いのちを与える光・主イエス

2016年11  月27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書1章1~18節
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

<要約>

この世に来た光

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」この方のいのちは神のいのちで永遠の命です。ことばである神が光としてご自身を表し、人にいのちをお与えになったということです。キリストは人々の救いの光としてこの世界に来てくださいました。その光は、死の暗やみの地に住む私たちの上に燦然と輝いています。暗やみは追い出されて、消え去りました。暗やみは光に勝てません。光は私たちの心を照らし、罪がわかります。光は暗やみを照らし真理を明らかにします。私たちの目の前にできる自分の影の深さが深いほどに、私たちの後ろにある太陽の光は強いのです。やみの深さ、それはあなたの罪と悩みの深さと言えます。光はキリストの救い、福音と言えます。すなわち、あなたの罪と悩みが深ければ深いほど、キリストの恵みとなぐさめは大きいのです。キリストは罪人の友と言われている通りです。神から遣わされたヨハネはバプテスマのヨハネのことです。彼は光ではなく、光について証するものとしてきました。彼はキリストについて証言しました。キリストについて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言って人々に紹介しました。また、彼は、人々に罪を指摘して、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を施していました。それは、人々が罪を悔いて救い主イエスを受け入れるための準備でした。律法の代表である十戒によってあなたは罪を示され、救い主イエス様を信じ仰いで救われるのです。小教理が、最初に十戒から入るのもそのためです。十戒によりあなたは罪を示されて、次に使徒信条では、三位一体の神によりイエス様の十字架の贖いで罪赦され救われます。次に主の祈りを学び、主の祈りで信仰生活を建て挙げていくのです。

神を拒絶する人間

被造物である人間は、どうして、創造主なる神を認めることができないのでしょうか。それは、罪の結果であり、またそれが罪の状態でもあります。霊的には死んでいるということです。つまり神のいのちとつながるべきパイプが失われて霊的いのちがない状態です。霊的暗やみにいると言えます。人間が神に造られた時に持っていた神のいのちが失われて、心に空洞が生じています。その空洞を埋めようと永遠なるものを求めるのです。ですから、自分はどこから来てどこへ行くか、の問いを持っています。人間には心に永遠の思いがあるので、過去を悔いたり未来を案じたりするのです。動物は今があるのみです。ですから将来に向けて考えたり工夫したりすることはありませんので、動物には文明も文化もないのです。それに対して、人間は未来に向けて今を考えています。だから発展があるのです。同様に人間は自分たちの起源を考えます。聖書ははっきりと、万物は創造主なる神によってできたと書いています。しかし、本質的に人間は、自分の上に神を認めたくないのです。そして、神がいないというところから出発すると進化論に行きつきます。創り主がないとすれば自然にできたというしかありません。つまり、偶然にできたというのです。すべては偶然にできた、そして、環境に適した者たちが生き残っていくというのです。唯物主義者は、人間の思考も感情も、理性も、永遠を思う心も全部大脳生理学で説明しようとします。かれらは神を信じないので、死んだら何もかも無に帰すと考えます。しかし、聖書は、人間は死んだら無に帰すのではなく、誰でも神の前に立たされて審判の時を迎えると述べています。しかし、そのように神を無視し、知らないと言っていた人々、そしてあなたに、イエス様は今日も「わたしはあなたを愛している、わたしに来なさい」と招いてくださっています。

キリストが与える恵みとまこと

「しかし、この方を受け入れた人々には、すなわち、その名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。」神の子どもとされる特権とは何でしょうか。神の子どもとされる特権とは何でしょうか。それは、第一に、罪の赦しです。第二に、神の子の身分を与えられるというのです。第三に、神のいのちをいただき永遠に生きるのです。第四に、この世にあっては、信じる者とともにキリストが住んでくださるということです。自分に力ではどうすることもできないことに神が介入します。キリストの光が生活の中に差し込むのです。その資格は、「血によってではなく」すなわち血統や血筋によらないということです。天涯孤独な人でも、犯罪者の家系でも、貧しく無学な人でも、神の愛はどんなに小さな人でも救ってくださるのです。「肉の欲求や人の意欲によってでもなく」とはどのようなこの世の意志や願望や勢力によることがないのです。ただ、神によって、というのは、神が思い計画し、神が実行してくださったことです。この光でありいのちであるイエス・キリストを信じて受け入れる者に新しい誕生を与え、子どもとしてくださるのです。それは、ただ、キリストが与える恵みとまことによるのです。

 

 

神のしもべ王ダビデ

2016年11  月20日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>第二サムエル記7章5~18節
7:5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。【主】はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。
7:6 わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。
7:7 わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。
7:8 今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の【主】はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。
7:9 そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。
7:10 わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。
7:11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』
7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
7:14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
7:15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
7:17 ナタンはこれらすべてのことばと、これらすべての幻とを、そのままダビデに告げた。
7:18 ダビデ王は行って【主】の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

<要約>

神のしもべとして神に近づく

神の箱はアビナダブという人の家に置かれていました。それを、新しい牛車に乗せて運びました。アミダナブの二人の子どもウザとアヨフが車を御していました。これは疑いもなく、悪気はありませんでした。しかし、神の箱の聖さにふさわしい扱いがなされたとは言えませんでした。神の箱は、輪と棒を伴った作りで、棒でレビ人が担いで運ぶように意図されていたからです。案の定、途中で、牛に引かせていた車輪が悪路にはまり大きく揺れてひっくり返りそうになったのです。そして、ウザは神の箱に手を伸ばしてそれを押さえました。そのとたん神の怒りがウザのいのちを取られたのです。突然の悲劇に、ダビデは神を恐れたとあります。ダビデは、エルサレムへの移送をあきらめました。そして今度は、神が定めた正しい方法でダビデの町に移送するのでした。このように、神から命じられた正しい方法で神に近づかなければなりません。聖書は私たち罪人が、神に近づくための道を示しているのです。神に近づく方法は聖書に示されています。それを無視して、神に近づくことはできません。善行あるいは功徳を積めば天国へ行けると教える宗教もあります。しかし、神ご自身が示す道しか神へ近づく道はないのです。それが、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と言われたイエス・キリストです。ダビデは、神の箱を納める神殿を建てたいことをナタンに伝えました。その夜、ナタンに主のことばがありました。神殿建築に関して、そこに神の主権があります。神の選んだ人物に委ねられるのです。その子ソロモンが神殿を建築するのです。このことを通して、ダビデは、神の主権、神の決めたことに素直に従うことを学んだのです。私たちも、心に計画を立てます。しかし、神は、その思いをきよめてさらにその計画を確かなものにしてくださるのです。私たちも心のいろいろな願いや思い、計画を持ちます。そこで、まず、あなたは神との関係を正さなければなりません。ダビデが、「神のしもべである」ことを確認させられたようにです。私たちは神の前にへりくだるのです。ダビデは、非常に心柔らかく、素直でした。素直ということは謙遜であるということです。自分の思いより神の思いを優先する謙虚さです。神のしもべに徹していこうとする姿です。

神のしもべへの約束

神は再び、「わたしのしもべダビデ」と言い、神との関係をもう一度確認します。人間が神との関係を修正すると主の祝福と恵みが流れていきます。水が高いところから低いところへ流れていくように、神の祝福はへりくだる者へ流れるのです。これは霊的法則です。しもべは主人の下にあって、主人の恩恵にあずかります。それに対して高慢な人には、神が恵みと祝福を届けたくても、届かないということが起こります。それゆえ、人間は最初に低くされる必要があります。その時、神の驚くべき恩寵がその人に流れていくのです。ダビデは、王でありましたが、神のしもべとして徹して生きました。神はダビデを羊飼いの牧場から取り上げて、さらにダビデとともにいてくださいました。そして、あらゆる敵を立ち滅ぼして、彼に地上の大いなるものの名に等しい名を与えました。イスラエルの王としました。ダビデの成功は、彼の全人生と共に歩んでおられた主によるのです。ダビデ王朝が誕生して、周辺諸国は平定されて、イスラエルの国に安息が与えられました。ダビデの後に起こされる世継ぎの子、それは直接的にはソロモンを指しますが、さらに下って、ダビデの子と言われる救い主イエス・キリストを指しています。それらの約束はこの後、すべて成就しました。聖書にある神の約束は、遠い昔の話ではありません。神の約束は変わりません。そして、必ず成就します。ダビデの時代から三千年が経ちましたが、ダビデへの約束は信じるものへの約束です。神との関係を取り戻すように、神は今日もあなたに進めています。一番最初の人アダムは、創造の秩序の中で、正しい神との関係の中にありました。しかし、罪により正しい関係は失われました。それ以来、人は失われて罪の奴隷となっています。その秩序を取り戻すべく、神は今日もあなたを招いています。

神のしもべへの無限の恩寵

神はダビデを特別に祝福し全イスラエルの王とし、さらに、その子孫に全人類の救い主イエス・キリストを誕生させます。これはダビデに対する神の無限の恩寵です。主を「大いなる方」と賛美し褒めたたえています。そして、主の恩寵に感謝して、その約束に驚き、大胆に神に願い出ています。読者は誰でも、ダビデは特別であると感じます。しかし、このダビデの祈りは私たちクリスチャンの祈りであることに気付きます。ダビデは、時代は違っていても主の前で私たちと同じ罪人であり、救われなければならない人間でした。ダビデの神への信仰告白は、私たち信者の信仰告白です。神のダビデへの恵みは神の私たち信者への恵みです。神のダビデへの約束は、神の私たち信者への約束です。ですから、ここにあるダビデの祈りは私たち信者の祈りです。先に、私たち人間には「神ご自身が示す道しか神へ近づく道はない」と言いました。それはイエス・キリストの十字架だと言いました。なぜ、そう言えるのでしょうか。神は聖なる方です。聖い方です。ですから、一点の汚れも受け付けないのです。コップにきれいな水を入れます。そのまま飲めます。しかし、そこに一匹のハエが入ったら、いくらそのハエを取り除いてももう飲めません。流しに流すだけです。それと同じで、聖い正しい神は私たち人間のどんなに小さな心の罪でも受け入れることはできません。罪人は裁かれてゲヘナに捨てられるのです。しかし、神が示される道は、イエス・キリストの十字架です。あなたの代わりにイエス・キリストは十字架で裁きを受けて罪を取り除いてくださいました。それゆえに、あなたは信仰によって救われるのです。そればかりでなく、神の無限の恩寵をいただく者となるのです。

 

絶えず主を認めて生きる

2016年11  月13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>第一サムエル記26章8~21節
26:8 アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」
26:9 しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。【主】に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」
26:10 ダビデは言った。「【主】は生きておられる。【主】は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。
26:11 私が、【主】に油そそがれた方に手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」
26:12 こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。【主】が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。
26:13 ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、かなりの隔たりがあった。
26:14 そしてダビデは、兵士たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル。返事をしろ。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」
26:15 ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を見張っていなかったのだ。兵士のひとりが、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのに。
26:16 おまえのやったことは良くない。【主】に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、【主】に油そそがれた方を見張っていなかったからだ。今、王の枕もとにあった王の槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」
26:17 サウルは、それがダビデの声だとわかって言った。「わが子ダビデよ。これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「私の声です。王さま。」
26:18 そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべのあとを追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。
26:19 王さま。どうか今、このしもべの言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが【主】であれば、主はあなたのささげ物を受け入れられるでしょう。しかし、それが人によるのであれば、【主】の前で彼らがのろわれますように。彼らはきょう、私を追い払って、【主】のゆずりの地にあずからせず、行ってほかの神々に仕えよ、と言っているからです。
26:20 どうか今、私が【主】の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。イスラエルの王が、山で、しゃこを追うように、一匹の蚤をねらって出て来られたからです。」
26:21 サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」

<要約>

正しく裁かれる主に委ねる

ダビデは、アビシャイに言いました。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下してはならない。主に油そそがれた方に手を出して、誰が無罪でおられよう」と。そして、サウルの所にあった槍と水差しを持ち去ったのです。決して、主に油そそがれた、すなわち主が認証しお立てになった王に手を出すことはしなかったのです。ダビデはあくまでも、主に油そそがれたものを殺めることは、背後におられる主に対する謀反であると考えました。復讐は主がするもの、正しく裁かれる主に委ねたのです。また、ダビデは、「主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされる」と預言しました。そして、ダビデはサウルに対して謀反を起こす気持ちがないことを平和的に表したのです。サウルの命を救ったのです。ダビデから、私たちは「赦す」ということはどういうことかを学ぶことができます。ダビデはサウルと自分との二者関係にとどめず、その中に主をお迎えして、三者の関係で物事を見ていました。ダビデは、対人関係の中に主をお迎えして考えています。私たちも、対人関係で失望したり、イライラしたり、困ったりいます。しかし、そこに主をお招きして、主がその関係に介入してくださっていることを求めたいと思います。人を赦す、という課題は大変困難なことです。しかし、「あなたの隣人を自分を愛するように愛しなさい」というみことばが迫ってきます。感情ではなく意志をもってみことばに従うのです。主が私たち信じる者の感情も整えてくださいます。人間関係の問題もそこに最善をなしてくださる主に委ねるのです。そのような信仰が求められるのです。

信仰による行動を祝福される神

ダビデの声を聴いて、サウルは「わが子ダビデ」と愛情をこめた呼びかけをします。そして、自分は罪を犯した。もう、ダビデに害を加えない、と言って「帰って来なさい」と勧めます。しかし、ダビデは出ていきませんでした。それは、基本的にサウルは変わっていないことを知っていたからです。サウルを信用していませんでした。そして、このままではサウルの手によって殺されるだろうと考えて、部下や家族とともに、再び敵であるペリシテ人の地に逃れるのです。サウルは悔いていました。しかし、意志を働かせて罪から離れて主を見上げることはなかったのです。これは後悔であって、悔い改めではありません。イエス様を裏切ったユダと同じです。神に心を向けて悔い改めることなく自殺してしまいました。これは「悔い改めない罪」です。罪は分かる、しかし、神に向かわない人です。それに対して、ダビデは王様になってから大きな罪を犯しました。それは姦淫罪です。預言者ナタンに示されて、深く悲しみ悔い改めて、神に祈りました。彼は豊かに赦されたのです。イエス様の弟子のペテロもそうです。イエス様を知らないと言って裏切りましたが、悔い改めてイエス様を信じて従いました。ここに、ただ悔いただけの人と、悔いて思いを変えて主を見上げる人との違いがあります。前者は、罪赦されることなく神の怒りがその上にとどまり永遠の滅びに至るのです。後者は、キリストの贖いによる罪の赦しを受けて永遠の命に至るのです。失敗や挫折は人生の中で必ず経験するものです。しかし、過去を悔いるばかりであってはいけません。神に向かい仰ぎ見なければなりません。イエス様はそのあなたの失敗や罪のために十字架で代わりに死んでくださったのです。もしあなたが、信仰によって悔い改めるなら主は豊かに赦してくださいます。神は信仰をご覧になります。ダビデは言います。サウルが、神への信仰によって行動しているのなら神はアベルのささげもののようにサウルの働きを祝福するでしょう。しかし、高慢や不遜な思いから出ているのであればそれは呪いとなりましょう。信仰によって行うことは、一見うまくいってないようでも心配ありません。神はすべてのことを働かせて益としてくださるからです。神の約束です。

どこにおいても主を認める人生

かくして、ダビデはサウルのこの襲撃から戦うことなく救われたのです。ダビデはその正しい信仰によっていのちが守られました。サウルの三千人の軍隊と戦わずに済んだのはダビデの大胆な決断と実行によったと考えます。しかし、ダビデはそのように考えていません。彼は、「主が私のいのちを大切にし、救ってくださった」と言っています。それは、彼が行くところどこにおいても主を認めていたからです。ここに、勝利のクリスチャンライフの秘訣があります。日常のすべてのことに主を認めて生きることが大切です。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされます。トラブルや戦いの中にも主はおられます。ダビデもサウルとの争いの中にも主を認めていました。教会にいるときばかりでなく、職場にあるときも、学校にいるときも、台所にいるときもそこに主がおられます。このイエス・キリストが、他の誰かのためだけでなく、あなたの罪のために十字架で死んで、他の誰かのためだけでなく、あなたのいのちのために死者の中から復活したのです。それが聖書の中心メッセージです。信じる者を治めておられるだけでなく、共にいて働いておられるイエス様を心の目ではっきりと見て歩んでいきましょう。

とこしえの恵みの約束

2016年11  月6日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>第一サムエル記20章4~17節
20:4 するとヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにしましょう。」
20:5 ダビデはヨナタンに言った。「あすはちょうど新月祭で、私は王といっしょに食事の席に着かなければなりません。私を行かせて、あさっての夕方まで、野に隠れさせてください。
20:6 もし、父上が私のことをとがめられたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえをささげることになっているからです』と。
20:7 もし、父上が『よし』とおっしゃれば、このしもべは安全です。もし、激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。
20:8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。あなたは【主】に誓って、このしもべと契約を結んでおられるからです。もし、私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして私を父上のところにまで連れ出す必要がありましょう。」
20:9 ヨナタンは言った。「絶対にそんなことはありません。父があなたに害を加える決心をしていることが確かにわかったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」
20:10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が、きびしい返事をなさったら、だれが私に知らせてくれましょう。」
20:11 ヨナタンはダビデに言った。「さあ、野原に出ましょう。」こうしてふたりは野原に出た。
20:12 ヨナタンはイスラエルの神、【主】に誓ってダビデに言った。「あすかあさってかの今ごろ、私は父の気持ちを探ってみます。ダビデに対して寛大であれば、必ず人をやって、あなたの耳に入れましょう。
20:13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がしてあげなかったなら、【主】がこのヨナタンを幾重にも罰せられるように。【主】が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。
20:14 もし、私が生きながらえておれば、【主】の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、
20:15 あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。【主】がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」
20:16 こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「【主】がダビデの敵に血の責めを問われるように。」
20:17 ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。
<要約>

ヨナタンの忠誠

ヨナタンはダビデに忠誠を尽くす契約を結びました。ヨナタンは、また、父サウルにも忠誠を尽くしていました。子どもとして父に従うヨナタンです。最後は父とともに、ペリシテ人との戦いで戦死しました。彼は父サウルとダビデの間に立って葛藤があったと思います。ヨナタンは本来ならばサウルの王権を継承していく立場であったのです。また、彼には信仰があり、優れた戦士であり、人々からの信望を集める人物でした。ですから、自分が王位を継承することも考えたかもしれません。しかし、彼はダビデを愛し、ダビデこそがイスラエルの王にふさわしいと考えたのです。ヨナタンは自分の栄誉を求めず、主の御心を最優先する人物でした。ヨナタンの姿勢を見ると、バプテスマのヨハネを思い出します。バプテスマのヨハネも当時、民衆はこの方こそキリストではあるまいか、と思うほどに人望のある人でした。しかし、彼は、自分の後に来る方こそ世の罪を取り除く神の小羊であり救い主であると言いました。ヨナタンはそのような人物でした。クリスチャンの生き方のモデルともいえます。自分の事より神の御心を優先しているのです。繰り返し、言っておりますが、クリスチャンは神中心の生き方です。自分が何をしたいかを問うのではなく、神は自分に何をさせたいのかを問い続ける生き方です。ヨナタンは、本当にダビデを愛し尊敬していました。自分に対する侮辱より、ダビデへの侮辱に心を痛めていたからです。ヨナタンがダビデに願います。もし、「ヨナタンが生きながらえておれば、主の恵みをわたしに施してください。また、ヨナタンが死ぬようなことがあれば、ヨナタンの家と子孫を絶たないでほしい」と願ったのです。こうして「ダビデの家と契約を結んだ」とあります。ヨナタンはダビデに忠誠を誓い、その応答を願うのです。

イエス様とクリスチャンとの関係:

ヨナタンはダビデに忠誠を尽くし、ダビデはヨナタンにダビデの恵みをとこしえに施すと約束しました。ダビデとヨナタンの関係から、イエス様とクリスチャンの関係を学ぶことができます。クリスチャンはイエス様に忠誠を誓います。イエス様はクリスチャンにとこしえの恵みを約束します。それは罪の赦しと永遠のいのちです。ヨナタンは、自分を愛するようにダビデを愛しました。ダビデもヨナタンを愛して、ヨナタンの子どもを王の食卓で養いました。クリスチャンも他の誰よりもイエス様を愛するのです。イエス様はご自分のいのちの代価を払って贖い取ってくださいました。ですから、イエス様はクリスチャンを命を懸けて愛しておられます。同様に、神の祝福は、クリスチャンの家族、子孫にとどまり続けると約束されています。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と主は仰せられる。神の救いのことば、福音のことばは信じる者の子孫にとどまり続けるという約束です。

神のあなたへの約束

契約という言葉は法律用語で、約束の意味です。今日の聖書の個所から、神のわたしたちへの約束を見てみましょう。ヨナタンとダビデとの会話の中に神の約束を見てみたいと思います。「主があなたとともにいてくださいますように」です。これは信じる者に与えられる神の約束です。また、信じて洗礼を受けたとき、イエス様はあなたのうちに住んでくださいます。それをルターは、内住のキリストと言いました。すなわち、あなたといつも一緒にいてくださるということです。あなたが心に祈るとき、応えてくださるのです。私は、朝のデボーションの時以外でも、働きながらでも、運転しながらでも、歩きながらでもイエス様にお祈りしています。皆さんも、イエス様とともにいる幸いを毎日体験していただきたいと思います。神の私たちへの約束のもう一つは、「とこしえの恵み」です。キリスト教で言う「恵み」は「受けるに値しない者への神の愛、祝福です」受ける側には何の条件もいらないのです。性格が良いから、善行に励んでいるから、お金があるから、人格者だから、社会への功績があるから、若いから、美しいから、など全く関係ありません。逆に、どんな悪いことをした人でも、前科十犯の犯罪者でも、殺人を犯した人も、自分のものとすることができる素晴らしい神からのプレゼントです。神からの素晴らしいプレゼント、それはイエス様です。なぜなら、イエス・キリストはあなたが受けるべき罪の罰をあなたの代わりに受けて、十字架で死んでくださいました。それは、神があなたに与える恵みなのです。神は無条件であなたの罪を赦し永遠の命を与えると約束しています。約束はそれを信じて受け取る人のものとなります。イエス・キリストをあなたの救い主と信じる者に与えられるのです。ぜひ、悔い改めて、キリストをいただきましょう。罪の赦しと永遠のいのちです。ヨナタンは、自分の栄誉より神のみこころを求めました。すなわち自分中心の生き方から、神中心の生き方を選択したのです。クリスチャンライフは、その通りです。自分が何をしたいかを問うのではなく、神は自分に何をさせたいのかを問い続ける生き方です。私たち人間はもともと神のために造られたのです。神は皆さん一人ひとりにご計画を持っておられます。ですから、神が与える使命に生きる時にこそ最も幸いな人生を送ることができるのです。