アブラハムのとりなし

2017年10月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記18章16~33節
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
18:17 【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで【主】は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
18:26 【主】は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
18:33 【主】はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

<要約>

祝福を届ける器となるには

アブラハム契約には三つの内容があります。一つ目は、アブラハムと子孫の祝福です。彼の子孫を増やし大いなる国民とすることです。二つ目は、アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪うというものです。三つめは、地上のすべての民族はアブラハムによって祝福されるというものです。このアブラハム契約はキリストによって成就し、現代もクリスチャンによって全世界で更新されています。一つ目の約束はどう成就したでしょう。アブラハムの信仰による子孫であるクリスチャンは全世界に無数に広がって、御国の大いなる国民となっています。二つ目の「アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪う」というのはどうでしょうか。イエス・キリストを信じ愛するものを神は祝福し永遠のいのちを与えてくださいます。しかし、イエス・キリストを呪うものには死と滅びが定められるということです。三つめは、アブラハムを通して、全国民を祝福するということです。今日の箇所は、その契約の実現のためにアブラハムが用いられたところです。アブラハムは滅びようとしているソドムとゴモラの町の人々のためにとりなしの祈りをしました。アブラハムは神の声を聴いて神に応答しています。心にある思いを神に申し上げています。祈りの奉仕は祝福の奉仕と言えます。ソドムの人々の救いのために、また、甥のロトの救いのためにとりなしています。アブラハム契約の三つ目は、クリスチャンは祝福の基となるというのです。さらに言えば、「クリスチャンは祝福を届ける器」といえます。クリスチャンの皆さんがいるところで、あなたの家族知人友人に祝福が届いていくというのです。神はあなたのいるところであなたの周りの人々を祝福しておられるのです。どのようにあなたは周りの人々に神の祝福を届けているのでしょうか。第一に祈りによってです。第二に、あなたの良い行いによってです。キリストがあなたを赦してくださったようにあなたも隣人を赦します。赦しは祝福です。第三に、あなたが周囲の人々に祝福を届けるのは、あなたの聖霊の実によってです。聖霊によってあなたのうちに形づくられたキリストがあなたを通して人々に表われていくことです。第四に、神の祝福を届ける器となるためには、イエス・キリストの贖いによる罪の赦しを受けることです。クリスチャンはイエス様の十字架の血潮にて罪赦された人です。私たちは悔い改めて罪赦された時、大胆に神の前に出ることができます。そして、神の祝福を届ける器とされるのです。

祈りは神を動かし世界を変える

それでは、アブラハムのとりなしの祈りを見てみましょう。アブラハムはこの祈りで神の御心を探っています。私たちも日々、神の御心を求めています。祈りはキャッチボールです。思いを申し上げて、御声に霊の耳を傾けます。みことばを思いめぐらします。また、祈りつつ聖書を紐解きます。神は聖書の言葉を用いてあなたに語ります。また、この祈りによってアブラハムは神のあわれみを引き出しています。クリスチャンは祈りによって、神のあわれみを引き出すのです。神は裁きを遅らせています。罪人が悔い改めるのを、忍耐を持って待っておられるからです。結局、ソドムには10人も正しい人はいなかったのです。ついには燃える硫黄の火によって滅ぼされました。しかし、アブラハムの祈りによってロトと家族が救われました。このようにとりなしの祈りは神を動かすのです。神は、私たちのとりなしの祈りを求めておられます。神は「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と言われました。そして、神はご自身のみ思いを話して、アブラハムがとりなしの祈りをするように仕向けたのです。同様に神はクリスチャンのとりなしの祈りを求めています。神はクリスチャンの祈りを聞いてみ心を表わそうとしておられます。神は哀れみの神です。人を愛しあわれみ、何とか救いたいのです。罪を赦し永遠のいのちを与えたいのです。その為に祈るクリスチャンを求めています。また、救われていない家族友人知人のために祈るあなたを求めています。

主イエスは罪を担いとりなしてくださる

私たちが神の前に出てとりなすことができる根拠は何でしょうか。人間は、自らの罪により神の前に出ることはできません。旧約の民は、神を見たら死ぬと信じていました。預言者や祭司だけが、神と語らうことができました。しかし、一般の人々はその罪ゆえに神に近づくことができなかったのです。今は、イエス様が十字架により神と和解させてくださったので、信じる者は誰でも大胆に神と語らうことができます。すなわち、現代ではクリスチャンは万民祭司として、神に人々の罪をとりなすことができるのです。さらに、罪のないイエス様が、人の罪をあたかも自分の罪のようにして、代わりに担ってくださいました。そして、十字架で自ら苦しんでくださり、死んで三日目に復活し天に昇り、神の右の座についておられます。イエス様は昼夜問わず、私たちのためにとりなしていてくださるとあります。ですから、あなたは自分の罪や弱さを大胆にキリストに持っていくことです。

神は私たち信者の祈りによって動かされ、みわざをなしてくださいます。そして、信者はキリストの救いと祝福を届ける器として召されているのです。

 

アブラハム契約

2017年10月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記17章1~6節、18章1~15節
17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

18:1 【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。
18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
18:5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」
18:6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
18:7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。
18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

<要約>

神の約束を受け取るためには

アブラハムに神が現れて、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」です。それは、アブラハムと子孫を祝福すると言うのです。それに対して、アブラハムの方は神に信仰をもって従っていくのです。そこに契約が成り立ちます。その契約が、イサク、ヤコブへとそして聖書の登場人物へと次々に更新させられていくのです。ついには、イエス・キリストによって契約が完成しました。一方的なアブラハムへの約束はキリストによって完成しました。そして、これまでの一民族への約束が、今度はイエス・キリストによって全世界の人々への約束に広がり、そしてあなたにも及んでいるのです。私たちがアブラハムへの約束を受け取るには、どうしたらよいのでしょうか。それは、信仰によるのです。神の前で全き者となるのです。それは、神との関係を正す生き方と言えます。神を恐れ、愛し、信頼することです。神を恐れているなら、私たちは襟を正して、神の前を歩むのです。神の前で真実を尽くします。同時に隣人に対しても真実を尽くすのです。罪を離れて、悪から遠ざかろうとするでしょう。また、神を愛しているのならば、神の喜ばれることを考えて行動します。愛する人のことを考えるのは喜びであり楽しいことでしょう。私たちは、いつも愛する人を心の中において、愛する人が喜ぶことを考えるものです。同様にあるいはそれ以上に神を愛しているなら、常に神を思い、神を喜ばせることを考え実行します。また、もし神を信頼しているのなら、目の前の出来事に振り回されることなく嘆いたり怪しんだりしないのです。神が万事を益と変えてくださることを信じ信頼するのです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に代えることです。

人を罪の呪いから救うために

神は不妊の女性であるサラの胎を開かれました。そして90歳にしてイサクを出産したのです。これは、不可能を可能にする神の御技です。神は約束を果たされました。そして、アブラハムも神のご命令通りその子をイサクと名付け8日目に割礼を施しました。イサクは、アブラハム契約の実現の初穂となりました。アブラハムを通してすべての民族が祝福されるという約束が、彼の子孫を通して実現していくのです。イサクは不妊のサラから生まれたことでキリストのひな型です。イエス・キリストは生まれるはずのない処女マリアから生まれたからです。イサクはアブラハムの種によって、サラから生まれました。当時の非常な長寿の時代でも90歳の出産は奇跡と言えます。でもこれは、ありうる奇跡です。とにかく、イサクは男と女から生まれた私たちと同じ人間です。それに対して、イエス・キリストは処女マリアが聖霊によって身ごもったので、これはあり得ない奇跡です。人類史上ただ一回起こったことです。それは私たち人間をその罪の呪いから救うためでした。なぜ、このようなことが起こらなければならなかったのでしょうか。私たち人間は皆アダムの子孫で、罪の性質を持って生まれてきています。生まれながらの罪人です。すべての人の持って生まれた罪の性質により、一人も神の前で、罪なしと判定されることはないというのが聖書の言うところです。ローマ書3章を見ます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」このように、人間から生まれたすべての人は罪を持っているのです。それゆえに、そのままでは呪いの下にあり、神からの栄誉は受けられないのです。しかし、神様は罪の呪いの下にある人間をあわれんで救おうとなさいました。罪の呪いの下にある人間を救うためには、罪のない者が代わりに罪の呪いを受けなければなりません。それが、イエス・キリストが受けた十字架です。生涯一度も罪を犯したことがない人、それが救い主イエス・キリストです。キリストの無罪性はどこから来ているのでしょうか。それは、マリアが聖霊なる神によって身ごもったことから来ています。イエス・キリストは人間としてお生まれになりましたが、同時に罪のない神としてお生まれになったのです。人を罪の呪いから救うために、無実の神が人となって代わりに呪われてくださった。そして、わたしやあなたのために呪いを祝福に、滅びを救いに代えてくださったのです。

救いと祝福を届けるために

アブラハムの多くの国民の父という身分は、実は、イエス様が創り主である神を天の父と呼んだのと関係あります。イエス様以来、私たちも神を父と呼びます。神は、すべての人の父です。ですから、アブラハムは父なる神の型、タイプと言えます。名前、あるいは呼び名は、その人の働きや使命を表しています。では、クリスチャンの身分と使命は何でしょうか?Ⅰペテロ2章を見てみましょう。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ここに私たちクリスチャンの身分と使命が書いています。「選ばれた種族」、「王である祭司」について、祭司は神と人の間に立って人の罪を神にとりなす人です。クリスチャンは、隣人のことを神にとりなす役目を持っています。王は権威と権力の象徴です。ですから、クリスチャンはみことばの権威に立って、隣人のために神にとりなす人々です。そして、その役目は、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と書いています。すなわち宣教です。神がキリストによって完成してくださったこの「救いと祝福」をまだ、それを知らずに滅びに向かっている人々に宣べ伝えることが私たちの使命です。あなたの周囲の人々は依然やみの中にいるのです。どんなに世の中で豊かに有意義に楽しく暮らしている人々も依然やみの中にいることを知ってください。なぜなら、彼らは自らの罪によって呪いの下にあり神の栄誉を受けるには程遠い存在だからです。私たちは神の愛をいただかなければいけません。そして、その愛に押し出されて、キリストの救いと祝福を宣べ伝えていくのです。

試練を通して成長する

2017年10月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記13章1~18節
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。

<要約>

試練と成長の正の連鎖

エジプトで、妻サライを自分の妹と偽ってパロをだましたという失敗をしましたが、悔い改めて主に立ち返ったのです。自分の罪を覚えさせられたと同時に、自分の知恵や力で事を勧めようとする生き方が砕かれたのです。アブラハムは苦しみに会いましたがさらに謙遜を学んだのです。試練や苦しみは、マイナスではありません。それを通して、謙遜にされます。そして、神のあわれみと忍耐そして愛を知るのです。一難去ってまた一難という状況が発生しました。今度は持ち物が多くなって、アブラハムと甥のロトとの間に摩擦が生じたのです。彼らのいる土地は一緒に住むには十分ではなかったのです。アブラハムがロトに言ったことは、信仰に立った懸命な申し出でした。年長者として当然あるはずの選択権をロトに譲って尋ねました。ソドムとゴモラの地は滅ぼされる以前であったので、主の園のように、また、以前、滞在していたエジプトの地のように肥沃で潤っていたのが目に映ったのです。ヨルダン川の水により緑豊かな牧草地が広がっていたと想像します。ロトは、アブラハムの提案を聞いて、見た目によい方を選んで東の方へ移動しました。ロトと別れて後、アブラハムに主のことばがありました。神は、アブラハムにもう一度、子孫を地のチリのように増やし、その土地を永久に子孫に与えるといわれました。神は、祝福の約束を折々にアブラハムに語りました。折々に、神は約束をアブラハムに思い起こさせて、そして、彼は主を礼拝したのです。ここに、クリスチャンライフのヒントがあります。私たちがみことばを聞いて従う、すると神はみ心を示される、そして、神を礼拝する、信仰によって約束を受け止める、ということです。そこに、クリスチャンライフの成長のサイクルがあります。試練が起こるとみこころを求めて祈ります。すなわち礼拝します。悔い改めて信仰の原点に戻るのです。み心を信じて従うのです。みことばの約束をいただきます。そして、信仰によって歩み出すのです。試練に会うとこのサイクルを繰り返すのです。アブラハムは、成長の正の連鎖、成長のサイクルにあって信仰の成長を遂げました。アブラハムの最大の試練と勝利は、なんといっても、イサクをモリヤの山で主にささげたことでしょう。ここで、アブラハムは何を得たのでしょうか。アブラハムは、神からイサクをささげるように言われました。それはイサクを殺して全焼のいけにえとすることでした。イサクは死んでしまう。しかし、神はイサクを通して子孫を増やすといわれた、その矛盾に苦しんだと思います。そこで、アブラハムは、イサクが生き返ることを信じたのです。アブラハムが信仰によって、成長して、ついには復活の信仰を得たということです。私たちはみことばにより、復活を信じています。これは、アブラハムに与えられた信仰は御子キリストによって成就しました。そして、今後、すべての信じる者に成就するのです。

不信仰と堕落の負の連鎖

アブラハムはロトに土地選びの優先権を与えました。それに対して、父なき後、これまで面倒を見てもらったアブラハムに感謝を表すことなく、また、神に祈ることもなく、ロトは躊躇なく目を挙げて、ヨルダンの低地全体を見渡したのです。目に見えないことより目に映る有利な物に心を置いているロトの姿が見られます。彼の心の中心にあったのは、神の栄光ではなく、自分の欲得でした。神を喜ばせることより、自分の利を求めて歩む人でした。ロトは邪悪な都市ソドムにいつの間にか住むようになったのです。邪悪な人々の住むところへとひきつけられていったのです。それは、神から離れた歩みです。ソドムはこの後、火と硫黄によって滅ぼされました。ロトとロトの家族はアブラハムの祈りによって、町が滅ぼされる寸前に救出されたのです。結果的に、ロトはすべての財産を失い、二人の娘だけを連れて山に逃れたのです。そして、ロトは、モアブ人とアモン人の先祖となるのです。双方ともイスラエルの敵となるのです。ロトは不信仰と堕落の負の連鎖に陥ったのです。聖霊に従うことなく自分の古い罪の性質に従う人です。アブラハムの下で神の約束を受けることもできたのに、世に埋没して、しまいには信仰を失ったのです。

天の都、キリストの支配に生きる

アブラハムは、もう一度、神の約束をいただき、約束の地を縦と横に歩き回り神が与えてくださる相続の地を確認しました。そしてヘブロンに天幕を移して、そこに主のために祭壇を築きました。今後、アブラハムはこのヘブロンを拠点として、活動することになるのです。このヘブロンはやがてダビデがイスラエル王朝を確立した場所になります。すなわち、アブラハムへの約束の成就と言えます。しかし、まだ、カナンの地ではアブラハムは寄留者でした。これは何を意味しているのでしょうか。へブル11:9,10 にヒントがあります。アブラハムは、カナンで他国人のように彼の子孫とともに住みました。すなわち彼は、「カナン人の間にあってカナン人ではない」、それは神の民の姿です。そこでは寄留者でありました。アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンも「世にあって、世のものではない」とイエス様が言われました。クリスチャンは「世にあっては旅人であり寄留者」と書いてある通りです。アブラハムは「かたい基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた。その都を設計し建設されたのは神である。」とある通り、彼はやがて来る神の国を意識していたと思われます。クリスチャンは、この世の中に生きていますが、神が設計して、キリストが十字架と復活で打ち立てられたキリストの支配する天の都に属しています。そして、信じる者はやがて時至って、黙示録にあるように天のエルサレムと言われる御国へと招かれているのです。これは何と驚くべきことでしょうか。アブラハムのカナンの地での寄留者としての歩みは、実は、私たち信者の歩みを予め示しているのです。

 

 

アブラハムの失敗

2017年10月 8日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記12章10節~13章2節
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

<要約>

アブラハムを失敗へと招いたこと:

アブラハムは、妻サライが非常に美しいので、エジプト人はサライを自分のものとしようとして、夫のアブラハムを殺害するのではないかと恐れました。そこで、サライには、アブラハムの妹であると言ってくれと頼みました。そうすれば、自分のいのちは守られて、かえって妹のゆえに自分は利益を受けるだろうと考えました。アブラハムはその嘘のためにパロから多くの財をもらうことになったのです。アブラハムが妻サライを妹と嘘をついて、失敗へ招いた原因は、恐れと富みの誘惑です。悪魔は彼を恐れと富の誘惑で失脚させようとしたのです。アブラハムほどの人が、なぜ、失敗したのでしょうか。それは、まず、神に祈らなかった、神に伺わなかったからと言えます。クリスチャンはどんなときにも祈るべきです。そして、み心を求めて聖書を紐解くのです。聖霊は聖書の言葉を用いて、信じる者に語ってくださいます。クリスチャンには三つの敵があります。一つは、サタンと言われる悪魔です。あなたを神から引き離そうと知恵を働かせています。二つ目は、この世です。世は、神への尊敬を持ちません。世の本質は不遜です。三つめは、あなたや私の内側にある罪の性質です。神の利益より自分の利益を大切にします。神に栄光を帰すのではなく、自分に栄光を与えようとします。私たちは常にこの三つの敵を意識しながら信仰の戦いをしていかなければなりません。

人の失敗と神の約束

サラを召し入れたパロとその家族は主によって、ひどい災害に痛めつけられました。それは別訳では疫病です。その罪を離れて、パロは神の裁きを免れました。神がアブラハムの嘘がもたらした悲惨で恐ろしい結果をあわれみによって免れさせてくださったのです。アブラハムは、このままでは神の祝福を完全に失います。当然、アブラハムとサラの夫婦関係も破壊されるでしょう。そして、アブラハムは自分の妻を娼婦にまで落として、自分の利をむさぼるような人間にまで落とされてしまうのです。聖書は人間をありのままに描いています。神はアブラハムを選び、彼に祝福の約束を与えられました。また、神はアブラハムの名を「多くの国民の父」とまで高めてくださいました。その様な人間がこれほどまでの失敗を犯してしまうのです。アブラハムの失敗にかかわらず、神はご自身の約束を守られました。彼の失敗を逆に用いて、もう一度アブラハムをカナンの地に戻されたのです。神はご自身の計画を着実に推進される方であることがわかります。神は哀れみの神です。それでも、神は正しい方ですから、不正を見逃すことができません。ですから罪のもたらす裁きである呪いと死はあるのです。しかし、神は罪のために滅んでいく人を惜しまれて、罪のない神のひとり子に人の罪を負わせて代わりに御子を十字架で裁き、信じる者の罪を赦し、呪いを祝福に、死を永遠のいのちに代えてくださったのです。アブラハムは信仰によって義とされたとあります。義というのは罪がない状態です。アブラハムは失敗し罪を犯しましたが、義とされた、罪を認めないとされたのです。それは、神を信じる信仰によったのです。私たちも信仰によって、義とされています。失敗や罪があっても悔い改めて赦されるのです。

罪から救い、出エジプト

旧約聖書の事件や記事の多くは、来るべきイエス・キリストを予表しています。例えば、ヨナ記の記事で、ヨナが大魚の腹の中で三日間いたのは、キリストがよみに三日間おられて復活したことを予表しています。イスラエルの民が航海を渡ったのは水のバプテスマを予表しています。アブラハムがモリヤの山で、イサクは死者の中から取り戻されました。これはキリストが死者の中から復活した型です。このように、旧約聖書はいたるところでやがて来られるキリストを予め示しています。また、旧約聖書の様々な事件や記事がその後のイスラエルの民の辿ろうとしている道を予表しています。今日のこの事件も今後のイスラエルの民が辿ろうとしている道を暗示しています。すなわち、この後、数百年後にイスラエルの民に起こる出エジプト事件です。孫のヤコブの時代に七年に及ぶ大飢饉が起こりました。その時、ヤコブとその家族は男だけで70人の大家族となっていました。ヤコブは彼らを連れてエジプトで寄留生活をすることになったのです。そして、それが民にとっては約400年にわたる奴隷生活の始まりとなったのです。時至って、ついに、モーセ率いるイスラエルの民はエジプトを脱出して約束のカナンの地に向かうのでした。この歴史的事件は、出エジプトと呼ばれるものです。そして、この出エジプトは罪と死と悪魔の束縛により奴隷とされている人類、そしてあなたを神が救出することを示しています。そして、あなたを約束と祝福の地、あるいは天のみ国へ導くための神のわざを予め示しているのです。出エジプトは、あなたが神の救いにあずかることを意味しています。アブラハムは失敗し、つまずきましたが、神の哀れみにより、約束の地、カナンへ戻されました。アブラハムには信仰があったからです。これは、あなたの人生へのメッセージでもあります。あなたも様々な人生の失敗やつまずきも経験して今があると思います。そのたびに主はあなたに対する約束を果たされ、罪と死と悪魔からこの救いに戻してくださっているのです。そこで求められているのは信仰です。

 

 

アブラハムの旅たち

2017年10月 1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11章27~12章9節
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

<要約>

信仰によって歩み出すとは:

「主はアブラムに仰せられた」と書いています。これはアブらハム契約と呼ばれているものです。彼は、不妊の女サライと、甥のロトとハランで得た家畜などの財産をもって、神の示す地へ、出発しました。へブル書には、「どこへ行くのか知らないで、出かけた」と書いています。「生まれ故郷、父の家を出て」と。これは、信仰による旅たちでした。郷里も親類縁者も捨てて、行先もわからないまま出ていくのはどんなにか勇気のいることでしょう。アブラハムの信仰者としての歩みは、この神の仰せに素直に従ったということから始まります。ここに信仰の父と呼ばれる人の歩みが書かれています。まず、彼は神の約束を握って、偶像と偽の神々が支配する世界から出て行きました。これは決別です。御声にしたがったのです。信仰にはこの決別が要求されます。サタンが支配するこの世から決別するのです。罪の世からの決別です。この世の悪い習慣からの決別ということもあります。特別に悪い習慣がなくても、目に見える世の価値、お金、地位、名誉などへの執着から決別して、目に見えない神を信じる、神に従う決心をすることです。聖書が言う神は、天地万物をおつくりになって、全世界を治めておられる一人の神です。人は、太陽や月などの被造物を神としたり人間や動物を神としたりしてしまいます。人間は自らで神を見出すことはできません。神の方でご自身を現わしてくださったのです。神が人となってご自身を現わしてくださったのです。それが、イエス・キリストです。偶像は、いわゆる像ばかりではありません。あなたが、寄りかかっているものです。それがないと生きていけない、倒れてしまうものです。偶像は、世界にあふれています。あなたの心をひきつけて、けっして、真の神に心を向けさせないように働くものです。サタンはこの偶像を足掛かりとしあなたを真の神から引き離そうとするのです。アブラハムへの神の約束は、神から一方的な恵みと祝福であったといえます。その恵みと祝福にアブラハムは「主がお告げになった通りに出かけた」という行動をもって、従ったのです。みことばに対する信仰の応答は、従うということです。信仰によって歩み出すとは、罪の世から決別して神の約束を握ってどこまでも神を信じて従っていくことです。また、信仰によって歩み出すとは、「どこへ行くのか知らないで出ていきました」とある通り、チャレンジの人生です。

アブラハムに学ぶクリスチャンライフ

アブラハムは家族とともに、ハランを出発して、カナンの地に着きました。そして、最初の場所は、シェケムです。モレの樫の木のところまできました。そこにも、カナン人の偶像礼拝があったようです。そこに、アブラハムは、真の神のために祭壇を築きました。神はアブラハムに具体的な約束を与えました。アブラハムに今のパレスチナ地方を約束の地として子孫に与えるといわれたのです。この時点では、アブラハムには約束のみでした。親類はいない、土地もない、子どももいない、無いないずくめでしたが、アブラハムは信仰によって生きていました。信仰とは、約束を信じ続けることです。彼は、この時、75歳でしたが、神はアブラハムの子孫を海辺の砂、空の星ほどに増やすといわれたのです。しかし、約束の子どもであるイサクが与えられたのは、100歳の時でした。アブラハムは、約束が与えられていながら成就を見ることができずに、時には、へこたれて、神のみ思いをうかがうことなく、当時の習慣や人間の考えで動きました。そして、何度も失敗をしました。信仰の父であるアブラハムでさえ失敗しました。信仰者は天のみ国に入るまで、失敗し倒れることもあります。それが現状です。しかし、失敗し罪を犯して倒れても、また、主を仰ぎ立ち返るなら救われるのです。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐であるとあります。信仰には忍耐が必要ということです。しかし、それ以上に神は忍耐して神の民を赦してくださっているのです。アブラハムは「祭壇を築き」真の神を礼拝し、そして「天幕を張り」カナン人の中で寄留者の生活を始めました。この世にあって生活を始めたのです。これは、クリスチャンは世にあって世のものではない、この世にあっては寄留者であることを暗示しています。すなわち、この世にあっては旅人であり寄留者である、これが、天国を目指して旅しているのがクリスチャンライフです。カナン人たちは、アブラハムを神の司として認識していました。このことからアブラハムは彼らに宣教していたことがわかります。ここに、アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンの生き方が暗示されています。それは、礼拝、社会生活、宣教です。一つ一つ見て行きましょう。一番目に礼拝について、クリスチャンは礼拝の民と言われています。真の神を毎週礼拝します。それは、自分中心ではなく神中心にした生き方です。次に社会生活について、クリスチャンは神の民として社会生活を営みます。社会は隣人愛の実践の場ともいえます。最善を尽くすのです。三番目は、宣教です。クリスチャンには宣教の使命が与えられています。あなたの生きる姿勢を通して、あなたを透かして、人々は神を見るでしょう。

すべての国民を救う神の計画

神は、アブラハムを大いなる国民としようと言われました。それはイスラエル国家です。そして、「アブラハムの名は大いなる名前となる」です。歴史を通してこれほど偉大な信仰者と呼ばれている人はいないと思います。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」これは、アブラハムに良いことを願い行動する人を神も良くしてくださる、また、アブラハムに悪をはかり敵対する者に神も敵対するというのです。もちろんこの約束はアブラハムの子孫であるイスラエル民族に及んでいます。また、この約束は、アブラハムの信仰の子孫でもあるクリスチャンひとりひとりへの約束でもあります。「すべての民族はアブラハムによって祝福される。」アブラハムは全民族の祝福の基となるのです。ここにすべての民族を救うための神のご計画が隠されています。神はアブラハムという一人の人を選び、そこから一つの民族を選び、その民族を通して神の祝福と救いを全民族に広げていこうとされました。このことは不思議なかたちで成就しました。アブラハムの子孫のユダヤ人、すなわちイスラエル民族の中からイエス・キリストはお生まれになりました。そして、イエス・キリストにより全世界のすべての民族に祝福と救いがもたらされたのです。イエス・キリストの救いとは何でしょうか。聖書は、言います。「造り主である神から離れた人は生きていても死んでいる」と。つまり、このままでは滅んでしまい、永遠の死を迎えるからです。それは、神から離れた人は真のいのちを失っているからです。しかし、もしあなたが、イエス・キリストを信じて神に立ち返るのなら、生きるのです。罪と死と悪魔から解放されるのです。あなたにいのちを与え、あなたを造ってくださった神がいるのに、これまでその方を認めることなく過ごしてきたことを悔い改めて、あなたの罪をすべて十字架で赦してくださったキリストをあなたがお迎えするなら、あなたは生きるのです。