イエスの弟子であるとは

2019年1月27日(日) 主日礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書14章25~35節
14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
14:32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
14:34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

<要約>

自分を捨ててキリストの弟子となる:

イエス様はここで、イエス様よりも、家族を愛する者、さらにイエス様より自分のいのちを愛する者は、「わたしの弟子になることはできません」と言っています。イエス様を信じるという告白ができるということは神の恵みであり、祝福であり、神の選びでありますが、イエス様の弟子となるための条件は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってついてきなさいというものです。自分を捨てるというのは、自分の力や考えに頼らないで神に頼ること、自分を神に明け渡すことです。私たちはどうしても自分が中心に生きています。自分中心から神中心に生き方を変える時にあなたの人生は本当に幸せで豊かになるからなのです。

弟子には献身と忠誠が求められる:

塔を築くのに座って完成できるかどうか考えなさい、というのです。イエス様に従っていく信者としての生涯を全うできるか考えなさいというのです。これは、イエス・キリストへ献身を意味しています。また、どんな王でも、戦いを交える時には、相手が二万人の軍勢で向かってくるのに、こちらは一万人しかいないとなれば、まず、座って考えるだろうというのです。勝利の見込みがなければ、こちらから使者を送って講和を求めるでしょう。これは、あなたがイエス・キリストに従いなさいという命令を受けて、拒んだら滅びが待っており、降参し自分を明け渡したらいのちを得るのです。このイエス様の要求は忠誠です。この時、あなたが守られて本当の自由といのちを得るためです。塩気は、献身と忠誠です。

イエスの弟子に与えられるいのちの平安:

ここにあるイエス様の厳しさとは別に、マタイ11章には、やさしく柔和なイエス様のお姿がうかがわれます。あなたは、ありのままのあなたで、イエス様のところへ行きましょう。イエス様はあなたを休ませてくださいます。そして、あなたには平安が与えられます。なぜでしょうか。それは、イエス様があなたの重荷となっている様々なことを代りに担ってくださるからです。ですからそれらへの執着を手放して、イエス様にお委ねしなさいというのです。平安と喜びがあります。イエス様の弟子であることは決して難しい生き方ではありません。イエス様を信じて、イエス様を愛して、イエス様と一緒に歩むとこから始まるのです。

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