この方以外に救いはない

2018年06月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き4章1~14節
4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
4:3 彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

<要約>

悔い改めて聖霊に明け渡す:

祭司たちや宮を守る人々やサドカイ人たちにとっては、生まれつきの障害者が完全に癒された事実よりも、自分たちの職業や地位が脅かされることの方が問題だったのです。彼らはイエスの御名が、このしるしを行なわせたということをはっきり認めているにもかかわらず、神に栄光を帰そうともしなかったのです。とにかく、自分の立場を守ることだったのです。私たちも反面教師として、彼らから学ぶことはたくさんあるはずです。私たちはこの自分の立場に執着することがあります。神のことばを聞いていながら、自分の考えや経験に執着して、神のことばを否定してしまうことがあるのです。自分の考えを変えていくこと、思いを変えることそれはメタノイア、悔い改めるということです。大祭司をはじめとする指導者たちは、この悔い改めるということが全くなかったために、このキリストの救いを自分のものとすることができなかったのです。ここには霊的な原則がはっきりあります。悔い改めがなければ悟りにいたることはありません。悔い改めがなければ、神のことばは全くあなたの心に入ってきません。民の宗教指導者たちは、メシヤの表れである素晴らしい神のわざを見ながら、心の目は閉じていました。保身、自己中心、妬みによって、神の真理に全く鈍感となったのです。それに対して、ペテロとヨハネは、聖霊に満たされました。聖霊に満たされると、聖霊がその人を圧倒的な力で覆うことです。聖書は勧めています。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と。クリスチャンは、それぞれが頂いている聖霊に御頼りして、聖霊によって歩むように、と言うことです。もし、私たちが聖霊によって歩むことをしないのなら、ここに出てくる宗教指導者たちのように、肉の欲望である自己本位、自分中心、御心より自分の思いを優先する生き方を選ぶことになります。聖霊によって歩むということは、具体的には、どのようにするのでしょうか。それは、へりくだった祈りです。それはあなたと神の一対一の祈りです。神の前に心低くしてみことばに、御声に耳を傾けることです。「聖霊様、私の思いではなくあなたのみ思いに従いたいです」。「私に歩むべき道を示してください」と。聖霊に自分自身を明け渡すことが大事です。

確信は十字架と復活の事実:

捕えられたペテロとヨハネは議会の真ん中に立たせられて、尋問されます。彼の弁明は礼儀正しく、ただ実際に起こったことを述べております。そして、癒された男も証拠として同席していたのです。その男の癒しは旧約聖書に預言されていた救い主のなせるわざでありました。そして、この事実は彼らにとっても、認めざるを得ない事でした。もしこの男がキリストの御名によって癒されたとしたら、自分たちが救い主を十字架で殺したということになり、神の敵になってしまっているということでした。それは彼らには受け入れることのできない事でした。さて、使徒たちが前章から人々に宣べ伝えていたことは何でしょうか。ペテロが述べ伝えたことは、イエス・キリストの十字架と復活でした。この十字架と復活は、キリスト信仰の中心であります。また、その出来事は史実として世界で認められていることです。イエス様は「私の罪のために十字架で死んで、私のいのちのために復活された」という単純な事実です。私たちの信仰もこの十字架と復活の単純な事実と今も主は生きて働かれているということに基づいています。私たちの救いの確信も「このイエス・キリストの十字架と復活が私のためであった」ということから来ています。信者の私たちは、その事実を繰り返し、繰り返し、心に刻み、感謝し、喜び、ときには涙するのです。「キリストは私の代わりに死んでくださった。そして、私の命のために復活なさった。」この単純な事実は、感謝と喜びの尽きない泉です。「この方以外に救いはない」とペテロが叫びます。神が救いの道を与えて私たちを救ってくださる以外に方法はないのです。人は自らを救うことができません。救いは神からの恵みのプレゼントであります。それに対して、人間の思想、哲学、人間の経験によって考え出したことには真の救いはありません。世界には様々な教えがあります。釈迦の教えも孔子の教えもあります。マホメットの教えもあるでしょう。論語、コーラン、毛沢東語録、など宗教や思想の書物があります。しかし、教えは人を救いません。すべての人が直面している罪と死とその次に来る滅びから、救うことはできません。イエス様ご自身が「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。「わたしをとおしてでなければ、誰一人父の御許に来ることはありません」と言われました。使徒たちは、イエス様以外に父なる神の元へ行く道はないとイエス様が言われたことを覚えておりました。また、イエス様は全く罪のないお方であり、旧約の預言通り、十字架で世の罪を取り除く神の子羊となられたことを見ていました。そして、神がキリストを復活されたという事実を目の当たりにしました。そのうえで、「この方以外に誰によっても救いはない」という確信に立つことができたのです。そして、私たちもその確信に立っています。

救いは恵みの賜物:

彼らは大胆で救いの確信に満ちており、自由でありました。そして、このみことばのように、彼らは学問のない普通の人でした。神は、人が自分の知恵によって神を見出すことができないように、この世の愚かな者、弱いものにご自身を現したとあります。人間が学問を積み上げても、神に近づくことはできません。人間は自分の力では救いに到達できません。救いは神の一方的なプレゼントです。人間の努力や才能も神を見出す助けにはなりません。いくら良い行いを積み上げてもそれで救いを得ることはできません。悪い行いをよい行いで帳消しにして、さらに良い行いを積んで天国へのパスポートを得ようという考えは全く根拠のない独りよがりの考えです。なぜなら、良い行いも悪い行いも、人間が点数をつけることはできないからです。人はうわべを見るが、神は心を見られます。神は人にどのような点数をつけるでしょうか。神は行いそのものより、その動機を見られます。行いは良さそうに見えてもその動機は悪いことがあります。最初の人アダムの堕落以来、人は罪の性質を持って生まれ、生まれながらの罪びとです。聖書はありのままの人をどのように見ているのでしょうか。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 聖書によると、すべての人は罪を犯しているというのです。その為に、神の目に義、すなわち正しい、とみなされない、と言うのです。 自分は正しいと思えても、それは、自分がそう思うのであって、神の基準からは大きくはずれています。罪は口臭のようです。自分では気づかないのです。聖霊は私たちの心の奥底まで光で照らしその罪を明るみに出させます。そして、その罪をキリストの血によって清めてくださるのです。それはひとえに、聖霊のわざです。聖霊に心を開く者が経験できる神のわざです。自分で罪を取り除くことはできません、自分ではわからないからです。ただ、聖霊があなたに臨むとき聖霊はあなたの罪を暴きます。そして、あなたが心を聖霊に開くとき聖霊はあなたの罪をキリストの十字架の血によって清めるのです。あなたが自らの罪を認めて、悔い改めるならば、あなたのすべての罪は赦されて、そればかりではなく、あなたはキリストの支配に移されて、神の子となる特権に浴するのです。すなわち、神の恵みにより神のいのちにつながり永遠のいのちを得るのです。これが、恵みの福音です。