決断、勇気、行動

2017年11月 26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記24章1~27
24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。
24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。
24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。
24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。
24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。
24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。
24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。
24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。
24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
24:21 この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。
24:22 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、
24:23 尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」
24:24 彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」
24:25 そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」
24:26 そこでその人は、ひざまずき、【主】を礼拝して、
24:27 言った。「私の主人アブラハムの神、【主】がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。【主】はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」
<要約>

アブラハムの決断

アブラハムにはなお、神の約束の成就のために信仰の次の段階がありました。それは、世継ぎと決まったイサクに嫁を迎えることです。将来を見据えての決断です。それは、アブラハムの家の最年長のしもべを自分の生まれ故郷に遣わしてイサクの嫁を連れてくることでした。ここから、信仰者の決断を学ぶことができます。神は、私たち一人一人に約束を与えてくださいます。それが成就されていくためには、私たちがみことばに応答して一歩進みだす必要があります。アブラハムの家は豊かになり、イサクにすべてを継承する準備ができていました。そして、イサクが嫁を貰い、アブラハムから独立する時が来たのです。これは、イサクにとっては独立ですが、アブラハムにとっては、子離れと言えます。アブラハムはイサクを自分の子であっても、神の約束の子どもであるとしっかり認識していました。子育て中の皆さんも、神があなた方にお与えくださった子どもたちは、神があなたに託した神の約束の子どもです。その認識が大切です。子どもたちはあなた方から独立して必ず離れていきます。私たちは、子どもたちを神にお返ししていくのです。「あなたの子孫にこの地を与える」という約束に基づいてアブラハムは行動しております。それは、この偶像礼拝のカナン人の娘ではなく、同じ真の神を知っている親族のいる自分の故郷から嫁を迎えることでした。そのことを最年長のしもべに約束をさせました。しもべは言います。「もし、その女性がこの土地について来ない場合はどうします?」その時の答えは、イサクをアブラハムの郷里において帰ってはいけない、必ず戻しなさいというものです。アブラハムは自分の郷里にイサクの妻となる人がいるかどうか、この時点では、見えていなかったようです。アブラハムは、結果を前もって見ることはできなくても、二つのことにしっかり立っていました。一つは、神は約束を撤回することはないという信仰です。二つ目は、人は神の約束を撤回してはいけないということです。私たちも、前もって結果を見ることのできないことが多くあります。しかし、神様の約束を疑ってはいけません。神は約束を撤回なさらないと信じることです。神はあなたを幸せにすると、そして喜びにあふれる人生を与えると約束しているのですから、疑ってはいけません。まだ、結果が見えなくても、み言葉を握って約束を信じ続けるのです。アブラハムは神の約束をしっかり握って、決断して実行しました。人間は未来を読むことができません。しかし、神は約束を守られます。私たち信者に必要なことは、決断し、信じて従っていくことです。

しもべの勇気

しもべは十頭のラクダと高価な品々をもって、目的地ナホルの町につきました。そこで、ラクダを伏させて祈りました。おそらく彼は、主人アブラハムの敬虔な祈りの姿を見て、神を知ったのでしょう。これは、私たちクリスチャンが、主イエスを通して神を知り、神を拝していることと似ています。このしもべはアブラハムを通して真の神と出会いました。私たちも主イエスを通して、真の神を知ることができます。この一連の出来事に、彼は、祈りで始め、礼拝と祈りで終わっています。かれは、私の主人アブラハムの神と言っています。アブラハム契約を与え実行してくださる神、約束の神であることを念頭に置いた祈りです。その約束をかなえてくださいとの願いを込めて神に呼び掛けているのです。彼は勇気と信仰をもって大胆に神に近づいています。私たちクリスチャンも私たちが信じている神はどのような方であるかを覚えるようにとイエス様は主の祈りを教えてくださいました。初めに「天にいます私たちの父よ」と祈ります。私たちがこの祈りで何を念頭に置いて祈るべきかを教えています。それは、私たちの神は、天地の創造主であり人知を超えた高いところにおられます。そして、私たちのお父さんです。だから、私たちのすべての必要を知っておられ、それらを与えて、守ってくださる方であることを信じて祈りなさいということです。次にこのしもべは、自分に与えられた任務が果たせるように主の取り計らいを祈りました。そして、主人アブラハムへの恵みを祈ります。これは、彼自身の祝福は主人の祝福であり同時に、主人の祝福は彼の祝福でもあるということです。私たちクリスチャンもイエス様の喜びを自分の喜びとするときに、祝福あふれる人生を送ることができるのです。そして、彼がイサクにとってふさわしい女性を与えてくださいと祈っています。祈りは即座に聞かれました。彼の祈りがまだ終わらないうちに目の前に、リベカが表われました。彼女は親戚の娘です。非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかったとあります。水がめに水を満たして肩に担いで上がってきたところでした。そして、しもべの願いを聞いてすぐに対応しています。また、全部のラクダに水を飲ませました。そして、彼女がアブラハムの親戚の娘であることがわかり、そこで彼は主を礼拝して、主をほめたたえ、感謝をささげるのでした。イサクの妻にリベカが選らばれたのは、全く神の主権の中で繰り広げられたことです。このしもべは節理のうちにみこころがあらわされるように祈りました。そして、その通りの人が与えられました。私たちも、祈るときに節理のうちに神の御心があらわされていくことを願うのです。その為に、勇気をもって大胆に神に近づくのです。

リベカの行動力

最後に、リベカの行動を見てみましょう。急いで水がめの水を水舟にあけて、井戸のところまで走っていきました。そして、十頭のラクダに水を飲ませるために往復するのです。ここに、「すばやく」「急いで」「走って」という言葉から、リベカの行動力がよく表現されています。想像するに、リベカは非常に美しいばかりでなく、健康で体力もあり。また、進んで人に奉仕する易しく気配りのある女性であったことがわかります。オープンで勇気があり積極的な女性であったと想像します。また、リベカは自分の親や家族を離れて、イサクの下へ旅立つのです。そこに、リベカの信仰と行動力を見ます。この三人はイサクの嫁探しということでイサクにために用いられた人たちです。イサクは前にも話しましたが、イエス・キリストのひな型です。このイサクのために用いられた三人の資質を見ると、決断、勇気、行動ということができると思います。それは、同時に、キリストのために生きる者の資質ということができます。決断と勇気と行動です。神はそれぞれにタラントを与えておられます。多い少ないは問題ではありません。神に与えられたタラントを用いることを神は望んでいます。そこに必要なのは、決断と勇気と行動です。この後、リベカはイサクと会い、結婚し救い主の系図に書き記されました。神が人類救済のご計画を遂行されるためにこれらの人々を用いました。その時から約二千年を経て、イエス・キリストがお生まれになりました。アブラハムへの約束は、イサクに引き継がれ、ヤコブに継がれ、イスラエル民族に、そして、ダビデを経て、ダビデの子孫であるキリストに至ったのです。「すべての民族はアブラハムによって祝福される」というアブラハムの契約は、イエス・キリストによって成就しました。現在、イエス・キリストによって全世界のあらゆる民族は祝福されています。それは、キリストが全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、私たちの罪を赦し永遠のいのちに生きる者としてくださったからです。その名を信じた者には神の子どもとされる特権をお与えになったのです。キリストを信じる者は神の子とされる身分が与えられて神の国の相続者として永遠の祝福にあずかるのです。

 

 

死といのちの試練

2017年11月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記22章1~14節
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

<要約>

試練の意義

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。また、試練を喜びなさいというのです。キリストの栄光が表われるとき、喜び踊るものとされるからです。キリストの苦しみにあずかれることなので、喜びなさいとあります。苦しみを通って喜びがあるということです。聖書は、「苦しみを通してあたえられる喜び」について多く語られています。次に、試練に耐えるものには、いのちの冠が与えられるとあります。試練によって鍛錬された信仰は、終末あるいは再臨の時には称賛と光栄と栄誉となるのです。聖書は試練を嫌なこと、マイナスなことと教えていません。試練は、むしろあなたの信仰を強め、鍛錬するものであります。試練に耐えてきた人には、信仰がゆるぎないものとなるのです。すなわち、「試練は信仰を育てる」。金が精錬されて、混じりけのない純金になるように「あなたも試練によって、純真で素直な信仰の持ち主」となるのです。信仰がなければ神に喜ばれないとあるように、神はあなたの素直な純真な信仰を求めています。試練は信仰を造るのです。パウロはローマにいるクリスチャンたちに、自分は艱難や試練も喜んでいると伝えました。それは艱難や試練があなたの人格を練り、最終的に朽ちない希望をあたえられるというのです。クリスチャンは、「失望に終わらない希望」を持っています。世にある希望は、移ろいゆくものです。決して揺るがないものはありません。絶対大丈夫と言えるものはないでしょう。しかし、神が与えてくださる希望は決して失望に終わりません。神が与えてくださる希望は、「死を通って、いのちに至る」希望だからです。

ひとり子をささげる父の涙

神は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言って声をかけています。イサクはアブラハムにとっては、自分のいのちより大切な我が子であったでしょう。神はその心情を理解して、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言ったのです。神は、アブラハムを信頼していました。そして、これから課す試練がアブラハムにとってどんなに苦しい、つらい試練であるか、知っていました。神はこの試練を通して、神の救いのご計画を示そうとされたのです。「アブラハムならきっと、この試練に耐える信仰を持っている」と思っておられたでしょう。アブラハムは、イサクのいのちを神が死者の中から取り戻してくださると信じました。今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神のひとり子イエスを、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけさせることです。アブラハムへの「あなたの子、あなたの愛するひとり子」の言葉に、神は「わたしの子、わたしの愛するひとり子イエス」への御思いを重ねておられたのでしょう。そこに、父の苦しみ、そして、父の涙を見ます。アブラハムに重ねられた神の苦しみと涙です。イサクをささげたアブラハムは、イエス様をささげた父なる神の型です。父なる神の動機は何でしょうか。それはあなたへの愛です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いて、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。アブラハムが刀を振り上げて自分の子を屠ろうとしたその時、神様の「待った」が入ったのです。

死を通していのちに至る

神は、人類を罪と死と悪魔から救うために無実の御子キリストに、十字架で人の罪を背負わせてなだめの供え物として死に渡されました。ですから、神が成してくださったその救いは完全です。御子を信じる者は罪に定められることなくいのちに移されるのです。死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされるのです。なぜ、神は地上にいる間、この肉体の死を残しておられたのでしょうか。もし、キリストの贖いにより、イエス・キリストを信じ洗礼を受けたとたんに罪赦されて永遠のいのちが与えられて、堕落前のアダムのように、死がなくなり、そのまま永遠に生きるものとされたらどうでしょうか。私たちの周りは、死なない人と死ぬ人が混在することになります。当然みな死にたくないので、とにかく洗礼を受けるでしょう。この世に信仰はいらなくなりますし、信仰はなくなります。神は支配ではなく、信仰を通して人を救おうとなさっています。神は信仰を最も大切なこととしておられるからです。信じた者にも地上で肉体の死が残されているわけは、クリスチャンが最後まで、信仰に生きるためです。死を迎えるまで、信仰の訓練は続きます。私たちはこの肉体にいる間は様々な重荷で苦しみ悶えています。「天からの住まい」は復活のからだです。この地上の幕屋が壊れて、すなわち死を迎えて、復活のからだによみがえるとき、死がいのちに飲まれるのです。死がいのちの終わりではなく、死がいのちの始まりとなります。死を通過して永遠のいのちに入るのです。ドイツの神学者であり、牧師であったボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画に加担し、それが発覚して絞首刑に処せられました。ヒットラーが自害する約2週間前のことでした。絞首台を目の前にして彼は、看守に言葉を残しました。「これが最後です。わたしにとっていのちの始まりです」と。わたしたちには、この地上で苦しみがあり、悲しみがあり、嘆き、そして死があります。だから、イエス様も、「こころみに合わせないで悪からお救いください」と主の祈りで祈るようにわたしたちに教えています。神は信者をいつも守ってくださいます。また、神は、哀れみと慰めのお方です。神はどんなに悲しむ人をも慰めることができます。なぜなら、神は、御子の十字架でその悲しみを経験なさっているからです。そればかりでなく、すべての苦しみと死を通って蘇られた方、主キリストはどんなことがあっても失望に終わらない希望をお与えくださいます。

 

 

信仰と行い

2017年11月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙4:18~25、エペソ人への手紙2:8~10
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

<要約>

信仰による義

アブラハムは「からだは死んだも同然」で、「サラの胎も死んでいた」にもかかわらず、その信仰は弱まりませんでした。「彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。」アブラハムはイサクをモリヤの山でいけにえとしてささげたとき、「イサクの復活」を信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたと書いています。それが、信仰義認です。行いではありません。信じる者は、神の前で義と認められるのです。すなわち、神の前で、罪なしと判定されます。アブラハムが死人を生かす神を信じて義とされたように、私たちもイエス様を死者の中からよみがえらせた方を信じることで義と認められるのです。義は、人として正しいことではなく、神の目から見て正しいという意味です。人が見て正しい人は、いくらでも周りにいます。しかし、神の目から見て正しい人は誰もいないと聖書は言います。すなわち、罪のない人は一人もいない、というのが聖書の主張です。でも、罪のない神のひとり子であるイエス・キリストが全人類の罪を一手に背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったことにより、信じる者は価なしに義、罪無しと認められるのです。アブラハムは、やがて来られる救い主キリストをはるかに仰いでいたのです。そうしてアブラハムは、後に次ぐ人々が、キリストの贖いと復活を信じる信仰により救われることの先駆けとなったのです。私たち信者は、律法である十戒を守ることによっては救われず、信仰によって救われました。また、人は律法の行いによってはひとりも義と認められない、とあります。律法の中心は十戒です。ですから、十戒を行おうとすると、できないことが分かって反って、自分の罪を指摘されます。では、人間が守ることができない十戒は努力目標なのでしょうか。「どうせ十戒は守れないから、罪を犯してもいいのだ、イエス様が赦してくださるから努力目標として日々精進すればよい」、のでしょうか。これは否です。十戒は努力目標ではありません。守れないあるいは守らない者は罪に定められます。神の怒りがその上にあります。しかし、幸いなことに、イエス様の十字架の贖いを信じて神の義をいただいたものは、神の怒りから救われています。すなわち、自分を救おうとすることから自由になっています。もともと、救いは私たちの内側にはなく、救いは外にあるといいました。神がすべて用意してくださった救いの道です。では、律法である十戒はどういう意味になるのでしょうか。クリスチャンには要らなくなるのでしょうか。そうではありません。自分を救うことから自由になったクリスチャンにとって、十戒は愛する神の御心なので、ますます、慕わしいものとなります。私の足の灯、私の道の光、さらに道しるべともなります。私たちが道に迷ったときに、行先を示すガイドラインともなるのです。

 

良い行いに召される

救いは「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。行いによるのであれば、できる人とできない人、行える人と行えない人がでるでしょう。そうすると、できる人、行える人は自分を誇ってできない人を見下すようになります。救いが、全く行いによるのでなく、自分たちから出たものでなければ、だれも誇ることはできないということです。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。神の作品という意味は、キリストによって再創造された、新しく造られたということです。古い自分が改善されてよくなったのではありません。古い自分が死んで新しく生まれ変わったのです。次に、「私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いをも予め備えてくださったのです」と書いています。私たちが、神の作品とされた理由がここにあります。良い行いに歩むためです。そして、そのよい行いも予め備えられているというのです。ここで間違えていただきたくないのは、良い人と良い行いの関係です。良い行いが良い人を造るという考えがあります。それは間違いです。良い人が良い行いをするのです。良い実は良い木からとれるのと同じです。キリスト・イエスにあって義とされた新しい人は神の作品ですので、神の召しに従って、良い行いをするのです。信じて救われ、洗礼を受けた人は、すでに傷のない神の子どもです。なぜなら、罪赦され、永遠のいのちが与えられているからです。もう救われるために努力する必要のない人たちだからです。世の光として輝くことのみです。クリスチャンも悩みは当然あります。しかし、よく考えてください。救われているのです。すなわち、サタンの支配下ではなく、キリストの支配下に移されています。そして、罪赦されて永遠のいのちを与えられています。クリスチャンは、いのちについて悩まなくてよい、心配しなくてよい、天のみ国に帰るところが用意されている、最終的に神が責任取ってくださるからです。この世の中では、世の光として輝くだけです。クリスチャンは世の光です。また、マタイの福音書では、「地の塩」であるとも言われています。その自覚に立っていただきたいと思います。ですから、「私たちが良い行いに歩むように」というのは、クリスチャンとして、この世の中で、ベストを尽くすようにということです。隣人によりよく仕えるために自分を磨かなければなりません。自分に愛を課していくのです。怠慢はいけません。次に、「良い行いをも予め備えてくださった」というのは、神は私たちが隣人愛の実践をする場所を備えてくださっているということです。私たちはそれぞれ、複数の身分と立場を与えられています。ある方は母であったり、同時に職業婦人であったり、妻であったり、教会では役員であったりです。それは神がその人をそれぞれのところへ召していてくださるということです。私たちが召されている場所は、大きく分けると主に三つあります。教会、家庭、職場です。神が召してくださる領域に、重い軽いはありません。どの領域にも等しく召されているのです。ですから、職場を重んじて家庭をないがしろにしてはいけません。また、教会を重んじて職場をないがしろにしてはいけません。同様に教会を重んじて家庭をないがしろにすることもいけません。それぞれ逆も同じです。それぞれにクリスチャンとしてベストを尽くすことです。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の前で義とされ、罪と死と悪魔から救われています。また、私たちはキリストにあって再創造された神の作品であって、神の備えてくださったところでよい行いに進むのです。それぞれ召されたところ、遣わされたところでベストを尽くすのです。それが、クリスチャンライフです。

 

人間中心vs神中心の人生

2017年11月 05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記19章1~29節
19:1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。
19:2 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」
19:3 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中に入った。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。
19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。
19:7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。
19:8 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。
19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。
19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが【主】の前で大きくなったので、【主】はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。
19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。
19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。
19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。
19:24 そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、
19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて【主】の前に立ったあの場所に行った。
19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

<要約>

三通りの生き方

最初に、「アブラハムの生き方」は、信仰の父と言われるように、信仰者の良いモデルです。アブラハムは失敗もしましたが、神を信じ崇め、信仰に堅くたった人です。アブラハムの生き方は、神を人生の中心に置く生き方です。どんなに望みが見えなくなっても信じ続ける生き方です。神の全能を疑わない生き方です。神の約束を疑わない生き方です。アブラハムは何を見て喜んでいたのでしょうか。そうです、天の故郷を見ていたのです。ここに、信仰者として生きる者が見定めるゴールが見えます。次に、ロトの生き方を見てみましょう。彼の心にはむなしさがあったと考えます。魂に空洞があったのです。世の罪に流されてここまで来てしまったのです。門のところに座って、夕陽を見ながら、取り返しのつかない過去を回想していたと想像します。アブラハムと別れて目で見て良い場所選んで生活してきました。しかしそこには幸福はなく、心満たされることがなかったのです。かえって心を痛めることを多く見てきました。しかし、ロトは、自ら真剣に神様を求め、神様に近づこうとしたことは一度もなかったのです。ロトは、そこで、二人の旅人を見つけ、何かを直感したのでしょうか。「彼らを見るなり、立ち上がって、彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ」とあります。そして、彼らにロトの家で食事をして泊まるように誘いました。ロトはそれまで得た資産を手にしてソドムの街に住むようになったのです。しかし、ロトはソドムの住人の無節操な好色な振る舞いに悩まされていました。しかし、そこでの生活には経済的な面など外面的な豊かさもあって、ロトはそこで安逸をむさぼっていたのです。ロトは神様を頭では知っていました。しかし、彼はアブラハムの様に神様と出会っていなかったのです。ロトの一家はソドムとの罪の関係を深めて、滅びの道を歩んでいたと言えるでしょう。心が神から離れると、罪の世界に引き寄せられて、世の中の不道徳や悪の流れに流されてどこまでもいくのです。ロトは、神より地上の生活を優先し、自分の考えを中心して生きる生き方の例です。もう一つの生き方の例は、ソドムとゴモラの人々です。ソドムは性的倒錯、罪に汚れた町でした。ソドムの住人はよこしまで、主に対して非常な罪人であった、と書かれています。ソドムは不道徳で悪が満っていた町でありました。しかし、そこでの人々の意識としては、悪に慣れて、悪を悪とも思わない、それが日常となっていました。しかし、彼らには真の神を礼拝し崇める生活はありませんでした。すなわち、神から離れた人間は、人間中心の日常生活を送っているということです。現代社会人の生き方の原動力となっているのは、人間中心主義です。ヒューマニズムです。これははっきり言って悪魔の考えです。人間を中心に持ってきて神を蚊帳の外に置こうとする意図がこのことばにあるからです。聖書によると、福音を拒み続けるならば、現代社会の人々はソドムやゴモラの人々より裁きの日には罰が重いといえます。現代社会を考えると、神から離れた人類の歩みの姿が見えてきます。人間は罪の性質を変えることができないのです。世界中に憎しみが増強しています。人類は教育によっても、憎しみの連鎖を断ち切ることはできません。ソドムとゴモラは特別な街ではなく、創り主から離れた人間の姿を表しているのです。

神の愛と怒り

聖書を読むと、神の二つのお姿に出会います。一つは、愛とあわれみの神です。神は、哀れみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みと真に富んでおられる。また、罪びとをすぐに滅ぼそうとしないで、忍耐と寛容をもって悔い改めるのを待っておられるということです。

それでは、もう一つの神のお姿は、怒りの神です。この二つのお姿はどちらも神の真実なお姿です。神は聖いお方です。聖なるお方です。神の聖さからくるのが神の正義です。それは、どんな小さな罪をも赦すことができません。必ず裁きます。すなわち、裁きの神は焼き尽くす火です。もう一つは、神は愛とあわれみの神です。人を愛し亡んでしまうのを惜しんで、どんな罪をも赦す神です。

赦すため主の十字架

では、愛し赦す神、怒り赦さない神の相矛盾している二つのお姿にどのように神は筋を通されたのでしょうか?それが十字架です。罪のない神が人となって、人の罪の身代わりとなって神の怒りをひとえに受けてくださったのです。信じる者は神の怒りを免れて、救われて神の愛の中に生きることができるのです。聖書は救いの書です。同時に聖書は警告の書です。ロトの娘たちの婿はソドムの裁きと救いの警告を聞いて、彼らは「冗談のように思われた」と書いています。そこに悲惨があります。警告を無視しました。恐ろしい落とし穴に落ちたのです。また、聖書は救いの書です。ここに救いの道があらわされています。家族、友人、知人に警告と救いを知っている私たち信者はもっと伝えるべきではないでしょうか。ロトは優柔不断で世に流されていく人間でした。しかし神はアブラハムのとりなしの祈りにこたえて、神様は彼を滅びの中から救い出してくださいました。同様に、わたしたちも、周りのこのままでは滅んでしまう方々に、福音を伝え、とりなしていきたいと思います。