人生のガイドライン

2018年05月 27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>詩篇119篇105~112節
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
119:106 私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。
119:107 私はひどく悩んでいます。【主】よ。みことばのとおりに私を生かしてください。
119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。【主】よ。あなたのさばきを私に教えてください。
119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
119:110 悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
119:111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。
119:112 私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

<要約>

みことばは人生のガイド

「聖書のことばは、私の足元にある懐中電灯で、それは私がどこへ進んでいったらよいか、その道を照らし明らかにしてくれる。」と言うのです。人間が定めた法律は時代で変わります。しかし、聖書のみことばは変わることはありません。神が古今東西、全人類にお与えくださったものだからです。小教理に、聖書を正しく理解するための鍵は、律法と福音を区別することです、と書いています。聖書には、律法と福音という二つの内容が書かれています。律法は神のあなたに対する要求です。福音は、神の要求にそぐわないあなたでも神はご自身の命を捨てるほどに愛しておられることです。聖書のことばに則って生きれば必ず、幸せになれます。素晴らしい祝福の人生を送ることができるのです。つまり聖書のことばは幸せな人生のガイドラインです。聖書を読むと聖書の中には、神の二つのお姿が表れます。一つは、「神は焼き尽くす火」と言われるように、厳しい怒りのお姿です。人の罪を決してゆるさない、罪に対しては必ず報酬を与える厳しい裁判官のようです。もう一つは、やさしい、やさしいお姿です。あなたをそして私を大切に思うお姿です。神の目にはあなたは高価で貴い、どんな罪もお赦しになる、やさしいお姿です。それはイエス様にみられるお姿です。あなたのために十字架にお掛りになることも厭わないお姿です。それは神の愛です。子どもを幸せに育てるためには、人間の親もやさしいばかりではいけません。子どものほしいものは何でも与えるような親であれば、子どもは不幸に育つでしょう。逆に厳しさばかりでは、子どもは委縮してしまうでしょう。人の親にも優しさと厳しさが必要です。神もそれと似ていますが、人間の親と神とを比べることはできません。神は義の神です。正義の神です。少しの罪も見逃すことはできません。必ず裁くと言います。また、同時に愛の神です。いざという時に、自分の子どもを見捨てるような人間の愛ではありません。神の愛は一点の曇りもない完全な愛です。私たちはそのことを正しく認識しなければなりません。聖書のみことばに生きれば必ず幸せになると言いましたが、何も戦いも試練もない平穏な人生があるとは言っていません。闇の世は依然として私たちを取り囲んでいるのです。この詩編の記者は実際には、悩み、苦しみ、そして、周りからの策略や攻撃があったようです。しかし、わなから守られて、迷わずに生きることができると告白しています。これは信じる者に対する神の守りと言えます。この記者は自分は、戒めから迷い出なかったと言っています。実際は、聖霊がみことばを用いて悪しき者からあなたを守ってくださるのです。それはキリストを信じる者に対する神の約束です。ヨハネ福音書には、「神は決してあなたを捨てて孤児にしません」と書いています。詩篇には、「あなたを狩人のわなから疫病から救い出してくださる」と書いています。神の国の民、すなわち信者は聖霊とみことばによって守られていると言えます。また、神は人を救おうと神の国を拡大なさっています。ご自身の国の民であるあなたを用いて救いを全世界に届けようとしておられます。あなたにはその使命があることを認識しましょう。

みことばは永遠のプレゼント

記者は、「あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました」と言います。永遠のゆずりと言うのは、神からの永遠のプレゼントと言えます。神の無償のプレゼントは、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと永遠のいのちです。神のあわれみにより与えられた永遠のいのち、それは永遠の祝福に生きる人生です。私たちはこの世のいのちばかり意識しているかもしれませんが、神から与えられたいのちは永遠です。この世のいのちであれば80年でしょう。この世のいのちしかないと思っている人は、80年90年を視野に人生設計をします。でも、永遠のいのちを持っているクリスチャンは、永遠をベースとして人生設計をします。そして、永遠を視野において今を生きるのです。ユダヤ人哲学者のマルチンブーバーは言いました。「人は新しいことに挑戦している限り老いることはない。」すなわち、挑戦する人の霊は年を取ることはない、と言うことです。また、もし信仰のチャレンジを続けるなら、信仰は年齢とともに強まることはあっても老いることはありません。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と聖書にある通りです。私たちの身体は日々衰えてきます。しかし、霊はますます成長していくのです。私は、2010年に牧師の召しはなかったのですが、聖書を学びたいと思いました。それは60歳からの挑戦でした。2010年3月、JTJ宣教神学校の神学部牧師志願科に入学できました。JTJには、牧師としての召命がなくても、その願いがあれば学ぶことができる牧師志願科というコースがあります。学びを続けているうちにいろいろなチャレンジを受けましたが、みことばが与えられました。献身者の召しをいただきました。2015年5月に牧師按手を受けました。昨年、百歳を超えて活躍し天に召された聖路加病院の日野原先生は「生涯現役」という言葉を残されました。私も、このことば「生涯現役」で行こうと思っています。神がストップをおかけになるまで信仰のチャレンジをしていくつもりです。クリスチャンライフは結果オーライの人生、と言えます。この世の歩においては、依然やみが覆っていても、その道は神の栄光を拝する道です。ゴールが定まっています。あなたがこの恵みにとどまり続けるなら、栄光のゴールが待っています。それは、勝利のゴールです。イエス・キリストがあらかじめ勝利してくださったからです。永遠の祝福に与れることが約束されています。そうであれば、永遠を視野に人生設計をしましょう。

みことばは永遠の心の喜び

「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」と言っています。みことばに生きる人生、すなわち、聖書を指針として、人生を設計して、生きる人生には、いつまでも続く心の喜びがあるというのです。決してしぼまない心の喜びです。それは魂の根底にある喜びと言えます。喜びあるいは喜ぶという言葉は、全聖書の中で655か所にあります。喜びはクリスチャンの特徴と言えます。Ⅰテサロニケ5:16~18には、次のことばがあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」これは、クリスチャンは喜びの源泉を持っているから、いつも喜ぶことができるからです。決して奪い去られることのない、決して揺るがない喜びの源は何でしょうか。それは、神からの永遠のプレゼントである永遠のいのちがあるということ、そして罪赦されて心の傷が癒されている状態であることです。私は、いつも喜んでいられるのは心に傷のない状態であると思います。心の痛みがあっては喜ぶことはできません。かつて、小学生の娘さんがいじめによって自殺してしまった、その母親がその子の手記に「心も血を流すの」と書いてあったと言いました。身体の傷と同じように心の傷からも血が流れるというのです。ある人のことばで、心に傷を受けて、それが癒されるのに数年間かかった、と言っていました。傷が癒されて、心の喜びがわいてくるのです。心の傷はどうしたら癒されるのでしょうか。イザヤ書には、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と書いています。それは言うまでもなく、イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で血を流されました。その傷によって、あなたの傷が癒された、と宣言しているのです。神はあなたを傷のない非難されることのないものとしてくださいます。キリストは真の癒し主です。もし、あなたに心の傷があるならばキリストに行きましょう。そして、喜びで満ちる人生を歩んでいただきたいと願います。

 

 

キリスト中心の人生

2018年05月 13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱテモテ1章1~14節
1:1 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1:2 愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
1:3 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
1:4 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。
1:5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
1:6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
1:11 私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
1:12 そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
1:14 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。

<要約>

死を滅ぼすキリストの福音

パウロは自分の死期が近いことを知っていたのです。しかし、肉体のいのちが失われても永遠のいのちが与えられるのがキリストの福音です。それを「キリスト・イエスのいのちの約束」という短い言葉で言い表しています。神がキリストの十字架と復活を通してお与えくださったいのちの約束です。人間ではどうすることもできないもの、それが死からの滅びです。すべの人は罪のために死が定められています。死んだあと、魂は裁かれて永遠の滅びに向かうのです。ですから、人が死を恐れるのはそのためです。死後に何があるかわからないので漠然とした不安があります。人はそのままでは自らの罪のために、死と滅びに向かっています。すなわち人は救われなければならない存在です。人は自分で自分を救うことはできません。なぜなら自分自身が罪びとだからです。ではなぜ、人には罪があるのでしょうか。宇宙万物をおつくりになった神は、私たち人間を特別におつくりになりました。人は神に似せてつくられ、神のいのちを吹き込まれて、生きる者となったのです。人は神のいのちによって永遠に生きる者でした。しかし、最初の人が、神の上に自分をおこうとして高慢になり、神の戒めを破ってしまいました。つまり、罪を犯し神から離れてしまいました。そして、いのちを失ったのです。それ以来すべての人は生まれながらの罪びとです。現に心に罪を犯したことのない人は誰もいないのです。それゆえ真のいのちを失い、滅ぶべきものとなっているのです。パウロは「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」と書いています。それは、キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んであなたの罪を贖いました。それゆえ、罪の報酬である死を滅ぼしたということです。そして、あなたに滅びの代わりに永遠のいのちをお与えになったということです。すなわち、誰でもイエス・キリストが私のために十字架で死んで私の罪を取り除いてくださった事を信じるなら、その人の罪は赦されています。死と滅びの代わりに、永遠のいのちと永遠の祝福に生きることができるのです。キリストの福音は、罪と死と滅びからの救いです。キリスト中心の人生は、キリストの福音に生きる人生です。それは、永遠に続く祝福の人生です。

受け継ぐ純粋な信仰

パウロはここに、「先祖以来きよい良心をもって仕えている神」と述べています。この先祖はパウロを生んだ両親や祖父母を指しています。パウロは自分がこのように先祖から受け継いだ信仰できよい良心をもって神に仕えてきたことを思い起こしています。皆さんは、親が、あるいは先祖がクリスチャンであった人もいるかもしれません。自分の代からクリスチャンと言う方がほとんどかもしれません。しかし、皆さんは聖書をはじめから自分で読んで信仰に入ったという人は少ないと思います。ほとんどの人は、人を通して導かれました。その様に神はイエス・キリストの福音を、人を通して伝える手段をおとりになりました。神は周りの人々を通して、あなたを選び、分かち、救い出してくださいました。このきよい信仰をあなたに与えてくださったのです。つぶやかず、疑わず信じ続けましょう。テモテも祖母ロイス、母ユニケから「純粋な信仰」を受け継ぎました。テモテは幼い時から聖書に親しんできたと書かれています。パウロの書き方から、信仰にも質があることがわかります。パウロの先祖は「きよい心の信仰」といえます。パウロは、信仰の質を問うています。純粋できよい、偽りのない信仰をパウロは勧めています。打算のない真実な信仰ともいえます。それはどのようにして身に着けることができるのでしょうか。若い人はテモテのように幼い時から聖書に親しむことです。年取った人も同じです。聖書に親しむことです。そして、パウロの信仰、諸先輩の信仰を見習うことでしょう。その純真で偽りのない信仰は、イエス様の父なる神への信仰であったと言えます。イエス様は、すべての人のためにまた、あなたの救いのために父のみこころである十字架と言う杯を飲み干しました。その後の復活と栄光に入れられることを信じて苦しみに従いとおしたのです。そこには、取引や打算はありませんでした。疑わないで信じることです。パウロも苦難や困難にあっても祈るたびに自分が仕えてきた神に感謝していました。それは、祈るたびに、父なる神に触れ、また、イエス・キリストの真実に触れて、それを思い起こして感謝が出てくるのです。これが純粋な信仰です。純粋な信仰と言うのは、神を信じて疑わないことです。予期しない、自分にとって不都合と思われるようなことが起こっても神の愛を疑わないことです。そして、純粋な信仰とは、聖霊によって、勇気と力、そして愛と慎みに生きる信仰です。勇気は前向きに進む力です。失敗を恐れないで前に進むことです。また、迫害をも恐れずに前に向かう意志です。力は勝利する力です。世に勝ってみこころを行う力です。サタンと戦って勝利する力です。そして、愛は、人を愛し、敵をも愛する愛です。慎みは、高ぶらず高慢にならない事です。キリスト中心の人生は、純粋なキリスト信仰に生きる人生です。信仰は、勇気と力と愛と慎みです。

賜物(能力)を豊かに用いる人

テモテは、パウロから按手を受けて、聖霊の賜物をいただきました。それは、テモテの牧会者としての賜物です。パウロから宣教や牧会に必要な賜物がテモテに伝達されました。パウロは、テモテに与えられた賜物を豊かに用いるよう命じています。神は、同様に福音の拡大と神の国の成就のために、人々にそれぞれの賜物を与え、キリストの身体を築きあげようとなさっています。パウロは、宣教者、使徒、教師としての賜物を与えられ、その任につかされました。賜物、それは平たく言えば才能、能力と言えます。神は、なぜ、それぞれ人に能力や才能をお与えになっているのでしょうか。それは、キリストの身体を建て挙げるためです。すなわち、教会が有機的な共同体として成長して、福音宣教に用いられるためです。また、そこにつらなる信者が信仰と知識において成長して大人になることです。神は小さな教会にも、信者それぞれに賜物を与えて、キリストの身体を建ててくださいます。そこにはキリストが満ち満ちているのです。テモテは監督として、長老としての賜物が与えられていました。神は、すべての人に様々な能力や才能をお与えになっています。そして、それぞれに与えられた才能を用いて、世界を統治していると言えます。神は、国や地方にも、住民にルールを与え、警察をおいて地域の安全を守ってくださっています。また、行政を配備して、人々の暮らしを守り、人々が日常の生活を送れるようにしております。人が気付くと気付かないとにかかわらず、クリスチャンであってもなくても、神は人間社会を秩序建てて治めておられます。それぞれに神は役割となる才能や技能を与えておられるのです。アフリカの黄熱病は蚊が媒介する病気で致死率80%です。いったんかかると80%の人が死に至ります。その研究でワクチンを開発し、病気を克服したのが日本人の野口英世博士です。彼は、福島県会津に生まれました。幼い時に左手にやけどを負い、小さいとき「てんぼう、てんぼう」と言われました。その不自由や貧しさを笑った世間を見返すために勉学に励み、ついに学問で成功を修めました。しかし、アメリカ留学中のことです。25歳の英世は、これまで見返すために必死に勉学をして成功を修めたのですが、その為だけに生きてきたことで、虚しくなったのです。与えられた能力を人のために用いる事こそ人生をかけるべきことなのだということに目覚めたのです。人のため、隣人のための学問研究でなければならないと思ったのです。その後アフリカに渡り、死亡率80%という恐ろしい黄熱病から人々を救うために自分が持てる才能能力を出し切ってワクチンを開発しました。最後は、彼自身が黄熱病で亡くなったと聞いています。神は、それぞれに賜物をお与えになっておられます。神のみこころは、それぞれの賜物を隣人のために用いることです。パウロは使徒として、宣教者、教師の召しと賜物を豊かに用いました。テモテは、教会の長老として牧会者として賜物を豊かに用いた人です。私たちも教会においてはキリストの身体に一部としてともに仕えあってキリストの身体を建てあげます。しかし、世にあっては、神の召しを受けて、職場や家庭や学校に遣わされています。賜物と使命はそれぞれに違います。しかし、神の命令は同じです。「思いを尽くし力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神を愛しなさい。そして、自分と同様にあなたの隣人を愛しなさい」です。それが、キリスト中心の人生なのです。

 

真に偉大な人とは

2018年05月 06日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書18章1~10節
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。
18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

<要約>

天のみ国に入る資格

すべての人は天の御国に招かれています。入ろうと真剣に望むのなら入れない人は誰もいません。世の中で、偉くなくても一番にならなくても、天の御国へは入れます。しかし、入るためには資格が要ります。天の御国へ入れるかどうかは、神との関係にあります。すなわち、神と正しい関係にある人が天の御国には入れるのです。そこにおいては世の中の基準は関係ありません。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」とイエス様は言われました。すなわち、罪を離れて神に心を向けなければ天の御国へは入れないというのです。これは、神との関係を正すことを指しています。生まれながらのすべての人と神との関係は、罪によって壊れております。そのために神からの栄誉を受けることができないと言うのです。世の中でいくら懸命に功績を積み上げても、残念ながらそれらは、神の国に入るための条件にはならないのです。条件は「悔い改めて神を仰ぐこと、すなわち思いを変えて神を信じること」です。あなたが、神に喜ばれ、天の御国に招かれ、そこに入ることができるためには、この世の中での功績や努力は要らないのです。ただ、心低くして、素直に、罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるだけでよいのです。キリストのゆえに、神はあなたの罪をすべて赦し、あなたを義としてくださり、天からの栄誉を与えてくださいます。御国へは罪赦されている者のみが入ることができるのです。つまり、イエス・キリストがあなたの身代わりとなってあなたの罪を十字架で贖ったことを認め信じることです。

御国で偉い人は仕える人

自分を低くするもの、自分を低く見ている謙遜な者が天国では一番偉いと言っています。子どもたちはどのような点で、心低くへりくだっているのでしょうか。子どもは生まれつき自然と謙遜です。自分にできない事を知っています。ですから、親に自分をゆだねています。小さな子供を見ていると、親を信頼して自分の身を任せきっています。親に委ねています。幼き子が親を信頼して身を寄せている姿勢こそ、私たちの父なる神へのあるべき姿勢です。この世では、偉い人は先に立って人に仕えられる人です。天の御国で偉い人は、その逆で、しんがりとなって人々に仕える人です。「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」とおっしゃいました。子どもたちにはイエス様の愛が注下れています。子どもは幼いながらもイエス様を信じています。その幼子を受け入れる者はイエス様を受け入れるのです。なぜなら幼子の中にイエス様は宿っておられるからです。幼子を受け入れるということは、幼子のお世話をする、お仕えすることです。すなわち、小さいものを受け入れるというのは、小さいものに仕えるという意味です。イエス様は先に立ちたいと思う人は、皆に仕える者となりなさい、と言われました。天国で神に褒められたい人、すなわち天国で偉い人と言われたい人は、皆に仕えなさいというのです。最も小さいものに仕えることなのです。教会はそのようにして兄弟姉妹を受け入れお互いに仕えあっていくところです。

御国で偉い人は兄弟をつまずかせない人

「つまずき」は「受け入れる事」と反対の意味です。つまずきは、このような小さなものを迫害することであり、信仰を失わせることです。つまずきを与えるこの世はわざわいだとあります。世は神の子救い主であるキリストを十字架で殺してしましました。それは、世が与えた最大のつまずきと言えます。それ以来、この世は、クリスチャンにとってつまずきとなります。この後、迫害の時代になり、多くの聖徒は拷問や処刑による迫害を受けました。多くの人々は信仰のゆえに苦しみを受けています。しかし、ここで言うつまずきの対象者は、子どもも含めて、信仰の弱い小さな者たちと言えます。つまずきは避けられないとありますが、つまずきをもたらすものはわざわいであるとあります。イエス様は、つまずきとなるようなら、手足を切り捨てよ、目を抉り出せ、と強い言葉で警告しています。この世はサタンの支配下にあります。悪魔は、巧妙に働き、人々を罪に誘います。この小さい者たちは、子どもばかりではなく、信仰の若いもの、信仰の弱いもの、貧しく無力な者、罪を犯した者、失敗したもの、も含まれます。そして、そういう小さいものに一人でも見下げたりしないよう気をつけなさい、と言うのです。その理由として、小さい者たちにも父なる神は天使を遣わし、仕えさせているからです。それは、天の父はいとも小さきものをも大切な存在、高価で貴い存在として仕える天使を送っておられるからです。そして、天使はいつも神を見ていると言います。小さいものを助け支えるために、神から指示を仰いでいるのです。父なる神は小さき者たちに御顔を照らして、彼らを恵んでいてくださるからです。また、祝福してくださっているからです。神はその小さきものを愛しておられるからです。そして、ご自身のいのちをお捨てになったのだから、そして天使を遣わして仕え守られているのだからです。私たちは高慢になって見下したりしないようにしましょうというのです。御国で偉い人は、兄弟をつまずかせない人であると言いました。小さな弱い者たちをつまずかせないというのは、キリストの思いを思いとしている人のことです。人がどう思うかより、キリストがどうお思いになるかを大切にする人です。神のみ思いは「傷んだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すことがなく」です。神はあなたを大切に思っておられます。あなたが失敗したり、罪に落ちたりしても、あなたへの愛は変わりません。悔い改めて神に立ち返るなら、放蕩息子の帰りを、両手を広げて走り寄って迎えてくださる父のように、あなたを喜んで迎えてくださるのです。