キリスト中心の人生

2018年05月 13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱテモテ1章1~14節
1:1 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1:2 愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
1:3 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
1:4 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。
1:5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
1:6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
1:11 私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
1:12 そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
1:14 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。

<要約>

死を滅ぼすキリストの福音:

パウロは自分の死期が近いことを知っていたのです。しかし、肉体のいのちが失われても永遠のいのちが与えられるのがキリストの福音です。それを「キリスト・イエスのいのちの約束」という短い言葉で言い表しています。神がキリストの十字架と復活を通してお与えくださったいのちの約束です。人間ではどうすることもできないもの、それが死からの滅びです。すべの人は罪のために死が定められています。死んだあと、魂は裁かれて永遠の滅びに向かうのです。ですから、人が死を恐れるのはそのためです。死後に何があるかわからないので漠然とした不安があります。人はそのままでは自らの罪のために、死と滅びに向かっています。すなわち人は救われなければならない存在です。人は自分で自分を救うことはできません。なぜなら自分自身が罪びとだからです。ではなぜ、人には罪があるのでしょうか。宇宙万物をおつくりになった神は、私たち人間を特別におつくりになりました。人は神に似せてつくられ、神のいのちを吹き込まれて、生きる者となったのです。人は神のいのちによって永遠に生きる者でした。しかし、最初の人が、神の上に自分をおこうとして高慢になり、神の戒めを破ってしまいました。つまり、罪を犯し神から離れてしまいました。そして、いのちを失ったのです。それ以来すべての人は生まれながらの罪びとです。現に心に罪を犯したことのない人は誰もいないのです。それゆえ真のいのちを失い、滅ぶべきものとなっているのです。パウロは「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」と書いています。それは、キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んであなたの罪を贖いました。それゆえ、罪の報酬である死を滅ぼしたということです。そして、あなたに滅びの代わりに永遠のいのちをお与えになったということです。すなわち、誰でもイエス・キリストが私のために十字架で死んで私の罪を取り除いてくださった事を信じるなら、その人の罪は赦されています。死と滅びの代わりに、永遠のいのちと永遠の祝福に生きることができるのです。キリストの福音は、罪と死と滅びからの救いです。キリスト中心の人生は、キリストの福音に生きる人生です。それは、永遠に続く祝福の人生です。

受け継ぐ純粋な信仰:

パウロはここに、「先祖以来きよい良心をもって仕えている神」と述べています。この先祖はパウロを生んだ両親や祖父母を指しています。パウロは自分がこのように先祖から受け継いだ信仰できよい良心をもって神に仕えてきたことを思い起こしています。皆さんは、親が、あるいは先祖がクリスチャンであった人もいるかもしれません。自分の代からクリスチャンと言う方がほとんどかもしれません。しかし、皆さんは聖書をはじめから自分で読んで信仰に入ったという人は少ないと思います。ほとんどの人は、人を通して導かれました。その様に神はイエス・キリストの福音を、人を通して伝える手段をおとりになりました。神は周りの人々を通して、あなたを選び、分かち、救い出してくださいました。このきよい信仰をあなたに与えてくださったのです。つぶやかず、疑わず信じ続けましょう。テモテも祖母ロイス、母ユニケから「純粋な信仰」を受け継ぎました。テモテは幼い時から聖書に親しんできたと書かれています。パウロの書き方から、信仰にも質があることがわかります。パウロの先祖は「きよい心の信仰」といえます。パウロは、信仰の質を問うています。純粋できよい、偽りのない信仰をパウロは勧めています。打算のない真実な信仰ともいえます。それはどのようにして身に着けることができるのでしょうか。若い人はテモテのように幼い時から聖書に親しむことです。年取った人も同じです。聖書に親しむことです。そして、パウロの信仰、諸先輩の信仰を見習うことでしょう。その純真で偽りのない信仰は、イエス様の父なる神への信仰であったと言えます。イエス様は、すべての人のためにまた、あなたの救いのために父のみこころである十字架と言う杯を飲み干しました。その後の復活と栄光に入れられることを信じて苦しみに従いとおしたのです。そこには、取引や打算はありませんでした。疑わないで信じることです。パウロも苦難や困難にあっても祈るたびに自分が仕えてきた神に感謝していました。それは、祈るたびに、父なる神に触れ、また、イエス・キリストの真実に触れて、それを思い起こして感謝が出てくるのです。これが純粋な信仰です。純粋な信仰と言うのは、神を信じて疑わないことです。予期しない、自分にとって不都合と思われるようなことが起こっても神の愛を疑わないことです。そして、純粋な信仰とは、聖霊によって、勇気と力、そして愛と慎みに生きる信仰です。勇気は前向きに進む力です。失敗を恐れないで前に進むことです。また、迫害をも恐れずに前に向かう意志です。力は勝利する力です。世に勝ってみこころを行う力です。サタンと戦って勝利する力です。そして、愛は、人を愛し、敵をも愛する愛です。慎みは、高ぶらず高慢にならない事です。キリスト中心の人生は、純粋なキリスト信仰に生きる人生です。信仰は、勇気と力と愛と慎みです。

賜物(能力)を豊かに用いる人:

テモテは、パウロから按手を受けて、聖霊の賜物をいただきました。それは、テモテの牧会者としての賜物です。パウロから宣教や牧会に必要な賜物がテモテに伝達されました。パウロは、テモテに与えられた賜物を豊かに用いるよう命じています。神は、同様に福音の拡大と神の国の成就のために、人々にそれぞれの賜物を与え、キリストの身体を築きあげようとなさっています。パウロは、宣教者、使徒、教師としての賜物を与えられ、その任につかされました。賜物、それは平たく言えば才能、能力と言えます。神は、なぜ、それぞれ人に能力や才能をお与えになっているのでしょうか。それは、キリストの身体を建て挙げるためです。すなわち、教会が有機的な共同体として成長して、福音宣教に用いられるためです。また、そこにつらなる信者が信仰と知識において成長して大人になることです。神は小さな教会にも、信者それぞれに賜物を与えて、キリストの身体を建ててくださいます。そこにはキリストが満ち満ちているのです。テモテは監督として、長老としての賜物が与えられていました。神は、すべての人に様々な能力や才能をお与えになっています。そして、それぞれに与えられた才能を用いて、世界を統治していると言えます。神は、国や地方にも、住民にルールを与え、警察をおいて地域の安全を守ってくださっています。また、行政を配備して、人々の暮らしを守り、人々が日常の生活を送れるようにしております。人が気付くと気付かないとにかかわらず、クリスチャンであってもなくても、神は人間社会を秩序建てて治めておられます。それぞれに神は役割となる才能や技能を与えておられるのです。アフリカの黄熱病は蚊が媒介する病気で致死率80%です。いったんかかると80%の人が死に至ります。その研究でワクチンを開発し、病気を克服したのが日本人の野口英世博士です。彼は、福島県会津に生まれました。幼い時に左手にやけどを負い、小さいとき「てんぼう、てんぼう」と言われました。その不自由や貧しさを笑った世間を見返すために勉学に励み、ついに学問で成功を修めました。しかし、アメリカ留学中のことです。25歳の英世は、これまで見返すために必死に勉学をして成功を修めたのですが、その為だけに生きてきたことで、虚しくなったのです。与えられた能力を人のために用いる事こそ人生をかけるべきことなのだということに目覚めたのです。人のため、隣人のための学問研究でなければならないと思ったのです。その後アフリカに渡り、死亡率80%という恐ろしい黄熱病から人々を救うために自分が持てる才能能力を出し切ってワクチンを開発しました。最後は、彼自身が黄熱病で亡くなったと聞いています。神は、それぞれに賜物をお与えになっておられます。神のみこころは、それぞれの賜物を隣人のために用いることです。パウロは使徒として、宣教者、教師の召しと賜物を豊かに用いました。テモテは、教会の長老として牧会者として賜物を豊かに用いた人です。私たちも教会においてはキリストの身体に一部としてともに仕えあってキリストの身体を建てあげます。しかし、世にあっては、神の召しを受けて、職場や家庭や学校に遣わされています。賜物と使命はそれぞれに違います。しかし、神の命令は同じです。「思いを尽くし力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神を愛しなさい。そして、自分と同様にあなたの隣人を愛しなさい」です。それが、キリスト中心の人生なのです。