炎のような分かれた舌

2018年04月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章1~13節
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。

<要約>

聖霊は舌としてみことばを用いる

五旬節に、天からの激しい風が吹いてくるような響き、ゴーという暴風が迫ってくるような音だったのでしょう。家全体が振動したのです。また、「炎のような分かれた舌」がひとりひとりの上に留まったというのです。この舌という言葉は「言語」を表しています。また、舌はことばを発する器官です。舌はことばを司っているともいえます。ですから、ここの「炎のような分かれた舌」は、聖霊の激しい言葉を表しています。彼らは聖霊に満たされて、聖霊が話させてくださる通りに、それぞれが他国語で語り出したというのです。現代も聖霊は、ことばを用いて、ひとり一人にお語りになってくださいます。聖書のみことばを用いて、語ってくださいます。毎日語ってくださっています。先日のことです。わたしは病院を移転しました。それにつけ、お金の問題が出てきます。当然のことです。銀行からも借金をしました。そうしたら、銀行がある事業の話を持ち掛けてきたのです。今の私にとってできない事業ではなかったのです。そこで、私は神の御心を求めました。そうしたら、聖書通読の時にⅠコリ7:31「世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」というみことばを示されました。お金を用いすぎてはいけない、とはっきり示されました。そして、すぐにその話はお断りしました。その様に、聖霊は日々、あなたの求めに応えてくださいます。すぐにみことばが与えられなくても、聖霊に聞き思いめぐらし、祈りつつ決断する時に、神は私たちの思いを通して答えを用意してくださるのです。

聖霊は火として人を清め新たにする

また、聖霊は「火のような分かれた舌」というように火として表されています。聖霊は悪を滅ぼしつくされます。聖霊は聖いがゆえに、私たち人間の一点の不正も罪も赦すことができないのです。その罪の裁きを免れさせるために「十字架を見なさい、あなたの罪は赦された」と人の心を十字架に向けさせておられるのです。素直な心で聖霊の導きにゆだねるとき、人はキリストの十字架に向かうのです。そして、人の心に火をともします。その火は心の虚栄を焼き尽くし、人を清め新たにします。人にはプライドがあります。自分を尊ぶ気持ち、自尊心は大切ですが、プライドが強すぎると虚栄になります。それは、アダム以来の罪の問題です。世の中は本来すべてつくり主である神が中心であるべきなのに、そこに人間は、自分を中心に持ってきました。それは、個人的にも民族的にも国家的にもその通りです。聖霊は、人のプライド、虚栄、自分中心の思いを火で焼き尽くし、神中心の思い、キリストの思いを思いとしていく生き方に転換してくださるのです。創造当初の世界は神中心でした。人の罪により人間中心の世界になったのです。ある姉妹の証しです。彼女の中学生の次男が教会のキャンプでイエス様を信じて洗礼を受けました。その時以来、聖霊が彼のうちにお住まいになりました。洗礼を受けてしばらくした時のことです。次男が夕方、息をハアハアさせながら帰ってきて、「今、小学校の近くで殴られてお金をとられた。」「自転車を置いて逃げてきた。」というのです。もう少し詳しく話させると、「小学校の近くの本屋に行ったら別の中学校の生徒に外に出ろと言われ、外に出ると何人かに取り囲まれ代わる代わる殴られた。」「お腹は腕組みをして守った。」「お金をとられたが、隙を見て逃げてきた。」と言うのです。車で現場に行ってみましたが自転車がありませんでした。警察に届けを出しに行きました。事情聴取に時間がかかって夜の10時過ぎになってしまいました。帰りの車の中、「お母さん、ぼく洗礼を受けていてよかったよ。聖霊様が助けてくれたよ。信じるって楽だね。憎らしいとか、悔しいという思いが出なくて。殴られているときずっと「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているか分らずにいるのです。」と言う言葉がずっと心に沸いていたよ」と言うのです。びっくりしました。なぜ洗礼受けたのに神様守ってくださらなかったの、と言ってもおかしくないのに。恐ろしくも痛くもあったでしょうに。神様がこの子の心を守ってくださったことを本当に感謝いたしました。この少年は、洗礼を受けて神様からのプレゼントである聖霊をいただきました。聖霊はこのように幼い少年にもキリストの心をお与えになるのです。そこには、これまで自分がしっかりしなければならない、自分がやらなければならないという考えから、神が導いてくださる神がなさせてくださるというスタンスに移されたのです。自分中心の生き方から神中心の生き方に変えられたのです。

聖霊は分かれ分かれを一つにする

もう一つの聖霊の働きは、バラバラになった人の思いと心を回復して、一致を与えてくださることです。ノアの洪水の後、ノアの子孫は一つの国民、一つの言葉を語っていました。しかし、彼らが、一致して高慢になり、神の位に自分の名を挙げようとたくらんで、天に届く塔を建て始めました。神は一致して高慢になり、自らの思いを悪に傾けていく人間社会をご覧になりました。悪に急速に走っていく人間を押しとどめようと、彼らの言葉を混乱させました。それ以来、神を離れた人間の思いと意思は不統一、不一致、混乱へと進みます。世界には多くの国々がありますが、一つになることができません。人の言葉は幾多もありますが、福音の言葉は一つであることを示しています。すべての国語、国民に通じる神の大いなるみわざを語る方は一つです。また、すべての人を救いに導くに神のみわざは、キリストによる以外にないと明言しています。当時、このエルサレムには世界の国民を代表する人々が集められていました。一つの神のことばをめいめいが自分の国の言葉で聞いたのです。これは福音の世界宣教の序章と言えます。それは、キリストによる救いの福音です。聖霊が分裂して分かれ分かれになった人々の魂を一つにするのです。すべての人にとって必要な救いの御手が神から届いたのです。それは、罪と死と悪魔からの救いです。現在、この神の救いの福音は全世界に届けられようとしています。イエス様が復活して、天に昇っていく前に、この福音はあらゆる国民、国語の民に届けられてそのあとに終わりが来ます、と言いました。現在、何度もお話ししましたが、全世界に届けられつつあります。キリストの再臨が誓いと言えます。かつて、バベルの塔を建て天に届こうと高慢になった人間の力や知恵を滅ぼして、神の主権と神のご意志によって、神は一つの民、一つの国民として全世界を集めようとなさっています。それは、神を中心に据える人々を用いてこの救いをその家族知人と周りの人々に届けようとなさっておられるのです。

 

もう一人の助け主

2018年04月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書14章16~27節
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
14:19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
14:20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」
14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
14:25 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

<要約>

同居してくださる聖霊

もう一人の助け主はパラクレイトスと言い、代弁者、弁護人とも訳されます。その助け主は聖霊のことで、真の神、三位一体の第三位格の神です。しかし、このお方はこの世の人々には全く知られることなく、また、この世の人には知られることのない仕方でイエスご自身の務めをしておられます。聖霊は世の人々にはご自身を隠されているともいえます。神は、信仰を通して近づいてくださいます。信仰がなければ神に喜ばれないとある通り信仰がなければ神もわかりませんし、キリストも聖霊もわかりません。人は信仰を通して聖霊を見ることができます。信じなければ聖霊の存在もわからないし、感じることもできません。聖霊は、非常に謙遜な方です。イエス様の影にお隠れになって働かれています。しかし、その働きは甚大です。現在は聖霊の時代ともいえます。聖霊は、ペンテコステの聖霊降臨のとき以来、信じる人を通して働かれ、教会を生み育てられています。全世界に教会が打ち立てられて、広がり続けています。その聖霊が「あなた方とともに住みあなた方のうちにおられる」とあります。これは、同居してくださるということです。しかも、あなたの家に、お住みになっているにもかかわらず、あなたの家の一番良い部屋を要求したり奉られたりすることを要求しません。代わりにあなたの家の最も隅っこに住んでいてくださいます。あなたがそのお方をあなたの家の一番良い部屋にお招きするか、または、台所の物入れの中に住まわせるかはあなた次第です。もし、あなたがそのお方をあなたの家の中心におらせるならばあなたは無限の祝福にあずかることができます。イエス様の愛は、「あなたが捨ててもあなたを捨てない」「あなたのためにいのちを捨てる」神の愛です。あなたは、これまで、神をないがしろにして、ある意味では神を無視するような生活をしてきたかもしれません。しかし、神はあなたを捨てません。それが神の愛です。ですから私たちは、その神の愛に応えて、ますます神を愛そうではありませんか。世の中の人々はイエス様を肉眼でも霊の目をもっても見なくなりますが、あなた方クリスチャンは霊の目でイエス様を見るというのです。そして、イエス様は生きておられ、信じる者たちもイエス様の復活のいのちが与えられているので生き続けるのです。ここにおられる皆さんも、霊の目でイエス様を見ています。皆さんは聖霊を信じています。聖霊はあなたとともに住みあなたと共に生活してくださっています。そして、聖霊はキリストのいのちをあなたに注ぎ続けておられます。

神と人を愛で結ぶ聖霊

聖霊が天から来られる時には、「わたしが父におり、あなた方がわたしにおり、わたしがあなた方におる」ようになるというのです。すなわち、神とキリスト、キリストと信者は聖霊によって完全に結ばれるというのです。愛に根差した霊的一致です。私たちは神の中に生きており、そして、私たちの中にキリストが生きているのです。金魚は水槽の中でしか生きることはできないでしょう。私たち信者も実は神の中で生きています。否すべての人は神の中に生きているのです。世の人々はただそれを認めないか気付かないだけです。金魚は水がなければ生きていけないのと同様に、人も神の存在なくして生きることはできないのです。そして、神であるイエス様は私たち信者のうちに入っていてくださるというのです。私たち日本人は漬物を食べます。麹漬けでも糠味噌漬けでも、野菜をつけておくとつけ汁のうまみが野菜にしみこんで大変おいしくなります。同じように、私たち信者も神の中にどっぷりつかって、キリストがしみ込んできて、キリストの香りを放ち、味の良い人に変えられるのです。クリスチャンは神の漬物のように神にも隣人にも味わい深いものとされるのです。神を愛するというのは、神の戒めを守ることです。すなわち、みことばを守ることです。聖霊は、みことばと共に働きます。みことばを神のことばとして信じて守る人には聖霊がそば近くにおられるのがわかります。また、「わたしを愛する人はわたしの父に愛され」とあるように、イエス様を愛し、みことばを守る人は自分が神に愛されていることが分かるのです。みことばに親しむ人になりましょう。みことばに従うことが神への愛です。神を愛するというのは、隣人を愛することで表われます。裏切って出ていったイスカリオテのユダとは別のユダが、「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」と質問します。ユダはなおも、キリストと呼ばれるメシヤは、イスラエルに現われて、不信仰な者たちを裁かれる方であると思い込んでいました。ですから、イエス様が少人数の者たちにしかご自身を表さないことを不思議に思っていたようです。イエス様はユダの質問にそのまま答えることはせずに、神の国は、彼らが思っているようなものではないことを示されました。神の国は、神と神のことばを信じ守るもののところに来ます。そこに、三位一体の神が来られてともに住んでくださるのです。「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と書いているとおりです。注意して読んでいただきたいのは、「わたしたちは」と言って、複数形で書いていることです。すなわち、父と子と聖霊があなたと同居しあなたのうちに住まわれるというのです。しかも、それはイエス様だけでなく、父もそして聖霊も神の全存在をかけてあなたを愛し祝福するというのです。これは想像しただけでも身震いが出るほど素晴らしい慰めではないでしょうか。こんな素晴らしい神に愛されているのですから、わたしたちも真剣に神を愛しましょう。

キリストにある平安を与える聖霊

聖霊はイエス様の地上での行動や言葉を弟子たちに思い起こさせるとあります。今も聖霊はキリストを指し示しておられます。キリストによって神が人類にもたらしてくださったこの救いのみわざは十字架と復活によって完成しました。それは、キリストによりあなたを罪と死と悪魔から救ってくださったことです。もはやあなたの罪は裁かれることなく赦され永遠のいのちが与えられています。死はもはや力を失いました。信じる者には復活のいのちがあります。この福音は全人類に与えられたものです。しかし、イエス様の昇天と聖霊降臨の後、約二十年間は、この救いはユダヤ民族にのみに与えられた福音と彼らは思っていたようです。現に弟子たちも最初はユダヤ人にしか伝道しなかったのです。しかし、ユダヤ人の迫害によりエルサレムを離れていったクリスチャンたちが異邦人にも伝えるようになりました。聖霊は異邦人にも働いて、信仰を得させてお救いになりました。すなわち、聖霊はかたくなな人の目を開いて福音を全人類に及ぼしました。そして、聖書は旧約聖書を通しても、福音はユダヤ民族だけにではなく全人類にあてられたものであることを示しています。そして、現代も聖霊は聖書の言葉を用いて語り続けておられます。時代も環境も違いますが、聖霊はどの時代の人にもどの国の人にも救いを得させる神の力なのです。最後に、イエス様は、弟子たちと決別するのに、別れの形見として、彼らに「平安」を残しました。それは世が与えるのとは違う平安です。この世の平安は、家内安全無病息災というものです。キリストの与える平安はどこが違うのでしょうか。キリストが与える平安は、第一に、神に対する良心の平安です。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」キリストにより心には、神の前で恥じることのない心、良心の平和を持っています。つぎに、罪による審判をまぬがれて、永遠の平安を持っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」キリストを信じる信仰により罪赦されて永遠の平和に置かされているのです。つぎに、神とキリストの愛による平安です。「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。―――私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」キリストの愛からあなたを引き離せるものは何もないのです。キリストの愛のうちに留まれば、どんなことからも守られて平安を持てるのです。それが神の約束で最も確かなことなのです。

 

神の国の建設と完成

2018年04月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き1章1〜11節
1:1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、 1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。 1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。 1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。 1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

<要約

神の国の土台:

イエス様は40日間弟子たちに現われて、神の国のことを語られたとあります。ですから復活のイエス様の教えは神の国です。神の国は何かというと、イエス・キリストを王として信者を国民とする国です。この世の国の王は人々を支配して権力をふるいます。すなわち、力によって国を治めます。つまり強い方がよいでしょう。強いアメリカ、アメリカファーストという言葉は力を国の土台に据えているところからきます。アメリカや中国やロシアなどの大国は軍事力、経済力を求めています。それは、力を土台としているからです。しかし、キリストの王国は、キリスト自らの苦しみから発しています。イエス様が苦しみを受けた、その苦しみは十字架を指します。神は、キリストの苦難の十字架を土台として、国を建てられました。神が苦難を受けた動機は、人への愛です。神はそのひとり子キリストをあなたにお与えになったほどにあなたを愛された、とある通りです。また、キリストの十字架は何のためでしょうか。そうです、赦すための十字架です。目的は人の、あなたの罪を赦すためです。ですから、神の国は、愛と赦しを土台として築かれているということです。神の国の土台は、愛と赦しであり、その表れが、十字架と復活です。それは信仰の土台でもあります。そして、神の国の推進力となるのは、一致した熱心な祈りです。これは教会の祈りともいえます。クリスチャンの皆さんは、イエス様の十字架を信じています。そして、復活を信じています。十字架は神の愛と赦しです。復活は永遠のいのち、永遠の祝福です。ですから、クリスチャンになるということは、神の愛と赦しを受け取って、神のいのちにつながり、永遠の祝福に生きることです。これはしぼむことのない希望です。神の国の王は復活のイエス・キリストです。その国民は、クリスチャンです。どの国でもそのトップによって国民は大分違います。トップが良いと国民は幸せです。トップが悪いと国民は悲惨です。キリストを王とする神の国の国民、すなわちクリスチャンは世界で最も幸福な国民と言えます。

神の国の拡大:

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」弟子たちはイエス様の復活の証人として宣教しました。そして弟子が弟子を生みました。その時から二千年の歳月が過ぎています。イエス様を信じバプテスマを受け、聖霊を受けたクリスチャンは全世界に広がり続けています。なぜなら今も世界中の人々に神のメッセージを語り継がれているからです。みことばは必ず成就します。福音によって、今も、多くの人々が死から命に移され、絶望がしぼむことのない希望に、苦しみが感謝に、悲しみが喜びに変えられています。これこそまさに福音の力なのです。聖霊は聖書のみことばを通してお語りになります。十字架も復活も歴史的事実です。そして、神がたてられた人類救済のご計画は、現在進行形で進んでいます。それは歴史を支配し、天と地のすべての権威を握っておられる方、イエス・キリストが導いておられます。聖霊が臨まれるとき力を受けます。イエス様が去って行った後に、天より聖霊が臨みます。それはペンテコステに起こった神の技です。聖霊は霊ですから目に見えません。でも、聖霊はその働きとしてみることができます。風は見えないけれども、木の枝が揺れることにより、風があるのがわかるというのです。同様に、聖霊は見えませんが、聖霊によってイエス様を信じて新しく生まれた人を見ると聖霊がいるのがわかるのです。ですから、聖霊はその働きによって知ることができます。まず、聖霊は力を与えるというのです。その力とは何でしょうか。「イエス様の証人」となる力です。それは福音を理解する力、そしてキリストの心を知る力です。聖霊の力は理解力ともいえます。神のみ心を知る力、聖書のみことばを理解する力、福音がなんであるかを知る力です。また、迫害に耐える力、困難に耐えて希望を持ち続ける力です。また、聖霊の力は、敵をも愛する十字架の力です。イエス様は十字架の上で敵を赦しました。さらに、聖霊の力は殉教をも恐れない力です。そのように聖霊が皆さん一人一人に臨まれた結果は、何でしょうか。それは、皆さんがイエス・キリストの十字架と復活の証人として生きることです。具体的には、皆さんがイエス様の心をいただき隣人に対して、小さなキリストとなるのです。

神の国の完成:

イエス様は弟子たちのみている前で上に挙げられました。雲に包まれて見えなくなりました。その時、白い衣をまとった二人の天使が彼らのそばに立っているのに気づき、視線を天から地上に落としました。天使たちは、言いました。「天に昇って行かれるのをあなた方が見た時と同じ有様で、また、おいでになります。」と。これは、再臨の約束です。イエス様は今、神の右に座しておられます。これは、天においても地においてもすべての権威を握っておられるということです。世界は一つの方向に向かって進んでいます。この世界の歴史の方向には、はっきりした、神のご意志と計画があります。その実現と完成がこの地上で明らかにされるのが、再臨の時です。聖霊によって教会が生まれ、教会は全世界に及んでいます。教会には、真のいのちを持つ人々が集まっています。教会の歩みのゴールはキリストの再臨です。再臨の時には、キリストは世を裁くために来られるといいましたが、キリストは公平な審判者としてこられます。キリストはすべての人の全生涯をさばきます。それは、行いばかりでなく、心のはかりごとまで全てを含みます。どんな罪にも神は怒りを持ってお応えになります。でも、ご安心ください。神は、世を愛し、あなたが滅びてしまうのを惜しまれ、罪を取り除くために一人の御子キリストをお与えくださいました。そして、罪のないキリストをあなたの身代わりとして十字架につけ断罪しました。それゆえ、もしあなたが信じるなら、御子の十字架のあがないによりあなたのすべての罪は赦されて、神のいのちが与えられます。神は、キリストにより、救いの道を完成されました。そして、その救いを全世界のすべての人々に伝えるために聖霊をお送りになりました。イエスの十字架と復活の証人である私たちを用いて全世界に宣教なさいます。教会はそのために建てられたのです。再臨は、信じる者にはこの上もない祝福と喜びなのです。

悲しみは喜びに嘆きは感謝に

2018年04月 08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書24章13~35節
ルカ 24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」 24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。 24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、 24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。 24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

<要約

目がさえぎられている人間

クレオパ夫妻は一切の出来事について話し合ったり論じ合ったりしていました。この「いっさいの出来事」は、空の墓や、御使いの話を指していると思います。彼らは、この出来事について、みことばを聞くというより、人間の考えに終始しており、解決を見ない議論をしていました。失望と落胆のただなかにいましたが、神に伺おうとしなかったのです。私たちが困難苦難にある時、神は「わたしを求めなさい」と招いておられます。私たちは、それにもかかわらず、神に祈りたずねることもなく、人間の考えに終始していないでしょうか。私たちの人生の歩みの中では、必ず、様々な困難、試練、そしてその時点で理解できないことが起こります。その時には、必ずすぐに、その問題を主に持っていくことです。具体的には、みことばに求めること、祈りに導かれることです。そこに復活なさったイエス様が近づいて彼らに尋ねられました。「何のことを話しているのですか?」二人は立ち止まって「暗い顔つき」あるいは「悲しい顔」になったとあります。これが彼らの心境です。クレオパ夫妻は、夫婦でイエス様に自分たちのすべてを賭けて付いてきた夫妻であると想像します。非常に大きな期待を持っていたでしょう。ですから、落胆と失望も大きかったと思います。イエス様こそイスラエルを贖ってくださる解放者、救い主であると望みを抱いていました。ローマの圧制から神の民を解放する方として期待を掛けていたのです。ところが、ユダヤの指導者たちが十字架に架けて殺してしまった。それは、他の弟子たちにとっても大きな落胆と失望でありました。イエス様が生前に何回も「人の子は苦しみを受けて祭司長や律法学者たちによって殺されて、やがて復活する」というお話をしていたにもかかわらず、さっぱりそのことが頭に入っていませんでした。望みをかけていたのに死んでしまって、失望していました。失望落胆があまりにも大きくて霊の目がさえぎられていたので私たちは失望落胆により、近くにおられる神が見えなくなっているということが多いのです。前後左右から困難が押し寄せて、もうお手上げだと思ったことはありませんか。私たちは、がっかりして、教会へ行くこともできなくなった、ということがないように、主を見上げて主の下へ行きましょう。イエス・キリストは歴史的人物であるとともに十字架で死に復活したという事実も世界中で認められているのです。しかし、キリストの救いの意味を理解して信仰にいたる人々は少ないのです。これは私たちの持っている深い罪からきます。ルーテル教会が共通に持っている和協信条によると、以下のように書かれています。「地上におけるもっとも有能な教養ある人々ですら、神の子の福音と永遠の救いの約束を読むとか、聞くとかする時に、自分の力でそれを認め理解し、会得し、信じ、真理であると考えることができない。これらの霊的な事柄を理性によって理解するために、より勤勉になり、より熱心になればなるほど、理解し、信じることができなくなる。聖霊によって照らされ、教えられるまでは、これらすべてを単なる愚かな話と考えるのである。」人間は理性や人間の知恵では復活のイエス様を信じることができない。いくら説得しても歴史的事実として説明しても人間のうちには信じる心が無いのです。それは人間の持つ深い罪によるのです。

心の目を開かせてくださる神

このような私たちに復活のイエス様が近づいてくださいます。私たちが希望を失い、落胆しているときにこそ、神は私たちの近くにおられると聖書は教えています。試練や苦しみの中にあるとき、神様が遠くにおられるように感じている時にこそ神はあなたと共にいてあなたを支えておられます。これはイエス様の一方的なあわれみです。暗く沈みこんでいる時にこそ近づいてくださる。聖霊様の働きなのです。神様の一方的な哀れみによって私たちは信じる信仰を与えられるのです。二千年も前にイエス様が私の罪を取り除いてくださった。こんな信じられないことを信じることができたのは御霊のわざなのです。自分で信じたと思っているのは誤りです。イエス様、聖霊様があなたに語り掛け、みことばを与えそして救いを理解する力を与えてくださったのです。あなたが、イエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んで救ってくださったのです。ですから選ばれた私たちはますます謙遜になるのです。試練のときこそ、主が共にいてくださることを覚えたいと思います。試練の時には私たちの心は内側に向いて自分の苦しみの中に埋没しています。そのようなときにこそキリストを見上げたいと思います。彼らの目的の村に近づき、家の手前まで来ましたが、いまだ自分たちと同行している方がどなたであるか、そしてどこへ行かれようとしているのかもわからなかったので、彼らは一緒にお泊りくださいと強く願ったのです。聖書には無理に願った、とあります。きっと、みことばをもっと続けて聞きたかったのだと思います。イエス様を求める気持ち、みことばをもっと聞きたいという気持ちが、復活のイエス様を見出すきっかけとなったのです。イエス様は一緒に泊まるために中に入られました。彼らが食事を用意して、席に着きました。そうしたら、お客であるイエス様がパンをとって、天を見上げて祝福の祈りをして、パンを裂いて彼らに渡されたのです。その素振りからイエス様であることが分かったのです。彼らの目が開かれたのです。その瞬間、イエス様は彼らの目には見えなくなったのです。肉体の目で見なくても、心の目が開かれたので、イエス様が見えたのです。私たちも肉体の目ではイエス様を見ないのですが、心の目、霊の目でしっかりイエス様を見ています。よく、見たら信じるという人がいますが、人は見ても信じないものです。しかし、心の目で見て信じた人は見なくても信じることができるのです。

悲しみや困難を通して恵みが来る:

二人は、メシヤはイスラエルを大国の支配から解放する使命を持ってこられると信じ期待していました。そして、その方が来られたと信じました。それは、神の栄光を受ける救い主でした。しかし、聖書は、メシヤの使命の暗い側面を予言しています。それは、だれもが認めたくない、受難です。栄光はそのあとに続くものでした。それが、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」キリストの受難は、十字架です。受難は預言に記されており、それは必ず受けなければならないものでした。キリストは苦しみを受けなければならなかった。しかしそれは終わりではなかった。キリストは栄光に入るはずであった。神は打ち負かされてはいない。キリストの受難を通して神は勝利された。キリストに続く私たち信者にも、この原則は当てはまります。人生には悲しみ、困難、苦難はつきものです。しかし、私たちの罪を背負って代わりに十字架で死んでくださったキリストにより、悲しみは喜びに、嘆きは感謝に変えられます。そして、最終的には、復活のいのちをいただき、主の栄光にあずかれるのです。苦難や、困難、悲しみに会う時は、そのあとに、神の栄光があらわされるときが「必ず」来ます。何という幸いな人生、喜びと感謝の人生でしょうか。

復活への期待

2018年04月 01日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書24章1~12節
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
24:10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
24:12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕
<要約>

死の三つの段階:

議員のヨセフは新しく作った自分の墓を提供してピラトに下げわたしを願いご遺体を急いで墓に運びました。また、以前夜イエス様を訪問したユダヤ人の指導者ニコデモもアロエと没薬を30キロ準備してやってきました。そして、二人はご遺体を亜麻布で包み墓に納め、大きな石で墓の入り口をふさぎました。十字架の下にいた女たちは、安息日が明けるまでに香料と香油を用意しました。そして、金曜日から数えて三日目の日曜日の早朝に、習わしに従って、ご遺体に香料と香油を塗るために日曜日の朝に墓にやって来ました。これは、故人を悼み、悲しむ思いからのものです。また、故人に対する尊敬と敬意を表す行為ということもできます。また、それらの行為はその人々には故人との別離の儀式となっていると言えます。人々は、死者はこの世を離れて、戻ることはないと考えています。ですから、死者を墓に弔い、折々に墓参りをするのです。それは、墓を死者と生きている者たちとの接点と考えているからです。そして、死者を祭るのが宗教の役目と多くの人は考えています。聖書では、死には三つ段階があります。第一は生きていても死んでいる状態です。霊的死です。私たちの霊は神と結びついて神のいのちにつながって生きる者とされています。霊的死は、神から離れていのちを失っている状態です。本来の生を生きていないことです。第二の死は、一般的な死です。地上的死とも言います。誰もが迎える身体の生命活動の停止です。人は、肉体のいのちが終わった後、魂または霊は一旦肉体と分離します。そして、世の終わりに再び結合して、永遠のいのちに定められるものと永遠の滅びに定められるものとに分けられます。第三の死は、永遠の滅びに落とされることです。これを永遠の死とも言います。聖書は人間の魂あるいは霊は不滅であると述べています。人の魂あるいは霊は死により肉体から分離した状態にあるということです。そして、キリストの十字架を信じて復活の希望に生きる人は、復活の時が来ると完全な体によみがえります。聖書によると、人の霊魂は不滅であり、信仰により罪赦された者は、神のいのちとつながり、死後復活により不滅の身体をもらいます。永遠を天国で過ごすのです。

勝利し復活したイエスに望みを置く:

女たちは、日曜日の早朝、墓についてみるともうすでに、石が墓からわきに転がしてあったのです。そこで、途方に暮れたとあります。誰かが主のご遺体を盗んでいったと思ったようです。復活されたとは、少しも思わなかったようです。そこに、まばゆいばかりの衣を着た天使が現れました。彼女らは恐ろしくて、顔を伏せたとあります。「あなたがたは、なぜ、生きている方を死人の中で探すのですか。ここにはおられません。蘇られたのです」と天使が語ります。女たちも弟子たちも、この時点では生きていた時のイエス様しか知らなかったでしょう。一緒に語り、一緒に食事をし、一緒に旅をした人間としてのイエス様です。そして、死んだラザロを生き返らせることのできる神の力を帯びた救い主です。その今は死んで死体となったイエス様を探していたのです。イスラエルを救う方と期待されていたイエス様は残念ながら、死んでしまったと思っていたでしょう。もし、死んでしまったイエス様を信じ御頼りしてもそれはむなしいことです。死んだままのイエス様には救いはなく、なおまだ、女たちも弟子たちも、そして信者であるわたしたちも罪の中で滅びる者たちなのです。ここで現れた天使たちは神の勝利のメッセージを携え持ってきました。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」「死人の内にはいません。生きておられるからです。」と宣言しています。サタンは救い主を亡き者にしようとして、当時の宗教指導者たちを用いて、ユダを用いて、イエス様をこの世から抹殺することに成功したでしょう。サタンは最初の人アダムを誘惑して落としました。最後のアダムと言われるイエス様も抹殺しました。これで、サタンは神に勝利したと思ったでしょう。しかし、神はそのキリストを復活させたのです。そこで大逆転が起きました。罪の結果としての死はすべての人に及んでいます。すべての人は肉体の死ばかりではありません。死後、その魂はゲヘナに投げ込まれると聖書は言います。その様に人間には死と滅びが定められています。しかし、ここに大逆転が起こりました。キリストは初穂として死人の内からよみがえったのです。イエス様を信じる者は肉体の死にあうがそれは大きな力を及ぼすことはなく、復活のいのちに生きることができるのです。イエス様はその復活によって、人類最後の敵である死を滅ぼされたので、信じる者には死に勝つ力をお与えになるのです。

素晴らしい期待で今を生きる:

復活がなければ、私たちは、この世の人生をベースに人生設計をします。80年90年でしょう。その間に何をするか、何ができるか、考えるでしょう。幸いな人生を歩みたいと思うかもしれません。でも、復活のいのちをいただいて、永遠をベースとして人生設計をするなら、目標は違ってきます。命の源であり全能の神を、愛し恐れて信頼していく人生を選び取ります。女たちは、天使のみ告げを聞いて、墓から戻って、十一人の弟子たちに報告しました。ところが使徒たちはこの話がたわごとであるとして信じなかったのです。しかし、ペテロは立ち上がって走って墓に行き、墓の中に入って、亜麻布だけがあったのを確認して、「見て、信じた」と書いています。女たちが言ったようにイエス様が墓にいないということは確かなことと納得しました。しかし、復活のイエス様に会うまで、復活という事実を完全には理解できていなかったのです。私たちも、イエス様を信じています。しかし、まだ、顔と顔を合わせて復活のイエス様とお会いしはいません。ですから、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていると言えます。イエス様は復活の初穂としてよみがえり、復活の身体のまま天のみ国に昇っていかれました。その後、これまでに、無数の人々が十字架の罪の赦しを信じて、復活の信仰をいただいて、眠りについています。やがて、世の終わりにラッパの音とともにキリストの復活にあずかります。その時には、顔と顔を合わせてキリストを見るようになります。私が神に完全に知られているように、私も神を完全に知るようになるのです。何と素晴しい約束でしょうか。ペテロは空の墓を見て、驚いて家に帰ったと書いています。帰り道、彼の心には、何か素晴らしいことが起こるという予感で満たされていたのではと想像します。主は本当に復活なされたのか。生きておられるのか。では、もうすぐ顔と顔を合わせてお会いできるのか。どこにおられるのか、早くお会いしたいものだ。ペテロの心は、自分の前にはこれから素晴らしいことが起こるという期待で、熱くなっていたと考えます。私たち信者も、やがて復活の主に顔と顔を合わせてお会いするのです。私たちのこの世の人生は短いです。しかし、やがて復活の主にお会いする時が必ず来ます。信じる者に約束されていることです。ですから、帰り道、心が期待で熱くなっていたペテロのように、あなたも、あなたの人生に素晴らしい期待をもって熱く生きるのです。