アブラハム契約

2017年10月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記17章1~6節、18章1~15節
17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

18:1 【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。
18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
18:5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」
18:6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
18:7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。
18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

<要約>

神の約束を受け取るためには:

アブラハムに神が現れて、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」です。それは、アブラハムと子孫を祝福すると言うのです。それに対して、アブラハムの方は神に信仰をもって従っていくのです。そこに契約が成り立ちます。その契約が、イサク、ヤコブへとそして聖書の登場人物へと次々に更新させられていくのです。ついには、イエス・キリストによって契約が完成しました。一方的なアブラハムへの約束はキリストによって完成しました。そして、これまでの一民族への約束が、今度はイエス・キリストによって全世界の人々への約束に広がり、そしてあなたにも及んでいるのです。私たちがアブラハムへの約束を受け取るには、どうしたらよいのでしょうか。それは、信仰によるのです。神の前で全き者となるのです。それは、神との関係を正す生き方と言えます。神を恐れ、愛し、信頼することです。神を恐れているなら、私たちは襟を正して、神の前を歩むのです。神の前で真実を尽くします。同時に隣人に対しても真実を尽くすのです。罪を離れて、悪から遠ざかろうとするでしょう。また、神を愛しているのならば、神の喜ばれることを考えて行動します。愛する人のことを考えるのは喜びであり楽しいことでしょう。私たちは、いつも愛する人を心の中において、愛する人が喜ぶことを考えるものです。同様にあるいはそれ以上に神を愛しているなら、常に神を思い、神を喜ばせることを考え実行します。また、もし神を信頼しているのなら、目の前の出来事に振り回されることなく嘆いたり怪しんだりしないのです。神が万事を益と変えてくださることを信じ信頼するのです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に代えることです。

人を罪の呪いから救うために:

神は不妊の女性であるサラの胎を開かれました。そして90歳にしてイサクを出産したのです。これは、不可能を可能にする神の御技です。神は約束を果たされました。そして、アブラハムも神のご命令通りその子をイサクと名付け8日目に割礼を施しました。イサクは、アブラハム契約の実現の初穂となりました。アブラハムを通してすべての民族が祝福されるという約束が、彼の子孫を通して実現していくのです。イサクは不妊のサラから生まれたことでキリストのひな型です。イエス・キリストは生まれるはずのない処女マリアから生まれたからです。イサクはアブラハムの種によって、サラから生まれました。当時の非常な長寿の時代でも90歳の出産は奇跡と言えます。でもこれは、ありうる奇跡です。とにかく、イサクは男と女から生まれた私たちと同じ人間です。それに対して、イエス・キリストは処女マリアが聖霊によって身ごもったので、これはあり得ない奇跡です。人類史上ただ一回起こったことです。それは私たち人間をその罪の呪いから救うためでした。なぜ、このようなことが起こらなければならなかったのでしょうか。私たち人間は皆アダムの子孫で、罪の性質を持って生まれてきています。生まれながらの罪人です。すべての人の持って生まれた罪の性質により、一人も神の前で、罪なしと判定されることはないというのが聖書の言うところです。ローマ書3章を見ます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」このように、人間から生まれたすべての人は罪を持っているのです。それゆえに、そのままでは呪いの下にあり、神からの栄誉は受けられないのです。しかし、神様は罪の呪いの下にある人間をあわれんで救おうとなさいました。罪の呪いの下にある人間を救うためには、罪のない者が代わりに罪の呪いを受けなければなりません。それが、イエス・キリストが受けた十字架です。生涯一度も罪を犯したことがない人、それが救い主イエス・キリストです。キリストの無罪性はどこから来ているのでしょうか。それは、マリアが聖霊なる神によって身ごもったことから来ています。イエス・キリストは人間としてお生まれになりましたが、同時に罪のない神としてお生まれになったのです。人を罪の呪いから救うために、無実の神が人となって代わりに呪われてくださった。そして、わたしやあなたのために呪いを祝福に、滅びを救いに代えてくださったのです。

救いと祝福を届けるために:

アブラハムの多くの国民の父という身分は、実は、イエス様が創り主である神を天の父と呼んだのと関係あります。イエス様以来、私たちも神を父と呼びます。神は、すべての人の父です。ですから、アブラハムは父なる神の型、タイプと言えます。名前、あるいは呼び名は、その人の働きや使命を表しています。では、クリスチャンの身分と使命は何でしょうか?Ⅰペテロ2章を見てみましょう。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ここに私たちクリスチャンの身分と使命が書いています。「選ばれた種族」、「王である祭司」について、祭司は神と人の間に立って人の罪を神にとりなす人です。クリスチャンは、隣人のことを神にとりなす役目を持っています。王は権威と権力の象徴です。ですから、クリスチャンはみことばの権威に立って、隣人のために神にとりなす人々です。そして、その役目は、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と書いています。すなわち宣教です。神がキリストによって完成してくださったこの「救いと祝福」をまだ、それを知らずに滅びに向かっている人々に宣べ伝えることが私たちの使命です。あなたの周囲の人々は依然やみの中にいるのです。どんなに世の中で豊かに有意義に楽しく暮らしている人々も依然やみの中にいることを知ってください。なぜなら、彼らは自らの罪によって呪いの下にあり神の栄誉を受けるには程遠い存在だからです。私たちは神の愛をいただかなければいけません。そして、その愛に押し出されて、キリストの救いと祝福を宣べ伝えていくのです。