聖霊降臨、終わりの時代の始まり

2023年5月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き2章1~21節
【新改訳2017】
2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
2:12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
2:13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
2:14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。
2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
2:19 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』

<要約>

神のいのちを失い途方にくれる人間:

イエス様は、神を信ぜず、神のいのちを失っている人を指して、失われた人、さらに死人と呼んでいます。イエス様はそういう人を捜して、いのちを得させるために来られたのです。世界は人間中心に動いています。そのような中で、国際社会は、混迷を深め、途方に暮れているという状態であると思います。国の内部を見ても、分断、対立は深刻になっています。日本はもう超高齢化社会に入っています。もっと高齢化が進めば、日本人は、介護される人と介護する人ばかりとなってしまうのではと考えます。私たちは現状を見ると、途方に暮れてしまいます。神から離れているので神のご計画が分からない、考えたこともない、人生のゴールが分からない、死んで終わりの人生なのか。人生には様々な困難や苦難があり、私たちは有限な存在者として、先のことがわからず、途方に暮れる状況の中に生きています。しかし、神のいのちにつながり、神の救いのご計画の一部を担わせていただいているとすれば、私たちの人生には、明確な使命があり、死んで終わらない永遠のいのちがあるのです。

キリストの御名を呼ぶものを救う神:

聖霊はあなたを無条件で受容し、あなたを生かします。それが神の愛です。そして、神との関係回復、隣人との関係回復、そして親子関係の回復をもたらしてくださいます。あなたの内側に働き、キリストによる罪の赦しを提供して、あなたを癒し救います。何にも勝るプレゼント、聖霊。それは、この世のどんなものも決して消すことのできない、喜びといつまでも続く希望を与えてくれるからです。聖霊はご人格を持った神であります。聖霊は、信じる人を復活のいのちであるキリストに結び付けてくださいます。聖霊は聖書の言葉で私たちに語り、御心を教えてくださいます。そして、最後に至るまで、あなたを希望と喜びの人生に導いてくださいます。先ほど述べたように、ペンテコステの時に教会が始まりました。それ以来教会時代が続いています。やがてイエス様の再臨により終わりが来ます。ですからペンテコステ、聖霊降臨は終わりの時代の始まりであるといえます。再臨、それは悔い改めない人々にとっては、裁きのときであり、悲しみのときでしょう。しかし、信者にとっては、称賛と喜びの時、神の栄光を拝するときとなるのです。「主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。

天の父の約束・聖霊と再臨

2023年5月21日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き1章3~14節
【新改訳2017】
1:3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
1:4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
1:6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
1:7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

<要約>

ゴールの先が見えない人間社会:

人は、有限の存在者で、時間に縛られています。今の人間社会を見ても、先が見えない、ゴールが見えないことがたくさんあります。ロシア、ウクライナの戦争は、どうなるのだろうか。世界各地、日本の国内でも立て続けに起きている地震。経済不況。感染症の流行。など。人間社会の営みはいつまで続くのだろうか。人間社会のゴールは破綻と滅亡と言えるかもしれません。個人としてはどうでしょうか。年を取って、やがて歩くことも、食べることも、話すこともできなくなり、ついには誰でもが迎える死に至るのです。個人の人生においても、その先、肉体の死後はどうなるのでしょうか?人が死を恐れるのはなぜでしょうか?その先が分からないからです。すべてが無に帰するのでしょうか。否です。死後、すべての人は神の前に立たされるのです。肉体のいのちが死んだ後、すべての人は、自らの罪により裁きを受けることになるのです。罪とは、根源的には、真の神を信じず、認めず、真の神から遠く離れていることです。多くの人はゴールの先の見えない人生を生きているのではないでしょうか。思いを変えて、あなたにいのちを与え、永遠の祝福をお与えくださる真の神を信じていただきたいと思います。

救いの完成という神のゴール:

イエス様の十字架と復活、それに続く昇天によって、全ての人が救われる道が完成しました。罪と死と滅び、そして、この世の流れを司る悪魔から救ってくださいました。すべての国民にこの救いの福音が伝えられて、約束の民イスラエルに救いが届けられて、イエス様は再び来られます。その時、地上における救いの御業が完成するのです。そこに神のご意志とご計画のゴールがあります。そこにすべての人が招かれています。現在は聖霊による教会の時代です。福音は全世界に届けられようとしております。永遠のいのちをいただき、この肉体が終わったあと、永遠の祝福の中に生きることができます。私たちは、聖霊の賜物を用いて神と人に仕えていくのです。また証人としてはどうでしょうか。あなたに聖霊が働いて今の信仰に導かれました。イエス様が救い主であることを信じることができました。また、祈りが聞かれたこと癒されたこと困難を神が共にいて乗り越えることができたこと、など様々な体験を積んでいます。それらをあなたの周りの方々に分かち合うこと、それがイエス様の証人として生きることです。

天の御国に招かれるには

2023年5月7日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書19章13~15節
【新改訳2017】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
19:15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。

<要約>

大人中心のこの世界:

自分たちがお話ししているところに割入ってきた人たちを邪魔と感じ、叱責したのでしょう。現実的には、大人が社会を支えて、動かしています。また、未来を担う子どもたちのために、能力がある大人のリーダーが必要なことは言うまでもありません。現代社会は、力ある者たちが動かす世界であるといえましょう。その見方からすると、大人にとって住みやすい社会を作っているということです。そのマイナスな面の結果が生じています。それが、少産少子化です。子どもたちを厄介者扱いにした弟子たちに対して、イエス様はどのようでしたか。マルコの福音書では、イエス様は弟子たちに憤るほどに小さなものたちを重んじておられることがわかります。大人中心の世界から子どもあるいは障害を持つ方々を中心に持っていく社会に大きくシフトしていく必要を覚えます。

小さい者たちを重んじる神の国:

「神の国はこのような者たちのもの」とは、どういう意味でしょうか。子どもの特質を考えます。第一に子どもは素直、あるいは従順です。素直に神の国を受け入れます。子どもは、親や上の権威に従順であります。つまり父なる神に従順であります。第二に子どもは謙遜です。別のことばでは、へりくだっている、低い心であると言えます。イエス様は、はっきり、子どものように低い心を持つ者が天国で一番偉いと言われています。第三に子どもは、大人に頼っています。そして、背後におられる神に頼っています。この従順、謙遜、信頼、この三つの徳は、イエス様の十字架に完全に表されています。イエス様は、父なる神に従順でした。実に十字架の死に至るまで従い通しました。神が人を愛し、人を罪から救うためにその独り子イエス様をすべての人の贖いの代価として十字架で身代わりの死を遂げさせることです。それが神のご計画でした。イエス様は、この上なく謙遜でした。神のみ位におられる方が、最も貧しい幼子となられた、罪一つもないのに、十字架の判決を受け入れ極悪人にかぞえられることを良しとなさいました。それはひとえに、すべての人をそしてあなたを罪と死と滅びから救い出し永遠の命をお与えになるためです。そして、父なる神を完全に信頼していました。もしあなたが、素直に従順になり、そしてへりくだり、神を信頼するならば、神はあなたを祝福します。あなたも天の御国へ招かれており、あなたは救われるのです。

癒してお救いくださる神

2023年4月30日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書15章29~39節
【新改訳2017】
15:29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。
15:30 すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。
15:31 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。
15:32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」
15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
15:35 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。
15:36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。
15:38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。
15:39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。

人に働く罪と死の原理:

聖書は、人間の根源的な問題を扱っています。それによると、人は創り主である神から遠く離れています。そのため罪の力が働いて、様々な困難や病苦に襲われます。そして、それは、人を不条理な世界に閉じ込めます。罪の力と悪魔の力が人間社会を苦しめています。罪の中心は、人は神によってつくられ、いのちを与えられているのに、神を認めず、神を無視して生きていることです。神を無視した自分中心、人間中心の生き方です。罪の力は、私たちが願っている互いに愛しあうのとは正反対に、争いあう方向にいざないます。そして、現在、争いは全世界を覆っています。国家レベルでも、地域社会レベルでも、家庭レベルでも、個人レベルでも争いは人類史上絶えることがありません。最初の人アダムが、悪魔の誘惑を受けて、神の上に自分を置こうとして、戒めを破り、罪を犯したのです。それによりアダムには死が入りました。そのため、アダムの子孫であるすべての人は生まれながらの罪人となり死ぬべきものとなったのです。また、この世を支配している悪魔の力によって自由を奪われています。

解放し満たしてくださる神:

神は癒しの神です。解放の神です。彼らは、身体の不自由からばかりでなく、神は罪と死と滅びから解放してくださったのです。ここに集まった多くの障害を持った人たちは、イエス様はメシヤ、救い主であると信じて集まった人たちです。彼らは信仰によって、癒しを体験し、また、同時に罪の赦しを得て、死からいのちへ移されました。そして、彼らはイスラエルの神を崇めました。群衆と身体の不自由を抱えていた人々はどのように癒されたのでしょうか。彼らは空の手を差し出してイエス様が下さる救いと癒しをただ受け取ったのです。罪を悔い改めて、キリストの赦しを信じ受け止めれば、無条件で救われます。神が救いの道を備えてくださった動機は何でしょうか? 「かわいそうに」と言う言葉に注目してください。これは原語のギリシア語では、「スプランクニゾマイ」です。「はらわたがちぎれるほど同情して」と言う意味です。これが、神のあなたへのお心です。イエス様は、罪と死と悪魔の縛りからあなたを解放し、罪の赦しとともに身体の復活、それに継ぐ永遠のいのちを保証してくださいます。そのことを感謝して、喜びあふれる者として、歩みたいと思います。

<要約>

立派な信仰とは?

2023年4月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書15章21~28節
【新改訳2017】
15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

<要約>

信仰の試練と勝利:

イエス様を見た彼女は、「わたしを憐れんでください。娘が悪霊に着かれて苦しんでいます。救ってください」と叫び続けました。イエス様は沈黙を守られ、女性を無視されたということです。彼女には願いがくじかれ、信仰の試練の時と言えます。このひれ伏して懇願する女性に対して、イエス様はどう答えられたのでしょうか。「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と。しかし、この女性は、冷静で機知に富んだ返答をしております。「主よ。その通りです。ただ子犬でも主人の食卓から落ちたパンくずは頂きます」と。イエス様のとの対話の中で、直観的にこの方こそ真の救い主、この方に信頼する者は失望されることがない、と確信に至ったのです。神の癒しと救いは、試練を通して与えられるということがあります。現実、多くの方々は、病を通して、また、様々な試練を通して、自分の限界を知らされ、真の神に立ち返って、信じて洗礼を受けます。この女性は信仰の戦いに勝利しました。

愛と恵の主キリスト:

この女性に対して、「あなたの信仰は立派です」と、信仰を褒めてくださいました。神は高慢な心ではなく、悔いた低い心を喜ばれます。イエス様は、あなたの命を大切に思っておられる愛の神です。そして、受けるに値しない私たち罪人に無条件の愛を注がれる恵の神です。キリストの十字架、それは苦しみと悲しみと絶望を意味します。神が人となって世に来られた。わざわざ、人の罪を担い、その代価を払うために身代わりとなって、裁かれ、死んでくださいました。これこそが人類史上、最大の不条理です。神が、天のみ位を捨てる意味がどこにあるのでしょうか。天のみ位に座しておられるからこそ神と言えるのではないでしょうか。でも、神は人を愛し、人が自らの罪のために滅びることを惜しまれて、死の滅びから救うために神の独り子を世に与え、十字架におかけになったのです。そして神は、死に至るまで従い通したキリストを死者のうちから蘇らせたのです。それがキリストの復活です。最後の敵である死を完全に打ち破ったのです。そのことにより、信じる者は罪赦されて復活のいのち、永遠のいのちを頂くのです。決して失望に終わらない希望を神は約束しておられます。

悲しみは喜びに変えられる

2023年4月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書28章1~10、16~20節
【新改訳2017】
28:1 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
28:2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
28:3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
28:4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
28:5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
28:7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
28:8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
28:9 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
28:11 彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。
28:12 そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。
28:14 もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
28:15 そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
28:17 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

<要約>
世の権威は自由を奪い不安と恐れを与える:

一般に、人間が権威を持つと、それが権力となって、さらに決定権を握ります。国の最高権威を握った人は、行政や司法の決定権を握り独裁者となり、人のいのちを殺めたり人のいのちを救ったり、人々を思うままに動かし、自分に栄光を帰そうとします。そして、人民は自由を奪われています。独裁者に逆らうものであれば、命の危険もあります。聖書は何と言っているでしょうか。私たちは人を恐れるより、神を恐れなさいと言っています。真の権威、すべての権威を持っておられる方はただ一人、神です。そして、人は偏った裁きを与えますが、正しくさばかれるのは主です。イエス様に再びお会いするまでは、弟子たちは悲しみ、恐れ、不安、失望を味わっていたことでしょう。しかし、どんでん返しが起きました。イエス様は復活したのです。悲しみは喜びに恐れ不安は平安に、失望は希望に代えられたのです。心の目でイエス様を見て心の耳で聞くならば、あなたにご自身を現してくださいます。信じて一歩を踏み出していただきたいと思います。

キリストの権威は罪を赦し自由を与える:

人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについても権威をもっています。ではどのようにして、イエス様にそのようなすべての権威が与えられたのでしょうか。それは、 神であられるのにイエス様は、最もへりくだられてこの世に来られ、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ、神は、この方を高くあげてすべての名にまさる名を与えになりました。神の御子イエス様は愛とあわれみに富んでおられるかたです。イエス様は あなたを生かしあなたに何物にも奪われることのない本当の自由をお与えくださるのです。なぜ、人は自由になれないのでしょうか。人が真の自由を得ることができないのは、生まれながら持っている罪のためです。すべての人はこの罪と死と滅びの法則に縛られて、自由になれないのです。しかし、イエス様は十字架と復活により、すべての人の罪を取り除き、罪と死の原理から解放してくださいました。イエス様は あなたを生かしあなたに何物にも奪われることのない本当の自由をお与えくださるのです。

十字架の最後のことば

2023年3月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書19章17~30節
【新改訳2017】
19:17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。
19:18 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」
19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。
19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

<要約>

キリストが十字架で死んだ意味:

イエス様は、十字架の上でいくつかのことばを残されました。最後のことばは「完了した」です。これは「イエス様の生涯はこの十字架にかかるためにあった」ということの証言です。イエス様は、全人類の罪を背負ってくださった。人間を罪と死と滅びの原理から解放しました。人類に救いの道を切り開いてくださったのです。そして、神は、最後まで従い通し死んで葬られたキリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。復活したキリストは振り返ってそこにやり遂げた喜びと満足を見たのです。実に、キリストの十字架の意味はそこにあったのです。イエス様は十字架で人の罪を取り除くために人となって、私たちのところに来てくださったのです。

キリストの十字架がもたらしたこと:

キリストの十字架は何をもたらしたのでしょうか。第一に救いです。ある高松市の女性のことを紹介します。一人息子が自殺しました。その後を追うために、高松のホテルで服薬自殺しようと宿泊するのでした。しかし、備え付けのギデオン聖書を開いて読んでいるうちに、自分のうちにも光が見えてきたのです。彼女はクリスチャンとなりました。第二に聖霊です。聖霊は三位一体の神です。聖霊にはご人格があります。ご意思を持っておられますので神の御心を推し進めようとなさっております。神は全地をごらんになり御心と一致しているものをお用いになります。第三は癒しです。約15年前、月が丘教会のある姉妹のことを思い出します。肺の病気で酸素を吸っても息苦しい状況にありました。いつも癒しのために祈っていましたが、私たちが願ったかたちではなかったですが、最終的にはこの肉体を脱ぎ捨てて苦しみから解放され、今は死も苦しみも悲しみもない天国におります。ここに完全な癒しがあるといえるのではないでしょうか。第四に永遠のいのちです。地上の命が終わった後、天国ですごすいのちです。第五は祝福です。最大は、キリストが共にいてくださると言う祝福です。私たちの生活領域には三つあります。家庭、教会、職場あるいは学校です。共にいてくださるキリストが与えてくださる能力を用いて最善を尽くすことです。神がキリストを通してお与えくださる祝福は、天の窓を開いて秤をよくして私達のポケットにゆすりいれてくださる祝福、余りある祝福です。そのようなものを体験していきたいものです。

ポンテオ・ピラトの裁判

2023年3月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書27章11~26節
【新改訳2017】
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
27:12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
27:14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
27:15 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
27:17 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
27:19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
27:20 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
27:21 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
27:23 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
27:24 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
27:25 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
27:26 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

<要約>

空の手でイエスを救い主として受け止める:

キリストを前にしたピラトは、その受け答えからして、謙遜な求道者でありました。キリストが神の子であり、救い主であり、真理であることを直観的に察していました。ピラトは、イエス様が死刑に値するようなことは何もしていない事を知っていました。ピラトは真理を求めていました。イエス様を神の国の王、救い主と信じたいという思いが彼の心にありました。この裁判の後、十字架、死、復活、聖霊降臨、エルサレム教会の誕生など、一連の事件の成り行きを見て、ピラトは福音の真理を理解したと想像します。彼は、キリストを十字架に引き渡したことを後悔し、自責の念を持ったことでしょう。しかし、「私の愚かな取り返しのつかない誤った決断を神は赦してくださった。そして、その悪い仕打ちを逆に用いて、全人類の救いの道を開いてくださったのだ」という信仰に至ったのです。彼は、罪を悔い改めて、空の手でイエス様の救いを受け止めたのです。あなたは、イエス様をどのように受け止めておりますか。どうすればよいのでしょうか。私たちに必要なことは何でしょうか?何も持たない空の手です。それを神に差し出して、神の下さる救いをただ受け取ればよいのです。信仰は、神がイエス様を通してくださるもの、それは、信じて受け取る祝福と救いなのです。 

イエス様を十字架につけたのは誰?:

瞬きの詩人といわれた水野源蔵さんのことを思い出します。障害者である彼のコミュニケーション手段は唯一、瞬きです。彼の母親が、あいうえおの50音表を使って、目的の文字を瞬きで知らせます。そのようにしてたくさんの詩を作り残っています。その彼が、あるとき、一枚の版画を目にしました。それは、ピラトの裁判で法廷に立たされたイエスと、ピラトの前に、『十字架に付けろ。十字架に付けろ。』と叫ぶ群衆を描いていました。それを見て、源蔵さんは『十字架に付けろと叫ぶ群集の中に、自分がいる。』と言って、涙したということです。イエス・キリストを十字架につけたのは、自分であるという、その告白を水野源蔵さんは神の前にしたのです。「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのはこのわたしである」と応えることは、聖書が読者のすべてに求めている応答です。あなたは、その事実を認め信じることです。


ゲッセマネでの祈り

2023年3月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~46節
【新改訳2017】
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

<要約>

共に祈り悲しみは半減し喜びは二倍となる

イエス様は、弟子たちを苦しみも悲しみも分かち合える友であると思っておられました。イエス様はご自分が試練にあったときに彼らが一緒についてきてくれたことを喜んでいました。イエス様は、弟子たちに祈りを要請しましたが、弟子たちは眠ってしまい、イエス様の求めに応えることができませんでした。私たちはそういうように弱い者たちです。弱く迷いやすく失敗しやすいからこそ、イエス様は共に祈るように勧めています。イエス様はクリスチャンである皆さんを友とみなしてくださっています。ですから、皆さんと重荷を分かち合い祈ってほしいと願っておられるのです。私たちも様々な苦難にある時、信仰の友が祈り、苦しみを共有してくれるのは大きな慰めであり励ましであります。それは、「喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しみなさい」と、みことばが語っているとおりです。

あなたを救うために立ち上がられた主

イエス様はこのゲッセマネの園で苦しみ悶えて祈られました。イエス様がこれからすすんで味わおうとなさったことは、人間が自らの罪によって滅んでしまう、その滅びの恐ろしさです。神なしで滅ぶ人間の苦しみ悲しみです。イエス様は滅びゆくすべての人の苦しみ悲しみを味わわれたのです。イエス様は、父なる神から完全に切り離されて見捨てられた苦しみを十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と。聖書に書いています。すべての人は、罪を犯したので神の栄光を受けられない。また、罪の報酬は死です、と。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると述べています。しかし、一人の人も滅びることを臨まない神は、罪のない神のひとり子イエス・キリストを全人類の罪の身代わりとして十字架で断罪しました。イエス・キリストを信じるだけで、滅びないで永遠のいのちが与えられるのです。イエス様は、祈りぬかれて、最後に「立ちなさい。さあ、行くのです。」と堂々と足を踏み出し勇気をもって目前の十字架に向かいました。この後、捕えられて裁判にかけられ、十字架につけられて殺され葬られましたが、三日目によみがえりました。イエス様は、死は絶望ではなくその向こうにある復活と永遠のいのちを示してくださいました。そして、この復活と永遠のいのちは信じる者すべての人に与えられるプレゼントです。イエス様を信じて救われて戴きたいと思います。

あなたの足を洗われる主

2023年2月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書13章1~14節
【新改訳2017】
13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

<要約>

とことん愛し赦す神:

私たちは、汚れた足をイエスに差し出してはじめて清めていただけるのです。あなたの罪の身代わりとなって、神の独り子イエス様が十字架で裁かれ、死んでくださったのです。そのことを信じ受け止める者は救われます。罪と死と滅びから救われます。上着を脱ぐというのは「十字架で命を捨てる」ことを意味して、上着を着るというのは「いのちを再び得る」すなわち復活を意味しています。イエス様は、洗足にかかわる上着を脱ぐ、と、上着を着るという行為を通して十字架の死と復活を暗示されたとも解釈できます。洗足も十字架も、神の私たちへの愛の行為です。徹底的な愛、究極の愛、捧げ尽くす愛です。あなたに何の条件も求めない無条件の愛です。イエス様に足を差し出し洗っていただくというのは、悔い改めと言えます。日毎に私たちは罪を告白して、悔い改めて清めていただくのです。神は、キリストのゆえに、あなたをとことん愛し、あなたの罪を赦し続けてくださいます。私たちはへりくだり素直になって、罪を赦していただくと同時に、空の手を差し出して、救いを受け取ればよいのです。救いは、死後、自らの罪により滅びないで、キリストの復活のいのちを頂き、朽ちないいのちの希望に生きることです。

互いに赦しあい仕えあう:

イエス様は弟子たちの足を洗ってから、彼らに「互いに足を洗い合わなければなりません」と言われました。イエス様はご自身を無にして仕えるものとなられました。イエス様は、最も貧しく弱い存在として、この地上に来られました。そして謙遜の限りを尽くして、私たち罪人に仕えられたのです。これから弟子たちに福音宣教に遣わそうとしておられました。つまり、弟子として訓練し、その訓練を結ぶときが来ていたわけです。人間社会では、必ずと言っていいくらい誰がトップになるか、争いが起こります。しかし、イエス様が、昇天した後、弟子たちには誰がトップになるかという争いは全くありませんでした。使徒の働きの中で、彼らは、お互いに赦し合い、仕えあい、励まし合っていたことが分かります。同様に、キリストの弟子である私たちクリスチャンはお互いに赦しあい、仕えあうことによってその愛を全うするのです。