何も思い煩わないで

2017年6月 25日(日)主日礼拝
オリーブミニストリーズ 中野雄一郎牧師

<聖書>Ⅰペテロ5章5~7節
5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

虹のもとにある約束

2017年6月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記8章20節~9章13節
8:20 ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
8:21 【主】は、そのなだめのかおりをかがれ、【主】は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。
9:2 野の獣、空の鳥、──地の上を動くすべてのもの──それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。
9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。
9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」
9:8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。
9:9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。
9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。
9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」
9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。
9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

<要約>

洗礼により新しい人に生きる

ノアの家族と動物たちは箱舟から出てきました。そして、ノアは、祭壇を築き、そこで全焼のいけにえを捧げました。全焼のいけにえの意義は、献身です。ノアは万物をおつくりになりすべてを治めておられる神が、ノアとノアの家族を救い贖われたことに喜びと感謝の思いを込めて献身を現したのです。新約聖書へブル人への手紙に、ノアが信仰による義を相続するものとされたと書いています。ノアはその信仰によって称賛されました。ノアはまだ、救い主をその目で見てはいませんでした。しかし、まだ見ていない神の約束と警告に耳を傾け、信じて従ったのです。想像するに、ノアにとって箱舟の一年間は大変つらい期間であったと思います。なぜなら、神の怒りが人類に落ちたからです。自分たちだけが助かったといってほくそえんでいたのではありません。彼の親戚縁者も外にいたのです。また、友人知人もいたことでしょう。大雨が降って地に水があふれたとき、箱舟の扉を閉められたのは主です。ノアは自分が死ぬべきところから贖われていのちを得たことがわかったのです。ノアの箱舟は聖書によると洗礼の型です。バプテスマ、洗礼は古い自分に死んで新しい人に生きることです。ノアはこの箱舟の経験をとおして、新しい人として新たな出発をするのです。同様に、洗礼を受けた皆さんは、信仰により新しく生まれた人です。それは、一方的な神の恵みです。自分の功績ではありません。神が皆さんに差し出してくださった救いをノアのように信じて素直に受け取ったからです。まだ、洗礼の恵みをいただいていない方は、洗礼を受けて新しい人生を歩みだしていただきたいと思います。

血による贖いの約束

神は箱舟から出たノアと息子たちを祝福しました。これは、人類の再出発でした。「生きているものは皆、あなた方の食物である」とある通り、肉食が承認されています。動物を殺す時に必ず出るのが、血です。肉は食べていいが、血のあるまま食べてはいけないと命じています。これは、のちにレビ記の律法に繰り返し言われていることです。レビ記には、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」血はいのちである、ということです。ここで神は、人の血を流すものは、血の代価を払わなければならないと言われます。すなわち、いのちには血で贖わなければならないということです。また、神はあなたがたのいのちを贖うために生き物の血をあなたがたに与えたというのです。それが、出エジプト後のイスラエルの歴史において、モーセに与えられた律法です。延々と続けられてきた儀式となるのです。すなわち、罪を犯した者は、傷のない羊などの動物を祭壇に携えて行きます。そこで、祭司は、その人の罪の贖いとして動物を殺し、血を注ぎださせます。そして、祭司は罪の赦しを宣言しました。これは、やがて神の小羊として十字架ですべての人の贖いを成し遂げたキリストの予型です。すなわち、祭壇で流された動物の血はやがて来られるキリストを指していたということです。へブル書に「血を注ぎだすことがなければ罪の赦しはない」と書いてある通りです。これは、イエス・キリストの十字架の贖いです。私たちは、生まれながら罪深く、現に数多くの罪を犯してきました。心において、ことばにおいて、行いにおいて汚れたものです。それらの罪に対して、神は怒りを持っておられると聖書は述べています。そして、自らの罪によって滅ぶべき者たちであります。しかし、神はあなたを惜しんで、あなたを愛して、滅びから救うために、神の一人子のイエス・キリストの血を贖いの代価として差し出してくださったのです。へブル書にある通り、イエス・キリストが十字架で血を流してくださった故にあなたの罪は赦されたのです。今、キリストによる罪の赦しが提供されています。それに伴う、永遠のいのち、天にあるあらゆる祝福を受け継ぐ神の世継ぎとしての身分が提供されています。是非、心で受け取って、救いの約束をあなたのものとしてください。

主の恵みと哀れみ:

「神は決して人のゆえにこの地を呪うことはないといわれました。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と。そして、「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」とあります。これは、堕落がもたらした人の現実と言えます。そしてその罪ゆえに、地上での生活は安楽とは言えないのです。労働があり、それにともなう報酬が与えられています。寒さや暑さ、夏と冬、昼と夜、には定められた地上での営みがあります。それは地上の人生を終えるまで、やむことはないというのです。もはや大洪水では滅ぼさない、その契約のしるしとして、雲の中に虹を立てるといわれました。虹を見て人は平和と安心を感じるものです。それは、この約束にあるからです。神は、人に平和の約束をなさいました。そして、繁栄の祝福を与えました。しかし、人間には地上では労苦があり、働いて食べ物を得なければならないのです。また、神は人の内側にあるものをよくご存じでした。人の思いは常に悪に走っていくのです。哀歌には以下のようにあります。「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。」聖書の言う恵みは、「受けるにふさわしくないものに与えられる神のプレゼント」です。それは、自らの罪のために滅んでも仕方がない私たちに与えてくださったキリストによる罪の赦しです。ここには、十字架という神の一方的な行為があったのです。「主の哀れみは尽きないからだ。」の哀れみは、神の罪びとへの心です。神は人に、そしてあなたに尽きることのない哀れみの心を持っておられます。そして、思っているばかりでなく、あなたが滅びることなく永遠のいのちを持つために、身代わりに十字架にかかってくださったのです。繰り返しになりますが、あなたへの神の恵みは罪の赦しです。それを受けるには、信じることです。

 

 

礼拝する民の出現

2017年6月 4日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記4章16~26節
4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。
4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。
4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。
4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。
4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。
4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。
4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」
4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。

<要約>

神から離れたカインとその子孫

カインの子孫が紹介されています。そこに、神を離れて、神はいらない、自分で生きていけると考え、思いこんでいる人の姿があります。人間の人格の中心には空洞があって、それは造り主である神にしか埋めることができないのである、とアウグスチヌスが述べています。人は神に似せて作られました。ですから、人格は神のご性質を反映しています。不正を憎み正義を愛し、秩序を重んじる心があります。知恵においても他の動物をはるかに抜きんでています。情動面でも、芸術を味わうことができます。創造的な意思によって、便利なものを多く作り出してきました。文明、文化を創り出してきました。人間の技術は日進月歩です。人は地のちりで造られて、神の霊を吹き込まれて生きたものになりました。それゆえ、霊において神のいのちとつながっていますので、神との心の交流がありました。そして、永遠のいのちがありました。なぜなら、神は永遠なるお方であるからです。それが、罪により断絶しました。神のいのちにつながるパイプが切断されたのです。そして、人間は「死ぬものとなった」のです。死には三つの死があります。第一は、心が神から離れている状態です。神がわからない、神を認めることができない状態です。霊的に死んでいるということです。第二は、私たちが一般的に理解している身体の死です。心臓が止まり、生命活動がない状態です。第三は、身体の死の後にくるものです。永遠に続く死です。イエス様が来てくださったのは、人をそしてあなたをこの永遠の死から救うためです。それは人の罪の結果からくるものだからです。アダムの罪を受け継いで、カインは神の霊的な命を失っていました。カインの子孫は、霊的に死んでいる人々の姿を現しています。これは現代社会で真の神を信じていない多くの人々と同じです。レメクの二人の妻の名は、アダとツィラです。アダの子ヤバルは、家畜を買うものの先祖となったとあります。また、弟のユバルは竪琴と笛を奏するものの先祖となりました。また、ツィラの子どもはトバル・カインで、金属を加工して様々な用具を造る鍛冶屋でありました。彼らは、現代社会の文明文化の先祖と言えます。神はすべての人を哀れみ、そして、あなたに安全で住みよい世界を与えるために、人に様々な能力や技術を与えて、文明文化を築かせました。現代は、大変便利な時代となりました。国々は法によって治められており、より安全に生活できるようになっています。それも神の恩寵であると思います。このように、神から離れて、自分の気ままな人生を選んだカインの子孫をも神は哀れんでくださいます。同様に神から離れている人類社会をも哀れんでいてくださいます。そして、賜物と才能を与え、様々な技術を開発させて、地上においても豊かで祝福された生活を送れるようにしてくださっています。

人間の力と増大する罪の力

レメクは二人の妻を前にして「アダとツィラよ、私の声を聴け」と警告を発しています。なぜ、二人の美しい妻を前にレメクは、警告の歌を歌ったのでしょうか。「わたしの受けた傷には、一人の人を」「うち傷のためには一人の若者を殺した」語っています。美しく着飾った声の美しい二人の妻に対して少しでも近づく男は俺が殺す、と言っているように思えました。これは、神を恐れない、自分の力を誇示するレメクの態度です。愚かさ、高ぶりがあります。罪が増大した現代社会の一面を見るようです。アダムから引き継いでいる罪、それを原罪と言います。神の戒めを破り、自分を神の上に置いたことです。その罪をすべての人が生まれながら受け継いでいるというのです。それは恐ろしいほどの腐敗であります。生まれながらの人は、自分からは神を恐れることがなく、信頼することもできません。いくら頭がよくて教養のある人でも、自らの理性や知識では、福音と永遠の救いを信じることはできないのです。聖霊によって照らされるまでは、キリストの福音は単なる愚かな話と考えるのです。原語で罪は、的外れという意味です。本来あるべき状態にないといえます。人は、創造主に造られて創造主の下にあって幸せに生きることができる存在です。それが、逆転して、神の上に自分を置いたとたんに罪のどん底に落ちたのです。人は神を礼拝し、神に栄光を帰し、神のために人生を使う時にこそ、本当に幸せなのです。それが、神のいのちから離れたため霊的に死にました。それがゆえに、神がわからない、神を認めることができない、神を感じることができない、のです。十字架の話は愚かな話に聞こえるのです。それが腐敗した人間の本性です。その霊的な死から救い、真のいのちを与えるのは、復活のキリストです。イエス様は私たちの罪のために死んで、私たちのいのちのために復活してくださったからです。

神の恵みの世継ぎ

アダムの世継ぎとなったもう一人の人物が登場します。セツです。セツが贖いの歴史をつなぐ人物となりました。カインの子孫は、人類に文明文化をもたらす役目を果たしますが、同時に、彼らは自分の力を神として歩むのです。ですから、罪の力に支配されて、良いと思うことをすることができずに悪と不道徳に押し流されていくのです。しかし、セツの子孫は、「彼らは主の御名によって祈ることを始めた」のです。これは、神を礼拝するようになった、ということです。セツによって、セツの子孫は礼拝の民となったのです。すなわち、神を上において、神の下で生きるという、神を恐れて生きるという、アダムが最初に持っていた本来の秩序を取り戻したのです。本来の神と人の関係を取り戻したのです。彼らは、神を中心として自分たちの人生を築いていくのです。アベルは信仰によって義とされた人です。それに次いでセツの子どもたちも真の神を礼拝し、神を恐れ、愛し、信頼していく民族となったのです。これは、神の哀れみによって救いの約束をセツにつないでくださったのです。ここにおられるあなたも、神を礼拝する民に招かれています。やがて、アダム、セツの子孫にイエス・キリストが与えられました。キリストは十字架の死と復活により、罪と死と悪魔のとりこになっている人類、そして、あなたを贖いだして、キリストの支配に移してくださったのです。あなたが神の招きにこたえて、礼拝の民に加えられることを、私は切に懇願します。