キリストの弟子となる

2018年01月 28日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書1章35~51節
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

<要約>

世の罪を取り除く救い主

バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とイエス様を紹介しています。これはイエス様の働きそのものです。「神の子羊」というと、ユダヤ人が誰でも連想するのは、「過ぎ越しの子羊」です。かつて神は全エジプトを裁かれました。死の天使を派遣して、すべての家にいる人間から動物に至る最初の子ども、初子のいのちをとられました。しかし、鴨居に子羊の血がついているイスラエルの家は、その血を見て、死の天使はその家を過ぎ越したのです。そのように、罪の裁きが全エジプトに及んだのですが、子羊の血によって民への裁きが回避されたのです。過ぎ越しの子羊は型でした。それはイエス様の十字架によって成就しました。イエス様は神が用意してくださったすべての人の罪を贖うための子羊となりました。十字架で流された血が信じる者の罪を取り除き、神の裁きは過ぎ越していくのです。人の罪の問題は、神との隔ての壁となって、すべての人に及んでいます。十字架によってあなたのすべての罪が赦されていると確信しているならば、神を思うと心が温かくなり、喜びがわいてきます。もしあなたが、神を思う時喜びと感謝が来ないのなら、あなたは悔い改めてもう一度すべての罪が赦されていることを確認しましょう。

イエスは教えではなくいのちを与える

ヨハネの弟子の二人が、ついていきました。イエス様はついてくる彼らに振り向いて、「あなたは何を求めているのですか?」と問いました。イエス様は、「誰を」と言わずに、「何を」と言って問いかけています。彼らは、イエス様に自分たちの必要を満たし、自分たちの夢をかなえてくれる何かを期待していました。そのような彼らの心を見透かしたイエス様は、この質問によってもう一度彼らの思いを正そうとなさいました。キリスト教は、キリストの教えを学び、キリストを模範として生きることではありません。イエス様そのものが、罪を赦す救いであり、いのちです。イエス・キリストは救いの本質です。キリストがあなたのうちに住まわれてキリストのいのちがあなたを生かすのです。もし、私たちが神から問題解決や自分の利となることばかりを求めて、キリストと人格的な交わりを持たなければ、神を利用していることにならないでしょうか。私たちは自分の利益を追及しているだけで、神を求めていない、と言うことがあるのではないかと問うのです。そこには、神との人格的な交わりはありません。神はあなたと人格的な交わりを求めておられます。愛と信頼の交わりです。彼らは、バプテスマのヨハネが証言しているとおり、この方こそ聖書が約束していたメシヤ、救い主であることを確信しました。イエス様の救いは個人個人に及ぶものです。イエス様は目には見えませんが、生きて働かれて、私たち一人一人の心の扉をたたいておられます。そして、あなたが内側から開くなら、イエス様はあなたに入ってこられます。そして、あなたを祝福しあなたとともにあゆみあなたにいのちをあたえられるのです。これは、イエス様の教えがあなたを変えるのではありません。イエス様そのものがあなたを救い、命を与えるのです。

天国と地上を結ぶ祝福のはしご

イエス様は、創世記のヤコブの見た夢「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」の言葉を引用しております。イエス様は天と地をわたすはしごとなられて、天使たちがイエス様の上を上り下りしているという情景です。これは、イエス様が神と人間の橋渡しとなり和解となることを表しています。はしごは地から上に向けて建てられるのが普通です。しかし、「ヤコブのはしご」は天から降りているものでした。ここにおいても、人の子と言われたイエス様がはしごとなって天から地に降りてこられました。ですから、キリストは、天国と地上を結ぶ祝福のはしごです。それは、やがてイエス様が受難の十字架の死とその後に来る復活によって、神と人類の和解を達成して、天国を地上にもたらしたことを意味します。イエス様は神の子羊として、人類の罪の贖いをなしてくださいました。そしてまた、天のはしごとなり、天国を地上にもたらしたのです。地上にもたらされた天国は、どこにあるのでしょうか。それは、信者の交わりである教会にあると言えます。また信じる者のうちにあるともいえます。すなわち、クリスチャンであるあなた自身が天国を持っているということです。すなわち、あなたは救いと祝福の伝達者です。

 

 

荒野に試み

2018年01月 21日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書4章1~11節
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

<要約>

苦難を神からの鍛錬ととらえる

神は悪魔の試みを許されて、御霊がイエス様を荒野に導きました。イエス様は、そこで苦しみに会われたのです。人が苦しみにあった時、その苦難を神からのものとして用いるなら、それは、神の鍛錬あるいは訓練となります。「耐え抜いて良しとされた人には、いのちの冠を受ける」とあります。代表的には、アブラハムです。かれは、100歳まで世継ぎを与えられず苦しみました。しかし、彼はそれにより忍耐を身に着けました。また、ひとり子、イサクをモリヤの山でささげるように命じられた時、苦しんだでしょう。しかし、復活の希望が与えられて従いました。逆に、人の苦難が悪魔に利用されると、信仰を捨てさせて、破壊や滅亡へと向かわせるのです。これが、悪魔の誘惑ないし試みと言えます。悪魔は、人の罪の性質に働きかけて、不平、不満、つぶやき、非難、恨み、復讐心、疑い恐れ、などを引き出し、ついには不信仰に貶め、教会から離れ、神から離れさせるのです。代表的人物は、イエス様の弟子のユダでしょう。最後は自害してしましました。私たちが、苦しみや困難にあった時、それをどのようにとらえるかが分かれ目となります。それを神が許された試練として用いれば、神の栄光のみわざを見るものとなります。神をどこまでも信頼して、神の最善がなることを信じていくことです。私たちがイエス様に祈るとき勝利があります。なぜなら、イエス様は今日の聖書箇所で証明なされたように悪魔に対して勝利されたからです。イエス様があなたに代わって戦ってくださいます。私たちは苦難を神が許されてお与えくださっていると考えることが大切です。私たちは、病や不幸と思われる災い、様々な困難、に遭遇します。信者はそれを神からの試練として受け止めて、悔い改め、神により頼み、み言葉に耳を傾け、祈りに専心します。自分の力の限界を感じ、ただ、神により頼み、神にすがるからです。その時、信仰の勝利を経験します。依然困難は目の前に立ちはだかっていても、神がご介入して、イエス様がその荷を共に負ってくださっていることを体験し心に平安が来ます。

イエス様の受けた試みの意味

イエス様の試練の意味は、イエス様ご自身が神であることを証明するためのものです。悪魔の試みは三つありました。一つ目は、空腹を覚えられたイエス様に「石をパンに代えて食べなさい」というものでした。悪魔は最初の二つの誘惑では、「あなたが神の子なら」という言葉で迫りました。『メシヤで神の権力を持っているなら、飢える必要はないでしょう。空腹なら奇跡を起こしてパンを得なさい』と誘惑します。しかし、この空腹は神が御霊により荒野へ導かれたとあるように神がご計画のうちに定めたことなのです。悪魔はイエス様が神に従わないようにさせようとしました。それに対して、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」という、申命記のみことばを引用して反撃しました。二つ目は、悪魔はイエス様を、神殿の頂に立たせて、飛び降りてみなさい、神が「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』といいました。これは神を試みるという罪に当たります。信頼を裏切る行為です。イエス様は、「あなたの神である主を試みてはいけない」を引用して反撃しました。三つめは、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」いよいよ悪魔は本音を出しました。イエス様は、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と」を引用して反撃しました。イエス様が用いた三つの言葉は、みなモーセが言った言葉の引用でした。この申命記6から8章は、イスラエルの民が出エジプトして、荒野で様々な試みを受けた経験が書かれています。それは、民が約束の地に入ろうとする前に、荒野での40年の歴史を思い出させて、モーセが民を諭した記録です。イエス様の荒野での40日は、モーセ率いるイスラエルの民の荒野での40年間を思い出させます。現在、神の民であるクリスチャンがやがて入ろうとしている約束の地、それは天のみ国といえます。イスラエルの民は荒野の40年間で神を信頼しとおすことができずに様々な失敗をしました。民のつもり積もった不信の罪をよいことに、悪魔は神と民の関係を引き裂いたのです。このようにして、イスラエルの民を悪魔はうまく陥れたと言えます。イエス様は、かつてイスラエルの民が悪魔に負けたことにリベンジなさったのです。そればかりでなく、この悪魔への勝利は、アダムの罪以来悪魔の支配下にあった全人類を解放したのです。悪魔は人の罪によって人を縛り、自分の支配下に置いています。人は自分の力では、悪魔の支配から抜け出ることはできません。解放者が必要です。それがイエス・キリストです。

救いは十字架の死以外にない

神と悪魔とイエス様と人間の四者の関係構図を思い浮かべてみましょう。神と人は、罪によって断絶しています。人は自らの罪によって、死と永遠の滅びに定められていると言えます。その罪を取り除くために来られたのが、神の御子キリストです。人であり神である無実のキリストがすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。そして、すべての人に罪の赦しを宣言なさっています。そのことを信じて罪の赦しを受け取る人は、罪赦されて、亡ぶことなく永遠のいのちにあずかれるのです。キリストにより罪を取り除かれた人間は、神との和解を得たのです。神と人との関係を断絶させている罪によって、悪魔にとらわれている人間を贖い、買い戻してくださったのです。和解を得させてくださるのは、キリストの十字架の死以外にないのです。また、イエス様が全人類の代表として、悪魔と戦ったと言えます。最終的には、十字架で悪魔からかかとを噛みつかれましたが、そのかかとで悪魔の頭を踏み潰したのです。ですから、私たち人間は悪魔からキリストの支配に移されたのです。神の国の一員とされたのです。それは、私たち人間の努力や力で得た者ではなく、すべて神が用意してくださった救いです。私たちは、空の手で神からその救いを受け取るだけでいいのです。

 

イエスのバプテスマ

2018年01月 14日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書3章1~6,13~17節
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

神との正しい関係に生きるとは

「荒野で叫ぶ者の声」としてバプテスマのヨハネは聖書に紹介されています。彼は荒野で、悔い改めを説いていました。そして、当時、大勢の人々がユダヤ全土からヨルダン川の彼のところに来て、悔い改めのバプテスマを受けていました。悔い改めというのは、神との正しい関係を取り戻すことです。イスラエル中が、罪を悔い改めて救い主イエスを迎えようと準備を整えていたともいえます。聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に罪を犯すものだと。聖書は、すべての人は罪を犯したから、神の栄誉を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪であり、様々な罪の根元です。さて、イエス様は本来神の子で、生まれながら罪のないお方です。そして、一度も罪を犯したことがありません。ですから、悔い改める必要はないはずです。しかし、主イエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」とお答えになりました。この「すべて正しい」の「正しい」は、原語で「義」という言葉が使われています。義人は信仰によって生きるの「義」です。すなわち、「神との関係で正しい」ということを表しています。悔い改めのバプテスマを受けることは、道徳的に、あるいは法的に正しい行いというのではなく、神との関係において正しいことだからです。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げるという心の姿勢から出てきます。イエス様が、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」というのは、御心に従う行為であり、信仰から出た行為だからです。まだ、神との正しい関係に入っていない人は信じて洗礼を受けること、聖餐式を守ることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。同様に私たちもいつも悔い改めて神との関係を正して生きることです。そして、イエス様のようにみことばと神の立てた秩序に従順であることです。みことばに従うこと、神に遣わされたところで最善を尽くすこと、教会とその秩序に従うことです。それが、神との正しい関係に生きることです。

キリストの任命の背後にある神の愛

天が開けて聖霊が鳩のように下ってきました。これは、主イエスがメシヤとして任命されたことを意味します。神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されるのです。神はイエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これから救いのわざ、人類の贖いのわざに立ち上がったことを喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。30歳になるまで、イエス様は父なる神との親しい交わりの中にありました。これまでの期間をかけて、イエス・キリストの使命を確認し、心と体と思いを人類救済の大事業に向けて整えてきたと言えます。いよいよその時が来たのです。それでも、イエス様ご自身は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意しておられたでしょう。また、イエス様は神に愛されて喜ばれている子です。それゆえこの大きな使命を与えられ、神の御心を成し遂げるのです。このあと約3年後に十字架が待っていました。父なる神の絶大なる信任を受けていました。しかし、愛と喜びの子どもとされていたイエス様の人としての苦しみはどんなだったでしょうか。また、父なる神の苦しみはどんなであったでしょうか。十字架以外の他の選択肢はなかったのでしょうか。神は人の救いのためにそれが最善の道であることをご存じで用意されたのです。その動機は、神の愛です。一言神の愛です。神は惜しんで世の人々を愛されたのです。御子と神ご自身の苦しみをも凌駕してしまうほどに、神の愛は大きなものであるということです。私たちはもっとそのことに感動して、感謝と喜びで満たされてもいいのではないでしょうか。

主イエスとともに来た神の国

この後、イエス様は40日間の荒野での悪魔の誘惑に勝利されて、ガリラヤで宣教活動を始められました。イエス様は、イスラエルの民の救い主であるばかりでなく、万民の救い主であります。イザヤの預言は、罪と死と悪魔にとらえられていた人間に解放を告げるときが来たことを知らせています。イエス様は、その時から、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣言されました。それは、神の国がイエス様と一緒に降りてきてくださるということです。悔い改めれば誰でも神の国に入ることができます。イエス様はこの後、約3年間、ガリラヤ、ユダヤ地方を回り、宣教しました。そして、多くの奇跡をなし、悪魔にとらわれている人々を解放しました。また、病気の人をいやしました。また、神との関係を正すように当時の宗教指導者たちにも恐れることなく語りました。そして、ついに、宗教指導者たちの妬みにより十字架刑に処せられたのです。結果、イエス様が、一度死なれることにより、私たち人類の罪の贖いをなしてくださいました。無罪の神がすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれいのちを落としてくださったのです。信じる者は誰一人罪によって裁かれることなく、神のいのちにあずかり、復活の希望に生きるのです。同時にイエス様は、この地上に神の国をもたらしてくださいました。キリストが支配する国を打ち立ててくださいました。そして、キリストを信じる者は、神の国に属するのです。神の国とは、地上で神が信じる者の心と生活を支配されることです。そこは愛と赦しの世界です。救われた者たちはキリストとともに永遠に完全な幸いの中にいます。キリストが私の人生の主となり、わたしにかかわる一切を統治してくださいます。国のトップが変わると国が変わります。キリストが主となると人生が変わります。そして、悔い改めて信じれば、神の国はあなたのものになるのです。

 

イスラエルの選びと救い

2018年01月 07日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙11章13~29節
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

<要約>

行いではなく信仰によって救われる

聖書が示している罪は根元的で、根深く、人間性の腐敗と言えるものです。マルコの福音書には、具体的な罪が書かれています。悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみなどです。その腐敗である罪は心から発しているというのです。私たちは、行いにおいてはそのようなことをしないと言っても、心においては、犯してしまう無数の罪があります。そして、その罪に対して、私たちはどんなに良い行いを積んでも、それで神は罪を帳消しにしてはくださらないのです。それは、神は正義の神だからです。神は一点の汚れもシミもないきよい神です。まったく正しい神です。ですから、人のどんなに小さな罪も受け入れることはできません。さらに、罪からくる報酬は死と聖書に書いている通り、罪の結果は死です。ですから、人は生まれながら罪により、死に定められて、永遠の滅びへと向かっています。では、人はどこに救いがあるのでしょうか。そこで、神が人を救うために用意してくださったのが、キリストの十字架です。人を救うために神が人となって来てくださった。罪なきキリストがすべての人の罪をその身に受けて十字架で身代わりとなって死んでくださいました。十字架で死ぬことで私たちが払うべき罪の代価を支払ってくださいました。それを十字架の贖いと言います。その十字架の贖いを信じた者は、義と認められます。キリストの十字架のゆえにすべての罪は赦されます。罪の赦しをただ信じて受け取るだけでよいのです。良い行いもお金もいらない、ただ空の手で受け取ればよいのです。わたしたちは、キリストの十字架を信じるとき、罪の赦しによる永遠のいのちをいただきます。それは、神からの大いなる祝福と喜びです。キリストの救いは、罪と死と悪魔からの救いです。悪魔から救われてキリストの支配に移されます。つまり、神の民に移籍されるのです。それでは、信じれば救われると言って、行いはいらないのかという質問です。罪が赦され救われるためには行いはいりません。しかし、信じて罪赦された人は、赦された結果としてよい行いに励む人になります。救いの結果としての善行です。そこを間違えないようにしましょう。

神の約束と選びは変わらない

神は罪によって滅びに向かっている人を救うために人類救済のご計画を遂行なさいました。ひとりの人を選び、その人の子孫である一民族を選び、その民族を通して他のすべての民族に救いと祝福を届けようとなさいました。そのひとりの人がアブラハムです。その人の子孫がユダヤ民族あるいはイスラエル民族です。アブラハムが選ばれたのは神の一方的な選びです。アブラハムは、行いではなく、信仰により救われました。彼の罪を贖うために、やがて子孫に現われるメシヤ、キリストをはるかに仰いで救われたのです。そのアブラハムへの選びはイスラエル民族に継承され、イスラエルは神の民となりました。彼らには律法が与えられました。聖なる国民として他の民族とは自らを区別するようにということです。また、王である祭司として、他の国々へ真の神の恵みを伝達していく働きを与えられました。約束の土地も与えられました。しかし、彼らは他の神々、すなわち偶像に心惹かれてしましました。十戒の第一戒の「わたし以外に神々を持ってはいけない」の戒めを破り、真の神でない偶像を拝むようになり、霊的姦淫を犯したのです。神はたびたび預言者を送り、イスラエルが悔い改めて神のもとに帰ってくるようにいつも手を差し伸べておられたにもかかわらず、立ち返らず神から離れてしまったのです。そして、自らの罪のために、非常に弱くなり大国に支配されて、痛めつけられたのです。さらに、彼らは、律法を信仰によって追い求めないで、行いによって追い求めました。ついには、神がお送りになった神のひとり子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。彼らはメシヤを待ち望んでいたのですが、イエス・キリストをそれと認めることができずにつまずいてしまいました。キリストは彼らにとってつまずきの石となったのです。つまずいて彼らは倒れてしまったのです。そのために、この救いは異邦人へ届けられるようになりました。異邦人への使徒として立てられたパウロはアジア、ギリシャ、ローマへと異邦人の地へイエス・キリストの救いを届けたのです。それでは、神はイスラエルをお見捨てになったのでしょうか?イスラエルはキリストを十字架で殺し呪われたものとなってしまったのでしょうか?否です。イスラエルに与えられた神の約束は破棄され、クリスチャンたちに置き換わったという考えがあります。しかし、それは間違いです。パウロは異邦人への使徒としての召しを受けてその勤めに命を懸けていました。しかし、それはまた、異邦人が救われて神の民に加えられることにより、ユダヤ人がねたみを起こして、幾人かでも救いに入ることを願ってのことです。ここでのパウロの狙いは、福音が異邦人に届けられて、彼らが救われて祝福されるのを見たユダヤ人にねたみを起こさせることです。ユダヤ人たちにこう思わせたいのです。「どうして異邦人がこのような祝福を受けるのだろうか。どうして、この祝福が私たちを飛び越えて異邦人に行ってしまったのだろうか?」と。イスラエルが神に捨てられることで、福音が異邦人に伝えられました。そして、彼らが信じることで、神と世界との和解が実現しました。しかし、イスラエルが悔い改めて救われるなら、霊的に死んでいたイスラエルは、死者の中から生き返ることになります。イスラエルが捨てられたのは一時的なことであり、彼らはやがて悔い改めて救われるのです。福音が異邦人の間に広がり、異邦人世界に福音がいきわたったとき、その福音の波がイスラエルに戻ってくるのです。そしてついに、イスラエルに救いが届き民族的救いが成就するというのです。現在、異邦人世界にすさまじい勢いで福音は届いています。すべての国民に福音が証されて世の終わりが来ると書いています。神が言い送ったことは必ずなります。約束は必ず行われます。そのことを信じて待ち望む者でありましょう。

恵みの接ぎ木に恐れと謙遜で留まる

野生種のオリーブの枝は異邦人です。栽培種のオリーブはイスラエルです。栽培種の枝、イスラエルは不信仰によって折られて野生種の枝、異邦人が信仰によって接がれました。そして、オリーブの根から豊かな養分を受けているのなら、あなた方、枝である異邦人は自分を誇ってはいけない、根があなた方を支えているからです。高ぶらないで、謙遜でいなさい。恐れなさい。もともと、私たち異邦人は、受けるに値のない、優先権のない、資格のない者であったからです。ただ、神のあわれみと恵みによって救っていただき、神の民に加えられたのです。しかし、神に留まらない、信仰に留まらない、教会を離れ、聖書も読まない、祈らない、ということになれば、あなた方は切り落とされるとパウロは言います。逆に信仰に留まり続けるなら救いの完成を見るのです。神の選びも約束もキリストも、もとはと言えばイスラエルのものです。落としてしまったこの素晴らしい恵みを私たちは彼らにお返しするのです。私たち異邦人クリスチャンは神の一方的な恵みで接ぎ木された者たちです。神の民とされたのはイスラエルであり、今もそれは変わりありません。ですから、神を恐れつつ、謙遜になり、自分を誇ることを戒めましょう。また、イスラエルに対しては、彼らを軽蔑したり裁いたりしてはいけません。彼らを尊敬して、イスラエルが悔い改めて神に立ち返ることを祈り続けましょう。