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イエス・キリストの系図

2018年12月16日(日) 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>マタイの福音書1章1~21節

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
1:4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
1:7 ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
1:8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
1:9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
1:10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
1:11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
1:12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
1:13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
1:14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
1:15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

<要約>

罪人をありのまま受け入れてくださる神;

アブラハムは、イスラエル民族の祖であるばかりでなく、信仰の父として、すべての神を信じる者の祖でもあります。アブラハムからダビデに至る系図までに、四人の女性が出てきます。タマルとラハブとルツとウリヤの妻です。このように、キリストの系図に異邦人の女性が出てきます。ラハブは遊女でした。つまり、売春婦です。このように、ありのままの罪びとが登場しているイエス・キリストの系図は、何を物語っているのでしょうか。それは、イスラエルの民ばかりでなく、異邦人や罪人と言われている人々の救い主であることを示しています。神はありのままのあなたを受け入れているということです。

困難と苦難の中に共にいてくださる救い主;

イスラエルの真の神、力ある全能の神、愛とあわれみの富む神を信頼できず、イスラエルの民は人の知恵や偶像に頼りました。ユダヤの王ゾロバベルは、祖国に帰還しました。そして神殿の再建に取り掛かったのです。しかし周辺の国々からは絶えず妨害されて困難を極めました。祭司エズラは、宗教改革を断行します。エズラの後、宗教指導者たちは、律法に厳格であろうとして、さらに細則を儲けて規則に規則を作るようになりました。そして律法主義が生まれました。ますます、彼らは行いを追求していきました。打ち砕かれた謙遜な心を失うのです。イスラエル民族にとって、そのようなどん底と言われる状況にキリストがお生まれになりました。苦しみと困難の中に、もうすでに救い主は来てくださっています。

救い主が与える喜びと感謝の人生:

神は人間を罪の裁きから救うために、神の一人子であるイエス・キリストを十字架につけ、その十字架の血によって私たちの罪を赦すという驚くべき救いの道を備えてくださったのです。それが、キリストが世にこられた目的です。キリストの十字架の犠牲、あれほどの苦しみの目的は、この私たち人間を罪から救うという事のためだったのです。キリストはあなたを罪の呪いから解放し、喜びと感謝に溢れるようにして下さるのです。あなたのために十字架で苦しみ、あなたのいのちのために復活してくださった主キリストが、あなたを喜びと感謝で引き上げてくださるのです。 rence;\lsdqfo


みどりごの救い主

2018年12月9日(日)礼拝説教 牧師 森田友明


<聖書>イザヤ書9章1~7節
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。


<要約>

キリストがもたらした光の世界;

ガリラヤははずかしめを受けたが、後には栄光を受けた、とあります。その預言は、キリストの来臨によって成就しました。救い主、メシヤは闇を打ち破る光であり、死を打ち破る復活の力であると言えます。悪魔が支配する闇の世界から神がご支配する光の世界へと私たちを招いておられます。キリストの光は決して消えることのない永遠の神のご支配です。イエス様はあなたに光であるイエス様を信じなさいと言われます。光の子どもとなりなさいと招いておられるのです。

救い主が与える喜びの約束;

イスラエルは北と南に分裂してから、王も民も指導者たちも堕落し、真の神を離れ偶像に身をやつしてしまったのです。その様に、恵みから離れた民は、悪の力に押しつぶされてしまうのです。実に、自分たちで闇の世界を選んで歩くことになったのです。そこには申命記的史観があります。私たちは誰でも選択の自由が与えられています。神を信じて祝福と恵みの世界に入るか、あるいは、神から離れて呪いと裁きを受けるかです。それでも神は、イスラエルの民に対するご自身の繁栄と祝福の約束を忘れることはありません。民をあわれみ続けておられます。信じる者に与えられているのは、繁栄と祝福の約束です。キリストをあなたの救い主と信じるならば、あなたのすべての領域に祝福が及ぶのです。

救い主の熱心と愛;

「ひとりの男の子」、それはイエス・キリストを指しています。「主権はその肩にあり」の「主権」は統治を意味します。そして、その名には、4つの名称があります。いずれも神ご自身であることを示しています。「不思議な助言者」です。万物の支配者であり、王の王、主の主であられる神が、私たちと共にいてくださる、いやさらに、しもべとなっていのちを捨ててくださった、それこそ最大の不思議であると言えます。つぎに、「力ある神」です。これは神宣言です。次に「永遠の父」です。父は保護者です。永遠にイスラエルの保護者です。次に、「平和の君」です。この男の子が完全な和解となります。そして、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とあります。救い主のあなたに対する愛の熱心は今も変わることはありません。それは、今、あなたに向けて注がれています。


裁きと回復の預言

2018年12月 02日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ミカ書5章1~9節
5:1 今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ。
5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
5:3 それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。
5:4 彼は立って、【主】の力と、彼の神、【主】の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。
5:5 平和は次のようにして来る。アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。
5:6 彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う。
5:7 そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、【主】から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。
5:8 ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。
5:9 あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。

<要約>
絶望の中に来られる救い主;
当時の状況を見ると、大国アッシリヤが目前に迫り、イスラエルの民にとって脅威が最高潮に達していた時であります。絶望と思われている時代背景の中で救い主の登場が預言されています。イエス様がお生まれになった時代も、イスラエルの民はローマの圧政のもとに非常な困難の中にあったということです。救い主は、混迷とやみが覆う時代に来られたのです。個人レベルでも民族レベルでも国家レベルでも、困難や試練で絶望することはあるかもしれません。しかし、その中でこそ、私たち人間は救い主をお迎えするにふさわしく整えられるのです。その時にこそ、救い主があなたに近づいていることに気付くことです。
救い主が与える平安;
アッシリヤの王セナケリブが南ユダ王国に攻め入ろうとしました。その時、ユダの王ヒゼキヤが主に祈ったのです。主は大いなる御手により、主の使いが一夜にして、アッシリヤの軍隊、十八万五千人を打ち殺しました。そのようにして、主が戦ってくださったのです。一般の人々にとって敵対する勢力とは何でしょうか。仕事上の反対勢力、こちらを好意的に思っていない人々、わなを仕掛けて陥れようとしている人々、悪い友人、悪い噂、分裂もあるかもしれません。あるいは、自分の内側にある利己的な思い、支配欲など。しかし、クリスチャンは、それらの背後にある敵を知っています。あらゆる悪とその背後にある敵です。救い主キリストはそれらから信じる者を救ってくださるのです。そして、真の平安をお与えくださいます。
最後まで忠実な信仰者の姿;
ヤコブの残りの者は、最後まで信仰により神とつながっている人々を指します。一つは、彼らは多くの国民の中でも主から降りるつゆ、青草に注ぐ夕立の様だというのです。彼らは人を恐れないで、神を畏れます。人間に期待をしないで、神に期待します。これこそ、真の信仰者と言えます。もう一つは、圧倒的な勝利者であるということです。ヤコブの残りの者は、信仰者は森の獣の中の獅子、百獣の王ライオンです。圧倒的な勝利です。サタンも踏みにじられます。教会の勝利と言えます。それは、終末的な勝利とともに、現在においてもしかりです。

 

 

羊のためにいのちを捨てるイエス

2018年11月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書10章1~15節
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

<要約>
高慢が人を霊的盲目にする;
イエス様は、たとえ話の中でも、律法学者やパリサイ人たちは盲目な指導者であり、偽りの指導者であり、さらに盗人であり強盗だと指摘されました。当時、羊飼いは夜になると羊をその囲いの中に導きます。そして、狼などの外敵から羊を守るために当直が寝ずの番をするのです。朝になったら、持ち主の羊飼いが来て、先頭に立って羊を門から連れ出して、良い牧草が豊かにあるところに連れて行くのです。羊飼いは、自分の羊をその名で呼んで連れ出すと書いています。羊飼いは自分の羊を知っていてその性格を知り、泣き声までも聞き分けるというのです。先頭に立って自分の羊を導く羊飼いはイエス様を指していることが分かります。そして、盗人で強盗は、パリサイ人たちを指していることもわかるでしょう。当時の律法学者、パリサイ人たちがいかに、偽りの指導者であり民を食い物にしていたかは、福音書を読んでもわかります。当時、民の信仰のよりどころはソロモンが建てた神殿でした。そこでは、祭司など宗教指導者が律法を利用して一大ビジネスを展開していました。そこで、民から多額のリベートを宗教指導者たちが吸い上げていたのです。ですから、イエス様は当時の宗教指導者たちを厳しく糾弾していました。しかし、彼らはイエス様のおっしゃる例えの意味が何のことか分からなかったのです。心がかたくなな者にはイエス様の例えが通じないということです。彼らは、心の目も耳も塞がっていたと言えます。なぜでしょうか。それは、打ち砕かれた悔いた心がないからです。霊的高慢のために自分がわからないのです。確かに、当時の律法学者、パリサイ人たちは律法を守っていました。表面上守っていました。什一献金、律法にある規則を守っていました。品行方正に見えたでしょう。しかし、彼らは自分たちは律法を守っていると自負していました。それが、神にも人にもとやかく言われたくないという高慢につながっていたのです。そして、弱い人を見下していました。私たちは、彼らを反面教師として学ばなければなりません。それは、「砕かれた悔いた心」です。
あなたを生かすためにいのちを捨てた神;
イエス様は、「わたしは羊の門です」と言われました。そして再び「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と続きます。そして、イエス様を通ってはいるなら救われると言いました。また、イエス様はヨハネの福音書で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」といわれました。これは、イエス様ご自身が神であることの宣言でもあります。聖書は、人は教えでは救われないことを明言しています。宗教はそれぞれ立派な教えを持っているでしょう。そして、教えを守って精進すれば、極楽へ行くことができるというのが宗教の教えです。しかし、人は行いによっては救われないと明言しています。聖書は、人は教えである律法、十戒を守っても、救いに至らないことを何度も言っています。人は良い行いによってはよい人間にはなれません。かえって、高慢になってしまうのです。良い人間が良い行いをするのです。自分でよい人間になることはできません。三位一体の神である聖霊によって、良い人間につくり変えていただくのです。行いによって、神の前に義とされることはできません。信仰によってのみ神はあなたを義としてくださるのです。門であるイエス様を通して入るというのは、イエス様をあなたの救い主と信じることです。行いはいりません。イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことを信じることです。そして、良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。わたしは羊のためにいのちを捨てます、と書いています。すなわち、羊であるあなたや私が真のいのちを得るために、イエス様が命を捨てるということです。それは、私たち罪人のために、イエス様が十字架でご自身のいのちを捨ててくださった事により、私たちはいのちを得るのだという真理です。
主は私の羊飼い;
ここで、イエス様の例えのお話をさかのぼる1000年前に、イスラエルの二代目の王となったダビデが「主は私の羊飼い」という詩を書きました。それが、詩篇23篇です。ダビデはベツレヘムの羊飼いの家に生まれ、小さい時から羊の世話をしていました。ですから、羊と羊飼いとの関係を知り尽くしていました。そのさまざまな経験を振り返って、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」と、神と自分の関係を一言で表現したのです。イスラエルに行くと、羊飼いと羊の群れの姿が見られます。羊飼いは、どこに水があるか、どこによい草があるかを知っており、彼らを導くのです。ダビデは、神が信者の「魂を生き返らせる」、そして、「義の道に導かれる」と書きました。その意味は、神は、キリストによりあなたの罪を取り除き、あなたを新しいいのちで生かしてくださるということです。それは、後ろ向きの人生ではなく、前に向かっていく人生です。慈しみと恵みがあなたを追ってくる、と書いているとおりです。そして、死に至るような状況にあっても、禍を恐れないというのです。それは、神がともにおられるということから来ています。羊飼いは野獣から羊を守るためにこん棒上の鞭を持ち、羊を導くために杖も持っていました。しばしば、杖は迷いやすい羊を懲らしめるために用いました。人間の場合も同じで、「あなたのむちとあなたの杖」はあなたを守るためと同時に懲らしめて訓練させるためです。信仰者への訓練は、その時は好ましく思えなくても、やがては深いところでは、魂に受け入れられ慰めとなるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます、とへブル書にあります。これが、味わい深い信仰者の歩です。苦難や困難はつきものです。しかし、あなたのためにいのちを捨てるというイエス様がともにいてくださる、その約束は不変です。わたしたちは、そのようにイエス様を私の羊飼い、として信仰告白していきたいと思います。

放蕩息子と父の愛

2018年11月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書15章11~32節
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

<要約>

思いを変えて神に帰る;
彼は、放蕩に走ってしまいました。そして、何もかも失ってしまいました。これは、真の神から離れた人間を表しています。神を離れたところには真の自由はありません。また、何にも縛られずに自分の思いのまま神からの賜物である財産を使おうとしてもそれは、無駄使いになります。結局失うのです。もともと私たちは裸で生まれて、裸で去って行く存在です。ですから財は、神からの預かりものです。それは世のため人のために、ひいては神のために用いるべきものです。彼は、ユダヤ人には最も忌まわしい職業である豚の世話をする羽目になり、さらに、食物にも事欠くようになりました。人生には苦難や不幸と思われることがあります。しかし、それは神があなたを神に立ち返らせ、もっと素晴らしい喜びと祝福の人生に導こうとして許されるのです。彼は回心しました。我に返ったのです。彼は、お金を持っていた時は何でもできると思っていたことでしょう。しかし、今、自分が貧しくみじめなことに気付いたのです。自分で自分を救うことはできないことに気付きました。また、その様に自分の心の貧しさに気付かなければ、悔い改め、心の方向転換は、起きないと言えます。聖書は、生まれながらの人は神から心が離れて、真の自由を得ていないと指摘します。神を見上げて神の救いを得た人には神のいのちが与えられています。我に立ち返った弟は、心の中で、言います。父の家には、有り余る食物があり、雇人さえ、食べることに心配していないではないか、と。しかし、彼は、父がどれだけ心配しているか考えていませんでした。父の豊かな持ち物に関心があったのです。あなたを心配して救いたいと思っておられる神の愛を考えずに、神の賜物に目を注ぐ人が多いのです。あなたは神の救いを自分のものとする前に、父なる神はどんなにかあなたを心配し、あなたを心にとめておられるかを知らなければなりません。
走り寄る神;
次に、父親を見たいと思います。父親は神を表しています。彼が父の家に向かうのに、まだ、家が遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした、と書いています。父の思いを無視して、自分勝手に出て行った息子ですが、父は彼を来る日も来る日も忘れたことはなかったでしょう。毎日毎日、門のところで帰ってくるのを待っているのです。まだ、遠くにいるのに見つけ出そうとしておられるのです。子が父を見出す前に父が子を見出しました。それが神のあなたに対する思いです。次に、かわいそうに思われました。そして、走り寄って、彼を抱き、口づけをした、と書いています。走り寄る神、それは深い哀れみと愛を表しています。それは、ご自身の御子キリストを与えて罪びとの私たちに近づいてくださるご愛です。そして抱いて口づけをしました。この口づけは、繰り返し口づけをしたという意味です。豚の世話をして、お風呂にも入らず、臭くて汚い息子だったでしょう。しかし、それも構わず、抱き着いて、何度も何度も口づけしたのです。ここに父のあなたに対する思いがあります。息子は言いました。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』と。その後、『雇人の一人にしてください』と言おうとしていましたが、父はそれを遮って、『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。』と言いました。これは、雇人ではなく、世継ぎとしての復権です。ここに、私たちの神のお心、御思い、を知ることができます。イエス様はこのたとえ話をお語りになって、父なる神がどのような方であるかを私たちにお示しになったのです。神は、あなたがあなたの罪のために滅びることを惜しまれて、神のひとり子であるイエス様をあなたの罪の身代わりとして十字架に差し出すほどにあなたをあわれみ愛しておられるのです。それは、あなたが神に立ち返り、神のいのちにつながり、永遠のいのちを得るためなのです。神は、あなたが神に立ち返るならこの上もなく喜ばれるのです。天では祝宴が開かれるのです。
神に帰って始まる幸いな人生;
最後に、放蕩息子の兄が登場します。兄は畑から帰ってきて、父が帰ってきた弟を歓待しているのを見て、怒って、家に入ろうともしなかったのです。この兄の怒りの理由は二つあります。一つは、弟は歓迎される資格のない無頼者であるということ。もう一つは、自分に対する父の態度と比較すると父は不公平であるということです。自分は従順にやってきたのに、弟は財産を放蕩と怠惰で使い尽くしてしまった。それなのに、というのです。本来、兄は父と共にいます。そして、父の物は自分のものとしているので、弟の罪を責めて、父の弟への恩恵を非難するには全く当たらないのです。むしろ、父の喜びを喜びとすべきでした。兄は素直に喜べないところに不幸があります。弟の方がはるかに幸福です。人は、自分の罪が分かり、赦しの中で神の愛と神の恵みに生きることこそ幸せなのです。兄のように、お金があっても道徳があっても人は幸福になれません。真に幸福な人生は神のもとに立ち帰ったときにはじまります。放蕩息子とその兄の例えは、どちらが幸せな生き方であるかを教えています。私たちは幸いな人生をだれもが望んでいます。ヘンリー・ナウエンが魂のホームを求めて、父なる神のもとにそれを見出したように、あなたもあなたの真のホームを神に帰るときに得られるのです。

 

約束を守られる神

2018年11月 04日(日)主日礼拝
酒田ルーテル同胞教会牧師 安藤修一

<聖書>使徒の働き16章30~34節
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

神の前のふさわしさ

2018年10月 21日(日)主日礼拝
日吉ルーテル同胞教会牧師 田口 聖

<聖書>ルカによる福音書22章31~32節、18章9~14節
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

未経験と非常識の世界

2018年10月 14日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書5章1~11節
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
<要約>

暗やみが深いほど福音の光は強い

イエス様の宣教開始は、イザヤ9章の預言に紹介されているように、「暗やみと死の地と死の影に座っていた人々に、光が照った」と言うことで紹介されています。暗やみと死と表現されている状況の中で、光が来た、と言うことです。それは、暗やみが光に変わり、死がいのちに代わる、絶望が希望に代わる、悲しみは喜びに代わることです。絶望的なマイナスが、希望に輝くプラスに代わった、と言うことです。イエス様の福音は、闇が深く、絶望にある人ほど、そして、死の恐怖を強く感じている人ほど、福音の光は強く照らしていると言えます。目の前の闇が深ければ深いほど、後ろを照らす太陽の光は強いのと同じです。ですから、もし皆さんが、今、悲しみにあるならば、幸いです。また、もし罪を深く感じているのなら幸いです。希望を失っているのなら、幸いです。足りなさを感じているのなら幸いです。慰められ、赦され、満たされるからです。イエス様の福音は、あなたを死の滅びから救い出して、御国に招き入れ、神のいのちの中でとこしえの幸いをお与えくださるからです。

一歩を踏み出すとみことばが成就する

イエス様はシモン・ペテロをご覧になりました。そして、言いました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と。ペテロは、夜どおし働いても一つもとれませんでしたが、「でもおことばどおり」と言って従ったのです。この「おことば通りに一歩踏み出します」「たといそうでなくても従います」という言葉は、信仰のキーワードです。ペテロは「おことば通り網を下してみましょう」と言って、信仰の第一歩を踏み出して、この後、大いなる神との出会いを経験するのです。私たちは自分の経験や常識といわれるものによって第一歩を踏み出せないでいることはないでしょうか。み言葉はわかっている、しかし、そんなことは信じられないといってないでしょうか。「その通りにすると」たくさんの魚が入り、網が破れそうになりました。「その通りにすると」神のいわれたこと、みことばの通りに従うと神を経験するのです。それは、人間の経験や常識では推し量ることができない神のわざが起こったのです。ペテロをはじめその他の漁師はものすごい感動を経験したのではないでしょうか。私たちもその感動を追体験しています。みことばが成就するという体験をします。

人生の最大の発見、神との出会い

信仰生活は、未経験と非常識の世界です。それは驚きと感動に満ちている世界です。あなたの信仰生活はそのような驚きと感動で満ちていますか。ペテロは言いました。「主よ。わたしのようなものから離れてください。私は罪深い人間ですから」そして、主の足元にひれ伏しました。神の聖さに触れて、自分の罪が鏡のように映しだされるのです。罪が分からないという人は、神に心を閉ざしている人です。聖霊が心に触れるとその聖さのために自分の汚れに気付くのです。暗い部屋に窓から光が差し込む小さな誇りや汚れが見えるのです。同様に、聖霊が光となってあなたの心を照らすと心の罪が見えてくるのです。しかし、遮光カーテンを閉めて、聖霊に心を閉ざしている人は自分の罪が見えないのです。聖霊様に正直な心でいたいです。ペテロはイエス様の足元にひれ伏しました。彼は降参したのです。もうお手上げです。あなたに負けました。太刀打ちできません。圧倒的な神の力を経験したのです。今まで、しがみついてきた自分自身、そこによりどころを失ったのです。自分で何とかしようとあがいていたことが無益であったことに気づいたのです。ここで初めて、彼は、自分の心の王座から降りました。そして、イエス様に座っていただいたのです。これが、神との関係が正される瞬間です。かくして、ペテロは神との本当の出会いを経験し、何もかも捨ててイエス様に従ったのです。ペテロはこの出会いによって、人生が180度変わりました。私たちもこれまで、多くの出会いを経験してきました。ある人と出会ったためにあなたの人生は良い方向へ変わったということはないでしょうか。背後にイエス様がおられたのです。人生は出会いで決まるといった人がいます。人は人によって成長し、信頼によって人は変えられるのです。イエス様のまなざしは変わることがありません。赦しと信頼のまなざしなのです。私たちもイエス様を真の主として信頼し続けていきましう。

イエスの最初の弟子

2018年10月 07日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネ1章35~51節
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

<要約>

招きに応えキリストを切に求める:

当時、イスラエルはローマの圧政下にあり、国家的にも民族的にも宗教的にも暗黒でした。そのような圧迫された状況の中で、群衆は、バプテスマのヨハネこそ国民が待ち望んでいたキリストではないかとさえ思うようになりました。アンデレやヨハネのような志のある青年たちはそのようなバプテスマのヨハネに弟子入りしたのです。彼らは、自分たちの夢や希望をヨハネと言う人物に賭けようとしていたのでしょう。そのような中で、ヨハネは、自分はキリストではなく、荒野で叫ぶ声である、と自己紹介をします。そして、主の来られる道を整える働きをしている者だというのでした。そして、そのバプテスマのヨハネがイエス様を指して言いました。「この方は私よりも優れた方で、私はこの方の靴のひもを解く価値もない」と。それを聞いたアンデレとヨハネの思いに変化が出てきました。彼らは、ローマの圧政から人々を解放してくれる政治的なメシヤを期待していたからです。青年たちには立身出世の野望もあったと思います。彼らには、ヨハネよりもイエス様に着いたほうが有利であると考えたでしょう。イエス様について行ったのです。それに対して、イエス様は「あなた方は何を求めているのですか」と言う問いかけをしました。あなた方は「誰を」求めているのですか、と言わないで、「何を」求めているのですか、と問うています。イエス様に自分たちの夢を見出そうとしている彼らの心をイエス様は見透かしました。そして、「あなた方は何を求めているのですか」の質問によって彼らの思いを正そうとなさったのです。「わたしがイスラエルの政治的な解放者となってあなた方の夢や希望がかなうことか」と問われたのです。彼らは、イエス様に「何を求めているか」と言われて、その瞬間、イエス様に「何か」を求めていた自分たちに気付かされました。そして、自分たちの思いを正されました。そして、「ラビ。今どこにお泊りですか。」と尋ねたのです。私たち信者は、イエス様にいろいろな求めをします。しかし、イエス様ご自身を知らないでいることがないでしょうか。また、お願いばかりで、イエス様と人格的なお交わりをしていないことはないでしょうか。もし、あなたの子どもたちが、何か欲しい時だけ、あなたのところに来て、欲しいものが手に入ったらあと用はないと言う態度であったら親は悲しい限りです。親は単に利用されていると感じるでしょう。自分の平安、自分にとっての利ばかりを求めていて、キリストにあなたを明け渡していないということはないでしょうか。もしそうならば、それは、神を利用していることにはならないでしょうか。私たちは自分をキリストに明け渡して、キリストを知ることを切に求めましょう。なぜなら、あなたがイエス様を求める以上にイエス様はあなたを求めておられるからです。イエス様は言われました。「来なさい。そうすればわかります。」彼らはイエス様についていきました。そして、イエス様の泊まっておられるところで、おそらく一緒に食事をして、夜遅くまで語らったのでしょう。そこで、アンデレは、この方こそメシヤであると信じたのです。すなわち、アンデレは、バプテスマのヨハネが言っている通りこの方こそ聖書に約束されていた救い主だと確信したのです。イエス様はすべての人を招いています。わたしに来なさいと。わたしのところに来なさい、そうすれば私が誰であるかわかるようになります。その様に招いています。目には見えませんが、イエス様は教会に今日もいらっしゃいます。心の目を開いて、みことばを聞くならばイエス様はあなたにご自身を現します

十字架の血で和解を得て永遠のいのちに至る:

イエス様は真の救い主であります。信じる者に決して消すことのできない平安と生きる喜びをお与えくださいます。そのことを、バプテスマのヨハネがイエス様を指して言った「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」ということばとイエス様ご自身が言った「天が開けて、神のみ使いたちが人の子の上を上り下りするのをあなた方は今にみます」と言う言葉から考えたいと思います。はじめの「罪を取り除く神の小羊」は、イエス・キリストの働きについての預言です。旧約時代は、罪を犯した民を贖うために神殿の祭壇で傷の無い小羊の血が繰り返し流されていました。動物が身代わりとなって民の罪を負って祭壇で殺されたのです。それは、無罪のキリストが十字架で全人類の罪を贖うことの予表でした。すなわち、とき至って、全人類の身代わりとなって罪の罰をあなたの代りに十字架で受けて死んでくださった事です。神の御子キリストは全人類の罪を贖うため、ただ一度十字架で血を流されたのです。それが「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」の意味です。もしあなたが、イエス様の十字架があなたのためであったことを信じるならば、あなたのすべての罪は赦されて、あなたは救われます。次に、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」から考えてみます。これは、創世記28章12節のヤコブの見た夢からの引用です。イエス様は天と地をわたす梯子となられて、天使たちがイエス様の上を上り下りしているという情景です。これは、イエス様が神と人間の橋渡しとなり和解となることを表しています。イエス様は生涯一度も罪を犯したことがない神の御子です。その無罪の神が人となったのです。そして、すべての人の罪の身代わりとなって十字架で死んで、罪の代価を支払ってくださいました。その事によって、神の怒りは取り去られました。神との和解ができたのです。その事を信じた人は神との平和を得ているともいえます。神の怒りが臨むことはもうありません。その代わり、神の愛のみが注がれます。すなわち、永遠のいのちです。神のいのちにつながりしぼむことのない希望の人生が約束されるのです。イエス様は人々に君臨するのではなく仕えるために来られました。そして、十字架でご自身の命を捨てるほどにへりくだられました。人々を父なる神様にとりなし、結び付ける働きをなさったのです。すなわち、天の梯子となられたのです。イエス様は十字架で死んだばかりでなく、三日目に復活し、天に昇り神の右の座にお着きになりました。私たちの最後の敵である死に対しても勝利の道を開いてくださったのです。かくして、死は滅びではなく永遠の命の入り口となったのです。

イエス様に結びつけるアンデレ

アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でしたがイエス・キリストにお会いして、その目で見、その人格に触れて、イエス・キリストこそメシヤ、救い主だという確信を持ちました。そして、彼は兄弟ペテロをイエスのもとに連れてきました。また五千人の給食の時には、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年を見つけ、イエス・キリストのもとに連れてきました。またイエスに会いたいというギリシア人をイエス様に伝えたのもアンデレでした。アンデレは人々をイエス様につれてきてイエス様と引き合わせる人でした。そのような賜物を持っている人であったと思います。彼はイエス様の最初の弟子となった者ですが、ペテロやヨハネやヤコブのように表立った人物ではなかったようです。イエス様は山上での変貌の時、ゲッセマネの祈りの時、ヤイロの娘の癒しのときも、ペテロとヨハネとヤコブの三人を連れて行かれました。しかし、アンデレは連れて行きませんでした。普通であれば妬みや恨みを買うことになるのでしょう。しかし、アンデレはその点、十分に謙遜な人物であったようです。隠れた役割に徹することを喜べる人間になりたいと思います。主イエスは、「あなた方の間で偉くなりたいと思うものは皆に仕えるものになりなさい。」と言われました。それは、実はイエス様ご自身のお姿なのです。イエス様が言われたように、皆に仕えるということこそが偉大さのしるしなのです。私たちはこの主の教えをどのくらい本気で受け止めているでしょうか。この視点に立つならアンデレこそ偉大な人物ということになります。彼は素直に自分の賜物を認識しそれを守り、そして人々をイエス・キリストに連れてきた人物でした。アンデレは、自分を無にして仕えるもの、人々をイエス様に連れてくる、あるいは結びつけるものとなりました。アンデレはイエス様の生き様を正しくまねた人物でした。人々の注目を浴びるキリストではなく、自分を無にして神に仕えるイエス様の姿です。アンデレのように、つぶやきでなく、自分が今与えられた状況や与えられた賜物に満足し感謝したいと思います。私たちはキリストの僕として徹しているでしょうか。神様のことより自分のことを優先させていないでしょうか。神のみなが褒めたたえられることを喜びとしているでしょうか。何よりも私たちの罪のために死んでくださり、私たちに真実の命を与えるために復活してくださったイエス様をいつも意識して今週も生活しましょう。

 

 

大義に立つ戦争

2018年09月 30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記14章1~24節
14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、
14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。
14:3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。
14:5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
14:6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。
14:7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。
14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。
14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。
14:11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。
14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

<要約>

神の栄光のために用いる自由

アブラムは、彼から報告を受けロトを救出する決意をしました。アブラムは彼の家に生まれたしもべ318人を招集しました。それに、アネルとエシュコルとマムレの兵士たちを加えておそらく、500から1000人程度の軍隊となったと想像します。もちろん隊長はアブラハムです。しかし、ケドルラオメルの軍隊とは軍備ではかなわないとアブラハムは考えていたことでしょう。しかし、彼らは目的を果たして、帰途にあったことから油断していたことでしょう。そこで、夜襲をかける作戦を取りました。後に、ギデオンが少数の兵士で、深夜に圧倒的多数のミデアン人を打った時のように、何よりも主が加勢してくださって夜襲は大成功を修めました。アブラムはロトの家族や財産と大勢の人々を取り戻したのです。ケドルラオメル連合軍を打ち破って、ヘブロンへ帰る手前で、王の谷と言われるシャベの谷まできた時に二人の王がアブラムを出迎えました。シャレムの王メルキゼデクとソドムの王です。シャレムは現在のエルサレムです。シャレムの意味は平和です。平和の王メルキゼデクは戦争で疲れたアブラハムとその連隊に必要なパンとぶどう酒を持ってきて彼らの労をいたわりました。また、何よりも神の祝福の言葉を携えて来たのです。アブラムは、今回の戦争の大義を考えていました。当時は、戦争は自国の理のために、自分より弱い国を支配し、略奪して、国益増強のためのものでした。しかし、アブラムの戦いの目的はそれとは全く違っていました。それは、甥のロトの救出でした。ですから、アブラムは、今回の戦争は自分の財産を増やして勢力を張るためではなかったことを自分に言い聞かせていたと想像します。アブラムは多くの戦利品を携えての凱旋でした。それだけに、自分の行動の大義を考えていたところでした。アブラムはエジプトでの失敗を思い出していました。エジプトで妻のサラを妹であると言って偽りました。サラの美しさゆえにパロは宮廷にサラを召し入れました。そしてそのために、アブラムはパロから多くの家畜や多くの男女の奴隷をもらい富んだのです。しかし、それは、神への罪でした。その事があって、今度は、アブラムは自分の行動の動機を吟味して、神の承認を得たいと思っていました。そのような時、いと高き神の祭司であるサレムの王メルキゼデクの訪問を受けたのです。メルキゼデクは、アブラムを祝福して言いました。「天と地をつくられた神が、アブラムの敵を彼に渡された。いと高き神に誉れあれ。」と。アブラムは、この戦いが神に覚えられており、神が勝利を与えてくださった事がはっきり認識したのです。そして、神に栄光を帰すことを教えられたのです。このように、アブラハムの信仰を受け継いだクリスチャンは自分の行動を吟味するのです。常にみこころかどうかということです。すべてことはやっていいのです。しかし、それらのことが益になっているかを吟味するのです。クリスチャンになるといろいろ制限を受けて自由がなくなると思っている方が多いと思います。実はその逆です。クリスチャンはどんなことにも支配されません。ただそれが、神のみ心に沿ったことかを吟味します。イエス様を信じてみことばに立って生活を設計するとすべてが秩序だって、何にも縛られない本当の自由を得るのです。そして、アブラムはメルキゼデクから神に栄光を帰すことを教えられて、アブラムはすべての財の十分に一を彼に与えたのです。そこにアブラムの神への献身があります。このようにアブラムは戦利品を自分の富とすることもできたのですが、ロトの救出と言う大義に立ち神に栄光を帰したのです。

神からの祝福と悪魔の誘惑

メルキゼデクの訪問に対して、次の、ソドムの王は、アブラムに言いました。「人々は私に返して、財産はあなたがとってください」と。ソドムの王は、邪心をもってアブラムに近づいたと思われます。取引を持ち掛けます。彼には、エラムの王ケドルラオメルからの脅威がなくなりました。その分、アブラムが逆に目の上のたん瘤のように今後脅威となる存在となりました。そこで、彼は、富をアブラムに与え、アブラムを富ませたのは自分であるという思いをアブラムに刻み込もうとしたのです。それは心理作戦です。次には巧みにアブラムを邪悪な誘惑に誘い、アブラムをはめて弱みを握り、自分の支配下に置こうと考えたのです。アブラハムは、そのことに気付き、ソドムの王の申し出をはっきりと断るのでした。二人の全く違う王の訪問は何を意味しているのでしょうか。それは、何か一大事を成し遂げた後に来る神からの祝福と悪魔の誘惑です。私たちも一つの事業なり、計画なりを実行した後、それがうまくいったときに二通りのことがやってきます。それは、一つは神からの祝福です。そして私たちは、神に栄光と誉をお返しするのです。もう一つは自分の手柄を覚えて高慢になり、自分に栄誉を帰そうとする誘惑です。ソドムの王の申し出は悪魔の誘いでした。アブラムはソドムの王の申し出をきっぱり断り戦争で戻したすべての者を彼に返しました。よく言われるのは、霊的に一番危ないときは、何かを成し遂げた時だと言います。悪魔はあなたの心にささやきます。その時、私たちは神に申し上げましょう。『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と。

クリスチャンは万人祭司:

メルキゼデクは、キリストではありませんが、キリストの型であります。メルキゼデクは、王であり祭司でした。キリストも王であり、祭司の職務を担っていました。祭司の職務は、とりなしです。人を神に執り成すことです。当時では、罪の贖いの代価として、傷のない動物をいけにえとして神に捧げました。キリストはご自身を人の罪の贖いの代価として、ご自身のいのちを犠牲におささげ下さいました。そして、今も、キリストに来るものを神に執り成し、罪の赦しをご自身の十字架の贖いにより宣言しているのです。アブラムには神のことばが与えられて、その時に祭壇を築きいけにえを捧げて祈りました。それは、神への礼拝行為でした。私たちクリスチャンも礼拝の民と言われています。昔の人は、祭壇を築き神に礼拝しました。現代の私たちは、教会に来て賛美のいけにえを捧げ、自分の心と思いを主に捧げて礼拝します。クリスチャンは万人祭司であると言われています。つまり、すべてのクリスチャンは祭司としての職務を負っています。祭司は祭壇でいけにえの羊などの動物の血を携えて神のみ前に出ます。同様にクリスチャンは神の子羊であるキリストが十字架で流された血によって神の前に立つことができる存在です。そして、クリスチャンはすべての人の罪の贖いとなった神の子羊であるキリストにより、周りの人々のために執り成し祈る人々だからです。わたしたちも家族友人知人のために日々、とりなしの祈りをしましょう。