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ピンチの時の対処法

2016年07月24 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>出エジプト記14章10~25節
14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、【主】に向かって叫んだ。
14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」
14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14:14 【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」
14:15 【主】はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
14:17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。
14:18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るのだ。」
14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、
14:20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。
14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、【主】は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。
14:22 そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
14:23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中に入って行った。
14:24 朝の見張りのころ、【主】は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。
14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。【主】が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

<要約>

絶体絶命の試練と決断

エジプトを出て、主は、昼は雲の柱、夜は火の柱の中にいて民の先頭にあって行く道を導かれました。ところが、パロはえり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車でイスラエルの民を追いかけてきたのです。行く手に海が現れ、そして、後ろにパロの全軍を目の当たりにして、民は絶体絶命と感じたのです。神に従い奴隷生活から解放されて、約束の地に向かっていく民にとって、第一の大きな試練がやってきました。同様に、御国の民であるクリスチャンも信仰によって歩み出すと必ずと言っていいくらい試練はあるのです。試練が来た時の対処法について学びたいと思います。まず一番目に、私たちは主を呼び求めることです。イスラエルの民は主に向かって叫んだとあります。そして、次に、「あなたがたは黙っていなければならない」とあるように、私たちは黙って主のみことばを聞かなければなりません。それから、神を信頼して一歩踏み出していくことです。それが信仰の決断です。かくして信仰によって前進したときに「主が戦われる」ことが現実となるのです。私たち信仰者は、小さなこと大きなこと毎日のように、主を呼び求めます。祈ります。次に、み言葉から聞きます。信じて一歩踏み出します。その歩みに主は最善の道を示されるのです。

試練によって神に近づく

試練が来た時、何が悪いのか考えます。これは、気づかせて改めるための試練です。しかし、試練には原因が見いだされないことが多いのです。病気やガン、死別、―――。その時には、神に信頼し祈ること、救いを求めることです。試練はその人をキリストに近づけます。試練によって信仰が精錬され、それは、やがて賞賛と栄光と栄誉になるというのです。17世紀には、キリスト教禁教令が出て、東北地方には、多くの殉教者がでました。岩手県には一関市藤沢町大籠というところに殉教記念館があります。それらの人々の証が残っています。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすればいのちの冠が与えられよう。」のみことばに励まされて、天の故郷にあこがれ帰って行った多くの人々がこの岩手県にもいるのです。ヤコブの手紙では「様々な試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさい」と書いています。信者は試練を喜び、迫害さえも喜ぶ者たちです。なぜなら、神の恩寵の深みを知り、感謝と喜びとに満ちる者となるからです。そこに至るまで、祈りの格闘を経験しなければなりません。しかし、最後は慰めを得るのです。悲嘆や苦しみの中で個人的に神は近づいて慰めてくださるのです。人生には様々な試練があり、痛ましく、冷酷と思われる実態もあります。聖書は心痛ましく嘆き悲しむことを許しています。それは、それを通してキリストに近づき、キリストに出会うからです。永遠の救いへの信仰が私たちの慰めとなります。

主があなたに道をつくられる

最近、三浦綾子の「道ありき」を読みました。これは、彼女の青春時代の自伝です。敗戦時、小学校の教師であった著者は、敗戦によって、天皇陛下を神としていた価値観から民主主義へ大転換がなされたことで、教育の矛盾を覚えて、その自責の念から教師を辞めました。自暴自棄になり、虚無的になったのです。ある男性との結納の日に肺結核に倒れました。婚約を破棄しに出かけた日に、彼女は海に入って自殺未遂しました。その後、療養の身になって、同じ肺結核に病む幼馴染の前川正の訪問を受けるようになるのです。クリスチャンであった彼によって、信仰を持つようになりました。ギブスベットでの寝たきりの療養生活のなかで、前川から「もう僕などを頼りに生きてはいけない。人間は人間を頼りに生きている限り、本当の生き方はできない。神を頼りに生きることを決心するのです」と言われ、療養先の札幌で、病床洗礼を受けました。前川は5年間の交際の後、天に召されていきました。綾子は失意の中にあったのですが、その約1年後、三浦光世と出会うのです。三浦は前川と外見は瓜二つで、そして誠実なクリスチャンでした。間もなく彼と恋愛しました。床に就いてトータル13年間の療養の末やっと病はいやされました。三浦光世は綾子が治るまで5年待ち続けやっと結婚に至るのです。「道ありき」の題はどのようにしてつけられたかは書かれていませんでした。著者はイエス・キリストが道であることを見出し虚無の人生から希望の人生に変えられました。また、神は、病苦別離の悲しみの人生においても、綾子にその時々に、歩むべき道を神はつくられたのです。いずれにせよ、神は私たち一人ひとりに道をつくられるのです。綾子の生涯には福音の希望があります。決してしぼむことのない希望です。キリストを信じる者に与えられる希望です。それほどの希望を与える福音とは何でしょうか。誰でもキリストを信じる者は、十字架によってすべての罪が赦され、キリストの復活によって永遠の命にあずかれるのです。背後にあるのは神の無限の愛です。私たちはその愛をただ受け止めるのです。その素晴らしい福音によって生かされる幸いを自分のものとしていただきたいと思います。

 

 

出エジプト、自由への脱出

2016年07月17 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>
12:29 真夜中になって、【主】はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。
12:30 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。
12:31 パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、【主】に仕えよ。
12:32 おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」
12:33 エジプトは、民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。人々が、「われわれもみな死んでしまう」と言ったからである。
12:34 それで民は練り粉をまだパン種を入れないままで取り、こね鉢を着物に包み、肩にかついだ。
12:35 イスラエル人はモーセのことばどおりに行い、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。
12:36 【主】はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。
12:37 イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。
12:38 さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。
12:39 彼らはエジプトから携えて来た練り粉を焼いて、パン種の入れてないパン菓子を作った。それには、パン種が入っていなかった。というのは、彼らは、エジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられず、また食料の準備もできなかったからである。
12:40 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。
12:41 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、【主】の全集団はエジプトの国を出た。
12:42 この夜、【主】は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、【主】のために寝ずの番をするのである。

<要約>

エジプトへの神の裁き

神は最後である十番目の禍をエジプトにくだされました。エジプトのすべて初子、王座に就くパロの初子から地下牢にいる捕虜の初子まで、一夜のうちに神は裁かれいのちを取られました。すべての初子は殺され大きな嘆きと悲しみがエジプト中を覆いました。しかし、イスラエル人の家々では傷のない一歳の雄の小羊を殺して、その血を各家の門の鴨居に塗ったので、死のみ使いは、その家の鴨居の血を見て、その家には禍を下さないで過ぎ越したのです。これは、世の終わりに起こる神の裁きの予表ということができます。神の正しい裁きがエジプトのすべての初子に下ったのと同じように世のすべての人に下るのです。パロをはじめエジプト人は真の神を無視して、偶像に心を惹かれていました。現代人の多くも神はいないと決め込んでいます。しかし、創り主なるまことの神は、ご自身を現しております。人間の最も根深い罪は何でしょうか。それは、あなたにいのちを与えて、日々あなたを支えておられる創り主なる神を無視していることです。あるいは、神の上に自分をおいていることです。そのように神を無視していたパロとエジプト全土を神は裁かれました。しかし、裁きを免れた家々は、小羊の血を門の鴨居に塗った家々です。これは、キリストの予表です。神の小羊と呼ばれたキリストの十字架の血によって神の裁きを免れるということです。具体的には、キリストの十字架を信じることです。

パロの屈伏と自由への代償

パロはその夜モーセとアロンを呼んで、イスラエル人を急き立てて追い出しまいた。出エジプトで、イスラエル人は奴隷の身分から自由の身分になりました。これはわたしたち人間が自分の罪から自由になることの型です。人間が罪から解放されて本当の心の自由を得ることです。それを得させるために、贖いの業がなされました。贖いというのは、代価を払って買い取る、あるいは、買い戻すという意味です。奴隷であった人間にその対価が支払われて自由になることです。神は、罪のない神のひとり子であるキリストを人間の罪の代価として支払ってくださったのです。一つのあかしを紹介します。ある賛美集会で賛美が終わって、静かに祈っているときに自分が赦すことのできない友の顔が浮かんできました。彼は自分と自分の家族を深い悲しみで苦しめました。彼を目にすると心の奥底に沈んでいる怒りと憎しみが浮かび上がってくるのです。祈りの中で、自問自答しました。自分の判決では、自分はいつも正しく、彼はいつも極刑です。そこで私は聖霊に問いました。「彼の罪に対する罰は何ですか?」と。そうしたら「彼の罪は赦されています。あなたはどうしますか?」と聖霊が答えました。その途端、講壇の十字架が私に迫ってきました。イエス・キリストを救い主と信じて罪赦された自分のことが思い出されました。十字架による罪の贖いを体験して知っていたはずなのに、今まで、彼の罪は赦されないと思っていました。それと同時に自分の罪深さを改めて知りました。「主が赦されているのなら私も赦します」と心の中で答えました。その時、私は三年にわたり持ち続けていた憎しみは消え、平安に満たされていました。これが本当の自由です。信者が受ける自由は、罪と死からの自由です。罪に支配されていた悪い習慣から解放されます。また、死の恐れからも解放されるのです。

神の主導によるエジプト脱出

エジプトからの旅たちです。彼らは急いでエジプトを出たので、食料の準備もできなかったと書いています。エジプトからたくさんの金銀や着物をもらいましたが、荒野では何の役に立つことでしょうか。やがて、荒野に入ると食料となる家畜も尽きて食べる物がなくなります。先がどうなるかわからなくても彼らは前に進んでいくのです。わたしたち信者もかつてイエス様を信じるとき、先のことは分からない、しかし、全能の主が導いてくださる、という信仰で出エジプトしました。しかし、この後、豊かに神は民を支え守り祝福してくださったのです。私たち信者も、過去を振り返り、神は本当に真実な方であることを確認して、賛美せずにはいられないのです。神はキリストのゆえに彼らを赦し、忍耐をもって、導きました。同様に神は今まで私たちに真実を尽くし忍耐をもって導いてくださいました。出エジプトは神の御わざです。神の動機はあわれみと愛です。ご自身が選んだ民をあわれみ愛し、寝ずの番をして導き出したのです。出エジプトは、罪の支配からの脱出と言えます。説教題は「自由への脱出」としました。ルターは、キリスト者の自由という本の中で、二つの命題を出しました。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由の王であって、誰にも服しない。」「キリスト者はすべてのものに仕える奴隷であって、誰にでも服する。」キリスト者は、イエス様の十字架の赦しによってすべての罪が赦されています。ですから、罪の奴隷ではなくなりました。すべてから解放されています。イエス様を信じている者は心の自由が与えられているのです。ですから、今度はその自由をもって、隣人のために自ら喜んで仕えることができるのです。

在って在る者

2016年07月10 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>出エジプト記2章23節~3章14節
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。
3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
3:7 【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
<要約>

目に見えない方を見る四十年

イスラエル人の労役の叫びは神に届きました。子どもの苦しみに黙っていることができない父親のように、神はその叫びを聞き、黙っておられなくなりました。同様に神は私たちクリスチャンを子として見てくださっています。ですから、信者の叫びは届いています。すぐに答えが出ないから、聞いておられないというのではありません。神は最善の時を待っておられ、最善の方法で祈りを聞いてくださるのです。もし、すべて私たちの願い通りに行くことが神のみ心であるならば、人間の願いはやがて欲望になり、私たちは神を召使のように扱うことでしょう。家内安全商売繁盛の願いが神をつくります。自分中心の欲望が神となります。時が満ちて、神はモーセを召して、その働きにつかせようとしました。モーセはミデヤンの地で目に見えない神を信じ続けるという訓練を受けました。モーセは、幼児期に両親からアブラハム、イサク、ヤコブの神を聞いていました。そして、神は民を必ずエジプトから脱出させてくださるという約束も聞いていたでしょう。彼は成人したときに、パロの娘の子と呼ばれるよりは、イスラエルの民と苦しみをともにすることを選んだとあります。そのように、モーセには情熱も能力も力もありました。しかし、それは自分だけのもので、イスラエルの民には信任されていなかったようです。神の民と苦しみを共にしたいという思いとは裏腹に民に信任されていない自分の立場を知り、落胆したのです。民の心を捉えることができない自分の無力さを知ったでしょう。そして、40年の歳月を荒野で過ごすのです。その間に、モーセは神の訓練を十分に受けたと思います。「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と書いています。モーセの謙遜さはこのような試練を通して養われたのです。

働きにつかせてくださる神

神はホレブ山で、モーセを召しました。神は、ここからモーセを聖別して神の器として遣わすのです。モーセをイスラエル民族はエジプトの奴隷生活から解放するリーダーとして任命したのです。神は、民の悩みを確かに見て、叫びを聞いた。そして、民をエジプトの手から救い、約束の地、乳と密の流れる地に導くと言われました。「見よ。今こそ」と言い、時が来たことを述べ、「今、行け」とモーセに命じました。続けて、「わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」それに対して、モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」と答えます。自分がイスラエルの民から信任を得ていないことを、そして自分の無力を思い起こしていたのです。しかし、神は「わたしはあなたとともにいる」「わたしがあなたを使わすのだ」と応答されました。そうしたら、すぐに「今、私はイスラエル人のところに行きます。」と答えました。「わたしはあなたとともにいる」のみことばは、信仰者にとって何と大きな助けでしょう。私たち信者も、今、それぞれのところで働いています。その働きはそれぞれ違います。会社、学校、家庭に遣わせられているのです。聖書は、それは神のご計画によると言います。私たちは自分で決めて今の働きに就いていると考えています。しかし、神は、それは神のご計画のうちにあると言われています。聖霊なる神があなたとともにその働きを担ってくださっているので、祈りと信仰をもってその働きに最善を尽くしなさいということです。

三位一体の絆に結ばれる

神は、「わたしはある、というものである」と言われました。「有って有るもの」、「永遠の存在」、「昔も今も、永遠に存在する方」。「誰が何といっても実存されている動くことのない土台、変わることのない全能者」です。それに対して、この世の中のすべては移ろい、消えていくものです。すべて、一時のものです。しかし、神の時は永遠に続きます。私たち人間の営みを見てもわかります。健康第一と言います。しかし、現代では統計的には全部の人の二人に一人はガンになります。ガンになってもならなくても人はやがて死にます。富はどうでしょうか。富や財産もしかり、死ねば他人のものになっていきます。家や車も同じです。仕事や会社はどうでしょうか。人間はもともと、創造主なる神とともにあるものとして作られました。自分が必要とされていないと感じるとき、愛する人を失ったとき、あるいは信じていた人に裏切られた時、虚無感を抱くのです。人生の意味が解らなくなるのです。しかし、神は人間をわが子のように大切に思っておられます。それが本当にわかれば虚無はなくなるのです。神は聖なる方です。聖いということは汚れがないということです。一点の罪の汚れもない方が神です。そのような神は人間の罪を受け入れることができないのです。すなわち、人間は神に近づくことはできないということです。そこで、神が人間に近づいてくださいました。イエス・キリストは来てくださったのは、私たち罪びとが神に近づけるようにするためです。神と離れて虚無に陥り、滅びに向かっている人間を憐れみ、神の方から近づいてくださっています。神の三位一体は不分離の結束です。神はその結束を解いて、あるいは絆を解いてキリストを私たちに与えてくださいました。神と結ばれるとき、人間は神の永遠、不変、不動を自分のものにするのです。「インマヌエル、神が共にいてくださる」という約束をいただいたモーセはイスラエル民族に遣わされました。神と結ばれるとき、人間は神の永遠、不変、不動を自分のものにするのです。信仰というきずなで神と結ばれた者は、有限ではなく、無限の存在者として生きるのです。「インマヌエル、神が共にいてくださる」という約束をいただいたモーセはイスラエル民族に遣わされました。モーセは、自分の無力を知り、挫折して、虚無に陥ったでしょう。しかし、不変不動の神が「共にいてくださる」という約束を握りエジプトに遣わされたのです。私たち信者も、キリストにより神に近づき、父と子の関係に入れられています。いつも行動をともにしていただいているということです。これは何と大きな恵みであり助けでしょうか。私たちには先が見えないという悩みもあります。しかし、不変不動の永遠の神があなたと共にいてくださるのです。ですから思い煩うのはやめましょう。将来と希望が与えられています。神のみ手の中で安心して生かされていくのです。

信仰で知るとてつもない約束

2016年07月03 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>出エジプト記1章8節~2章10節

1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。
1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」
1:11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。
1:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、
1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。
1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
1:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
1:20 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。
1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。
1:22 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」
2:1 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。
2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。
2:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。
2:4 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、
2:5 パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。
2:6 それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです」と言った。
2:7 そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」
2:8 パロの娘が「そうしておくれ」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んで来た。
2:9 パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
2:10 その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです」と言ったからである。

<要約>

苦役にあうイスラエルの民

ヨセフを知らない王の代になって、エジプトのイスラエルに対する思いも変わりました。イスラエルの民を苦役につかせるのです。イスラエルの民はエジプトでは寄留の民です。弱い立場にあって、民は強制労働につかせられました。その奴隷状態は約400年続いたのです。しかし、イスラエルの民族は、純血を保ち、他民族とは同化することがありませんでした。それは、アブラハムの契約を覚えていたからです。神は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫に土地を与えると約束しました。そして、必ず、イスラエルの民をエジプトから脱出させて約束の地に導くということです。このように、民は苦難の中で、神の約束を待ち望んでいたことがうかがわれます。クリスチャンは、待ち望む者たちです。現状に振り回されることなく、やがて来るものを待ち望むのです。これは、神に選ばれ、神に約束を与えられた民のあかしです。世は、御国の民を支配下に置こうとします。エジプトの王パロはこの民族を完全な支配下に置き、服従させ、奴隷として苦役を課しました。それでも、神はこの民を祝福し、益々人数が増えるのでした。そこで、パロは、へブル人の助産婦たちに命令しました。それは、生まれた子が男の子であれば、生まれたとき殺しなさい、女の子は生かしておきなさいというものでした。

神を恐れる助産師

ところが、助産婦たちは神を恐れて、男の子も生かしておいたのです。パロの尋問に対して、彼女らの答弁は「へブル人の女はエジプト人の女と違い活力があるので、助産師がいく前に産んでしまう。」というものでした。しかし、助産師たちはいのちを守ったのです。神はこの助産婦たちを祝福されました。助産婦たちを神は栄えさせました。彼女らは、「神を恐れたので」とあります。神を恐れ、愛し、信頼するものを神は祝福してくださいます。いのちは、神がお与えになるものです。辻岡健象牧師が代表をして「小さないのちを守る会」というのがあります。その会では、この世の中で最も小さくて弱いいのちは胎児のいのちであると考えています。胎児のいのちも大切なかけがえのないものです。そのいのちを守る働きをしています。具体的には望まない妊娠でも、中絶しないように妊婦をサポートして、育てられないときは養子縁組を手伝っています。そこで分かったことは、いのちを守ろうとするものを神は必ず祝福されるということです。いのちを守る方向にことを持っていくとすべてが祝福となっていくのです。中絶しないと決断しただけで、すべてがうまくいきます。生んだ女性も明るく平安になります。赤ちゃんも良いクリスチャンホームに導かれて幸せになっています。出産した病院のスタッフも良い選択だったと言います。ここに、神の法則が働くのです。十戒の第五戒「人を殺してはならない」は祝福の法則です。第四戒ばかりでなく、十戒はみ心ですので、十の戒めに沿って決断することハッピーライフの秘訣です。パロが次に出した施策は、男の子が生まれたらナイル川に投げ込めというものでした。レビ族の家系にモーセが生まれました。ついに、隠し通せず、赤ちゃんをパピルス製でアスファルトを塗って防水処置した籠に入れてナイル川の葦の茂みに浮かべたのです。

パロの娘の養子となるモーセ

モーセの姉の機転によりモーセは、実母を乳母として育てられました。おまけにパロの娘から療育費までもらいました。そして、その子が大きくなった時、宮廷のパロの娘のところに連れて行かれました。モーセは両親と家族のもとで過ごしたときに、イスラエルの望みを聞いていたのです。彼をつくったのは、やはりレビ族であった両親の信仰です。どんな虐げの中でも、理不尽の中でも忍びとおす信仰でした。それが、約束に生きる信仰です。モーセの両親は、モーセの上に神の約束の成就のためのただならない使命を見たのでしょう。ここに子育てのポイントがあります。それは、子どもに対する神の約束を親はその子の上に見ていくのです。やがて、その子が約束に生きることができるように導くことが大切です。すなわち信仰の継承です。王宮に引き取られたモーセは、帝王教育を受けたでしょう。エジプトの最先端の学問を究めたと思います。しかし、彼はパロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるより、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったのです。聖書は、世の栄華や楽しみははかないもので、死に至る罪であると言っています。私たちは罪を軽視してはいけません。罪の報いは死であるとはっきり聖書は言います。それに対して、信仰者の報いとして与えられるものは、「主キリスト・イエスにある永遠のいのち」です。その根拠は十字架です。イエス・キリストは全く罪のない神のひとり子です。そのキリストが全人類の罪を代りに受けて、罪びととして処刑されました。それは、このままでは自らの罪のために滅んでしまう人間一人ひとりを神が惜しんでおられるからです。神はご自分のひとり子のいのちに代えても、あなた一人を愛しておられるからです。信仰によって、私たちのいのちはこの肉体のいのちだけでないことを知りました。信仰によって、信じる者を神の子どもとしてくださっていることを知りました。信仰によって、永遠のいのちが与えられて、神の栄光の望みを知りました。それが福音です。その福音はイエス・キリストにより全人類にもたらされ、クリスチャンはそれを受け継いでいます。今度はそれを、自分の子どもや家族に伝えることです。次に友人や知人に伝えます。それをイエス様はあなたに託しています。

全世界に届けられる福音

2016年06月26 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き28章16~31節

28:16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。
28:17 三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。「兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
28:18 ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。
28:19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません。
28:20 このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。」
28:21 すると、彼らはこう言った。「私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。
28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。」
28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」
28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

<要約>

パウロ、ユダヤ人に伝道

パウロは、ローマについて、軟禁されて番兵付きの自分たちで借りた家に住むことができました。外に出て活動することはできなかったようですが、自宅に人々を招いて、福音を語ることができました。パウロはここでも、異邦人に福音を語る前に、まず、ユダヤ人に神の国のことを語っています。兄弟たちと呼び掛けて、パウロはなぜ、ローマで裁判を受けるために連れてこられたかを説明しました。ローマ人も自分の無実を認めたが、ユダヤ人たちが反対したためにやむなくカエサルに上訴したことを説明しました。そして、自分は「イスラエルの望み」のためにユダヤ人から訴えられているのだと説明しました。長老たちも、「この宗派についてはいたるところで非難があるのを知っている」というのです。そして、直接パウロから話を聞きたいと言い、皆が集まる日を決めて帰って行きました。

イスラエルの望みを語る

パウロは福音を語りました。パウロは心をこめ、言葉を尽くして、イエス・キリストにより成就した神の救いの全貌を旧約聖書から説明しました。ユダヤ民族は選民思想を持っていました。ユダヤ民族は、かつての歴史の中で、エジプトで400年間奴隷として扱われていましたが、神の大いなる御業により解放されました。それにもかかわらず、度重なる民の不信の罪により民は祖国を追われて離散の民となりました。常に、祖国は大国に支配されて、虐げに苦しんでいたのです。歴史を振り返り、ユダヤ人たちは自分たちの過去を反省しました。神の律法を軽視して真の神から離れ、偶像礼拝に走ったことの結果としての今があると考えていたようです。そして、その反動から、彼らは律法を守ることに集中し、律法主義に陥ったのです。大国の支配下にあっても、彼らは望みを持っていました。それは、アブラハムに与えられた民族祝福の約束と旧約聖書に預言されたメシヤ、民族をローマの圧政から解放してくれる政治的な救い主です。そこで、パウロは、イエス・キリストこそがイスラエルの望みであるメシヤであると説得しました。そしてこの救い主はイスラエル民族に与えられて、世界のあらゆる民族にも及ぶ救い主であることを説いたのです。ところが、ユダヤ人たちは、律法の表面的な規定を破っていたイエス・キリストを異端者と決めつけました。さらに、イエスが自分を神と言ったので、それは神への冒涜だと責め、十字架で亡き者にしたのです。人は生まれながら「律法主義者」であると言われます。すなわち、だれでも自分の成績、実績に自分自身の存在意義を置くのです。どこまでも、人間は自己の中にある何物かを誇ろうとするのです。それが人間の本質です。ユダヤ人たちの律法主義に対して、パウロは、ユダヤ人の先祖アブラハムは律法の行いによってではなく、彼の信仰によって義と認められたことを話しました。アブラハムは内向きではなく、すべてを益と変えてくださる神を見上げていました。パウロは行いによる義ではなく信仰による義を説きました。律法を守ることによっては、かえって自分の罪を示されるのです。なぜなら、律法の要求は外側でなく心の内側に向けられているからです。律法を守ろうとすると逆に守ることができない自分を知らされるのです。そして、罪を悔いて神を仰いで赦しを得るのが正しい信仰であると説いたのです。神をないがしろにしてきたことお悔い改め、思いを変えて真の神であり父である方に帰るのです。そして、キリストを信じる事こそ、天地万物を造られ、私たちをつくり、愛している神に立ちかえることであると説いたのです。

福音が異邦人へ広がる

パウロの説得による結果、「ある人々は信じた、ある人々は信じようとしなかった」のです。イザヤ書の預言の通り、イスラエルの民へもたらされた救いはもはや、彼らが受け取らず拒否したために異邦人に送られたのです。「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」で終えています。パウロは、その後スペインへ行ったかどうかわかりませんが、紀元67年ころローマで捕えられて処刑されたと言われています。神は御子のいのちに代えてこの救いの道を備えてくださいました。ここに神の真剣さと熱心さが見えます。この使徒の働きはここで終わっていません。全世界に福音が届けられつつあります。神のみことばはその通りになることを示しています。神の真剣さと熱心さは私たちに向けられています。神のものとされた私たちも、真剣さと熱心さをもって神に応答していきたいと思います。

聖徒であり主の弟子として歩む

2016年06月19 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き19章8~20節
19:8 それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。
19:9 しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。
19:10 これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。
19:11 神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。
19:12 パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。
19:13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
19:14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
19:15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。
19:16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。
19:17 このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。
19:18 そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。
19:19 また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。
19:20 こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。

<要約>

聖徒として弟子として生きる

パウロ一行はエペソにつきました。パウロは、いつものように、最初にユダヤ人の会堂で、パウロは三か月間大胆に、神の国を語ったのです。その中で、信じた人々も起こされました。しかし、ある者たちはかたくなになり、み言葉を聞き入れずに、会衆の前でこの道を罵ったのです。弟子たちと一緒に出て行ったのです。教会では、クリスチャンのことを弟子といいます。イエス様についていく人が弟子です。弟子は、いつも師と共にいて、師から学び師に仕える者たちですね。弟子はいつも師から学び続ける人です。私たちもいつも聖書を学んで、イエス様のみこころを知ることを続けましょう。もう一つ、信者は何と呼ばれているでしょうか。エペソ人への手紙によると、信者は永遠のみこころによって聖徒として召されているということです。信者はキリストの弟子、聖なる人、神から選ばれた聖い人です。でも依然、私たち信者はたくさんの問題を持っています。罪を犯します。失敗もよくします。不信仰になります。イエス様は、「この世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしは世に勝ったのです。」と言われました。私たち信者は罪人である自分から目を背けてはいけません。直視しながら、同時に、この聖徒であり弟子であるというアイデンティティーに生きるのです。

聖霊の働きと奇跡

パウロが身に着けている手ぬぐいや前掛けを外して病人にあてるとその病気が去り、悪霊は出て行ったというのです。この当時は、そのような驚くべき奇跡が日常のこととして起こったのです。それは、顕著な聖霊の働きです。新約聖書が完成される前の時代、当時の人々が信じるために見える形で聖霊の働きが現れたと考えます。ここで見られる奇跡は、それを通して人々が真の神を信じるためでした。今、聖書が完成した現代は、不思議な現象を見なくても、聖霊が働いてイエス・キリストを信じることができます。現代もパウロのような奇跡は見ないかもしれませんが、奇跡は常に起こっています。人が悔い改めてイエス様を信じるということは最大の奇跡です。今から20年ほど前のことです。家内の父親が危篤なのですぐ来るようにということでした。義父は、呼んでも反応がない状態です。医師からは脳こうそくだということでした。親戚家族が集まっていました。私には、みことばが与えられていました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と。教会でも祈ってい頂きました。そうしたら、それから6か月後には杖をついて自分で歩いて盛岡に来たのです。そこで、義父は、自分が危篤であったときのことを話してくれました。ある夜、枕辺に立つ人がいて、「生きなさい」と自分に声をかけたそうです。そんなことが三回あったそうです。そうして、その通り、自分は元気になったと話していました。その尋ねてきた方はイエス・キリストであると気づいたのです。義父は次の日曜日に洗礼を受けて救われました。奇跡は今も起こっています。信じて踏み出すと、信じてキリストに従うときに私たちの手を用いて奇跡が起こされるのです。それは聖霊のみわざです。

神への恐れから罪を悔い改め生きる

スケワと7人の息子たちは、裸にされるほどに暴力的な仕打ちを悪霊から受けたのです。彼らは神の名を私利私欲のために用いたのです。現代社会はこの恐れを失った社会だと思います。なぜなら、現代社会は神を認めないので、神を恐れることもなくなってしまいました。そのような中で、人間関係は希薄化しています。人間疎外、孤独、孤立化が特に高齢者で見られます。独居老人もふえています。子どもは親の面倒を見ない社会です。近所の人がわからない、他人に関心がない。離婚率の増加。結婚倫理の喪失、不倫が珍しくない社会通念。そのためにどんなに多くの人々が傷つき悲しんでいます。それに対する神の悲しみと怒りも無視してはいけません。聖書は、神を恐れ、愛し、信頼しなさいと勧めます。しかし、神はそのような失われた人間を探しておられます。一匹の迷子の羊を求めて、99匹を野に残して探し求める羊飼いのように失われた人を探しておられるのです。神の愛は、神の怒りを凌駕しました。神は、人間を愛して、滅んでしまうのを惜しまれて、御子イエス・キリストを送ってくださいました。そして、人間の罪に対する神の怒りを十字架上の独り子イエスに落としたのです。イエス・キリストの身代わりによって人間の救いの道を開いてくださいました。その動機は、神の愛です。今日も、教会を通して、神は招いておられます。イエス様を信じて、永遠からの神のみこころである救いを受け取りましょう。神はあなたを聖徒として選び、弟子としてお用いになるのです。問題の多い現状から目を背けてはいけません。むしろ直視して、主の弟子としてこの時代にあって愛の実践をしていくのです。それが、聖徒であり弟子である者の使命です。

神中心の人生へ転向

2016年06月12 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き17章16~34節

【新改訳改訂第3版】
使
17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。
17:17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
17:18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。
17:19 そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。
17:20 私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」
17:21 アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。
17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
17:29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
17:34 しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。

<要約>

アテネ人と現代人

アテネ人は現代人と似ています。アテネは知的活動が活発な都市でありました。哲学、芸術、科学の町でした。人々は面白い話や興味のある話に飢えていました。すなわち情報に飢えていたということです。現代人も情報を求めています。そういう点では、アテネ人も現代人も新しい知識を求めているということです。知性を満足させようと知識を求めるのです。そこで、文明や科学が生まれました。科学は人間中心の知的活動です。そこから生み出されるのは人間中心の世界観です。パウロが説いた復活は、普通起こりえないことです。だから、アテネの人々は、そんな愚かなことと言って話を聞かなかったのです。現代人も同じです。人間の知性が最も求めているのは、なんといっても人間の起源でしょう。あるいは、万物の起源でしょう。どうして世界ができたのか。創造主なる神を認めない人間は、進化論に行きつきました。世界は偶然の積み重ねによって下等な生命が生まれ、さらに偶然が繰り返されて、環境に適合して進んだ者たち、進化したものたちが世界を支配していると考えました。現在、進化論は自然観察の中で実証することができないので、仮説の域を出ていません。進化論にはかなりの無理があると多くの科学者が気づいています。そこで、新しい理論ができました。それが、インテリジェントデザイン論です。宇宙万物、そして、すべての生物は「知的存在によりデザインされてできたのだ」という理論です。この知的存在は、聖書に、「初めに神が天と地を創造した」の創造主の神を表していますが、博士と言われる人々は、プライドにかけて、神を認めるわけにはいきません。アダムの罪以来、人間中心の世界観が世界を覆っています。人間が主となっている世界です。それは、はっきり言って、人間が神となっていることです。

パウロの伝道説教

パウロはアテネの人々に世界の創造主なる神について語ります。神が私たちを必要としているのではなく、私たちが神を必要としているのです。なぜなら、神がすべての人にいのちとすべての必要を与えておられるからです。人間は、自分のいのちのことも自分ではどうにもなりません。神が定めておられる間この地上で生きるのです。ひとりの人からすべての人ができた、と聖書は語ります。それも神はご自身に似せてつくられたひとりの人です。人類の先祖は神に似せてつくられた特別な存在です。しかし、現代の日本の学校教育では進化論に則り、サルから人間に進化したと教えます。ですから、進化論は人間の自尊心を傷つけるだけです。進化論からは人格教育は生まれてきません。人間は神の中に生きているにもかかわらず、心は神から遠く離れています。それは、最初の人アダムが「あなたは神のようになれる」とサタンにそそのかされて、神の地位に自分を置いたからです。その人間の高慢の罪によって、霊的ないのちは失われたのです。それ以来、愚かにも人間には神に対抗して神に負けたくないという潜在意識があるのです。ですから、創造主なる神を拝まず、自分の欲望を自分で作った偶像に投影して、それを拝んでいるのです。その結果、神から遠く離れているのです。それが、アテネ人、現代人を代表とするすべての人類なのです。やがて、復活したキリストがすべての人間について、正義の裁きを下すのです。あなたが、神の前で正しいか、正しくないか、すなわち罪があるか罪がないかを判定するというのです。そして、罪ありと判定された者は、それは恐ろしい、永遠の滅びへ落とされるというのです。すなわち、神から離れているすべての人は自らの罪により滅びるのです。神は愛とあわれみをもってすべての人をおしんでおられます。そこで、罪のない神の御子が十字架で人間の罪の裁きを代りに受けてくださいました。そして、信じる者は罪なし、すなわち義であると宣言してくださるのです。キリストが和解となってくださったのです。

人間中心から神中心へ

神は、私たちすべての人間に、「悔い改め」を命じておられる。すべての人は、自らの罪に気付き、「このままではいけないのだ」と思い、罪を悲しみ、思いを変えて神を信じなさいというのです。悔い改めという言葉は、メタノイア、思いを変える、という意味です。考え方、価値観の転回です。人間中心から神中心です。コペルニクスの時代に、天道説から地動説に大転回が起こりました。今、すべての人に求められているのは、人間中心から神中心への転回です。具体的には、悔い改めて、キリストを信じることです。思いを変えて、神であるキリストに人生を導いていただくことです。自分で頑張って生きる人生から神に頼って生かされる人生への転回です。そして、神のいのちとつながるいきかたです。それは聖書が約束する永遠のいのちです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」