音声

放蕩息子と父の愛

2018年11月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書15章11~32節
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

<要約>

思いを変えて神に帰る;
彼は、放蕩に走ってしまいました。そして、何もかも失ってしまいました。これは、真の神から離れた人間を表しています。神を離れたところには真の自由はありません。また、何にも縛られずに自分の思いのまま神からの賜物である財産を使おうとしてもそれは、無駄使いになります。結局失うのです。もともと私たちは裸で生まれて、裸で去って行く存在です。ですから財は、神からの預かりものです。それは世のため人のために、ひいては神のために用いるべきものです。彼は、ユダヤ人には最も忌まわしい職業である豚の世話をする羽目になり、さらに、食物にも事欠くようになりました。人生には苦難や不幸と思われることがあります。しかし、それは神があなたを神に立ち返らせ、もっと素晴らしい喜びと祝福の人生に導こうとして許されるのです。彼は回心しました。我に返ったのです。彼は、お金を持っていた時は何でもできると思っていたことでしょう。しかし、今、自分が貧しくみじめなことに気付いたのです。自分で自分を救うことはできないことに気付きました。また、その様に自分の心の貧しさに気付かなければ、悔い改め、心の方向転換は、起きないと言えます。聖書は、生まれながらの人は神から心が離れて、真の自由を得ていないと指摘します。神を見上げて神の救いを得た人には神のいのちが与えられています。我に立ち返った弟は、心の中で、言います。父の家には、有り余る食物があり、雇人さえ、食べることに心配していないではないか、と。しかし、彼は、父がどれだけ心配しているか考えていませんでした。父の豊かな持ち物に関心があったのです。あなたを心配して救いたいと思っておられる神の愛を考えずに、神の賜物に目を注ぐ人が多いのです。あなたは神の救いを自分のものとする前に、父なる神はどんなにかあなたを心配し、あなたを心にとめておられるかを知らなければなりません。
走り寄る神;
次に、父親を見たいと思います。父親は神を表しています。彼が父の家に向かうのに、まだ、家が遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした、と書いています。父の思いを無視して、自分勝手に出て行った息子ですが、父は彼を来る日も来る日も忘れたことはなかったでしょう。毎日毎日、門のところで帰ってくるのを待っているのです。まだ、遠くにいるのに見つけ出そうとしておられるのです。子が父を見出す前に父が子を見出しました。それが神のあなたに対する思いです。次に、かわいそうに思われました。そして、走り寄って、彼を抱き、口づけをした、と書いています。走り寄る神、それは深い哀れみと愛を表しています。それは、ご自身の御子キリストを与えて罪びとの私たちに近づいてくださるご愛です。そして抱いて口づけをしました。この口づけは、繰り返し口づけをしたという意味です。豚の世話をして、お風呂にも入らず、臭くて汚い息子だったでしょう。しかし、それも構わず、抱き着いて、何度も何度も口づけしたのです。ここに父のあなたに対する思いがあります。息子は言いました。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』と。その後、『雇人の一人にしてください』と言おうとしていましたが、父はそれを遮って、『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。』と言いました。これは、雇人ではなく、世継ぎとしての復権です。ここに、私たちの神のお心、御思い、を知ることができます。イエス様はこのたとえ話をお語りになって、父なる神がどのような方であるかを私たちにお示しになったのです。神は、あなたがあなたの罪のために滅びることを惜しまれて、神のひとり子であるイエス様をあなたの罪の身代わりとして十字架に差し出すほどにあなたをあわれみ愛しておられるのです。それは、あなたが神に立ち返り、神のいのちにつながり、永遠のいのちを得るためなのです。神は、あなたが神に立ち返るならこの上もなく喜ばれるのです。天では祝宴が開かれるのです。
神に帰って始まる幸いな人生;
最後に、放蕩息子の兄が登場します。兄は畑から帰ってきて、父が帰ってきた弟を歓待しているのを見て、怒って、家に入ろうともしなかったのです。この兄の怒りの理由は二つあります。一つは、弟は歓迎される資格のない無頼者であるということ。もう一つは、自分に対する父の態度と比較すると父は不公平であるということです。自分は従順にやってきたのに、弟は財産を放蕩と怠惰で使い尽くしてしまった。それなのに、というのです。本来、兄は父と共にいます。そして、父の物は自分のものとしているので、弟の罪を責めて、父の弟への恩恵を非難するには全く当たらないのです。むしろ、父の喜びを喜びとすべきでした。兄は素直に喜べないところに不幸があります。弟の方がはるかに幸福です。人は、自分の罪が分かり、赦しの中で神の愛と神の恵みに生きることこそ幸せなのです。兄のように、お金があっても道徳があっても人は幸福になれません。真に幸福な人生は神のもとに立ち帰ったときにはじまります。放蕩息子とその兄の例えは、どちらが幸せな生き方であるかを教えています。私たちは幸いな人生をだれもが望んでいます。ヘンリー・ナウエンが魂のホームを求めて、父なる神のもとにそれを見出したように、あなたもあなたの真のホームを神に帰るときに得られるのです。

 

未経験と非常識の世界

2018年10月 14日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書5章1~11節
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
<要約>

暗やみが深いほど福音の光は強い

イエス様の宣教開始は、イザヤ9章の預言に紹介されているように、「暗やみと死の地と死の影に座っていた人々に、光が照った」と言うことで紹介されています。暗やみと死と表現されている状況の中で、光が来た、と言うことです。それは、暗やみが光に変わり、死がいのちに代わる、絶望が希望に代わる、悲しみは喜びに代わることです。絶望的なマイナスが、希望に輝くプラスに代わった、と言うことです。イエス様の福音は、闇が深く、絶望にある人ほど、そして、死の恐怖を強く感じている人ほど、福音の光は強く照らしていると言えます。目の前の闇が深ければ深いほど、後ろを照らす太陽の光は強いのと同じです。ですから、もし皆さんが、今、悲しみにあるならば、幸いです。また、もし罪を深く感じているのなら幸いです。希望を失っているのなら、幸いです。足りなさを感じているのなら幸いです。慰められ、赦され、満たされるからです。イエス様の福音は、あなたを死の滅びから救い出して、御国に招き入れ、神のいのちの中でとこしえの幸いをお与えくださるからです。

一歩を踏み出すとみことばが成就する

イエス様はシモン・ペテロをご覧になりました。そして、言いました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と。ペテロは、夜どおし働いても一つもとれませんでしたが、「でもおことばどおり」と言って従ったのです。この「おことば通りに一歩踏み出します」「たといそうでなくても従います」という言葉は、信仰のキーワードです。ペテロは「おことば通り網を下してみましょう」と言って、信仰の第一歩を踏み出して、この後、大いなる神との出会いを経験するのです。私たちは自分の経験や常識といわれるものによって第一歩を踏み出せないでいることはないでしょうか。み言葉はわかっている、しかし、そんなことは信じられないといってないでしょうか。「その通りにすると」たくさんの魚が入り、網が破れそうになりました。「その通りにすると」神のいわれたこと、みことばの通りに従うと神を経験するのです。それは、人間の経験や常識では推し量ることができない神のわざが起こったのです。ペテロをはじめその他の漁師はものすごい感動を経験したのではないでしょうか。私たちもその感動を追体験しています。みことばが成就するという体験をします。

人生の最大の発見、神との出会い

信仰生活は、未経験と非常識の世界です。それは驚きと感動に満ちている世界です。あなたの信仰生活はそのような驚きと感動で満ちていますか。ペテロは言いました。「主よ。わたしのようなものから離れてください。私は罪深い人間ですから」そして、主の足元にひれ伏しました。神の聖さに触れて、自分の罪が鏡のように映しだされるのです。罪が分からないという人は、神に心を閉ざしている人です。聖霊が心に触れるとその聖さのために自分の汚れに気付くのです。暗い部屋に窓から光が差し込む小さな誇りや汚れが見えるのです。同様に、聖霊が光となってあなたの心を照らすと心の罪が見えてくるのです。しかし、遮光カーテンを閉めて、聖霊に心を閉ざしている人は自分の罪が見えないのです。聖霊様に正直な心でいたいです。ペテロはイエス様の足元にひれ伏しました。彼は降参したのです。もうお手上げです。あなたに負けました。太刀打ちできません。圧倒的な神の力を経験したのです。今まで、しがみついてきた自分自身、そこによりどころを失ったのです。自分で何とかしようとあがいていたことが無益であったことに気づいたのです。ここで初めて、彼は、自分の心の王座から降りました。そして、イエス様に座っていただいたのです。これが、神との関係が正される瞬間です。かくして、ペテロは神との本当の出会いを経験し、何もかも捨ててイエス様に従ったのです。ペテロはこの出会いによって、人生が180度変わりました。私たちもこれまで、多くの出会いを経験してきました。ある人と出会ったためにあなたの人生は良い方向へ変わったということはないでしょうか。背後にイエス様がおられたのです。人生は出会いで決まるといった人がいます。人は人によって成長し、信頼によって人は変えられるのです。イエス様のまなざしは変わることがありません。赦しと信頼のまなざしなのです。私たちもイエス様を真の主として信頼し続けていきましう。

イエスの最初の弟子

2018年10月 07日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネ1章35~51節
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

<要約>

招きに応えキリストを切に求める:

当時、イスラエルはローマの圧政下にあり、国家的にも民族的にも宗教的にも暗黒でした。そのような圧迫された状況の中で、群衆は、バプテスマのヨハネこそ国民が待ち望んでいたキリストではないかとさえ思うようになりました。アンデレやヨハネのような志のある青年たちはそのようなバプテスマのヨハネに弟子入りしたのです。彼らは、自分たちの夢や希望をヨハネと言う人物に賭けようとしていたのでしょう。そのような中で、ヨハネは、自分はキリストではなく、荒野で叫ぶ声である、と自己紹介をします。そして、主の来られる道を整える働きをしている者だというのでした。そして、そのバプテスマのヨハネがイエス様を指して言いました。「この方は私よりも優れた方で、私はこの方の靴のひもを解く価値もない」と。それを聞いたアンデレとヨハネの思いに変化が出てきました。彼らは、ローマの圧政から人々を解放してくれる政治的なメシヤを期待していたからです。青年たちには立身出世の野望もあったと思います。彼らには、ヨハネよりもイエス様に着いたほうが有利であると考えたでしょう。イエス様について行ったのです。それに対して、イエス様は「あなた方は何を求めているのですか」と言う問いかけをしました。あなた方は「誰を」求めているのですか、と言わないで、「何を」求めているのですか、と問うています。イエス様に自分たちの夢を見出そうとしている彼らの心をイエス様は見透かしました。そして、「あなた方は何を求めているのですか」の質問によって彼らの思いを正そうとなさったのです。「わたしがイスラエルの政治的な解放者となってあなた方の夢や希望がかなうことか」と問われたのです。彼らは、イエス様に「何を求めているか」と言われて、その瞬間、イエス様に「何か」を求めていた自分たちに気付かされました。そして、自分たちの思いを正されました。そして、「ラビ。今どこにお泊りですか。」と尋ねたのです。私たち信者は、イエス様にいろいろな求めをします。しかし、イエス様ご自身を知らないでいることがないでしょうか。また、お願いばかりで、イエス様と人格的なお交わりをしていないことはないでしょうか。もし、あなたの子どもたちが、何か欲しい時だけ、あなたのところに来て、欲しいものが手に入ったらあと用はないと言う態度であったら親は悲しい限りです。親は単に利用されていると感じるでしょう。自分の平安、自分にとっての利ばかりを求めていて、キリストにあなたを明け渡していないということはないでしょうか。もしそうならば、それは、神を利用していることにはならないでしょうか。私たちは自分をキリストに明け渡して、キリストを知ることを切に求めましょう。なぜなら、あなたがイエス様を求める以上にイエス様はあなたを求めておられるからです。イエス様は言われました。「来なさい。そうすればわかります。」彼らはイエス様についていきました。そして、イエス様の泊まっておられるところで、おそらく一緒に食事をして、夜遅くまで語らったのでしょう。そこで、アンデレは、この方こそメシヤであると信じたのです。すなわち、アンデレは、バプテスマのヨハネが言っている通りこの方こそ聖書に約束されていた救い主だと確信したのです。イエス様はすべての人を招いています。わたしに来なさいと。わたしのところに来なさい、そうすれば私が誰であるかわかるようになります。その様に招いています。目には見えませんが、イエス様は教会に今日もいらっしゃいます。心の目を開いて、みことばを聞くならばイエス様はあなたにご自身を現します

十字架の血で和解を得て永遠のいのちに至る:

イエス様は真の救い主であります。信じる者に決して消すことのできない平安と生きる喜びをお与えくださいます。そのことを、バプテスマのヨハネがイエス様を指して言った「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」ということばとイエス様ご自身が言った「天が開けて、神のみ使いたちが人の子の上を上り下りするのをあなた方は今にみます」と言う言葉から考えたいと思います。はじめの「罪を取り除く神の小羊」は、イエス・キリストの働きについての預言です。旧約時代は、罪を犯した民を贖うために神殿の祭壇で傷の無い小羊の血が繰り返し流されていました。動物が身代わりとなって民の罪を負って祭壇で殺されたのです。それは、無罪のキリストが十字架で全人類の罪を贖うことの予表でした。すなわち、とき至って、全人類の身代わりとなって罪の罰をあなたの代りに十字架で受けて死んでくださった事です。神の御子キリストは全人類の罪を贖うため、ただ一度十字架で血を流されたのです。それが「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」の意味です。もしあなたが、イエス様の十字架があなたのためであったことを信じるならば、あなたのすべての罪は赦されて、あなたは救われます。次に、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」から考えてみます。これは、創世記28章12節のヤコブの見た夢からの引用です。イエス様は天と地をわたす梯子となられて、天使たちがイエス様の上を上り下りしているという情景です。これは、イエス様が神と人間の橋渡しとなり和解となることを表しています。イエス様は生涯一度も罪を犯したことがない神の御子です。その無罪の神が人となったのです。そして、すべての人の罪の身代わりとなって十字架で死んで、罪の代価を支払ってくださいました。その事によって、神の怒りは取り去られました。神との和解ができたのです。その事を信じた人は神との平和を得ているともいえます。神の怒りが臨むことはもうありません。その代わり、神の愛のみが注がれます。すなわち、永遠のいのちです。神のいのちにつながりしぼむことのない希望の人生が約束されるのです。イエス様は人々に君臨するのではなく仕えるために来られました。そして、十字架でご自身の命を捨てるほどにへりくだられました。人々を父なる神様にとりなし、結び付ける働きをなさったのです。すなわち、天の梯子となられたのです。イエス様は十字架で死んだばかりでなく、三日目に復活し、天に昇り神の右の座にお着きになりました。私たちの最後の敵である死に対しても勝利の道を開いてくださったのです。かくして、死は滅びではなく永遠の命の入り口となったのです。

イエス様に結びつけるアンデレ

アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でしたがイエス・キリストにお会いして、その目で見、その人格に触れて、イエス・キリストこそメシヤ、救い主だという確信を持ちました。そして、彼は兄弟ペテロをイエスのもとに連れてきました。また五千人の給食の時には、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年を見つけ、イエス・キリストのもとに連れてきました。またイエスに会いたいというギリシア人をイエス様に伝えたのもアンデレでした。アンデレは人々をイエス様につれてきてイエス様と引き合わせる人でした。そのような賜物を持っている人であったと思います。彼はイエス様の最初の弟子となった者ですが、ペテロやヨハネやヤコブのように表立った人物ではなかったようです。イエス様は山上での変貌の時、ゲッセマネの祈りの時、ヤイロの娘の癒しのときも、ペテロとヨハネとヤコブの三人を連れて行かれました。しかし、アンデレは連れて行きませんでした。普通であれば妬みや恨みを買うことになるのでしょう。しかし、アンデレはその点、十分に謙遜な人物であったようです。隠れた役割に徹することを喜べる人間になりたいと思います。主イエスは、「あなた方の間で偉くなりたいと思うものは皆に仕えるものになりなさい。」と言われました。それは、実はイエス様ご自身のお姿なのです。イエス様が言われたように、皆に仕えるということこそが偉大さのしるしなのです。私たちはこの主の教えをどのくらい本気で受け止めているでしょうか。この視点に立つならアンデレこそ偉大な人物ということになります。彼は素直に自分の賜物を認識しそれを守り、そして人々をイエス・キリストに連れてきた人物でした。アンデレは、自分を無にして仕えるもの、人々をイエス様に連れてくる、あるいは結びつけるものとなりました。アンデレはイエス様の生き様を正しくまねた人物でした。人々の注目を浴びるキリストではなく、自分を無にして神に仕えるイエス様の姿です。アンデレのように、つぶやきでなく、自分が今与えられた状況や与えられた賜物に満足し感謝したいと思います。私たちはキリストの僕として徹しているでしょうか。神様のことより自分のことを優先させていないでしょうか。神のみなが褒めたたえられることを喜びとしているでしょうか。何よりも私たちの罪のために死んでくださり、私たちに真実の命を与えるために復活してくださったイエス様をいつも意識して今週も生活しましょう。

 

 

大義に立つ戦争

2018年09月 30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記14章1~24節
14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、
14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。
14:3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。
14:5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
14:6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。
14:7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。
14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。
14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。
14:11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。
14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

<要約>

神の栄光のために用いる自由

アブラムは、彼から報告を受けロトを救出する決意をしました。アブラムは彼の家に生まれたしもべ318人を招集しました。それに、アネルとエシュコルとマムレの兵士たちを加えておそらく、500から1000人程度の軍隊となったと想像します。もちろん隊長はアブラハムです。しかし、ケドルラオメルの軍隊とは軍備ではかなわないとアブラハムは考えていたことでしょう。しかし、彼らは目的を果たして、帰途にあったことから油断していたことでしょう。そこで、夜襲をかける作戦を取りました。後に、ギデオンが少数の兵士で、深夜に圧倒的多数のミデアン人を打った時のように、何よりも主が加勢してくださって夜襲は大成功を修めました。アブラムはロトの家族や財産と大勢の人々を取り戻したのです。ケドルラオメル連合軍を打ち破って、ヘブロンへ帰る手前で、王の谷と言われるシャベの谷まできた時に二人の王がアブラムを出迎えました。シャレムの王メルキゼデクとソドムの王です。シャレムは現在のエルサレムです。シャレムの意味は平和です。平和の王メルキゼデクは戦争で疲れたアブラハムとその連隊に必要なパンとぶどう酒を持ってきて彼らの労をいたわりました。また、何よりも神の祝福の言葉を携えて来たのです。アブラムは、今回の戦争の大義を考えていました。当時は、戦争は自国の理のために、自分より弱い国を支配し、略奪して、国益増強のためのものでした。しかし、アブラムの戦いの目的はそれとは全く違っていました。それは、甥のロトの救出でした。ですから、アブラムは、今回の戦争は自分の財産を増やして勢力を張るためではなかったことを自分に言い聞かせていたと想像します。アブラムは多くの戦利品を携えての凱旋でした。それだけに、自分の行動の大義を考えていたところでした。アブラムはエジプトでの失敗を思い出していました。エジプトで妻のサラを妹であると言って偽りました。サラの美しさゆえにパロは宮廷にサラを召し入れました。そしてそのために、アブラムはパロから多くの家畜や多くの男女の奴隷をもらい富んだのです。しかし、それは、神への罪でした。その事があって、今度は、アブラムは自分の行動の動機を吟味して、神の承認を得たいと思っていました。そのような時、いと高き神の祭司であるサレムの王メルキゼデクの訪問を受けたのです。メルキゼデクは、アブラムを祝福して言いました。「天と地をつくられた神が、アブラムの敵を彼に渡された。いと高き神に誉れあれ。」と。アブラムは、この戦いが神に覚えられており、神が勝利を与えてくださった事がはっきり認識したのです。そして、神に栄光を帰すことを教えられたのです。このように、アブラハムの信仰を受け継いだクリスチャンは自分の行動を吟味するのです。常にみこころかどうかということです。すべてことはやっていいのです。しかし、それらのことが益になっているかを吟味するのです。クリスチャンになるといろいろ制限を受けて自由がなくなると思っている方が多いと思います。実はその逆です。クリスチャンはどんなことにも支配されません。ただそれが、神のみ心に沿ったことかを吟味します。イエス様を信じてみことばに立って生活を設計するとすべてが秩序だって、何にも縛られない本当の自由を得るのです。そして、アブラムはメルキゼデクから神に栄光を帰すことを教えられて、アブラムはすべての財の十分に一を彼に与えたのです。そこにアブラムの神への献身があります。このようにアブラムは戦利品を自分の富とすることもできたのですが、ロトの救出と言う大義に立ち神に栄光を帰したのです。

神からの祝福と悪魔の誘惑

メルキゼデクの訪問に対して、次の、ソドムの王は、アブラムに言いました。「人々は私に返して、財産はあなたがとってください」と。ソドムの王は、邪心をもってアブラムに近づいたと思われます。取引を持ち掛けます。彼には、エラムの王ケドルラオメルからの脅威がなくなりました。その分、アブラムが逆に目の上のたん瘤のように今後脅威となる存在となりました。そこで、彼は、富をアブラムに与え、アブラムを富ませたのは自分であるという思いをアブラムに刻み込もうとしたのです。それは心理作戦です。次には巧みにアブラムを邪悪な誘惑に誘い、アブラムをはめて弱みを握り、自分の支配下に置こうと考えたのです。アブラハムは、そのことに気付き、ソドムの王の申し出をはっきりと断るのでした。二人の全く違う王の訪問は何を意味しているのでしょうか。それは、何か一大事を成し遂げた後に来る神からの祝福と悪魔の誘惑です。私たちも一つの事業なり、計画なりを実行した後、それがうまくいったときに二通りのことがやってきます。それは、一つは神からの祝福です。そして私たちは、神に栄光と誉をお返しするのです。もう一つは自分の手柄を覚えて高慢になり、自分に栄誉を帰そうとする誘惑です。ソドムの王の申し出は悪魔の誘いでした。アブラムはソドムの王の申し出をきっぱり断り戦争で戻したすべての者を彼に返しました。よく言われるのは、霊的に一番危ないときは、何かを成し遂げた時だと言います。悪魔はあなたの心にささやきます。その時、私たちは神に申し上げましょう。『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と。

クリスチャンは万人祭司:

メルキゼデクは、キリストではありませんが、キリストの型であります。メルキゼデクは、王であり祭司でした。キリストも王であり、祭司の職務を担っていました。祭司の職務は、とりなしです。人を神に執り成すことです。当時では、罪の贖いの代価として、傷のない動物をいけにえとして神に捧げました。キリストはご自身を人の罪の贖いの代価として、ご自身のいのちを犠牲におささげ下さいました。そして、今も、キリストに来るものを神に執り成し、罪の赦しをご自身の十字架の贖いにより宣言しているのです。アブラムには神のことばが与えられて、その時に祭壇を築きいけにえを捧げて祈りました。それは、神への礼拝行為でした。私たちクリスチャンも礼拝の民と言われています。昔の人は、祭壇を築き神に礼拝しました。現代の私たちは、教会に来て賛美のいけにえを捧げ、自分の心と思いを主に捧げて礼拝します。クリスチャンは万人祭司であると言われています。つまり、すべてのクリスチャンは祭司としての職務を負っています。祭司は祭壇でいけにえの羊などの動物の血を携えて神のみ前に出ます。同様にクリスチャンは神の子羊であるキリストが十字架で流された血によって神の前に立つことができる存在です。そして、クリスチャンはすべての人の罪の贖いとなった神の子羊であるキリストにより、周りの人々のために執り成し祈る人々だからです。わたしたちも家族友人知人のために日々、とりなしの祈りをしましょう。

 

アブラハムの祝福とは?

2018年09月 23日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記12章1~9節
12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
<要約>

信仰を受け継ぐ祝福

「地上のすべての民族はアブラムによって祝福される」という預言があります。それは、アブラムの子孫のイスラエルに全人類の救い主イエス・キリストが誕生することによって成就しました。アブラムはすべての人々の祝福の基となるのです。ですから、キリストを信じるすべての人は、信仰によってアブラムの子孫となり、アブラムと一緒に祝福を受けるのです。神は、アブラハムを祝福し、その信仰の継承者であるクリスチャンを祝福するというのが神の約束です。私たちもアブラハムのように、神をどこまでも信頼していきましょう。

繁栄の祝福

アブラムの祝福の最初は、繁栄の約束です。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福しあなたの名を大いなるものとしよう」と言うみことばです。神はアブラムに土地を与える約束をします。そして、アブラムに子孫の約束を与えます。アブラハムの祝福を受け継ぐクリスチャンである私たちにも、神は天にある豊かなあふれる富をお与えになります。一国の帝王が、その子どもたちに自分の資産を相続させるのと同じです。アブラハムのように彼の地上での生涯の中では、その富を見ることがなかったとしても、天には多いなる宝が積まれているのです。

罪の赦しと永遠のいのちの祝福

聖書を読むと、神の二通りのお姿を見ます。一つは怒りの神です。神は焼き尽くす火、と書いているようにそれは恐ろしい、罪や悪に対しては容赦のない裁きを下される神です。もう一つのお姿は、やさしい、やさしい父親のようなお姿です。神の祝福は、罪の赦しと永遠のいのちです。それは、アブラハムの子孫イエス・キリストにより与えられるものです。律法の呪いから贖い出されたということです。神は罪のない神のひとり子を呪いの十字架にかけることを良しとしました。そして、神の全人類の罪に対する怒りを代りに御子の上に落とされたのです。ですから、キリストの十字架の贖いを信じる者には神の怒りはもう及ばないのです。彼らには、神の祝福しか及ばないと言えます。怒りの神のお姿は消えました。そして、もう一方の優しい愛の神のお姿があるのみです。

 

信仰が希望を保証する

2018年09月 16日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

 

<聖書>創世記11:10~26 へブル書1:1~6

11:10 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。
11:11 セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:12 アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。
11:13 アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:14 シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。
11:15 シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:16 エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
11:17 エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:18 ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。
11:19 ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:20 レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。
11:21 レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:22 セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。
11:23 セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:24 ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。
11:25 ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:26 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

ヘブル
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

<要約>

受け継いだ信仰にとどまる

このセムからアブラハムまでの系図は何を物語っているのでしょうか。それは信仰です。真の神への信仰がノアからセムと子孫に受け継がれたことを語っています。神は救いを信仰と言う手段で受け取ることを勧めています。へブル書には、「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。望んでいる事柄が必ず実現すると信じて、みことばを握っていくのです。信仰にとどまり続けるためにはどうすればよいでしょうか。それは、みことばと交わりです。毎週礼拝に来て、みことばを聞き交わりを持つことです。私たちが救われたのは、信仰が人から人へ受け継がれたからです。私たちも信仰にとどまり、受け継いだ信仰を次の人々へ継承していく勤めがあるのです。

向きを変えて神を仰ぐ

カインはアベルを妬み、殺しました。最初の殺人事件の動機は妬みでした。妬みは最も誰もが抱く罪です。自分にないものを欲しがるむさぼりからくる罪です。人を不幸に落とす最大の罪です。妬みは破壊的な悪の力を誘導します。妬みから解放されるように、私たちは常に神から与えられているものに満足して感謝していくことです。罪から守られるためにはどうすればよいのでしょうか。常に悔い改めることです。悔い改めは反省とは違います。後悔とも違います。悔い改めは、向きを変えることです。キリストの十字架を見上げて罪の赦しをいただくのです。

信仰によって大きな希望に生きる

主の祈りで、私たちは「御国が来ますように」と天国の到来を祈ります。「御国が来ますように」と言うのは、永遠の神ご自身に国ごとこっちに引っ越してきてくださいと言うような祈りです。これはあまりにも大きな願いです。もしイエス様がそのことを求めるように教えて下さらなかったならば、人間の心は、それを望むなど到底思いもつかないものです。イエス様は、父なる神に何でも求めるように私たちに教えています。私たちは自分では大それたと思えるような願いでもキリストにあっては大いに求めてもいいのです。いな、求めるべきなのです。神様は私たちを祝福しようと耳を傾けておられます。

 

降りて来られた神

2018年09月 09日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11章1~9節
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
<要約>

神中心から人間中心になった社会;

洪水後、船から出たノアの家族は「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の神の祝福を受けて人数も増しました。彼らはシヌアルの地へ移動していきました。最初の権力者となったニムロデは「主のおかげで力ある猟師となった」とあります。ニムロデは、主によって賜物を与えられて、地を治め、人々に平和と安全を与える役目を担った最初に人物でした。しかし、なんという皮肉でしょうか。ニムロデはこの後、バベルの塔事件を起こし、さらに後に、繁栄と堕落を極めたバビロン王国の始祖となったのです。ニムロデは、本来はそれらの能力を用いて世の人々に仕える役割を与えられたのです。しかし、残念ながら高慢となり、逆に人々を扇動して神に敵対するために立ち上がったのです。それが、バベルの塔の事件です。

正すために降りてこられた神;

「主は人間が立てた町と塔をご覧になるために降りてこられた」とあります。神は、ご覧になり、「今や、人間がすることはとどめられることはない」といわれました。人間は自分の知恵や力を結集して、神に反逆しようとしたのです。人は一つになって、神に敵対し無軌道な歩みしてしまいます。彼らが滅ぼしつくされないように、神は言葉を混乱させました。これは、神の配慮です。創造主なる神を無視して歩むときに人間は高慢となり、自分中心となり自滅の道を進むのです。神は言葉を混乱させて、バベルの塔建設を押しとどめました。私たちの人生も神中心にあるべきです。人間中心の世界には救いはありません。神のご支配をこの世に及ぼすために、キリストは見せかけの平和を打ち砕かれたのです。

救うために降りてこられた神

神はもう一度人間社会に降りてきてくださいました。それがクリスマスです。神が人となって来てくださったのです。イエス・キリストは、あなたを罪と死と悪魔から救うために来られました。神は、言葉を混乱させて人々を散らされたのとは反対に、キリストにより全人類を一つの国民一つの民にしたいと願っています。サタンの支配からキリストの支配に取り戻そうと願っておられるのです。私たちはそのために先に救われたのです。

 

 

 

ノアと洪水

2018年09月 02日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記6章1~22節
6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。
6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。
6:15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。
6:16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。
6:17 わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。
6:18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。
6:19 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。
6:20 また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。
6:21 あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

<要約>

見えるものに傾く人間;

「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、」と言う文章があります。「神の子ら」は何かと言うことです。これは主にセツの子孫で「神を信じる者」つまり信者を指していると考えて良いでしょう。人の娘というのは、主にカインの子孫で神を信じない人々の娘です。信者たちは、不信者の娘たちに心ひかれたということでしょう。信仰で物事を判断しなくなった姿勢、信仰を大切にしなくなった姿がうかがえます。そこに、目に見える物に傾く人間の姿があります。ネフィリムは昔の勇士で名のある者たちであるとあります。ネフィリムは「落ちる」という意味があることから、堕落した者たちをさしています。これは、主にカインの子孫であったと思われます。これは、巨人であり、力があり、勇士であり、名のある者、すなわち、権力や勢力を持った人間でした。人々が目に見えない神よりも、目に見える力ある人に心惹かれて行ったのです。信者たちも信仰の事より世の事に心を奪われるようになりました。目に見える物に傾く傾向です。心の目は曇ってしまし、肉の目で見える物しか、知ろうとしなくなります。人間は、神を追い出して、神なき世界を作り出していくのです。それは、神を追い出して人間中心の世界を築き上げてきた人類の姿です。「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」のを神はご覧になったのです。神から離れた人間は、神を恐れ、愛し、信頼することがなくなります。善悪の判断基準は自分にありますので、自分中心の生き方になります。それぞれの人々が、自分中心になれば、必ず、争いが起きます。神は私たちを愛の対象として創られました。土から創られて、鼻から神の霊を吹き込まれたのです。そして、人間は神に似たものとなったのです。しかし罪が入り、人は御霊を心の内から追い出してしまったのです。人間は御霊に聞き従うより、肉、すなわち罪の性質に従うことを選択して生きるようになりました。いつしか、神の存在を認めなくなったのです。私たちクリスチャンは、聖霊をいただいた者たちですが、肉といわれる罪の性質が残っています。もし、御霊によって生きなければ肉によって生きることになります。ついには、聖霊を追い出してしまうのです。日本では、洗礼を受けてクリスチャンになっても、信仰の破船に会い、教会から離れて行く人々が多くあります。聖霊に聞き従うより、自分の肉に従う人々です。このように現代の多くの人々は、神の存在がわからない、神がおられることも認めないのです。これは神を離れていく人間の姿ということができます。何度も神は悔い改めを迫ったでしょう。実際、箱舟を建造する数十年の期間を用いて、ノアは宣教したことがうかがわれます。しかし、聞く耳を持たなかった人類に、ついに裁きの時が来たのです。7章を見ると雨が降り始めたその日にノアとその家族は箱舟に入りました。あらゆる動物たちも中に入りました。その時も、箱舟の扉は空いていたのです。人々は招かれていたのです。7章16節で、最後に神が後ろの戸を閉められたのです。神の忍耐とあわれみは大きいことを知ってください。また、最後に後ろの戸を閉めなければならない神の痛みと悲しみを知ってください。

見えない神を第一とするノア;

「ノアは正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」と書いています。正しい人、というのは、神との関係において正しいということです。神との関係において正しいことと、人との関係において正しいこととは必ずしも同じではありません。ノアは神との関係をいつも第一としていたのです。人生は選択の連続です。何を選んで進んでいったらよいか迷うこともあります。その時はまず、神との関係を第一とするのです。最善の道が開かれます。どうしたら、御心を知ることができるでしょうか。神のみこころはどこに表れていますか?十戒に表れています。ですから、原則的には十戒に照らして、みこころかどうかを判定します。このように、ノアは神様との関係を第一としてその信仰を認められた人です。私たちも、ノアのように神様との関係を正す必要があります。

信仰によって義とされる人生

神は「わたしはあなたと契約を結ぼう」とノア一人を指して誓われました。神は一人の人ノアに人類救済を託したのです。ノアの信仰についてはへブル書11章を見てみましょう。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」ノアは箱舟で水を潜り抜けて救われました。そして、信仰によって義とされました。彼は、箱舟をつくって、人々をそこに入るように招いたものの、世の人々は不信仰になり、神の警告を聞きませんでした。その事により世は罪に定められたのです。神はノアを選び、契約を結び、彼に人類救済を託しました。同様に、神は私たちクリスチャンを選び、約束を与えて、他の人々の救いのために遣わしてくださっています。ノアの時代の人々は、箱舟に救いがあることを信じないで滅びました。同様に、イエス様の十字架に救いがあることを信じない人は滅びます。なぜなら、十字架の救いの道が提供されているからです。十字架を信じれば救われるのです。しかし、十字架を信じない人は罪に定められます。不信仰によって罪が明らかにされるのです。ノアは、その時代の人々にとって、浮いた存在だったでしょう。私たちクリスチャンも信仰を守ろうとするとき、世にあっては生きづらいこともあるでしょう。しかし、ノアのように神を恐れ、神を愛し、神に信頼していくならば、ノアのように必ず、大いなる祝福を受け継ぐものとなるのです。

 

 

皮の衣

2018年08月 26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記3章1~15節
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

<要約>

呪いとしての人生

アダムの罪により、人は完全に堕落してしまいました。彼らは罪によって呪われたものとなってしまいました。女性に対しては、うめきと苦しみです。その内容の一つが、苦しんで子を産むということです。出産にかかわる苦しみです。女性は、妊娠すれば、つわりなど肉体の苦しみがあります。また、お産の時は陣痛を経験します。次に、女性は夫となる人をしたい求めるが、夫からは支配されるというのです。そこに生じるのが力関係です。すなわち、女性は男性から力で支配されるのです。堕落まえは、支配される関係ではなく、愛と信頼の関係があったと思います。妻は夫に従い、夫は妻を愛するのです。そこには人格的な関係があり、力で相手を利用するということはありません。次に、男性の方です。自然界は、アダムの罪により呪われます。土地はアザミと茨を生じさせて、食を得るためには苦しまなければなりません。労働は食べるためであり、それには困難と苦しみが伴います。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」人生では労苦とわざわいを経験し、ついには土にかえるのです。それが、悪魔の支配下にある人の歩であると言えます。

神の恩寵と祝福の人生

アダムは、死の決定を受けた後、エバが多くの子孫の母となることを悟りました。すなわち、自分たちが、いのちを繫いでゆく存在であることを自覚しました。そして、神は彼らのために動物を殺して、その皮を用いてアダムとエバに着物をつくられました。これは、私たちのために十字架で神の子羊となって血を流してくださったキリストの尊い犠牲を暗示しているとも言われています。またこれは、この後、人が動物のいけにえを捧げて、神に近づくことのしきたりに通じています。すなわち、罪によって、人はだれも神に近づくことはできないからです。モーセの時代になって、神は民に律法をお与えになりました。律法によると、人は、動物の犠牲によって罪の赦しを得ることができるのです。すなわち、自分の罪を傷のない清い動物の頭に着せてその動物を殺して血を流すことで、祭司から罪の赦しが宣言されます。罪の赦しのために繰り返し流された血は、とき至って現れたキリストの十字架で流される血を予表していました。やがて、キリストの十字架による完全な罪の赦しが成就することになります。次に、神は、人間を環境から守るために動物の皮で着物をつくり与えてくださったと言えます。エデンの園から追い出された人間には、いばらとアザミが待っていました。すなわち、自然界は裸の人間には危険であることが示唆されます。寒さから体を守る必要もあったでしょう。これ以降、人間は自然界の動植物を自分たちの福利のために用いるようになりました。シェルターとなる家も必要でしょう。また、土地を耕すための道具も必要となったでしょう。そのために、様々な器具をつくるようになりました。そのように人間社会には文化、文明が芽生え、発展していくのです。それは、人が自然界を自分たちの福利のために用いることができるようになさったのです。皮の衣は、神からの恩寵です。プレゼントです。現在、私たちは神から多くのプレゼントをいただいています。あまりにも多くあり、当たり前になっているのです。私たちが毎日食に与り、住む場所も与えられていること、それも神の恩寵です。主の祈りで、「日毎の糧を今日もお与えください」と祈ります。日ごとの糧は、小教理では、私たちの身体や生活のために必要なすべてのもののこと、とあります。アダムとエバを守り祝福するために、神が動物の皮の着物を与えられて以来、その恩寵は発展して人類の福利になっております。アダムとエバは、彼らの子どものためにそして子孫のために働くことになりました。それは、人が他の人のために奉仕していくことの原型です。クリスチャンは、神からそれぞれに賜物が与えられて、それで隣人に仕えることに召されているといえます。イエス様が命じられた隣人愛の実践です。「自分と同様にあなたの隣人を愛しなさい」という戒めです。神はこの地上で人が幸せに生きるためにこの地を住みよいものにしてくださっています。これは、地上に神の恵みが及んでいるからです。それは、すべての人に注がれる神の恩寵と祝福です。神が私たち人間を愛してくださったように私たちも互いに愛し合うことが神のみ心なのです。私たちクリスチャンは神の愛を隣人に届けるように召されているからです。

断絶と回復の希望

人は、神の戒めを破って、善悪の知識の木からとって食べました。そして、神から断絶されるのです。人が、神を押しのけて、自ら善悪の判断をするようになったのです。それは越権行為です。ボーダー、境界線を越えたことによる彼らの罪です。それに対しての対価は、エデンの園から追放でした。罪がもたらしたものは、断絶された神との関係です。エデンの園から追い出された人間が、勝手に戻ってこられないように、神はケルビムという天使に園の入り口を守らせました。「いのちの木からとって食べ、永遠に生きないように」と神は言われました。それは、神との関係を絶ったものは永遠のいのちを失うことを示しています。人は、やがて土に帰ります。そして、神と断絶された魂は、永遠の滅び、永遠の暗黒へと落とされるのです。永遠のいのちとは、永遠でおられる神のいのちにつながっていること、すなわち、神との交わりに生きていることです。しかし、神は人を惜しんで、関係回復を願っておられます。神は、人が罪を犯して堕落してしまったすぐ後に、原始福音と言われるやがて来られるキリストを暗示されました。それは、壊れてしまった神との関係回復の道です。罪を犯す前にあった愛と信頼の関係です。神との関係回復は、やがて来られるキリストの十字架の贖いにより成就しました。キリストが信じる者の罪を取り除いてくださいます。そして、神と人の隔ての壁を取り除いてくださるのです。サタンの支配から神の支配に移してくださるのです。旧約の時代に生きた人々も信仰によって救われました。へブル11章は、そのことを証しています。 旧約時代の人々は、その時は神の約束を受け取ることはできなかったのですが、神が備えてくださった「さらにすぐれたもの」を待ち望んでいました。それは神のご支配、天の御国ということができます。天のみ国は、女の子孫であるイエス・キリストが治める国です。それは原始福音にみられる救い主の約束です。イエス・キリストです。旧約時代の人々については、新約の私たちのように、イエス・キリストの救いをはっきりと今、受け取ることはなかったといえます。でも、彼らも私たちと同様に、イエス・キリストにより罪の赦しを受け天の御国へ移されたのです。そのことは、アブラハムを例に見ることができます。アブラハムはまだ、キリストを見ていませんでしたが、信仰によって義とされたことが書いています。彼に与えられたのは、神のことばでした。神の約束でした、しかし、「あなたは大いなる国民とされる」、「あなたによってすべての民族は祝福される」というようなことは彼の存命中には何一つ実現しませんでした。しかし、彼は神の国の到来と救い主の来臨を信じて一生を全うしました。自分の目の前の状況がたとえ開かれなくても信じて待ち望み、人生を全うしたのです。回復の希望は、神の愛への信頼、神のことばへの信頼、にあるからです。

 

 

2018年08月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記3章1~15節
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

<要約>

罪の本質

サタンは堕天使とも言います。堕落した天使です。神は、二種類のいのちを造られました。目に見えるものと見えないものです。いのちを持つもので、目に見えない存在が天使です。天使は、神をほめたたえ、神のみ心をなし、神の創造されたものに仕える存在です。元天使であった霊が、高慢と不従順のゆえに天から落とされたのが、サタンをかしらとするもろもろの悪霊たちです。彼らは、神に逆らい、み心を拒み続けます。聖書にはサタンは人殺しで嘘つきであると書いています。天使も悪霊も無数にいるといわれています。サタンが蛇の姿をとって人を誘惑しました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と。神のことばをまげて伝えています。神は、食べてはいけないのは善悪の知識の木だけ、と言われたのです。サタンはそれを「どんな木も」と言って、すべての木を禁止の対象としました。ここに誇張があります。サタンはこれにより、エバの心に神へのマイナスの思いを増大させています。同様に人がするうわさ話も必ず誇張があります。実際以上に悪く言うのです。ですから、うわさ話に対しては、サタンが背後でその人への信頼を落とそうと巧みに働いていることを知らなければなりません。蛇は、「触れただけで死ぬわけがないでしょう」と言わんばかりに、「あなたは決して死にません」と断言します。巧妙な手口です。これは神のことばの完全な否定です。逆なことを断言しています。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、彼女を誘惑に落とすのです。この「神のようになり」というのは、罪の本質をついています。罪とは、人間が神になろうとするところから始まるからです。これは、人間が持つ強い誘惑です。神のようになって、何でもできる。決まりは自分で作る。誰にも命じられない、思うままに人を動かす、ほしいものは何でも手に入れる。最高権力ですべてを従えたい、というものです。 アダムがどのように罪を犯したか、もう一度まとめてみましょう。罪の本質は、みことばに対する不従順です。つぎに、悪魔のことばの採用です。神は食べれば死ぬといわれましたが、悪魔は食べても死なないといいました。人は悪魔を選んだのです。そして、人間の究極の欲望は、神のようになりたいということです。神のようになり、周囲の人々を自分の思うままにコントロールしたいというのです。

罪がもたらすもの

その木の実は「食べるのによく、目に慕わしい、いかにも好ましかった」とあります。誘惑は華美で、素晴らしく映るのです。そして、食べたのです。誘惑に対しての敗北です。一線を越えてしまいました。ボーダーを超えてしまったのです。とって食べるという行為はとても簡単で容易な行為です。しかし、その重大さは計り知れません。「ちょっとくらい」という思いが雪だるまのように大きくなり、嘘に嘘を重ねるようになり、取り返しのつかないところまで来るのです。入り口は、簡単で容易に見えますが、その重大さは測り知れないのが、それが罪の性質です。私たちは、サタンと私たち自身が持つ罪の性質には注意しなければなりません。彼らが食べた後には、彼らが見えたものは、自分たちが裸である事実です。自分たちが恥ずべき存在であることの自覚です。罪は恥をもたらすということです。神の戒めを破った瞬間から良心にひびが入り、ごめんなさいといって、神に帰ることもせずに逃げ隠れしたのです。神は「あなたは、どこにいるのか」と問うています。これは、神が人を見失ったのではなく、人が神との交わりを絶ったからです。アダムもエバも神から問われたとき、他に罪を転嫁しています。これが人間の姿です。最終的には、神が悪いとするのです。こんな世界にしたのは神が悪い、もし神ならば、もっと良い世界を造れと言わんばかりです。堕落前は、神を主としていましたので、人は神の支配下にありましたが、堕落後は、人は罪に縛られて悪魔の支配下に移ったのです。ですから、現在、人類は悪魔の支配下で苦しんでいます。個人レベルでも国家レベルでもそうです。国は、戦争はいけないとわかっていても戦争をやめられないのです。個人レベルでは、健康に悪いとわかっていても悪い習慣をやめることができません。赦さなければならないとわかっていてもなかなか心で赦すことができない。これらは、悪魔の支配下で苦しんでいる人間の姿なのです。新約聖書は、このアダムの罪をどのように解釈しているでしょうか。ひとりのアダムの違反によって罪が入り、罪によって死が入り、こうして、全人類に死が入ったと書いています。アダムが全人類の代表となっています。これを聖書の代表性といえます。アダムの罪を全人類が引き継いだということです。私たちの代表の行動は私たち自身の行動と受け止められるのです。聖書はさらに、アダムだけの罪ではなく、その罪の性質が遺伝してすべての人は生まれながら罪びとであると宣言しているのです。ですから、堕落以降、生まれながらの人間は、本当の意味で神を知ることがなく、また、神がなさることを理解することができません。また、神を愛することも喜ばせることもできないししません。皆、悪魔の支配下にあるからです。でも、ご安心ください。イエス様は私たちを、悪魔の支配からキリストの支配に移してくださいました。イエス様の救いは、移動、引っ越しであるといいました。クリスチャンは、キリストの支配下にありますので、もう悪魔に支配されることはありません。では、どのように神は、悪魔の支配下から人を神の支配下、キリストの支配下に移してくださったのでしょうか。

原始福音

そこで神は、15節をお与えになりました。これは原始福音と呼ばれるものです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえはサタンですから、サタンとエバの間に、そして、サタンの子孫と女の子孫との間に神が敵意を置く、というのです。この女の子孫は、単数であることからキリストを表しています。この「彼は」は、キリストで、サタンの頭を踏み砕くというのです。これはサタンとその力に対する完全な勝利を意味します。蛇を殺す一番の方法は頭を踏み潰すことだからです。「お前は彼のかかとにかみつく」これは、相手に激しい苦痛を与えるが、致命的なものにはならないというのです。神は、人の罪に対して、すぐに救いの道を計画なさりました。サタンは救い主を亡き者にしようとしました。最初は荒野で四十日四十夜、サタンはイエス様を誘惑しました。アダムはサタンの誘惑に落ちましたが、イエス様はみことばによってサタンの誘惑を退けました。落とすことができなかったサタンは、イエス様を抹殺しようともくろみます。そして、当時の宗教指導者たちや民衆を用いて、さらに弟子たちの裏切りを使って、ついに十字架で殺すに至るのです。これはサタンがキリストのかかとにかみついた瞬間です。一瞬、サタンは勝って、神は負けたかのように見えます。しかし、これは何という不思議でしょうか。また、神の知恵でしょうか。この負けと見える十字架刑により、キリストはすべての人の罪を、そしてあなたの罪をその身に負われました。すべての人の代わりに罪に対する神の怒りをキリストご自身がうけて、十字架で苦しみ死んでくださったのです。すなわち、人が受けるべき罪の裁きを代わりに受けて、あなたを無罪にしてくださったのです。「キリストの打ち傷によってあなたはいやされた。」とイザヤ書にある通りです。そればかりではなく、神はキリストの従順のゆえに、キリストを復活させて、それにあずかるものに永遠のいのちをお与えくださいます。これは、サタンの頭を踏み潰した瞬間です。サタンはもう、神の子キリストに勝利することはできないのです。このようにして、私たち信じる者はサタンの支配から、キリストの支配と移されました。アダムの違反によりすべての人に罪が入りました。しかし、イエス・キリストの従順と義の行為、それはとりもなおさず十字架であります。これにより、すべての人が義、すなわち神の前で正しいものとみなされて、永遠のいのちが与えられるということです。神が提供してくださるのは、罪と死と滅びからの救いです。どうすればそれをいただくことができるでしょうか。それは、ただいただくというだけです。なんの行いもいりません。信仰によって、いただくのです。自らの罪を認めて十字架を仰ぐことです。あなたは神のいのちといつながっているので、たとえ、地上のいのちが終わっても神のみ手の中で永遠を祝福と恵みの中で生きるのです。