかし、復活のイエス様に会うまで、復活という事実を完全には理解できていなかったのです。私たちも、イエス様を信じています。しかし、まだ、顔と顔を合わせて復活のイエス様とお会いしはいません。ですから、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていると言えます。イエス様は復活の初穂としてよみがえり、復活の身体のまま天のみ国に昇っていかれました。その後、これまでに、無数の人々が十字架の罪の赦しを信じて、復活の信仰をいただいて、眠りについています。やがて、世の終わりにラッパの音とともにキリストの復活にあずかります。その時には、顔と顔を合わせてキリストを見るようになります。私が神に完全に知られているように、私も神を完全に知るようになるのです。何と素晴しい約束でしょうか。ペテロは空の墓を見て、驚いて家に帰ったと書いています。帰り道、彼の心には、何か素晴らしいことが起こるという予感で満たされていたのではと想像します。主は本当に復活なされたのか。生きておられるのか。では、もうすぐ顔と顔を合わせてお会いできるのか。どこにおられるのか、早くお会いしたいものだ。ペテロの心は、自分の前にはこれから素晴らしいことが起こるという期待で、熱くなっていたと考えます。私たち信者も、やがて復活の主に顔と顔を合わせてお会いするのです。私たちのこの世の人生は短いです。しかし、やがて復活の主にお会いする時が必ず来ます。信じる者に約束されていることです。ですから、帰り道、心が期待で熱くなっていたペテロのように、あなたも、あなたの人生に素晴らしい期待をもって熱く生きるのです。

十字架への応答

2018年03月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書23章33~53節
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
23:50 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。
23:51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
23:52 この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
23:53 それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。
<要約>

十字架はあなたへの罪の赦し:

イエス様は、十字架上で「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と言って、人々をおゆるしになりました。このことばは誰に投げかけられているのでしょうか。実際にくぎでイエス様の体を木に打ち付けた兵士に、でしょうか。からかって悪口を言っていた周囲にいた人々に、でしょうか。裁判で十字架刑にした祭司長など宗教指導者たちに、でしょうか。彼らは直接かかわった人々かもしれませんが、彼らだけに投げかけられた言葉ではありません。聖書は、誰に向けて書かれているのでしょうか。そうです。「あなた方に」あるいは「あなたに」です。ですから、聖書を、神があなたにあてた手紙として受け取るなら、無実の神の子キリストを十字架につけたのは「あなた」なのです。同時に、イエス様は「あなたの罪をおゆるしくださいと、父に祈ったのです。今も、キリストの十字架で祈られた祈りは有効です。もし、あなたが、キリストの十字架があなたに関係あることと認めてキリストがあなたのために十字架で刑罰を受けたと信じるならあなたは救われます。キリストの十字架は無条件の赦しです。キリストの十字架上のこの祈りは今も生きています。十字架は全人類の罪を罪のない神のひとり子が身代わりとなってお引き受けになり、極刑のうちに裁きを受けられたことです。キリストの祈りを父がお聞きにならないことはありません。ですから、その時から、すべての人の罪は赦されているのです。もちろんここにおられる皆さんの罪も赦されています。このように十字架の罪の赦しは全人類に及んでいます。すべての人の罪は赦されていると言いましたが、その赦しを自分に物とするかどうかは個人個人にかかっています。あなたは、神が無条件で提供してくださる救いを信じていただくだけでよいのです。

十字架への二通りの反応:

著者ルカは、イエス様の赦しの祈りを聞いた人々の反応を順番に記述しています。前半はネガティブな反応をした人々、後半はポジティブな反応をした人々です。最初の方の人々は、イエス様の罪の赦しの言葉が、耳に入らなかったか、全く関係ないと思ったか、非常にネガティブな応答でした。指導者たちはあざ笑っていった、とあります。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と。兵士たちもあざけりました。また、十字架に一緒につけられた犯罪人の一人も、イエス様をののしって、「お前がメシアなら俺たちも自分も救ってみろ」と言いました。キリストの無条件で驚くべき福音に対する応答は、残念ながらこれらの人々のように自分には関係ない、意味のないものと受け止められました。神の赦しは先行する罪の赦しです。それを受け止めるか、受け止めないか、自分のものとするか、しないかはすべてその人にかかっています。次に、ポジティブに応答した人々のことが書かれています。もう一人の犯罪人は、十字架上でのイエス様のお姿を見て、そして、お言葉を聞いて自分が赦されなければならない罪人であることがわかったのです。彼は神を恐れて、心から悔い改めました。そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とイエス様に向かって、信仰告白したのです。御国の王としておいでになるときは「わたしを思い出してください」。へりくだった謙遜な言葉ではないでしょうか。自分のこれまで行ってきた悪事を思い出して、自分を天国に迎えてくださいとはとてもいえない、ただ、「思い出していただくだけでうれしいです」ということです。イエス様は彼の信仰をご覧になりました。そして、イエス様は彼に言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様は彼の信仰を義としてくださいました。彼の過去は、取り返しのつかないものでした。極悪人として取り扱われています。それは当然の報いということです。しかし、イエス様は彼の過去のことは何も触れずに、その罪を裁くことはなさらずに、ただ、あなたは今日、パラダイスにいます、と宣言しました。これがキリストの驚くべき福音です。福音の神髄が描かれています。無条件の罪の赦しです。誤解していただきたくないのは、「蒔いた種は刈り取らなければならない」ということです。神は、人の世界を律法、法律で統治しておられます。そこでは、犯罪者は処罰されます。世の中には、警察があり、為政者がいます。そのことにより秩序立てられています。ですから、蒔いた種は刈り取らなければならないのです。ダビデも豊かに罪赦された人ですが、王権を利用してバテシェバ事件を起こしました。罪の種を蒔いてしまったのです。後になって、自分の子どもから命を狙われる羽目になったのです。それは罪の刈り取りです。神は、あなたが神に対して犯した、天に対して犯した積もり積もった罪を帳消しにしてくださったのです。しかし、その罪の赦しを自分のものとするには、十字架の赦しを信じて受け取らなければなりません。この強盗は、キリストを信じて仰いで罪赦されて天のみ国へと招かれました。行いによるのではありません。ですから死の間際に救いを受け取ったのです。次に、イエス様の十字架とその赦しの言葉を聞いてポジティブに反応したのは百人隊長です。すべてを見ていた百人隊長は、神を褒め称えて、「本当に、この人は正しい方であった」と言いました。もう一人は、アリマタヤのヨセフという議員です。彼は、正しい人で、他の議員たちの計画や行動には同意しなかったのです。このように、イエス様の十字架とイエス様の赦しの祈りを聞いた人々の応答には、二通りありました。それは、それを自分のことと思わないで、耳を背けた人々と、罪の赦しの祈りを聞いて、自らを省みて、悔い改めてイエス・キリストの罪の赦しと救いを自分のものとした人々です。このように、人間は二通りに分かれるともいえます。あなたはどちらでしょうか?

天国へ至る道はキリストの十字架のみ:

正午から全地が暗くなり、午後3時ころまで続いたとあります。これは、全人類の罪に対する神の怒りの裁きが十字架のうえにくだったことを表しています。また、その暗闇は、私は父の神の深い悲しみであったと思います。太陽は光を失い、全地が暗くなりました。そして、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。それは何を意味しているのでしょうか。神殿の中心には至聖所という小部屋があります。そこは、垂れ幕によって聖所から隔てられています。神の臨在の中心で天そのものです。至聖所は神が臨在しておられる天のみ国のひな型であると言えます。至聖所には大祭司が年一回、自分自身と民の罪を贖うために動物の血を携えて中に入ることが赦されていました。真っ二つに裂けた垂れ幕はイエス様の裂かれた身体を表し、そのイエス様の十字架により新しい道が開かれたのです。これにより、今まで、大祭司が年一回動物の血を携えて至聖所に入り民の罪の贖いをしていたことが終わりを告げたのです。それは、キリストが神の子羊となって、全人類の贖いの代価としてご自身の血を携えてはいられたからです。神殿は影であって、本体は復活のキリストであります。傷のない動物の犠牲による罪の赦しは、罪のないキリストの十字架によるただ一回の犠牲によって完成しました。真っ二つに裂けた神殿の幕は十字架で裂けたキリストの体を示しています。このように、旧約は来たるべき救い主キリストを語り、時至って、今来られた救い主キリストを告げる新約の時代に入ったのです。聖書は矛盾にない神の人類救済の書です。十字架のことばは、今日もあなたに迫っています。私たちが天国へ至る道はキリストの十字架以外にありません。今日、イエス様は、父にあなたの罪の赦しを懇願し執り成しておられます。私たちはイエス様により大胆に神のみ座に近づくことができます。天国の門は信じる者に開かれています。是非、この救いをご自分のものとしていただきたいと思います。また、家族知人に福音を伝えましょう。

ゲッセマネの祈り

2018年03月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~52節
26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。
26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

<要約>

オープンな心で分かち合い祈る:

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、一緒に目を覚ましていなさい」と。その悲しみと苦悶はどこからくるのでしょうか。それは、罪を知らないキリストが「わたしたちの代わりに罪とされ」神の怒りを一手に受けなければならないこと。そして、私たちの代わりに神に呪われたものとなり、死に定められ、死刑を執行されるということからです。イエス様は、神でありまったく聖い存在です。それが、罪びととさせられるというのは、自己矛盾ともいえます。正義を定められた神が、ご自身を不義とするのは矛盾です。神は義によって罪を裁いて、人を滅びに定めます。しかし、人を愛して何とか滅びから救いたいのです。その相反することに筋を通したのが十字架です。そのことために、神が人となってこられたのです。キリストは処女が聖霊によって身ごもり生まれた神の子です。半分人間、半分神というのではありません。完全な人であり完全な神です。ゆえに、キリストは生涯一度も罪を犯したことがなく、まったく罪のない人でした。キリストは子なる神として、その使命を父なる神から託されました。それは人の罪を取り除くことです。その方法は、全人類の身代わりとなって神の怒りを受けることによってです。それがキリストの十字架です。イエス様の死に至る悲しみ、悩み、苦しみは誰も共有することができない性質のものでした。私たち人間にはいくら考えても理解できないでしょう。しかし、イエス様は「ここを離れないで一緒に目を覚ましていなさい」と言われました。それは、今、イエス様ご自身が受けようとしている苦難のために悲しみ、憂い、悩み、苦しみを少しでも弟子たちと分かち合いたいと願ってのことだと思います。私たちも様々な苦難にある時、ともに祈り、苦しみを共有してもらうことは大きな慰めであり励ましであります。友が一緒に苦しんで悲しんでもらう時、悲しみは半減します。逆に、友が喜びを一緒に喜んでくれると喜びが倍増します。それは、「喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しみなさい」という聖書の言葉が語っているとおりです。もとはと言えば、創造されたとき人間は、憎みあう存在ではなく、愛しあい、慰めあい、喜びあう存在でした。しかし、罪のために、多くの人間関係で、妬み、嫉み、憎しみ会うようになっています。傷つけあうような関係が多く発生しています。個人的にも民族的にも国家的にもそうです。お互いがお互いを傷つけるのです。イエス様は少し進んで、ひとりになられました。そこからは、父と一対一の対話になります。「できますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください」この杯は神の怒りの盃で十字架を示します。イエス様は私たちと同じひとりの人間として、その苦難を前にして、苦しみには会いたくないので、他に道はないのだろうか、と訴えています。それはつぶやきではなく、正直なイエス様の心であります。父に思いのすべてを打ち明けて、なおも、「わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」と。イエス様は父の御心をすでに知っていました。それは父への完全な服従です。イエス様は父に心を開いて、正直な自分の心をお伝えしました。ここにイエス様の父なる神に対する正直でオープンな祈りの姿勢を見ます。ここで、イエス様の弟子たちに対する、そして父なる神に対するオープンな心を学ぶことができます。閉じこもった堅い石の心でなく、開かれた血の通う肉の心です。神に対して、そして人に対してもオープンな生き方、それがクリスチャンライフです。

霊の目を開き祈り続ける:

イエス様は弟子たちのところに戻ってきて、彼らが眠っているのをご覧になられて、「たった一時間でも私と一緒に目を覚ましていることができないのか」と嘆かれました。イエス様の祈りが長引くにつけ、彼らは疲れて眠りこけてしまったのです。ここに人類がいかに心鈍く、恩知らずであるかがわかります。神が人を愛して、その罪から救うために苦しんでくださっているのに対して、人間は全く痛みも悲しみも抱くことなく平然としています。この弟子たちの姿はとりもなおさず、恩知らず情け知らずな私たち人間の姿です。人間は肉体を持った霊的存在です。霊は永遠ですが、肉体はやがて土にかえります。言うまでもなく、身体は疲れます。そして、睡眠が必要です。そして、受肉された神であるイエス様は、わたしたちと同じです。眠られ、空腹を覚えられました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」ゲッセマネの祈りは、これから弟子たちが遭遇する迫害の時代に祈る習慣を身に着けるための弟子訓練でもありました。クリスチャンの戦いは、霊的戦いです。そのことを覚えて、霊の目を覚まして絶えず祈りなさい、というのです。肉体があるがゆえに疲れが来るし、休息が必要となります。心と体の両方で安息が必要です。その為に神は安息日をもうけられました。私たち人間のために神が定めたものです。また、肉体があるゆえに、惑わしや誘惑があります。イエス様は「誘惑に陥らないように」と言われます。私たちクリスチャンは敵を知らなければなりません。クリスチャンの敵は三つあります。私たちを絶えず誘惑し、神から引き離そうとしている存在、それは、悪魔、サタンです。次に、この世です。世の本質は、不遜です。神がおられるのに神を認めません。ですから、サタンは世の君と言われ、この世を支配しています。そしてもう一つは、私の罪の性質です。神にも人にもオープンになれない。傷つくのが嫌だから自分は自分で生きる。神に従いたくない。安息日である主日にはみことばを聞くことより別のことをしたい。霊の人はそれらの声を聴き分けて御心を選ばなければなりません。「誘惑に陥らないように」するためにはどうすればよいのでしょうか。まず、三つの敵を知っておくことです。そして、霊の目を覚まして、絶えず祈ることです。それは、内に住んでおられる聖霊に耳を傾けること、そして、みことばに従うことです。

正義と愛で勝利する:

ペテロが、剣を抜いて大祭司のしもべマルコスの耳を切り落としました。イエス様は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と言われました。これも主の最後の弟子訓練と言えます。古来、剣で征服し権力を握った人は、剣によって倒されなかった例がないと言われています。真の正義は暴力を用いず、正義の力で勝つことです。真の勝利は、正義と愛による勝利です。武力は武力を生み、憎しみは憎しみを生みます。この悪循環は断ち切れないまま全人類を覆っています。平和は来ません。争いは争いを生むことを、歴史が証明しています。人々はそのことに気づいていますが、応報の連鎖を留めることができません。シリアでの政府軍と反政府軍の争い、イスラエルとアラブとの争い、アメリカと中国の経済戦争など。それは人の罪の性質によるものです。この後、ユダヤ人もローマも力によって、イエス様の弟子たちに弾圧を加える時代が始まります。イエス様は、そのことをご存じで「世は剣をもって迫害するが、あなた方は正義と愛によって対抗しなさい」メッセージを送っているようです。現代に生きるクリスチャンにとっては、かつてのような迫害はありません。わが国では、法で守られ、安全で自由な生活が保障されています。その様な状況の中で、多くの人々が人に関心を持たなくなり、孤立化の道を進んでいるように思えます。そして、信仰にも関心がなくなっています。この世の中を覆う暗雲に勝利するためには、クリスチャンの特権である、祈りの力が必要です。イエス様が勝利されたゲッセマネの祈りは、私たちクリスチャンひとりひとりの祈りでもあります。それには、オープンの心で祈る、霊の目を覚まして真剣に祈ることです。そして、正義と愛で勝利するのです。あなたには勝利の人生が約束されています。代わりにイエス様が戦って勝利してくださったからです。

最後の晩餐

2018年03月 11日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書26:17~29
26:17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
26:18 イエスは言われた。「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」
26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

<要約>

傷のない神の子としてくださる:

ここの記事にあるイエス様と弟子たちによる過越しの食事は、キリストによる独自の過越しの食事と言えます。これは新しいパンとぶどう酒による聖餐式の制定であると言えます。エジプト脱出の最後の夜に神はエジプト全土を裁かれました。エジプトにいるパロの家から奴隷の家に至るすべての家の初子、長男を人から家畜までも打たれたのです。しかし、イスラエルの家では、その夜、子羊の血を家の門の鴨居に塗っておくことによって、死の天使がその血を見てその家の初子を打つことなく過ぎ越していったのです。その過越しの時から1500年を経て、今度は全人類の過越しとなってイエス様が「神の子羊」として来てくださったのです。過ぎ越しの子羊となったイエス様を信じる者が罪の裁きを受けることのないようにされました。イエス様の「わたしの時」はイエス様があなたの身代わりとなって十字架で血を流された時を示します。過越しの夜は、イスラエルの各家庭では、家族が全員集まり、その血を流した子羊を焼いて苦菜と種入れないパンと一緒に食べました。種入れないパンというのはイーストを入れないパンです。それは後に、律法にも記されて、純潔の象徴となりました。新約でパウロが言う種の入らないパンは、信者を指します。過ぎ越しの子羊となったキリストによって罪が取り除かれた信者を指します。また、一緒に食べた苦菜は、エジプトでの400年間の奴隷生活の苦痛を象徴しています。それは、エジプトの奴隷であった過去、罪に縛られ自由を失っていた過去を清算して新しい人生を始めることを意味します。罪の奴隷であった過去の時代を捨てて、傷のない神の子どもとして生きること、それがクリスチャンライフです。

砕かれたときが信仰と救いのとき:

過越しの食事をとっているときにイエス様は言われました。「あなた方の内一人が、わたしを裏切ります」弟子たちは非常に悲しんで「主よ。まさか、わたしのことではないでしょう」とかわるがわるにイエスに言いました。どんな人でも、「自分だけは大丈夫。そんなことはしない。」と言いうることはできません。人は自分に過信して失敗するものです。ペテロはイエス様の一番弟子と言える人物でした。「ご一緒に死ななくてはならなくなっても、あなたのことを知らない」などと決して言わないと言った人物です。この後、イエス様がとらえられた時、ペテロは主イエスを裏切ってしまいました。しかし、自分の力に頼り高慢になっていたことに気づき、悔い改めて、まことにキリストに従う者と変えられました。一方ユダは、イエス様を裏切り、敵の手に銀貨30枚で売ってしまったという大罪を犯しました。そして、イエス様が裁判にかけられて、有罪になったことを知って、自分のしたことを後悔して、自害してしまいました。著者マタイは、悔い改めてキリストに従う者と変えられたペテロと後悔して自害したユダとを対照的に描いています。ペテロもユダも同じイエスの弟子として、同じ釜の飯を食べた人々です。同じようにイエス様から愛された人たちです。しかし、悔いただけの人と悔い改めた人とは天地の差があります。どちらも自分の失敗や罪のために心に痛みと悲しみをもちました。しかし、その次に来る心の態度が大切です。痛み悲しんで上を向くか下を向くかです。ペテロは上を向きました。ユダは下を向きました。ユダは悲しんだまま自暴自棄になって自害してしまいました。ペテロは痛み悲しんで、高慢になっていた自我が砕かれました。砕かれる経験によって、ペテロは謙遜にされて、自分に頼らずますます神に御頼りするものと変えられました。自我が砕かれ信仰に生きる者とされたのです。すべてを主の主権と神の栄光に置くことができたのです。

アダム、サウロ、ユダのように自分の罪や失敗を悔いて心の痛みを経験します。そして、下を向いてそれだけで終わってしまうのでしょうか。それとも、ダビデやペテロのように悔いて心の痛みや悲しみを覚えても、それから豊かに赦してくださる神を仰いで救われるのでしょうか。前者と後者との違いは信仰があるかないかです。失敗や罪は誰にでも来ます。しかし、そのあとに神を見上げて信仰に進むかどうかが問われます。ユダを特別な人と見るべきではありません。どの信者の中にもユダの心はあります。私たちは時に、切り捨てられたと感じてしまうような厳しい言葉を神から直接的にあるいは人から間接的に受けるかもしれません。そして、悲しむかもしれません。知ってください。その時こそ神は御顔をあなたに向けているのです。自分の前にある影が深いほど、太陽はあなたの後ろを強く照らしています。失敗や挫折、罪の責めが深いほどに神はあなたに御顔を向けあなたを照らしているのです。ダビデやペテロのように主を見上げて罪赦されたことを日々確認しましょう。

キリストのいのちをいただく聖餐式:

イエス様は、聖餐式を弟子たちに世の終わりまで、イエス様が再び来られる時まで守り行うように命じられました。聖餐は主の晩餐とも言われています。これも、過越しと深く関係しています。イエス様はイスラエルの民の罪を贖った過ぎ越しの子羊となって、今度は信じるすべての人の罪の贖いの代価として十字架でご自身をささげられました。聖餐式にあずかることにより、私たちは、イエス様がわたしのために十字架で肉を割き、血を流してくださったことを覚えるのです。また、過越しで、屠られ血を鴨居に塗られた子羊は焼いて食されました。それと同様に、ご自身のいのちのすべてを与えつくされたイエス様をクリスチャンはパンとぶどう酒という形でいただくのです。イエス様が最後の晩餐で、弟子たちに、「これはわたしの体です。これはわたしの血です」と言われた通り、パンとぶどう酒にイエス様は実在なさっています。イエス様を信じて心にお迎えしたクリスチャンの皆さんは、最も愛する主イエスを思い、再び来られることを待ち望んでいますか?愛する人に会うこと、愛する人が来られるのを待つこと、それは心喜ぶことではないでしょうか。イエス様を思う時、心に喜びと何かしら熱いものを感じるのです。ですから、聖餐式を単なる儀式としてはいけません。心よりキリストを覚えて、目に見えないが生きて働かれているキリストが今見えるパンとぶどう酒として実在してくださるのです。聖餐式は、キリストに触れ、キリストを味わい、キリストのいのちをいただくことと言えます。

いのちのパン

2018年03月 04日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書6:22~35
6:25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

<要約>

人は神に何を求めるか?:

彼らは、湖を渡り、カぺナウムにイエス様を探してやってきました。ついに彼らはイエス様を見つけました。「先生、いつここにおいでになったのですか」と尋ねます。それに対して、イエス様はその質問にはお答えにならないで、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。これはどういう意味でしょうか。イエス様の行ったしるしは、イエス様が神の子であること、父が遣わした神であることを証明するものでした。しかし、人々は、イエス様が神の救い主であることより、自分たちの生活を立て直してくださる、政治的な救い主と考えたようです。群衆は、イエス様を自分たちのお腹を満たしてくれる、あるいは生活を立て直してくれる人物、ローマの圧政から民を解放する世的な救い主と考えていました。ですから、彼らは、イエス様が行ったしるしを見て、イエス様が罪と死から救ってくださる真の神であり救い主であるというところまでは理解できませんでした。彼らにはイエス様は目先の救い主でありました。私たちはイエス様に何を求めているのでしょうか。日々の必要を求めて祈ることは大切です。主の祈りにもあります。しかし、イエス様は私たちの根元的な救い主です。罪と死と悪魔から救ってくださいます。このままでは、自らの罪によって裁かれ滅びに落とされるところから救出してくださったのです。そして、永遠のいのちを与えてくださる主であることを覚えましょう。

永遠のいのちに至る食物とは?:

食べればなくなる食物のために働く、というのは、人間の日常の営みです。それは大切なことですが、ただ食べるためにだけに働くのはむなしいことです。動物は生きるために自己存続のために食を得て、子孫を増やし生きています。それだけで彼らは満足しています。しかし、人間は違います。ギリシャ語で人間を、アンスローポスと言います。これは上を向いて歩くものという意味です。すなわち、向上心をもって、よりよく生きたい、そのために、さらに優れた何かを求めて生きています。イエス様は、なくなる食物のためでなく、いつまでも消えない永遠のいのちに至る食物のために働きなさいと言いました。そしてそれを、人の子であるイエス様があなたに与えると言われます。父なる神がキリストにゆだねられた朽ちない食物です。それは、キリストのいのちと言ってもよいでしょう。彼らは「神のわざを行うために何をなすべきでしょうか」とイエス様に問います。この世の中のほとんど物は、何かをしなければ得られないものばかりでしょう。それに対して、イエス様は神のわざは律法の行為ではなく、神が遣わされたイエス・キリストを信じることだというのです。イエス様は言いました。「このわたしこそいのちのパンです」と。イエス様を信じて、イエス様をいただくものは、飢えることがなく、渇かない、なぜなら、尽きない永遠のいのちが与えられているからです。永遠のいのちに至る食物とは、いのちのパンであるイエス様です。平たく言えば、イエス様を信じ続けることです。また、もう一つは、目に見える形では、いのちのパンであるイエス様をいただくことです。それは聖餐の恵みです。イエス様のからだと血をパンとぶどう酒という形でいただくのです。

永遠のいのちに生きるとは?:

永遠のいのちは、イエス様を信じる者に今与えられています。今、イエス様を信じている者は永遠のいのちを持っています。また、地上のいのちが終わった後に与えられるものでもあります。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」永遠のいのちは今、与えられているばかりでなく、終わりの日には復活によって、完全無欠な状態とされるということです。クリスチャンは、イエス様を信じた時から永遠のいのちに生きています。今信じた人は今から永遠のいのちが始まっています。後期高齢者も前期高齢者もありません。高齢者も老い先短いと言って苦にすることはありません。喜んでできることを楽しみ、今を生きることです。それがクリスチャンライフです。また、年若い人もまだ先が長いと思って、今の時を無駄に過ごしてはいけません。今が人生です。永遠の中の今です。永遠の中では地上のいのちは、ほんの一瞬です。年齢は問題になりません。今が最善、今がベストで生きることです。今を生きるのです。それがクリスチャンライフです。三木清という方は、人生論ノートの孤独の章の冒頭に「この無限の空間の永遠の沈黙は、わたしを戦慄させる」と書いています。宇宙の時間と空間を考えると、永遠、無限という響きがあります。永遠、無限を考えると、自分の存在はあまりにも小さく、無きに等しく、深い孤独に引きずりこまれます。神を失っている人間は永遠のそして無限の孤独にいるのです。だからサルトルは「人間の存在は本質的に無意味である」と言いました。人間はもともと神に造られ、神のいのちとつながって生きる存在でした。神とともに神のいのちにつながって生きるときに生きる目的や使命があるのです。しかし、罪により神から遠く離れてしまいました。その様な人間は、命綱が切れて暗黒の宇宙に漂う飛行士のように全くの孤独な存在です。それは、人の罪がもたらした断絶と言えます。イエス様は神と人の間に立って人の罪を取り除き、和解となってくださったのです。それが、十字架です。イエス様は、信じるすべての者をご自身の所有として、誰一人失うことなくやがて復活させます。お一人お一人にそのことを約束されています。ですから、孤独は全くありません。主がいつも一緒です。やがて、復活を迎えてあなたのいのちは完全無欠となります。救いが完成します。永遠のいのちに生きるとは、今を生きることです。今を喜び、感謝して、捧げて生きることです。決して揺るぐことのない平安と喜びが皆さん一人一人にありますように祈ります。

タリタ クミ

2018年02月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マルコの福音書5章21~24、35~43節
5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)

<要約>

無力と失望の時こそ神のチャンス:

会堂管理者のヤイロはイエス様のうわさを聞いていたのでしょう。近くに来られたのを知って、自分の娘の病状が大変なので、イエス様にあって、癒していただくために来てくださるようにお願いしようと思ったのです。「私の小さなひとり娘が死にかけています。どうか、おいでください。娘の上に手を置いてやってください。娘が治って助かるようにしてください。」ヤイロは切実な思いでイエス様に会うのでした。信仰は難しいことではありません。キリストのもとへ来る。そして、願う、ことです。父親が愛する子どもの願いを聞いてかなえてあげたいと思うのと同様に、神はあなたの願いを聞きたいのです。イエス様は、その願いを聞いて、彼と一緒に出掛けられました。しかし、出かけようとすると群衆が押し迫ってきて、思うように足を進めることができなかったようです。私たちの周囲には妨げとなることもしばしば起こります。しかし、神の時を忍耐して待ちましょう。ヤイロは、「急いでいかないと手遅れになってしまう」と内心、不安と焦りで苛立っていたでしょう。その様なときに、「あなたのお嬢さんはなくなりました。なせ、この上先生を煩わすことがありましょう」という知らせを受けたのです。ヤイロは絶望感で、倒れそうになったでしょう。人間が無力になって、失望する時こそ神の好機が訪れるということです。ここで、イエス様はいのちの創り主で、生と死の主であることをお示しになられようとされていました。復活の奇跡は、イエス・キリストの復活の序曲のようであり、また、福音書の中心であります。そして、人間にとって絶対的な希望であります。イエス様は、その話をそばで聞いてすぐに会堂管理者ヤイロに言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」これは、神が働かれる一つの条件です。神を信頼するということです。私たちは神を信じてお頼りするしかないのです。神の全能の力を信じ、自分の無力を認めて、また、神は愛のお方であることを覚えて、すがるのです。神を愛し、信頼し、恐れるのです。

前向きに従う者の祝福:

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネ以外は誰をも同行させなかったとあります。イエス様はこの三人を特別に見ておられたようです。イエス様が高い山に上られて、御姿が変わられたときもこの三人を連れられました。また、十字架の前日、ゲッセマネで祈られたときもイエス様の近くにいるように命じられたのもこの三人です。如何してかということは書かれていません。この三人とも、人格者ではありませんでした。何が違っていたのでしょうか。おそらく、この三人は主のお言葉に前向きに良く応答したことでしょう。その反応の良さのために主の信頼を得たのです。ここに霊的な法則があります。「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」種まきのたとえにもみられるように、みことばを聞いて応答する人は、祝福倍増にあずかります。「人に量ってあげる量り」というのは、人に良く盛ってあげることです。人を良く評価して、気前良くしている人はそれが自分にも帰ってくるということです。豊かに与える人はますます豊かにされるのです。また、けちな人はますます貧しくなるという法則です。これは、人に対してばかりでなく神に対してもその通りです。神に明け渡して、神は良い方であると信頼してみことばに前向きに積極的に聞き従う人は、ますます、霊的にも世的にも祝福されるという法則です。逆に、みことばを信ぜず、神を信頼するより自分の経験にしがみついている人は、それ以上の霊的祝福を経験することなく、ますます、貧しくなるのです。ペテロとヤコブとヨハネは、その通り前向きに主のお言葉に従いイエス様から信頼を得ていたのです。前向きに従う者の祝福は、神に喜ばれ用いられるということです。この会堂管理者ヤイロも「ただ信じていなさい」というイエス様の言葉を受け止めました。そして、娘がよみがえるという最大の奇跡を見ることができました。そして、神の栄光を拝することができたのです。彼にあったのは前向きの信仰です。

復活のいのちに生きるとは:

「死んだように眠っていた」という言葉は時々耳にします。眠りは、必ず目覚めが来るので、外から見て死んでいるように見えても死んでいることとは全く違います。イエス様が、眠りという言葉を使ったのは、すべての人は肉体の死の後、世の終わりによみがえることを表しています。後に、キリストの十字架の贖いを信じて御国に招かれる人と信じないで罪により永遠の滅びに落とされる人があることを聖書が述べています。ですから、すべての人は世の終わりに目覚めるのです。そして、神の裁きに会うのです。この出来事で、死がすべての終わりであるとする私たちの固定観念を、今、取り去ろうとされているイエス様を見ることができます。この福音の最大の希望である復活は永遠に続く感謝と喜びと賛美です。家に着いて、イエス様は娘の手をとりいわれました。「タリタ、クミ(アラム語)」、これは特別な呪文のような言葉ではなく、アラム語です。訳すと「少女よ。起きなさい。」という日常的な言葉です。霊が戻って、死んだ娘は生き返り、起き上がったのです。そして、食事を取らせるようになさいました。アラム語で、「タリタ」は「少女よ」です。「クミ」は「起きなさい」です。当時のローマ社会では公用語はギリシャ語です。しかし、当時のユダヤ人の家では、アラム語が日常語であったようです。この少女にとって、「クミ」という言葉は、毎日聞く当たり前の言葉でした。内心「もう朝、良く寝た、お腹がすいた」と思ったかもしれません。もし、死という事実が無かったら、これは全く日常的なことです。主にある者たちは、イエス様にあっては死ぬということは次に「起きる」(復活)ということとつながっているのです。やがて、肉体のいのちが終わった時、この眠りにつきます。そして、「起きなさい」という主の声を聞いて朝を迎えるのです。イエス様が私たちの一人ひとりの手をとって、おきなさい、と声をかけてくださる、そのときがくるのです。そして、「さあ、天国の祝宴ですよ。来なさい。」と招きの声があるのです。イエス様が私たちの罪の報酬を十字架の上で代わりに払ってくださったので、私たちは信仰によって、永遠の命が与えられるのです。すなわち、復活のいのちをいただいています。イエス様の十字架の贖いを信じる者は皆この希望に生きるのです。