人の創造

2017年5月14 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記1章26~2章9節、15~18節
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
<要約>

神のかたちである人:

神のかたちというのは、神は霊ですから、目に見える形はありません。目に見えない形のことを言っています。私たち人間には人格というものがあります。この人格は最初の人アダムの罪によりひびが入ってしまいましたが、人の人格も神のかたちの名残と言えます。人格の要素には、知・情・意があります。人間の堕落により、知性は曇ってしまいましたが、人間の知性はすごいものであると思います。世の中には頭の良い人がいると思います。コンピュータを見ても私にはその仕組みは全くわかりませんが、作った人がいるので感心します。また、私たちは感情があるので、喜び悲しむ存在です。それにより喜怒哀楽にあふれた豊かな人生を送ることができます。また、意志については、創造的な意志によって、人類は文化文明を築いてきました。また、あなたが、志をもって決断するなら自分では不可能と思われることもみ心にかなったことであれば成就します。ここに背後に神の働きがあるからです。また、人間には他の動物にはないものがあります。それは霊です。他の動物も地の土から造られました。しかし、鼻から神のいのちの息を吹き込まれたことはなかったのです。このいのちの息は、霊ということができます。人間は霊的な存在といえます。アダムの堕落以来、完全な神のかたちにひびが入りました。そして、霊のいのちを失ったのです。その子孫である私たちも真のいのちを失い、生まれながらの罪びとです。そして、その罪によって滅ぶべきものとされました。時至って、神はその人間に対しても和解といのちの回復のために救い主イエス・キリストを与えてくださいました。最初の人の堕落のためにいったん失われた神と人との麗しい関係は、イエス・キリストにより回復しました。イエス様を信じる者は新しく生まれ変わるということです。そして、創造された時に持っていた神との麗しい関係に入るのです。こうして神は、人の創造をもって、すべてのみわざを完成されました。それをご覧になって、満足されました。そして、「非常に良かった」と締めくくられました。堕落前の神の創造のみわざは火の打ち所のない完全なものでした。人の創造という最終的なご目的を果たされて、神のご栄光を表されたのです。神のみ思いはその時から変わっていません。現在に生きるあなたにも同じ思いを持ておられます。そして、今日も招いておられるのです。「わたしに来なさい憩わせてあげよう」と。神はこの上もなく、あなたを愛してくださり、あなたがこの地上で幸せに生きることを喜びとして、期待し、交わることを楽しみにしておられます。

神の代理者としての人:

神は、世界を人の幸せのために用意され、さらに彼らにすべての被造物を管理させました。すべての被造物の長として支配させました。すなわち、人に仕事と使命を与えたのです。それはまた、人を神の代理として地上を治めさせるということです。堕落前の人は、神からの知恵を用いて、地上のすべての物を正しく管理できました。ですから、人には素晴らしい労働と豊かな生活があったのです。現代も、人間は地上のあらゆる動植物を管理するものとしての使命を持っています。しかし、堕落以来、正しく管理することができずにいます。乱獲により絶滅寸前の動植物もあります。また、化石燃料の使い過ぎにより、地球温暖化が起こり、南極の氷は溶けだして海の水位が上昇して、水没しようとしている島国もあります。人が神中心の生き方から、人間中心の生き方を選んだ結果、正しく治めることができなくなったのです。それが現代に及んでいることです。神の代理人であったのに、自分が主人となった人間の姿です。それ以来人と神とは敵対関係にあるといえます。「放蕩息子のたとえ」話があります。父を離れて放蕩の限りを尽くした息子がある日、正気になって、父に帰ります。父はまだ遠くにいた彼を見つけて走りより彼を抱き口づけしました。放蕩息子の父親のように神の人に対する御思いは今も変わりはありません。そして、あなたに対する御思いも変わりません。あなたを愛して、あなたが神と和解して、親しい関係に入るのを喜んでおられます。そして、神はあなたに使命と労働を与えておられます。また、神はあなたをキリストの代理として、もう一度遣わしておられるのです。あなたは小さなキリストであることを忘れないでください。小さなキリストとしてあなたの隣人に仕えていくことです。また、隣人が神との和解を受けて幸せになるためにみことばを伝えるのです。

神は人を愛と信頼と喜びの交わりに招かれている:

神は人に命じて仰せられたとあります。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。ここで、神は初めて禁止令を出されました。人には特別な使命が与えられました。それは、世界を神に代わって統治することでした。しかし、自然界を神に代わって統治すると言っても、人には神のご意思の通りを行うだけしかありません。つまりロボットのようでした。どうして、善悪の知識の木からだけは取ってはだめだ、と言う禁止命令を出したのでしょうか。神は人に、範囲を与え、これ以上踏み込んではいけないという境界、ボーダーを定めたのです。それが善悪を知る知識の木です。そのことにより、人はロボットや奴隷のようにではなく、自らの自由意思で強制されることもなく神に信頼を寄せることができるのです。これが、神と人、人格を持った者同士の愛と信頼と喜びの交わりなのです。神は人間との関係で、秩序をお与えになったともいえます。神が上で人が下です。人が神の上に立とうとするとき、ボーダーを超えるということが起きるのです。原罪は、神が定めたボーダーを超えることから生じた罪です。人は神の下にあって幸せに生きることができるのです。人間は地のチリで形づくられました。その通り、どこから見てもこの肉体は脆弱で簡単に命を落とします。そんな人間が、神のいのちの息を吹き込まれて霊的ないのちに生きるものとなったのです。しかし、人間が罪を犯し、神の上に自分を置いて高慢になってしまったのです。アダムの罪以来、人間は、造り主である神を無視し、神に背を向けて生きてきました。それが現状です。でも、あなたはこの壊れた神との関係に和解を得たのです。それは、イエス・キリストがあなたと神の間の仲介者となり、キリストが提供する神との和解をあなたが受け入れたからです。あなたはこれまでキリストに背を向けて、和解を受けなかったのです。しかし、キリストが一方的にあなたの罪を十字架で引き受けて身代わりとなって死んでくださった事を知りました。それを信じて受け止めたので、あなたのすべての罪が赦されたのです。このように、あなたは、神との愛と、信頼と喜びの交わりに今日招かれています。今日、イエス・キリストをあなたの救い主と信じましょう。