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受胎告知

2017年12月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書1章26~38節
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

<要約>

窮地に陥った時:

御使いは、突然、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。(イエスそれは、救い主という意味です。)」と。マリヤには自分ではどうすることもできないことが自分の身に降りかかってきたのです。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」とマリヤは反論します。それは、突然のことで、この御使いの言葉は、全く受け入れられないことだったと思います。結婚していないのにどうして?マリヤは何が何だかわからない。混乱の中に突き落とされたのです。御使いは、応えます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」と。天使ガブリエルは半年前、不妊の女性エリザベツの夫ザカリヤに現われ、エリザベツが懐妊すること告げました。それが、その通りになって、今は6か月になっていました。天使はその例をとって、神には不可能はないと話したのです。これは、マリヤにとって大きな励ましとなりました。神は、窮地に陥ったマリヤのために、マリヤを励ます親類で妊婦のエリザベツを用意してくださったのです。マリヤには、受胎について、天使から長い説明はありませんでした。天使の「神にとって不可能なことは何一つありません」という言葉を聞いて、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と返事をしたのです。聖霊によって身ごもった。普通の妊娠のように男女の交わりもなく、突然、神の御使いがやってきて、「聖霊によって、聖なる者、神の子を身ごもり生む」というのです。このことによって、今後何が起こるかマリヤは分からなかったでしょう。予測もできなかったでしょう。ただ、マリヤはヨセフのことが気にかかり、マリヤの両親や家族、ナザレの人々のことが気になったでしょう。たくさんの不安があります。しかし、すべてのことは、「神にとって不可能なことは何一つありません」なのです。マリヤは折々に神の助けがあることを確信していたと思います。信仰にはたくさんの説明はいりません。「神にとって不可能なことは何一つない」ことを信じることです。マリヤは御使いの言葉で、すべてを神にゆだねる決心をしました。これは単純な真理です。信仰は難しいことではありません。「神にとって不可能なことは一つもありません。」というみことばの一言です。私たちクリスチャンは様々な試練やサタンの誘惑を受けます。しかし、この一言に立つか立たないかで、あなたの人生は変わります。

マリヤの信仰に倣う:

マリヤはどういう女性だったのでしょうか。ナザレの田舎の貧しい普通の女性でした。しかし、マリヤは旧約聖書を知っていたと思います。それは、マリヤの賛歌と呼ばれている詩からわかります。最後のところ、「私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られた通りです」と結んでいます。すなわち、アブラハム契約を知っていました。マリヤは、神がアブラハムに与えた約束、つまり、イスラエル民族を星の数ほど増やし、アブラハムとその子孫を通して、全民族を祝福するという約束を知っていたのです。アブラハムとその子孫というのは、キリストであるとパウロはいっています。世界の全民族を祝福するというアブラハムへの約束はその子孫であるキリストによって成就したのです。マリヤは、このキリストの母となることを神の大きな恵としてとらえました。また、神の使いがヨセフに夢の中で語られました。マリヤの胎に宿っているのは、聖霊によるのだから、離縁してはいけない、マリヤを受け入れなさいと。では、マリヤは特別な人だったのでしょうか?特別な使命を与えられた選ばれた人といえます。しかし、後世の人が、マリヤは特別な人間として、神格化しようとするのは誤りです。マリヤは彼女の功績によって救い主の母となったのではありません。これは、全くの神の恵み、一方的な神の主権の中でなされたことです。イエス様を出産した後のマリヤについては、彼女は聖書の表舞台には姿を現さなかったようです。マリヤから私たちは何を学ぶのでしょうか。マリヤは特別な人間ではなかったということです。しかし、彼女の信仰は素晴らしいです。それは、ひとえに「神にとって不可能なことは一つもありません。」という信仰にしっかり立ったことです。そして、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言ったのでした。何という信仰でしょうか。この中にマリヤの神に対する絶対服従という命がけの信仰を見ます。このような信仰を神は裏切るはずはありません。マリヤは、真の謙遜な生涯を送りました。そして、世界中の人々の尊敬を集め、神の光栄をあふれるばかり受けているのです。ここに信仰の模範としてのマリヤがあります。

王なるキリストの国:

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。(イエスそれは、救い主という意味です。)その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と。これは、マリヤに与えられたメシヤ預言です。このメシヤ預言には救い主は必ずダビデの王位を継ぐもの、あるいはダビデの子であると、ずっと信じられてきました。最初のメシヤ預言はダビデ王に与えられました。そのみことばを読んでみましょう。「あなた(ダビデ)の日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。―――あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」このように、ダビデの子としてのメシヤの到来はイスラエル人民の希望となっていました。この、アブラハムの子孫であり、ダビデの子である救い主イエス・キリストはイスラエル民族のためだけでなく、全人類の救い主となっています。それが神のご計画でした。イエス・キリストの救いは、罪と死と悪魔からの救いです。ダビデの子、キリストは王としてこられたといいました。それは、正義をもってあなたを悪魔から解放し守る王です。また、同時に、あなたの罪の代価をご自身のいのちで支払い贖ってくださった救い主です。また、ご自身の生き方を通して神の御心を教えてくださる完全なお方です。この全能であり、全知の神である完全なお方、イエス・キリストが今日もあなた提供されています。あなたが彼を心に受け取ること、それがクリスマスです。

救い主の預言

2017年12月 3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>イザヤ書9章1~7節

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

<要約>

救いと祝福の約束:

創世記12章で、神はアブラハムに言われました。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。地上のすべての民族はあなたによって祝福される」と。また、神の約束は、アブラハムに「あなたの子孫たち」にと言わないで、「あなたの子孫に」と言って、単数形で語られてきました。それは、遠い将来において現れる、アブラハムの子孫、救い主キリストを指していたのです。神は、キリストによって、全世界に祝福をもたらしてくださいました。この祝福の根拠が、救い主イエス・キリストと呼ばれているように、キリストの救いです。イエス・キリストの救いが祝福をもたらしていると言えます。救いという言葉を使う時には、~からの救いと言います。例えば、貧困からの救い、病からの救い、悪政からの救い、災害からの救い、などです。しかし、神が与えてくださる救いは、もっと根元的な救いと言えます。それは、罪と死と悪魔からの救いです。罪は、原語では、「的外れ」という意味です。本来神から創造されたときのあるべき姿から外れているということです。では、本来人間のあるべき姿とは何かは、十戒に示されています。十戒の範囲は、心と言葉と行いに及びます。表面的には十戒を守って行動していても心を見られる神は満足しません。そして、すべての人は罪を犯していると聖書は指摘しています。さらに罪からくる報酬は死です、とある通り、罪によって全人類に死が入ったのです。すなわち、人は、本来あるべき人の姿から大いに外れてしまった、神から遠く離れてしまったと言えます。罪により神の支配である光の中から、悪魔の支配であるやみに入ってしまったのです。救い主イエスがもたらした救いは、罪の呪いからの救いです。つまり死と滅びからの救いです。同時に悪魔の支配からの解放です。すなわちやみから光の中へ移されることです。神は、人を救い、祝福にあずからせようと思われました。現代、イエス・キリストの救いと祝福は全世界に届けられています。神はあなたを悪魔の支配から取り戻し、罪と死の呪いから解放しようと招いておられます。

神から遠ざかる人間:

イザヤ書はBC700年ころの著書です。その著者はイザヤです。イザヤはBC742年ころに神から召命を受けて、約50年間預言活動をしました。ソロモンの死後、イスラエル王国は北と南に分裂しました。それからしばらくして、北王国は、北方の大国アッシリヤによって、BC721年に滅亡させられてしまいました。アッシリア帝国は非常に残忍で、捕虜の目をつぶして、国へ引いていったようです。それゆえ、当時はアッシリア帝国の侵略の手が、南王国にも忍び寄り、国中が恐怖と不安で押しつぶされそうになっていました。その中で、イザヤは南王国の王と人民に神のメッセージを伝えました。それは、罪からの悔い改めを迫りつつ、同時に恐怖や不安にいる人々に慰めを語り、神の約束を伝えました。北王国イスラエルが滅亡した理由については、偶像礼拝による背信の罪です。神から離れた民は悪魔の支配下に移り、当然呪いを受ける羽目になったのです。それに対して、神のみ思いはどうだったでしょうか。「わたしは誰が死ぬのも喜ばない。だから、イスラエルの家よ。悔い改めて生きよ」と神は命じているのです。しかし、神のその様な御思いに対しても彼らは、反省することなく主に反逆して、自らが自滅に向かったのです。ここから見えることは、神の約束は変わらない、しかし、人が、真の神から心が離れて、その約束を投げ捨てるために、自ら悪魔のとりこにされるということです。神は見捨てることをしません。人が神を見捨てて自ら離れていくのです。現代の私たちにも同じメッセージが届けられています。神がおられることは、被造物によって知られており、明らかです。しかし、造り主なる神を認めない人間の姿があります。その代わり、神でないものを神として祭ったり、拝んだり、礼拝したりしています。そこに、造り主なる神を認めようとしない、人間の深い罪があります。

救い主をお与えくださる神:

神はご自身の全存在をかけて、そのような人間に近づいてくださいました。救いの道を準備してくださったのです。それがクリスマスです。あなたが、神に帰るのを待っておられるのです。アッシリアの侵略によって、北王国は暗黒と苦悩の中に落とされました。その現実がある中で、イザヤは、神の救い、福音を語ります。「苦しみのあったところに、闇がなくなる。」と書いています。今は、依然苦しみとやみの中にいるが、それがなくなるときが来るとイザヤは預言します。「先に、ゼブルンの地とナフタリの地は、辱めを受けたが、」とあります。アッシリアはガリラヤ地方を征服したのちに、一部の人々を他国に連れ去り、逆に他国人をそこに移住させました。それは、神の民と自負していた彼らには屈辱でした。それが、「辱めを受けたが」という内容です。しかし、のちには「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受けた」と完了形で書いています。もうすでに起こったかのように異邦人のガリラヤは栄光を受けたというのです。これは、このあと約700年後に救い主キリストの来臨によってガリラヤが神の栄光を受けたことの預言です。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」と述べています。光として来てくださる救い主を示しています。死の影に住んでいる者、暗黒の死の影に座る者、これは、死と滅びに定められている人々への救いです。南王国ユダの人民は、襲い来るアッシリアを前になすすべもなく、恐怖におののきながらそこに住んでいる有様は、まさに、「死の影の地に住んでいた民」といえます。現代社会においても、世界を見ると、貧困や戦争で、死の陰の地に住んでいると言える人々が大勢います。主が、イスラエルの民を虐げる国々から解放する時、それは、人の力によらない、神のみわざであることを知らしめるためでした。行動されたのは主であることを示したのです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」すなわち、この四つの身分はどれも神の身分であると言えます。これは、はっきりやがて来られるメシヤ、キリストを指していると言えます。これは、イスラエルの民にかかわる救いばかりではなく、約700年後、全人類に救い主が与えられることの預言です。ちょうど、私たちが外に出て、山々を見るときに、すぐ近くに見える山とさらに遠くに薄く見える山々があります。一つの景色の中に、近くのことと遠くのことが重なって見えるのと同じように、聖書の預言も、近々に起こることとはるか後に起こることが重なって語られているのです。この預言は、現代に生きる人々にも語られています。「死の陰に住んでいたものたち」それは、悪魔にとらえられて真の神を失っている人々への救いです。そして、やがて、救い主が再び来られて神の民は永遠の御国へと引き上げられる時にすべての預言は成就します。このことは万軍の主である神の熱心によって成し遂げられたのです。神が人を罪と死と悪魔から救おうとされているその熱心は、さめることもしぼむこともありません。神が無条件でお与えくださった救いを信仰によっていただくものとされた私たちは、神の熱心とご愛に感動して、これからは主のために人生を用いていただきたいと思います。

決断、勇気、行動

2017年11月 26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記24章1~27
24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。
24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。
24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。
24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。
24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。
24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。
24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。
24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。
24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
24:21 この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。
24:22 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、
24:23 尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」
24:24 彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」
24:25 そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」
24:26 そこでその人は、ひざまずき、【主】を礼拝して、
24:27 言った。「私の主人アブラハムの神、【主】がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。【主】はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」
<要約>

アブラハムの決断:

アブラハムにはなお、神の約束の成就のために信仰の次の段階がありました。それは、世継ぎと決まったイサクに嫁を迎えることです。将来を見据えての決断です。それは、アブラハムの家の最年長のしもべを自分の生まれ故郷に遣わしてイサクの嫁を連れてくることでした。ここから、信仰者の決断を学ぶことができます。神は、私たち一人一人に約束を与えてくださいます。それが成就されていくためには、私たちがみことばに応答して一歩進みだす必要があります。アブラハムの家は豊かになり、イサクにすべてを継承する準備ができていました。そして、イサクが嫁を貰い、アブラハムから独立する時が来たのです。これは、イサクにとっては独立ですが、アブラハムにとっては、子離れと言えます。アブラハムはイサクを自分の子であっても、神の約束の子どもであるとしっかり認識していました。子育て中の皆さんも、神があなた方にお与えくださった子どもたちは、神があなたに託した神の約束の子どもです。その認識が大切です。子どもたちはあなた方から独立して必ず離れていきます。私たちは、子どもたちを神にお返ししていくのです。「あなたの子孫にこの地を与える」という約束に基づいてアブラハムは行動しております。それは、この偶像礼拝のカナン人の娘ではなく、同じ真の神を知っている親族のいる自分の故郷から嫁を迎えることでした。そのことを最年長のしもべに約束をさせました。しもべは言います。「もし、その女性がこの土地について来ない場合はどうします?」その時の答えは、イサクをアブラハムの郷里において帰ってはいけない、必ず戻しなさいというものです。アブラハムは自分の郷里にイサクの妻となる人がいるかどうか、この時点では、見えていなかったようです。アブラハムは、結果を前もって見ることはできなくても、二つのことにしっかり立っていました。一つは、神は約束を撤回することはないという信仰です。二つ目は、人は神の約束を撤回してはいけないということです。私たちも、前もって結果を見ることのできないことが多くあります。しかし、神様の約束を疑ってはいけません。神は約束を撤回なさらないと信じることです。神はあなたを幸せにすると、そして喜びにあふれる人生を与えると約束しているのですから、疑ってはいけません。まだ、結果が見えなくても、み言葉を握って約束を信じ続けるのです。アブラハムは神の約束をしっかり握って、決断して実行しました。人間は未来を読むことができません。しかし、神は約束を守られます。私たち信者に必要なことは、決断し、信じて従っていくことです。

しもべの勇気:

しもべは十頭のラクダと高価な品々をもって、目的地ナホルの町につきました。そこで、ラクダを伏させて祈りました。おそらく彼は、主人アブラハムの敬虔な祈りの姿を見て、神を知ったのでしょう。これは、私たちクリスチャンが、主イエスを通して神を知り、神を拝していることと似ています。このしもべはアブラハムを通して真の神と出会いました。私たちも主イエスを通して、真の神を知ることができます。この一連の出来事に、彼は、祈りで始め、礼拝と祈りで終わっています。かれは、私の主人アブラハムの神と言っています。アブラハム契約を与え実行してくださる神、約束の神であることを念頭に置いた祈りです。その約束をかなえてくださいとの願いを込めて神に呼び掛けているのです。彼は勇気と信仰をもって大胆に神に近づいています。私たちクリスチャンも私たちが信じている神はどのような方であるかを覚えるようにとイエス様は主の祈りを教えてくださいました。初めに「天にいます私たちの父よ」と祈ります。私たちがこの祈りで何を念頭に置いて祈るべきかを教えています。それは、私たちの神は、天地の創造主であり人知を超えた高いところにおられます。そして、私たちのお父さんです。だから、私たちのすべての必要を知っておられ、それらを与えて、守ってくださる方であることを信じて祈りなさいということです。次にこのしもべは、自分に与えられた任務が果たせるように主の取り計らいを祈りました。そして、主人アブラハムへの恵みを祈ります。これは、彼自身の祝福は主人の祝福であり同時に、主人の祝福は彼の祝福でもあるということです。私たちクリスチャンもイエス様の喜びを自分の喜びとするときに、祝福あふれる人生を送ることができるのです。そして、彼がイサクにとってふさわしい女性を与えてくださいと祈っています。祈りは即座に聞かれました。彼の祈りがまだ終わらないうちに目の前に、リベカが表われました。彼女は親戚の娘です。非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかったとあります。水がめに水を満たして肩に担いで上がってきたところでした。そして、しもべの願いを聞いてすぐに対応しています。また、全部のラクダに水を飲ませました。そして、彼女がアブラハムの親戚の娘であることがわかり、そこで彼は主を礼拝して、主をほめたたえ、感謝をささげるのでした。イサクの妻にリベカが選らばれたのは、全く神の主権の中で繰り広げられたことです。このしもべは節理のうちにみこころがあらわされるように祈りました。そして、その通りの人が与えられました。私たちも、祈るときに節理のうちに神の御心があらわされていくことを願うのです。その為に、勇気をもって大胆に神に近づくのです。

リベカの行動力:

最後に、リベカの行動を見てみましょう。急いで水がめの水を水舟にあけて、井戸のところまで走っていきました。そして、十頭のラクダに水を飲ませるために往復するのです。ここに、「すばやく」「急いで」「走って」という言葉から、リベカの行動力がよく表現されています。想像するに、リベカは非常に美しいばかりでなく、健康で体力もあり。また、進んで人に奉仕する易しく気配りのある女性であったことがわかります。オープンで勇気があり積極的な女性であったと想像します。また、リベカは自分の親や家族を離れて、イサクの下へ旅立つのです。そこに、リベカの信仰と行動力を見ます。この三人はイサクの嫁探しということでイサクにために用いられた人たちです。イサクは前にも話しましたが、イエス・キリストのひな型です。このイサクのために用いられた三人の資質を見ると、決断、勇気、行動ということができると思います。それは、同時に、キリストのために生きる者の資質ということができます。決断と勇気と行動です。神はそれぞれにタラントを与えておられます。多い少ないは問題ではありません。神に与えられたタラントを用いることを神は望んでいます。そこに必要なのは、決断と勇気と行動です。この後、リベカはイサクと会い、結婚し救い主の系図に書き記されました。神が人類救済のご計画を遂行されるためにこれらの人々を用いました。その時から約二千年を経て、イエス・キリストがお生まれになりました。アブラハムへの約束は、イサクに引き継がれ、ヤコブに継がれ、イスラエル民族に、そして、ダビデを経て、ダビデの子孫であるキリストに至ったのです。「すべての民族はアブラハムによって祝福される」というアブラハムの契約は、イエス・キリストによって成就しました。現在、イエス・キリストによって全世界のあらゆる民族は祝福されています。それは、キリストが全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、私たちの罪を赦し永遠のいのちに生きる者としてくださったからです。その名を信じた者には神の子どもとされる特権をお与えになったのです。キリストを信じる者は神の子とされる身分が与えられて神の国の相続者として永遠の祝福にあずかるのです。

死といのちの試練

2017年11月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記22章1~14節
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

<要約>

試練の意義:

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。また、試練を喜びなさいというのです。キリストの栄光が表われるとき、喜び踊るものとされるからです。キリストの苦しみにあずかれることなので、喜びなさいとあります。苦しみを通って喜びがあるということです。聖書は、「苦しみを通してあたえられる喜び」について多く語られています。次に、試練に耐えるものには、いのちの冠が与えられるとあります。試練によって鍛錬された信仰は、終末あるいは再臨の時には称賛と光栄と栄誉となるのです。聖書は試練を嫌なこと、マイナスなことと教えていません。試練は、むしろあなたの信仰を強め、鍛錬するものであります。試練に耐えてきた人には、信仰がゆるぎないものとなるのです。すなわち、「試練は信仰を育てる」。金が精錬されて、混じりけのない純金になるように「あなたも試練によって、純真で素直な信仰の持ち主」となるのです。信仰がなければ神に喜ばれないとあるように、神はあなたの素直な純真な信仰を求めています。試練は信仰を造るのです。パウロはローマにいるクリスチャンたちに、自分は艱難や試練も喜んでいると伝えました。それは艱難や試練があなたの人格を練り、最終的に朽ちない希望をあたえられるというのです。クリスチャンは、「失望に終わらない希望」を持っています。世にある希望は、移ろいゆくものです。決して揺るがないものはありません。絶対大丈夫と言えるものはないでしょう。しかし、神が与えてくださる希望は決して失望に終わりません。神が与えてくださる希望は、「死を通って、いのちに至る」希望だからです。

ひとり子をささげる父の涙:

神は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言って声をかけています。イサクはアブラハムにとっては、自分のいのちより大切な我が子であったでしょう。神はその心情を理解して、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言ったのです。神は、アブラハムを信頼していました。そして、これから課す試練がアブラハムにとってどんなに苦しい、つらい試練であるか、知っていました。神はこの試練を通して、神の救いのご計画を示そうとされたのです。「アブラハムならきっと、この試練に耐える信仰を持っている」と思っておられたでしょう。アブラハムは、イサクのいのちを神が死者の中から取り戻してくださると信じました。今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神のひとり子イエスを、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけさせることです。アブラハムへの「あなたの子、あなたの愛するひとり子」の言葉に、神は「わたしの子、わたしの愛するひとり子イエス」への御思いを重ねておられたのでしょう。そこに、父の苦しみ、そして、父の涙を見ます。アブラハムに重ねられた神の苦しみと涙です。イサクをささげたアブラハムは、イエス様をささげた父なる神の型です。父なる神の動機は何でしょうか。それはあなたへの愛です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いて、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。アブラハムが刀を振り上げて自分の子を屠ろうとしたその時、神様の「待った」が入ったのです。

死を通していのちに至る:

神は、人類を罪と死と悪魔から救うために無実の御子キリストに、十字架で人の罪を背負わせてなだめの供え物として死に渡されました。ですから、神が成してくださったその救いは完全です。御子を信じる者は罪に定められることなくいのちに移されるのです。死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされるのです。なぜ、神は地上にいる間、この肉体の死を残しておられたのでしょうか。もし、キリストの贖いにより、イエス・キリストを信じ洗礼を受けたとたんに罪赦されて永遠のいのちが与えられて、堕落前のアダムのように、死がなくなり、そのまま永遠に生きるものとされたらどうでしょうか。私たちの周りは、死なない人と死ぬ人が混在することになります。当然みな死にたくないので、とにかく洗礼を受けるでしょう。この世に信仰はいらなくなりますし、信仰はなくなります。神は支配ではなく、信仰を通して人を救おうとなさっています。神は信仰を最も大切なこととしておられるからです。信じた者にも地上で肉体の死が残されているわけは、クリスチャンが最後まで、信仰に生きるためです。死を迎えるまで、信仰の訓練は続きます。私たちはこの肉体にいる間は様々な重荷で苦しみ悶えています。「天からの住まい」は復活のからだです。この地上の幕屋が壊れて、すなわち死を迎えて、復活のからだによみがえるとき、死がいのちに飲まれるのです。死がいのちの終わりではなく、死がいのちの始まりとなります。死を通過して永遠のいのちに入るのです。ドイツの神学者であり、牧師であったボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画に加担し、それが発覚して絞首刑に処せられました。ヒットラーが自害する約2週間前のことでした。絞首台を目の前にして彼は、看守に言葉を残しました。「これが最後です。わたしにとっていのちの始まりです」と。わたしたちには、この地上で苦しみがあり、悲しみがあり、嘆き、そして死があります。だから、イエス様も、「こころみに合わせないで悪からお救いください」と主の祈りで祈るようにわたしたちに教えています。神は信者をいつも守ってくださいます。また、神は、哀れみと慰めのお方です。神はどんなに悲しむ人をも慰めることができます。なぜなら、神は、御子の十字架でその悲しみを経験なさっているからです。そればかりでなく、すべての苦しみと死を通って蘇られた方、主キリストはどんなことがあっても失望に終わらない希望をお与えくださいます。

信仰と行い

2017年11月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙4:18~25、エペソ人への手紙2:8~10
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

<要約>

信仰による義:

アブラハムは「からだは死んだも同然」で、「サラの胎も死んでいた」にもかかわらず、その信仰は弱まりませんでした。「彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。」アブラハムはイサクをモリヤの山でいけにえとしてささげたとき、「イサクの復活」を信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたと書いています。それが、信仰義認です。行いではありません。信じる者は、神の前で義と認められるのです。すなわち、神の前で、罪なしと判定されます。アブラハムが死人を生かす神を信じて義とされたように、私たちもイエス様を死者の中からよみがえらせた方を信じることで義と認められるのです。義は、人として正しいことではなく、神の目から見て正しいという意味です。人が見て正しい人は、いくらでも周りにいます。しかし、神の目から見て正しい人は誰もいないと聖書は言います。すなわち、罪のない人は一人もいない、というのが聖書の主張です。でも、罪のない神のひとり子であるイエス・キリストが全人類の罪を一手に背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったことにより、信じる者は価なしに義、罪無しと認められるのです。アブラハムは、やがて来られる救い主キリストをはるかに仰いでいたのです。そうしてアブラハムは、後に次ぐ人々が、キリストの贖いと復活を信じる信仰により救われることの先駆けとなったのです。私たち信者は、律法である十戒を守ることによっては救われず、信仰によって救われました。また、人は律法の行いによってはひとりも義と認められない、とあります。律法の中心は十戒です。ですから、十戒を行おうとすると、できないことが分かって反って、自分の罪を指摘されます。では、人間が守ることができない十戒は努力目標なのでしょうか。「どうせ十戒は守れないから、罪を犯してもいいのだ、イエス様が赦してくださるから努力目標として日々精進すればよい」、のでしょうか。これは否です。十戒は努力目標ではありません。守れないあるいは守らない者は罪に定められます。神の怒りがその上にあります。しかし、幸いなことに、イエス様の十字架の贖いを信じて神の義をいただいたものは、神の怒りから救われています。すなわち、自分を救おうとすることから自由になっています。もともと、救いは私たちの内側にはなく、救いは外にあるといいました。神がすべて用意してくださった救いの道です。では、律法である十戒はどういう意味になるのでしょうか。クリスチャンには要らなくなるのでしょうか。そうではありません。自分を救うことから自由になったクリスチャンにとって、十戒は愛する神の御心なので、ますます、慕わしいものとなります。私の足の灯、私の道の光、さらに道しるべともなります。私たちが道に迷ったときに、行先を示すガイドラインともなるのです。

良い行いに召される:

救いは「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。行いによるのであれば、できる人とできない人、行える人と行えない人がでるでしょう。そうすると、できる人、行える人は自分を誇ってできない人を見下すようになります。救いが、全く行いによるのでなく、自分たちから出たものでなければ、だれも誇ることはできないということです。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。神の作品という意味は、キリストによって再創造された、新しく造られたということです。古い自分が改善されてよくなったのではありません。古い自分が死んで新しく生まれ変わったのです。次に、「私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いをも予め備えてくださったのです」と書いています。私たちが、神の作品とされた理由がここにあります。良い行いに歩むためです。そして、そのよい行いも予め備えられているというのです。ここで間違えていただきたくないのは、良い人と良い行いの関係です。良い行いが良い人を造るという考えがあります。それは間違いです。良い人が良い行いをするのです。良い実は良い木からとれるのと同じです。キリスト・イエスにあって義とされた新しい人は神の作品ですので、神の召しに従って、良い行いをするのです。信じて救われ、洗礼を受けた人は、すでに傷のない神の子どもです。なぜなら、罪赦され、永遠のいのちが与えられているからです。もう救われるために努力する必要のない人たちだからです。世の光として輝くことのみです。クリスチャンも悩みは当然あります。しかし、よく考えてください。救われているのです。すなわち、サタンの支配下ではなく、キリストの支配下に移されています。そして、罪赦されて永遠のいのちを与えられています。クリスチャンは、いのちについて悩まなくてよい、心配しなくてよい、天のみ国に帰るところが用意されている、最終的に神が責任取ってくださるからです。この世の中では、世の光として輝くだけです。クリスチャンは世の光です。また、マタイの福音書では、「地の塩」であるとも言われています。その自覚に立っていただきたいと思います。ですから、「私たちが良い行いに歩むように」というのは、クリスチャンとして、この世の中で、ベストを尽くすようにということです。隣人によりよく仕えるために自分を磨かなければなりません。自分に愛を課していくのです。怠慢はいけません。次に、「良い行いをも予め備えてくださった」というのは、神は私たちが隣人愛の実践をする場所を備えてくださっているということです。私たちはそれぞれ、複数の身分と立場を与えられています。ある方は母であったり、同時に職業婦人であったり、妻であったり、教会では役員であったりです。それは神がその人をそれぞれのところへ召していてくださるということです。私たちが召されている場所は、大きく分けると主に三つあります。教会、家庭、職場です。神が召してくださる領域に、重い軽いはありません。どの領域にも等しく召されているのです。ですから、職場を重んじて家庭をないがしろにしてはいけません。また、教会を重んじて職場をないがしろにしてはいけません。同様に教会を重んじて家庭をないがしろにすることもいけません。それぞれ逆も同じです。それぞれにクリスチャンとしてベストを尽くすことです。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の前で義とされ、罪と死と悪魔から救われています。また、私たちはキリストにあって再創造された神の作品であって、神の備えてくださったところでよい行いに進むのです。それぞれ召されたところ、遣わされたところでベストを尽くすのです。それが、クリスチャンライフです。

人間中心VS神中心の人生

2017年11月 05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記19章1~29節
19:1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。
19:2 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」
19:3 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中に入った。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。
19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。
19:7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。
19:8 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。
19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。
19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが【主】の前で大きくなったので、【主】はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。
19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。
19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。
19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。
19:24 そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、
19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて【主】の前に立ったあの場所に行った。
19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

<要約>

三通りの生き方:

最初に、「アブラハムの生き方」は、信仰の父と言われるように、信仰者の良いモデルです。アブラハムは失敗もしましたが、神を信じ崇め、信仰に堅くたった人です。アブラハムの生き方は、神を人生の中心に置く生き方です。どんなに望みが見えなくなっても信じ続ける生き方です。神の全能を疑わない生き方です。神の約束を疑わない生き方です。アブラハムは何を見て喜んでいたのでしょうか。そうです、天の故郷を見ていたのです。ここに、信仰者として生きる者が見定めるゴールが見えます。次に、ロトの生き方を見てみましょう。彼の心にはむなしさがあったと考えます。魂に空洞があったのです。世の罪に流されてここまで来てしまったのです。門のところに座って、夕陽を見ながら、取り返しのつかない過去を回想していたと想像します。アブラハムと別れて目で見て良い場所選んで生活してきました。しかしそこには幸福はなく、心満たされることがなかったのです。かえって心を痛めることを多く見てきました。しかし、ロトは、自ら真剣に神様を求め、神様に近づこうとしたことは一度もなかったのです。ロトは、そこで、二人の旅人を見つけ、何かを直感したのでしょうか。「彼らを見るなり、立ち上がって、彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ」とあります。そして、彼らにロトの家で食事をして泊まるように誘いました。ロトはそれまで得た資産を手にしてソドムの街に住むようになったのです。しかし、ロトはソドムの住人の無節操な好色な振る舞いに悩まされていました。しかし、そこでの生活には経済的な面など外面的な豊かさもあって、ロトはそこで安逸をむさぼっていたのです。ロトは神様を頭では知っていました。しかし、彼はアブラハムの様に神様と出会っていなかったのです。ロトの一家はソドムとの罪の関係を深めて、滅びの道を歩んでいたと言えるでしょう。心が神から離れると、罪の世界に引き寄せられて、世の中の不道徳や悪の流れに流されてどこまでもいくのです。ロトは、神より地上の生活を優先し、自分の考えを中心して生きる生き方の例です。もう一つの生き方の例は、ソドムとゴモラの人々です。ソドムは性的倒錯、罪に汚れた町でした。ソドムの住人はよこしまで、主に対して非常な罪人であった、と書かれています。ソドムは不道徳で悪が満っていた町でありました。しかし、そこでの人々の意識としては、悪に慣れて、悪を悪とも思わない、それが日常となっていました。しかし、彼らには真の神を礼拝し崇める生活はありませんでした。すなわち、神から離れた人間は、人間中心の日常生活を送っているということです。現代社会人の生き方の原動力となっているのは、人間中心主義です。ヒューマニズムです。これははっきり言って悪魔の考えです。人間を中心に持ってきて神を蚊帳の外に置こうとする意図がこのことばにあるからです。聖書によると、福音を拒み続けるならば、現代社会の人々はソドムやゴモラの人々より裁きの日には罰が重いといえます。現代社会を考えると、神から離れた人類の歩みの姿が見えてきます。人間は罪の性質を変えることができないのです。世界中に憎しみが増強しています。人類は教育によっても、憎しみの連鎖を断ち切ることはできません。ソドムとゴモラは特別な街ではなく、創り主から離れた人間の姿を表しているのです。

神の愛と怒り:

聖書を読むと、神の二つのお姿に出会います。一つは、愛とあわれみの神です。神は、哀れみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みと真に富んでおられる。また、罪びとをすぐに滅ぼそうとしないで、忍耐と寛容をもって悔い改めるのを待っておられるということです。

それでは、もう一つの神のお姿は、怒りの神です。この二つのお姿はどちらも神の真実なお姿です。神は聖いお方です。聖なるお方です。神の聖さからくるのが神の正義です。それは、どんな小さな罪をも赦すことができません。必ず裁きます。すなわち、裁きの神は焼き尽くす火です。もう一つは、神は愛とあわれみの神です。人を愛し亡んでしまうのを惜しんで、どんな罪をも赦す神です。

赦すため主の十字架:

では、愛し赦す神、怒り赦さない神の相矛盾している二つのお姿にどのように神は筋を通されたのでしょうか?それが十字架です。罪のない神が人となって、人の罪の身代わりとなって神の怒りをひとえに受けてくださったのです。信じる者は神の怒りを免れて、救われて神の愛の中に生きることができるのです。聖書は救いの書です。同時に聖書は警告の書です。ロトの娘たちの婿はソドムの裁きと救いの警告を聞いて、彼らは「冗談のように思われた」と書いています。そこに悲惨があります。警告を無視しました。恐ろしい落とし穴に落ちたのです。また、聖書は救いの書です。ここに救いの道があらわされています。家族、友人、知人に警告と救いを知っている私たち信者はもっと伝えるべきではないでしょうか。ロトは優柔不断で世に流されていく人間でした。しかし神はアブラハムのとりなしの祈りにこたえて、神様は彼を滅びの中から救い出してくださいました。同様に、わたしたちも、周りのこのままでは滅んでしまう方々に、福音を伝え、とりなしていきたいと思います。

アブラハムのとりなし

2017年10月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記18章16~33節
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
18:17 【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで【主】は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
18:26 【主】は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
18:33 【主】はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

<要約>

祝福を届ける器となるには:

アブラハム契約には三つの内容があります。一つ目は、アブラハムと子孫の祝福です。彼の子孫を増やし大いなる国民とすることです。二つ目は、アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪うというものです。三つめは、地上のすべての民族はアブラハムによって祝福されるというものです。このアブラハム契約はキリストによって成就し、現代もクリスチャンによって全世界で更新されています。一つ目の約束はどう成就したでしょう。アブラハムの信仰による子孫であるクリスチャンは全世界に無数に広がって、御国の大いなる国民となっています。二つ目の「アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪う」というのはどうでしょうか。イエス・キリストを信じ愛するものを神は祝福し永遠のいのちを与えてくださいます。しかし、イエス・キリストを呪うものには死と滅びが定められるということです。三つめは、アブラハムを通して、全国民を祝福するということです。今日の箇所は、その契約の実現のためにアブラハムが用いられたところです。アブラハムは滅びようとしているソドムとゴモラの町の人々のためにとりなしの祈りをしました。アブラハムは神の声を聴いて神に応答しています。心にある思いを神に申し上げています。祈りの奉仕は祝福の奉仕と言えます。ソドムの人々の救いのために、また、甥のロトの救いのためにとりなしています。アブラハム契約の三つ目は、クリスチャンは祝福の基となるというのです。さらに言えば、「クリスチャンは祝福を届ける器」といえます。クリスチャンの皆さんがいるところで、あなたの家族知人友人に祝福が届いていくというのです。神はあなたのいるところであなたの周りの人々を祝福しておられるのです。どのようにあなたは周りの人々に神の祝福を届けているのでしょうか。第一に祈りによってです。第二に、あなたの良い行いによってです。キリストがあなたを赦してくださったようにあなたも隣人を赦します。赦しは祝福です。第三に、あなたが周囲の人々に祝福を届けるのは、あなたの聖霊の実によってです。聖霊によってあなたのうちに形づくられたキリストがあなたを通して人々に表われていくことです。第四に、神の祝福を届ける器となるためには、イエス・キリストの贖いによる罪の赦しを受けることです。クリスチャンはイエス様の十字架の血潮にて罪赦された人です。私たちは悔い改めて罪赦された時、大胆に神の前に出ることができます。そして、神の祝福を届ける器とされるのです。

祈りは神を動かし世界を変える:

それでは、アブラハムのとりなしの祈りを見てみましょう。アブラハムはこの祈りで神の御心を探っています。私たちも日々、神の御心を求めています。祈りはキャッチボールです。思いを申し上げて、御声に霊の耳を傾けます。みことばを思いめぐらします。また、祈りつつ聖書を紐解きます。神は聖書の言葉を用いてあなたに語ります。また、この祈りによってアブラハムは神のあわれみを引き出しています。クリスチャンは祈りによって、神のあわれみを引き出すのです。神は裁きを遅らせています。罪人が悔い改めるのを、忍耐を持って待っておられるからです。結局、ソドムには10人も正しい人はいなかったのです。ついには燃える硫黄の火によって滅ぼされました。しかし、アブラハムの祈りによってロトと家族が救われました。このようにとりなしの祈りは神を動かすのです。神は、私たちのとりなしの祈りを求めておられます。神は「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と言われました。そして、神はご自身のみ思いを話して、アブラハムがとりなしの祈りをするように仕向けたのです。同様に神はクリスチャンのとりなしの祈りを求めています。神はクリスチャンの祈りを聞いてみ心を表わそうとしておられます。神は哀れみの神です。人を愛しあわれみ、何とか救いたいのです。罪を赦し永遠のいのちを与えたいのです。その為に祈るクリスチャンを求めています。また、救われていない家族友人知人のために祈るあなたを求めています。

主イエスは罪を担いとりなしてくださる:

私たちが神の前に出てとりなすことができる根拠は何でしょうか。人間は、自らの罪により神の前に出ることはできません。旧約の民は、神を見たら死ぬと信じていました。預言者や祭司だけが、神と語らうことができました。しかし、一般の人々はその罪ゆえに神に近づくことができなかったのです。今は、イエス様が十字架により神と和解させてくださったので、信じる者は誰でも大胆に神と語らうことができます。すなわち、現代ではクリスチャンは万民祭司として、神に人々の罪をとりなすことができるのです。さらに、罪のないイエス様が、人の罪をあたかも自分の罪のようにして、代わりに担ってくださいました。そして、十字架で自ら苦しんでくださり、死んで三日目に復活し天に昇り、神の右の座についておられます。イエス様は昼夜問わず、私たちのためにとりなしていてくださるとあります。ですから、あなたは自分の罪や弱さを大胆にキリストに持っていくことです。

神は私たち信者の祈りによって動かされ、みわざをなしてくださいます。そして、信者はキリストの救いと祝福を届ける器として召されているのです。

アブラハム契約

2017年10月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記17章1~6節、18章1~15節
17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

18:1 【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。
18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
18:5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」
18:6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
18:7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。
18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

<要約>

神の約束を受け取るためには:

アブラハムに神が現れて、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」です。それは、アブラハムと子孫を祝福すると言うのです。それに対して、アブラハムの方は神に信仰をもって従っていくのです。そこに契約が成り立ちます。その契約が、イサク、ヤコブへとそして聖書の登場人物へと次々に更新させられていくのです。ついには、イエス・キリストによって契約が完成しました。一方的なアブラハムへの約束はキリストによって完成しました。そして、これまでの一民族への約束が、今度はイエス・キリストによって全世界の人々への約束に広がり、そしてあなたにも及んでいるのです。私たちがアブラハムへの約束を受け取るには、どうしたらよいのでしょうか。それは、信仰によるのです。神の前で全き者となるのです。それは、神との関係を正す生き方と言えます。神を恐れ、愛し、信頼することです。神を恐れているなら、私たちは襟を正して、神の前を歩むのです。神の前で真実を尽くします。同時に隣人に対しても真実を尽くすのです。罪を離れて、悪から遠ざかろうとするでしょう。また、神を愛しているのならば、神の喜ばれることを考えて行動します。愛する人のことを考えるのは喜びであり楽しいことでしょう。私たちは、いつも愛する人を心の中において、愛する人が喜ぶことを考えるものです。同様にあるいはそれ以上に神を愛しているなら、常に神を思い、神を喜ばせることを考え実行します。また、もし神を信頼しているのなら、目の前の出来事に振り回されることなく嘆いたり怪しんだりしないのです。神が万事を益と変えてくださることを信じ信頼するのです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に代えることです。

人を罪の呪いから救うために:

神は不妊の女性であるサラの胎を開かれました。そして90歳にしてイサクを出産したのです。これは、不可能を可能にする神の御技です。神は約束を果たされました。そして、アブラハムも神のご命令通りその子をイサクと名付け8日目に割礼を施しました。イサクは、アブラハム契約の実現の初穂となりました。アブラハムを通してすべての民族が祝福されるという約束が、彼の子孫を通して実現していくのです。イサクは不妊のサラから生まれたことでキリストのひな型です。イエス・キリストは生まれるはずのない処女マリアから生まれたからです。イサクはアブラハムの種によって、サラから生まれました。当時の非常な長寿の時代でも90歳の出産は奇跡と言えます。でもこれは、ありうる奇跡です。とにかく、イサクは男と女から生まれた私たちと同じ人間です。それに対して、イエス・キリストは処女マリアが聖霊によって身ごもったので、これはあり得ない奇跡です。人類史上ただ一回起こったことです。それは私たち人間をその罪の呪いから救うためでした。なぜ、このようなことが起こらなければならなかったのでしょうか。私たち人間は皆アダムの子孫で、罪の性質を持って生まれてきています。生まれながらの罪人です。すべての人の持って生まれた罪の性質により、一人も神の前で、罪なしと判定されることはないというのが聖書の言うところです。ローマ書3章を見ます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」このように、人間から生まれたすべての人は罪を持っているのです。それゆえに、そのままでは呪いの下にあり、神からの栄誉は受けられないのです。しかし、神様は罪の呪いの下にある人間をあわれんで救おうとなさいました。罪の呪いの下にある人間を救うためには、罪のない者が代わりに罪の呪いを受けなければなりません。それが、イエス・キリストが受けた十字架です。生涯一度も罪を犯したことがない人、それが救い主イエス・キリストです。キリストの無罪性はどこから来ているのでしょうか。それは、マリアが聖霊なる神によって身ごもったことから来ています。イエス・キリストは人間としてお生まれになりましたが、同時に罪のない神としてお生まれになったのです。人を罪の呪いから救うために、無実の神が人となって代わりに呪われてくださった。そして、わたしやあなたのために呪いを祝福に、滅びを救いに代えてくださったのです。

救いと祝福を届けるために:

アブラハムの多くの国民の父という身分は、実は、イエス様が創り主である神を天の父と呼んだのと関係あります。イエス様以来、私たちも神を父と呼びます。神は、すべての人の父です。ですから、アブラハムは父なる神の型、タイプと言えます。名前、あるいは呼び名は、その人の働きや使命を表しています。では、クリスチャンの身分と使命は何でしょうか?Ⅰペテロ2章を見てみましょう。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ここに私たちクリスチャンの身分と使命が書いています。「選ばれた種族」、「王である祭司」について、祭司は神と人の間に立って人の罪を神にとりなす人です。クリスチャンは、隣人のことを神にとりなす役目を持っています。王は権威と権力の象徴です。ですから、クリスチャンはみことばの権威に立って、隣人のために神にとりなす人々です。そして、その役目は、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と書いています。すなわち宣教です。神がキリストによって完成してくださったこの「救いと祝福」をまだ、それを知らずに滅びに向かっている人々に宣べ伝えることが私たちの使命です。あなたの周囲の人々は依然やみの中にいるのです。どんなに世の中で豊かに有意義に楽しく暮らしている人々も依然やみの中にいることを知ってください。なぜなら、彼らは自らの罪によって呪いの下にあり神の栄誉を受けるには程遠い存在だからです。私たちは神の愛をいただかなければいけません。そして、その愛に押し出されて、キリストの救いと祝福を宣べ伝えていくのです。

試練を通して成長する

2017年10月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記13章1~18節
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。

<要約>

試練と成長の正の連鎖:

エジプトで、妻サライを自分の妹と偽ってパロをだましたという失敗をしましたが、悔い改めて主に立ち返ったのです。自分の罪を覚えさせられたと同時に、自分の知恵や力で事を勧めようとする生き方が砕かれたのです。アブラハムは苦しみに会いましたがさらに謙遜を学んだのです。試練や苦しみは、マイナスではありません。それを通して、謙遜にされます。そして、神のあわれみと忍耐そして愛を知るのです。一難去ってまた一難という状況が発生しました。今度は持ち物が多くなって、アブラハムと甥のロトとの間に摩擦が生じたのです。彼らのいる土地は一緒に住むには十分ではなかったのです。アブラハムがロトに言ったことは、信仰に立った懸命な申し出でした。年長者として当然あるはずの選択権をロトに譲って尋ねました。ソドムとゴモラの地は滅ぼされる以前であったので、主の園のように、また、以前、滞在していたエジプトの地のように肥沃で潤っていたのが目に映ったのです。ヨルダン川の水により緑豊かな牧草地が広がっていたと想像します。ロトは、アブラハムの提案を聞いて、見た目によい方を選んで東の方へ移動しました。ロトと別れて後、アブラハムに主のことばがありました。神は、アブラハムにもう一度、子孫を地のチリのように増やし、その土地を永久に子孫に与えるといわれました。神は、祝福の約束を折々にアブラハムに語りました。折々に、神は約束をアブラハムに思い起こさせて、そして、彼は主を礼拝したのです。ここに、クリスチャンライフのヒントがあります。私たちがみことばを聞いて従う、すると神はみ心を示される、そして、神を礼拝する、信仰によって約束を受け止める、ということです。そこに、クリスチャンライフの成長のサイクルがあります。試練が起こるとみこころを求めて祈ります。すなわち礼拝します。悔い改めて信仰の原点に戻るのです。み心を信じて従うのです。みことばの約束をいただきます。そして、信仰によって歩み出すのです。試練に会うとこのサイクルを繰り返すのです。アブラハムは、成長の正の連鎖、成長のサイクルにあって信仰の成長を遂げました。アブラハムの最大の試練と勝利は、なんといっても、イサクをモリヤの山で主にささげたことでしょう。ここで、アブラハムは何を得たのでしょうか。アブラハムは、神からイサクをささげるように言われました。それはイサクを殺して全焼のいけにえとすることでした。イサクは死んでしまう。しかし、神はイサクを通して子孫を増やすといわれた、その矛盾に苦しんだと思います。そこで、アブラハムは、イサクが生き返ることを信じたのです。アブラハムが信仰によって、成長して、ついには復活の信仰を得たということです。私たちはみことばにより、復活を信じています。これは、アブラハムに与えられた信仰は御子キリストによって成就しました。そして、今後、すべての信じる者に成就するのです。

不信仰と堕落の負の連鎖:

アブラハムはロトに土地選びの優先権を与えました。それに対して、父なき後、これまで面倒を見てもらったアブラハムに感謝を表すことなく、また、神に祈ることもなく、ロトは躊躇なく目を挙げて、ヨルダンの低地全体を見渡したのです。目に見えないことより目に映る有利な物に心を置いているロトの姿が見られます。彼の心の中心にあったのは、神の栄光ではなく、自分の欲得でした。神を喜ばせることより、自分の利を求めて歩む人でした。ロトは邪悪な都市ソドムにいつの間にか住むようになったのです。邪悪な人々の住むところへとひきつけられていったのです。それは、神から離れた歩みです。ソドムはこの後、火と硫黄によって滅ぼされました。ロトとロトの家族はアブラハムの祈りによって、町が滅ぼされる寸前に救出されたのです。結果的に、ロトはすべての財産を失い、二人の娘だけを連れて山に逃れたのです。そして、ロトは、モアブ人とアモン人の先祖となるのです。双方ともイスラエルの敵となるのです。ロトは不信仰と堕落の負の連鎖に陥ったのです。聖霊に従うことなく自分の古い罪の性質に従う人です。アブラハムの下で神の約束を受けることもできたのに、世に埋没して、しまいには信仰を失ったのです。

天の都、キリストの支配に生きる:

アブラハムは、もう一度、神の約束をいただき、約束の地を縦と横に歩き回り神が与えてくださる相続の地を確認しました。そしてヘブロンに天幕を移して、そこに主のために祭壇を築きました。今後、アブラハムはこのヘブロンを拠点として、活動することになるのです。このヘブロンはやがてダビデがイスラエル王朝を確立した場所になります。すなわち、アブラハムへの約束の成就と言えます。しかし、まだ、カナンの地ではアブラハムは寄留者でした。これは何を意味しているのでしょうか。へブル11:9,10 にヒントがあります。アブラハムは、カナンで他国人のように彼の子孫とともに住みました。すなわち彼は、「カナン人の間にあってカナン人ではない」、それは神の民の姿です。そこでは寄留者でありました。アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンも「世にあって、世のものではない」とイエス様が言われました。クリスチャンは「世にあっては旅人であり寄留者」と書いてある通りです。アブラハムは「かたい基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた。その都を設計し建設されたのは神である。」とある通り、彼はやがて来る神の国を意識していたと思われます。クリスチャンは、この世の中に生きていますが、神が設計して、キリストが十字架と復活で打ち立てられたキリストの支配する天の都に属しています。そして、信じる者はやがて時至って、黙示録にあるように天のエルサレムと言われる御国へと招かれているのです。これは何と驚くべきことでしょうか。アブラハムのカナンの地での寄留者としての歩みは、実は、私たち信者の歩みを予め示しているのです。

アブラハムの失敗

2017年10月 8日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記12章10節~13章2節
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

<要約>

アブラハムを失敗へと招いたこと:

アブラハムは、妻サライが非常に美しいので、エジプト人はサライを自分のものとしようとして、夫のアブラハムを殺害するのではないかと恐れました。そこで、サライには、アブラハムの妹であると言ってくれと頼みました。そうすれば、自分のいのちは守られて、かえって妹のゆえに自分は利益を受けるだろうと考えました。アブラハムはその嘘のためにパロから多くの財をもらうことになったのです。アブラハムが妻サライを妹と嘘をついて、失敗へ招いた原因は、恐れと富みの誘惑です。悪魔は彼を恐れと富の誘惑で失脚させようとしたのです。アブラハムほどの人が、なぜ、失敗したのでしょうか。それは、まず、神に祈らなかった、神に伺わなかったからと言えます。クリスチャンはどんなときにも祈るべきです。そして、み心を求めて聖書を紐解くのです。聖霊は聖書の言葉を用いて、信じる者に語ってくださいます。クリスチャンには三つの敵があります。一つは、サタンと言われる悪魔です。あなたを神から引き離そうと知恵を働かせています。二つ目は、この世です。世は、神への尊敬を持ちません。世の本質は不遜です。三つめは、あなたや私の内側にある罪の性質です。神の利益より自分の利益を大切にします。神に栄光を帰すのではなく、自分に栄光を与えようとします。私たちは常にこの三つの敵を意識しながら信仰の戦いをしていかなければなりません。

人の失敗と神の約束:

サラを召し入れたパロとその家族は主によって、ひどい災害に痛めつけられました。それは別訳では疫病です。その罪を離れて、パロは神の裁きを免れました。神がアブラハムの嘘がもたらした悲惨で恐ろしい結果をあわれみによって免れさせてくださったのです。アブラハムは、このままでは神の祝福を完全に失います。当然、アブラハムとサラの夫婦関係も破壊されるでしょう。そして、アブラハムは自分の妻を娼婦にまで落として、自分の利をむさぼるような人間にまで落とされてしまうのです。聖書は人間をありのままに描いています。神はアブラハムを選び、彼に祝福の約束を与えられました。また、神はアブラハムの名を「多くの国民の父」とまで高めてくださいました。その様な人間がこれほどまでの失敗を犯してしまうのです。アブラハムの失敗にかかわらず、神はご自身の約束を守られました。彼の失敗を逆に用いて、もう一度アブラハムをカナンの地に戻されたのです。神はご自身の計画を着実に推進される方であることがわかります。神は哀れみの神です。それでも、神は正しい方ですから、不正を見逃すことができません。ですから罪のもたらす裁きである呪いと死はあるのです。しかし、神は罪のために滅んでいく人を惜しまれて、罪のない神のひとり子に人の罪を負わせて代わりに御子を十字架で裁き、信じる者の罪を赦し、呪いを祝福に、死を永遠のいのちに代えてくださったのです。アブラハムは信仰によって義とされたとあります。義というのは罪がない状態です。アブラハムは失敗し罪を犯しましたが、義とされた、罪を認めないとされたのです。それは、神を信じる信仰によったのです。私たちも信仰によって、義とされています。失敗や罪があっても悔い改めて赦されるのです。

罪から救い、出エジプト:

旧約聖書の事件や記事の多くは、来るべきイエス・キリストを予表しています。例えば、ヨナ記の記事で、ヨナが大魚の腹の中で三日間いたのは、キリストがよみに三日間おられて復活したことを予表しています。イスラエルの民が航海を渡ったのは水のバプテスマを予表しています。アブラハムがモリヤの山で、イサクは死者の中から取り戻されました。これはキリストが死者の中から復活した型です。このように、旧約聖書はいたるところでやがて来られるキリストを予め示しています。また、旧約聖書の様々な事件や記事がその後のイスラエルの民の辿ろうとしている道を予表しています。今日のこの事件も今後のイスラエルの民が辿ろうとしている道を暗示しています。すなわち、この後、数百年後にイスラエルの民に起こる出エジプト事件です。孫のヤコブの時代に七年に及ぶ大飢饉が起こりました。その時、ヤコブとその家族は男だけで70人の大家族となっていました。ヤコブは彼らを連れてエジプトで寄留生活をすることになったのです。そして、それが民にとっては約400年にわたる奴隷生活の始まりとなったのです。時至って、ついに、モーセ率いるイスラエルの民はエジプトを脱出して約束のカナンの地に向かうのでした。この歴史的事件は、出エジプトと呼ばれるものです。そして、この出エジプトは罪と死と悪魔の束縛により奴隷とされている人類、そしてあなたを神が救出することを示しています。そして、あなたを約束と祝福の地、あるいは天のみ国へ導くための神のわざを予め示しているのです。出エジプトは、あなたが神の救いにあずかることを意味しています。アブラハムは失敗し、つまずきましたが、神の哀れみにより、約束の地、カナンへ戻されました。アブラハムには信仰があったからです。これは、あなたの人生へのメッセージでもあります。あなたも様々な人生の失敗やつまずきも経験して今があると思います。そのたびに主はあなたに対する約束を果たされ、罪と死と悪魔からこの救いに戻してくださっているのです。そこで求められているのは信仰です。