からし種一粒ほどの

2019年2月10日(日) 主日礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書17章1~10節

<要約>

イエスのしもべとして罪を赦す:

つまずきが起こるのは避けられないとイエス様は言われます。つまずきという言葉は、人々を信仰から離れさせるような言葉や行為を一般には指します。また、注解書には罪への誘惑と書いていました。ですから私たちは、主の祈りで「わたしたちを試みに合わせないで、悪からお救いください」と祈ります。その度にイエス様はあなたを罪の誘惑から守ってくださいます。罪の誘惑は避けられない。だからと言って、小さなものたちの信仰を失わせるような罪の誘惑を引き起こしてはいけない。人を罪に誘い込むような者が非難されずに済むということはないというのです。弟子たるものは人につまずきを与えないように、自分自身の罪に注意していなければならないというのです。罪の誘惑から遠ざかるように注意しなさいというのです。さらに、あなたの兄弟、すなわち信仰の友である他の弟子たちについても、お互いに罪に注意しなさい、そして、もし兄弟が罪を犯したのなら彼を戒めなさい、というのです。それは、自分についても、さらに仲間の罪についても無関心ではいけないということです。もし、友があなたに対して罪を犯してもあなたに向かって悔い改めるなら、赦してあげなさい、さらに、一日の中に7回罪を犯してもその都度あなたのところへ来て悔い改めるなら、赦しなさいというのです。すなわち、無限に赦しなさいというのです。キリストの十字架の赦しが無限の赦しであるのと同様に、私たちクリスチャンは赦す人たちであるからです。

不可能が可能となる信仰をいただく:

指導者になるためには偉大な信仰が必要であると思ったでしょう。その為に、使徒たちは「わたしたちの信仰を増し加えてください」と願ったのです。彼らは信仰を量として捉えていたようです。それに対して、イエス様は「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」と言われました。イエス様は、ちっぽけに見えても、やがて大きな木になるからし種を例にあげました。すなわち、信仰は量ではなく質の問題であることを示したのです。イエス様は、信仰において不可能はない、と言っておられるのです。純粋な信仰が神のみ心にかなったなら、この世の考えや経験では不可能と言えることでも達成できるのです。私たちが純粋で磨かれた信仰を得るために、パウロは良い示唆を与えています。Ⅰテサロニケ人への手紙に書いています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と、三つのことが書いています。初めに、絶えず祈りなさいです。祈りは呼吸です。祈りでは、「天のお父様」と神に呼びかけます。そのとき、あなたは気づくでしょう。全知全能の神がお父さんと呼べる親しい関係にあることに。そして、神が自分のようなものを子としてくださった事に驚くのです。毎日神の前に出て、この感動をいただくのです。ありがたくて、感謝と喜びに満たされるでしょう。次に、すべての事に感謝しなさいです。すべてのこと、あなたを取り囲む状況が良くても悪くても感謝しなさいというのです。状況がなかなか開けなくても、意志を働かせて感謝し続けるのです。神に感謝している時に、あなたは、気付きます。あなたが神を信頼していることに。そして、神は全能者で不可能を可能にしてくださる神であることを信じるようになります。そしてその時、神はあなたの祈りに何らかの形で答えてくださっていることに気付きます。そして、いつも喜んでいなさいです。あなたは喜びに満ちるのです。あなたが、喜んでいる時、周りの人も感じるでしょう、あなたが幸せであることに。ですから、この三つのことを心にとめて、実行していきましょう。喜び、祈り、感謝は正の相関です。それが正の循環となり、信仰が成長し、山をも動かすのです。

当然を当然としない神の愛:

彼らには純粋な信仰が与えられて、彼らは主の業に励むようになりました。そして、ペテロやパウロには山を動かすの程の信仰が与えられたと言ってもよいでしょう。彼らは病を癒したばかりでなく、死人を生き返らせました。悪霊を追い出しました。そのような信仰と賜物を与えられた人間が、ついには高慢になりやすいことをイエス様はご存知で、注意を与えております。しもべが耕作や羊飼いをして帰ってきても、そのしもべに主人は「さあ、さあ、ここに来て食事をしなさい」とは言いません。反って、主人の食事の給仕をして終わった後に、自分の食事をしなさいと言います。しもべが言いつけられたことをしたからと言って、そのしもべに感謝することはないのです。しもべに恩を感じることはないのです。ですから、しもべである弟子たちには「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさいと注意をしたのです。これは、しもべとして当然なことです。しかし、神はこのように当然のことを当然のこととなさらないのです。ルカの福音書12章に、この記事と反対のようなことが書かれている記事がありますので、見ましょう。「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」主人が帰ってきたら待っていたしもべに主人自ら給仕をして食べさせるというのです。ここに、福音の真理があります。私たちは、自らの罪のために当然滅ぶべき存在です。しかし、神は御子イエスを私たちの罪のなだめの供え物としてくださいました。私たち人間に代わって罪の裁きを受けてくださったのです。そこに、当然を当然としない神の愛があります。最後に、神ご自身が私たち信者を天の祝宴に招いてくださるのです。からし種の信仰をいただくのは、難しいことではありません。いつも喜んでいること。絶えず祈ること。すべての事に感謝することです。この三つのことを守るなら必ず、あなたは、幸せになり、祝福された人生を歩むのです。