絶望的な試練はあるか?

2016年10 月30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>第一サムエル記17:8~11、24~27、46~50
17:8 ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。
17:9 おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」
17:10 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」
17:11 サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。

17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。
17:25 イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」
17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」
17:27 民は、先のことばのように、彼を殺した者には、このようにされる、と答えた。

17:46 きょう、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは【主】の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

<要約>

立ちはだかる試練

ペリシテ人の陣営から一人の代表戦士がでて、代表選で決着をつけようと提案がありました。その代表戦士がゴリヤテです。身長が3メートルもある巨人で、青銅の兜をかぶり、50キロもあるうろことじの鎧で身を覆っていました。サウルとイスラエルのすべては、意気消沈して非常に恐れたのです。私たちの人生にも、時として、超えることのできないおおきな壁が目の前に現れることがあります。そして、意気消沈して恐れるのです。ゴリヤテのことばとおり、代表選で負けたら自分たちはペリシテ人の奴隷にならなければならないと思い込んでいました。イスラエルは完全に、外面的な状況とゴリヤテの発する情報に支配されていたのです。私たちも、にっちもさっちもいかないという状況に直面することがあると思います。情報によって、振りまわされます。状況に対して絶望的になることがあります。次男で大学生の息子さんを二年八カ月前になくされたクリスチャンの友人のことを思い浮かべました。今も、大切な方を失った悲しみは癒えていないと思います。それは大きな試練です。試練はどこから来るのでしょうか。一つは悪魔から来ている試練です。悪魔は試みるものです。原因不明の病気や事故、災害などです。なぜ、神がそのような惨事を許されるのかわかりません。しかし、父なる神もご自身のひとり子を死に至らせました。その苦しみと悲しみを経験なさっているのです。御子キリストの十字架の死は私たち人間の罪の身代わりでした。また、悪魔からの試練は誘惑となるうまい話などもそうです。それには、みことばと信仰によって対処することです。神は愛の神です。神をどこまでも信頼して感謝していくのです。次に、自分の罪から来ている試練です。これは原因と結果の法則です。罪から離れなければなりません。悔い改めて原因を取り除かなければなりません。三番目は、この世の流れです。この世の本質は不遜です。神を認めていません。学校でも神が世界をつくられたとは絶対教えません。自然にできたと教えます。神がご自身に似せて人をつくられたとは教えません。自然淘汰して生き残ったのが人類であると教えます。よく考えると恐ろしいことです。人間も進化して優秀で強い者たちが生き残り最後は世の中を治めるという思想です。この教育からは、弱い人を大切にしましょう、障がいを持つ人や介護を必要とする人を大切にしましょうという考えは出てきません。表面上そのように言いますが、ベースとなる教育とは矛盾しているからです。神がいないというのが、当たり前のように教えられています。子どもたちも世の流れに流されます。教会に行っている子どもも高学年になると、友達から、「まだ、教会に行っているの」などと言われて、仲間外れにされる子もいます。これに対処するのには、みことばと祈りです。小さいときから聖書のみことばを教え、体験させていくのです。

信仰によって試練に勝つ

ゴリヤテがペリシテ人の陣地から上って来ていつもと同じ文句を繰り返していました。それを聞いて、ダビデは「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは」と言ったのです。サウルとイスラエルはゴリヤテの挑戦を自分たちへの挑戦としましたが、ダビデは、ゴリヤテの挑戦をイスラエルの神への挑戦であると捉えました。クリスチャンは、試練は神の御赦しのもとで起こっていることと、脱出の道が備えられていることを心に刻むべきです。そして、私たちが人生で出くわすすべてのことは主のみ手のうちにあることを覚えるのです。そして、主により頼むことです。また、敵を知ることです。ダビデは、ゴリヤテをよく観察しました。ダビデにとっては、日常の羊飼いの生活が訓練の場となっていたのです。それは、獅子や熊を相手に戦っていたからです。そして、彼は卓越した石投げの技術を身に着けていました。そして、みごとに石投げと一つの石でこのペリシテ人に勝ちました。私たちも敵を知らなければなりません。それは、背後で暗躍するサタンと呼ばれる悪魔、そして、私たちの罪の性質、そして、この世の流れです。それらは、信仰によって勝利できるのです。ダビデは、ここで与えられた才能や力を主のために用いることができたのは、日常が訓練になっていたからです。私たちも日常の祈りとみことばの時を持っている事が試練の時に力となるのです。

試練を共に戦ってくださる主

どんな試練にも必ず勝つことができるのです。なぜそのようなことが言えるのでしょうか。それは、イエス様があなたと共に戦ってくださるからです。人生には戦いがある、しかし、主イエスは世に勝っています。また、神は、「あなたはわたしのもの」と言われて、どんなわざわいもあなたに及ばない、と言われます。また、クリスチャンライフは結果オーライの人生です。以前ゴルフをかじったことがあります。コースに出て、ボールを打って進んでいくのですが、私は下手なので、時々ボールが上に上がらないで、ゴロになって地面を転がっていくことがあります。ミスショットです。しかし、結果的には良いところでボールが止まるのです。そして、周りの人に「森田さん、結果オーライ、結果オーライ」と言われました。クリスチャンライフは結果オーライです。クリスチャンはこの世では敗北の連続に見えても必ず勝つのです。もし、あなたが信仰を持って試練に向き合うなら一見、負けたと見えても実は勝利につながるのです。クリスチャンライフはそういう人生です。実は、結果オーライではありませんが、イエス様の十字架は一見敗北に見えます。しかし、それが勝利だったのです。悪魔は、イエス・キリストを抹殺しようと計画しました。主イエスがお生まれになったベツレヘムでは、救い主を抹殺するためにヘロデ王を用いました。2歳以下のベツレヘムに生まれた幼児を全員殺害しました。主はエジプトに難を逃れて助かりました。その後も悪魔は救い主のいのちをつけねらいました。最後は、十字架です。悪魔は、主イエスの弟子のユダを用いて主イエスを捕えて、ローマ帝国に渡し、十字架刑につかせたのです。救い主を世から消し去るということでは悪魔は勝ったように見えます。これだけで終わったら確かに失敗だったでしょう。しかし、神は逆転勝利に導いたのです。最後に主イエスは「完了した」と言って息を引き取られました。このことにより、すべての人の罪を取り除くための贖いのわざが成就しました。人類史上、ただ一度だけ、罪のない御子キリストが全人類の罪を背負って代わりに十字架で死んで罪の代価を払ってくださったのです。つまり罪を贖ってくださったのです。そして、三日目に復活してくださいました。そのことにより、悪魔と、罪と死から、そして、神の怒りからどんな人でも信じる者は救われるのです。悪魔は勝ったかに見えましたが、神は悪魔に逆転勝利なさったのです。あなたがどんな試練にあっても必ず勝つのはここに根拠があるからです。イエス様が、あなたを救うために神の子として最大の試練に勝利してくださったので、あなたの試練もご存知だということです。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」と詩編に記者がうたったように、試練の向こうには必ず喜びの叫びがあるのです。

謙遜と信仰をご覧になる神

2016年10 月23日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>第一サムエル記16章1~13節
16:1 【主】はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
16:2 サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」【主】は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『【主】にいけにえをささげに行く』と言え。
16:3 いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」
16:4 サムエルは【主】が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」
16:5 サムエルは答えた。「平和なことです。【主】にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。
16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、【主】の前で油をそそがれる者だ」と思った。
16:7 しかし【主】はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」
16:8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは、「この者もまた、【主】は選んでおられない」と言った。
16:9 エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、【主】は選んではおられない」と言った。
16:10 こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「【主】はこの者たちを選んではおられない。」
16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」
16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。【主】は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」
16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。【主】の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。

<要約>

外面を取り繕う人間

サウルは神から聖絶するように命ぜられたアマレクの動物や家畜の最上のものを残しておきました。小教理に「私たちは何にも増して、神を恐れ、愛し、信頼しなければならない」とあります。神を本当に恐れているならば、罪から離れます。愛しているなら、神に従います。信頼しているなら、つぶやかないでいつも感謝します。サウル王は、神を本当に恐れていたでしょうか。否、彼は祭司以外してはならない全焼のいけにえと和解のいけにえをサムエルに代わってささげました。そして、サウルは高慢になり、神の権威を侵害したのです。また、彼は神を愛していたでしょうか。否、神よりも自分を愛していたので、神に自分を明け渡し、神の命令に耳を傾けることがなかったのです。彼は神のことよりも自分の欲望を満たすために自分の記念碑を立てました。そして、神に背いて聖絶のものを自分のものとしたのです。また、何にも増して、神に信頼していたでしょうか。神のことばより霊媒に頼りました。サウルの生き様は、神から離れた人生が糸の切れた凧のように混乱したものになることを表しています。

たましいの値打ちをはかられる神

神は、心を大切にされる、人の内面を見ておられるということです。神は信仰を大切にされています。へブル書に、信仰がなければ神に喜ばれません、とあります。不信仰を一番嫌われるのです。信仰は心のことです。心の中は外側からは見えません。ですから、私たち人間にはその人が信仰を持っているかどうかわかりません。しかし、神には見えます。神の前には何事も隠し通せません。神は信仰を喜ばれますが、人の心にある罪を憎まれます。へブル書には以下のようにあります。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」私たちは裸で外を歩くことができないのと同様に、心の中が外からすっかり透けて見えるようなことがあれば、恥ずかしくて人前に出ることはできないのです。私たちは、神の前ではすべてがさらけ出されていることを知り、神に降参しなければなりません。どう抵抗しても無駄です。もし、神に罪を示されたなら、「神様、その通りです。言い訳いたしません。イエス様によって、私の罪をおゆるし下さい」とへりくだるのです。自分の罪を認めて、自分はそういう人間であることを認めて救ってくださる神を仰ぐのです。ダビデの人生にも失敗と罪がありました。しかし、神を恐れていました。いつも、心から神に祈り、訴えていました。最善をなしてくださる神を信頼していました。神は、ダビデの謙遜さと信仰をご覧になり喜ばれたのです。サムエルは、主に示されて、ベツレヘム人エッサイのところへ行きます。サムエルはまず、長男のエリアブを見ました。エリアブは容姿が良く、背が高かったので、サムエルは彼こそが、主によって油そそがれるものだと思いました。しかし、主は長男のエリアブを選んでおられませんでした。次に、次男のエリアブも進み出たのですが、その人も違いました。そうしてエッサイの息子たち七人全部がサムエルの前に進み出たのですが、だれも神の選ばれた者はいなかったのです。神が選ばれたものは、父親のエッサイも思いになかった末の子ダビデでした。彼は数に数えられていなかったのです。父親にはダビデはとるに足りない者と思われていたのでしょう。ここに神の選びの原則が見えてきます。この世の取るに足りない者、さらに、人生で挫折し、心打ち砕かれ、謙遜になったものを選ばれます。アブラハム、モーセ、ギデオン、イエス様の弟子たち、ペテロ、パウロなど、そして、ダビデもそうでした。高慢な人間は用いようがありません。砕かれないと主のお役に立つことはできないからです。私たちはダビデのように神の前で素直になり、へりくだりたいと思います。

恵みの王国の王キリスト

イエス様ご自身は、取るに足りない者として最もへりくだって低くなられて地上に来られました。神の子がどうしてそこまで低くならなければならなかったのでしょうか。そして、極悪人が受ける十字架刑で殺されなければならなかったのでしょうか。それは、罪に沈むどんな人でも救うことができるためです。罪のない神が十字架であなたが受けるべき罪の罰を完全に受けました。死んで墓に葬られましたが、復活して天に昇り父なる神の右の座に就かれました。今は、御国の王として君臨されています。ペンテコステの時に、聖霊が弟子たちに下りました。その時、ペテロが立ち上がり説教をしました。その日、それを聞いて三千人の人々が罪を悔い改めました。そして、バプテスマを受けて、賜物として聖霊を受けてクリスチャンになりました。最初の教会がエルサレムにできました。今から二千年前のことです。その時以来、主イエスを王とした恵みの王国は全世界に広がり続けています。その王国は教会であると言えます。神は、「わたしのために、王を見つけた」と言われました。イスラエルの民のためにとは言わずに、「わたしのために」と主は言われました。それは神の大きな任務を果たす王となるものを見つけたということです。神の大きな任務とは、人類救済を果たすために王となるイエス・キリストが、ダビデの子孫に現れることです。恵の王国の王として、イエス・キリストは治めておられます。みことばと聖礼典でご自身の十字架を示し、罪を赦しと永遠に続く祝福を与えておられます。しかし、まだ、囲いに属さない多くの人々がいます。この国は、この世の国の権威が全く及ばない国です。どんな人でも招かれています。なぜなら、主イエスはあなたの罪の代わりに十字架で死なれ、あなたが永遠のいのちを得るために復活されたからです。罪の赦しと永遠の命を信じて受け取っていただきたいと思います。

十字架と復活による勝利

2016年10 月16日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>第一サムエル記13章2~13節、14章10~12節
13:2 サウルはイスラエルから三千人を選んだ。二千人はサウルとともにミクマスとベテルの山地におり、千人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいた。残りの民は、それぞれ自分の天幕に帰した。
13:3 ヨナタンはゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。ペリシテ人はこれを聞いた。サウルは国中に角笛を吹き鳴らし、「ヘブル人よ。聞け」と言わせた。
13:4 イスラエル人はみな、サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った、ということを聞いた。こうして民はギルガルのサウルのもとに集合した。
13:5 ペリシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。
13:6 イスラエルの人々は、民がひどく圧迫されて、自分たちが危険なのを見た。そこで、ほら穴や、奥まった所、岩間、地下室、水ための中に隠れた。
13:7 またあるヘブル人はヨルダン川を渡って、ガドとギルアデの地へ行った。サウルはなおギルガルにとどまり、民はみな、震えながら彼に従っていた。
13:8 サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。
13:9 そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。
13:10 ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。
13:11 サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。
13:12 今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」
13:13 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、【主】が命じた命令を守らなかった。【主】は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。

14:10 もし彼らが、『おれたちのところに上って来い』と言えば、われわれは上って行こう。【主】が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」
14:11 こうして、このふたりはペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」
14:12 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちとに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは、道具持ちに言った。「私について上って来なさい。【主】がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」

<要約>

サウルの戦い方

サウルはギルガルでサムエルを待っていました。しかし、サムエルを7日間待ったのですが、待ちきれなかったのです。サウルはこの戦いを自分の戦いとした過ちがあります。もともと、サムエルは、サウルに自分が来るまで待たなければならないと言いました。そして、なすべきことをサムエルが教える、と言いました。イスラエルでは、戦いは宗教行為で、祭司が主にいけにえをささげ祈ることから始めることでした。ですから、主の戦いでした。サウル王は高慢になって、祭司以外赦されていない、全焼のいけにえをサムエルに代わってささげたのです。サウルのこの行為は、サムエルの霊的権威を侵害するばかりでなく、サムエルを立てた神の権威に逆らう行動でした。サウルがちょうど全焼のいけにえをささげ終わったその時、サムエルがやってきました。サムエルは「あなたは何ということをしたのか」と問い詰めます。サウルは、民が離れようとしていたこと、サムエルが予定通りに来なかった事に非があるような言いかたをしています。しかし、サウルはサムエルが遅れて全焼のいけにえを捧げることができなくても、サウルは自ら主の前に祈りをすることはできたはずです。ですから、サウルの行動はサムエルから「愚かなことをしたものだ」と言われても当然だったのです。サウルに対するサムエルの宣告は、厳しいものでした。それは、「あなたの王国は立たない」といものでした。イスラエルにおいては主が王であり、主自らが戦いなさるのであるから、神に従うことが至上命令でした。その点で、サウルは失格したのです。そこでの戦況は、ペリシテ人は戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民が集まっていたので、戦力も圧倒的にペリシテ人の方が勝っていました。サウルが、主の戦いであるのに、自分の戦いとしたときこれは勝ち目のない戦いでした。サウルに従った民は皆恐怖で震えていたのです。

ヨナタンの戦い方

それに対して、サウルの子ヨナタンの戦いを見てみましょう。それは、ヨナタンと道具持ちの二人の行動でした。「大人数でも小人数でも主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」と言って、信仰によって勇気をいただいたのです。ペリシテ人の先陣の者たちに自分たちの姿を現して、彼らが「おれたちの所に上って来い」と言ったら主がイスラエルに彼らを渡されたという知らせであると信じたのです。状況はその通りとなりました。ヨナタンと道具持ちは峰を手足を使ってよじ登りました。そして、ヨナタンの前に現れたペリシテ人を打ち殺したのです。それが、一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行われたのです。これは、半エーカーほどの広さの所であります。ここで、ヨナタンと道具持ちはペリシテ人を約20人ほど殺したのです。このヨナタンの勇気ある行動によって、今度はペリシテ人の陣営に大きな変化を及ぼしました。地は震え非常な恐れとなったのです。ヨナタンは、この戦いが主の戦いであると信じ宣言したのです。勝ち目のない戦いが勝利に飲み込まれたのです。ペリシテ人の陣営では、非常な恐れが表れて、同士討ちも現れ、大恐慌になったと書いています。なぜ、勝利を得たのでしょうか。それは、主の戦いであることを徹底的に心に刻んで立ち上がった。信仰によって立ち上がったからです。

勝利を得る戦い方

現代に生きる私たちにも、戦いはあります。国を超えて、民族を超えて、時代を超えて、すべての人にある敵、普遍的な敵、があると聖書は教えています。それに対する戦い方と勝利を約束しているのが、聖書です。それは、サウルが直面した戦いと同様に人間には勝ち目のない戦いです。そして、その敵は人間を恐怖と絶望に貶め、支配しています。すべての人間の敵であり、人間には勝ち目のない敵、聖書が教える敵は何でしょうか。それは、「悪魔」と「死」と「罪」です。悪魔は空中の権威を持つ支配者サタン、この世の君です。そして、悪魔は初めから人殺しです。死のとげは罪とあります。罪によって死が入りました。聖書には罪・人と書いてつみびとと読みます。時々、これをざいにんと読む人がいます。ざいにんは犯罪者で特別な人です。つみびとはすべての人を指します。そして、私たちが生まれながらに持っている罪により神を認めず、神を崇めず、感謝もしません。それがこの世です。サタンが支配しています。この敵である、悪魔と死と罪は深く連携して人間を滅びへといざなっています。それは永遠の滅びであり神の容赦のない裁きです。それを直視しようとしないのが現代の人間社会です。悪魔と死と罪に対しては、私たち人間の力では勝ちえないからです。それを主イエスが代わりに戦ってくださったのです。創世記にある「彼は、お前の頭を踏み砕き、お前は、かれのかかとにかみつく」と書いてあります。アダムとエバが罪を犯して堕落したすぐ後に、神は、やがて来られるキリストによって、お前(サタン)の頭を踏み砕くと言って悪魔に対する勝利を宣言しました。キリストの十字架と復活により、信じる者は圧倒的な勝利者となったとあります。悪魔を恐れる必要がなくなりました。死はどうでしょうか。肉体の死は誰でもやがてきます。しかし、キリストにあるものは死んでも生きるとあります。永遠のいのちが与えられています。すべての罪はキリストの十字架の身代わりで赦されて、信じる者は罪赦され滅びることなく永遠のいのちを持つとある通りです。復活のいのちが与えられているからです。イエス様は、あなたの罪のために十字架で死んで、あなたのいのちのために復活してくださったのです。依然、私たち信者も罪を犯す存在です。サタンとの戦いも続きます。しかし、イエス様はこう言いました。「あなた方は、この世にあっては患難があります、しかし、勇敢でありなさい、私はすでに世に勝ったのです」と。主イエスは、あなたが戦いえない戦いを戦って勝利されました。それは、あなたを悪魔と罪と死から救うためです。イエス・キリストの十字架と復活があなたにもたらすものは、罪の赦しと永遠のいのちです。もし、あなたが信じるなら、それはすべてあなたのものとなります。何の功績も努力もいりません。ただ、信じて受け取るだけです。

 

 

ひとりの王イエス・キリスト

2016年10 月09日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>第一サムエル記8章1~9節、19~22節
8:1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。
8:2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバで、さばきつかさであった。
8:3 この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。
8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、
8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは【主】に祈った。
8:7 【主】はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
8:9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」

8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。
8:20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」
8:21 サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを【主】の耳に入れた。
8:22 【主】はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい」と言った。

<要約>

王を求め、神を退ける民

イスラエルの長老たちが集まって、サムエルの所に来てお願いしました。それは、他の国々のように自分たちを裁く王を立ててほしいというものでした。その申し出はサムエルには気に入らないことでした。サムエルは預言者であり、民のリーダーであったので、すぐに、主に祈り、御心を求めました。主は、サムエルに、民の言うことを受け入れるように言われました。民は、周辺の敵国から守ってくれる軍事的、政治的な強いリーダーである王を求めたのです。目に見えない神よりも目に見える人間に頼ろうとする人間の弱さです。主からの命を受けて、サムエルは民を治める王の権利を民に語って聞かせたのです。それは過酷で容赦のないものでした。王は、あなた方の息子や娘を取って、兵士や料理女とする。また、財産である畑を取って、家来たちに与える。さらに羊の群れの十分の一を取り、あなた方は王の奴隷となる、ということでした。そのような厳しい義務が王の民に課せられるのです。それでも民はサムエルの言うことを聞こうとせずに王を求めたのです。そして、神はついに譲歩して、彼らの王を立ててくださったのです。人は、目に見えない神よりも目に見える人に頼りがちです。しかし、信仰は目に見えないものを確信することです。信仰者は目に見えないけれどもともにおられる神を今日も心の中心において歩むのです。そのような信仰を主は喜んでくださいます。主は、民がサムエルを退けたのではなく、主である神を退けたのであると言われました。神は、不信仰の民を悲しまれています。しかし、民に対して忍耐をもって対応してくださっています。そこに、神の苦しみと忍耐を見るのです。小教理には、私たちは神を恐れ、愛し、信頼すべきであると書いています。神を恐れるならば、神に対して襟を正すべきです。愛しているなら、神の喜ばれることを考え行動します。神を信頼しているならば、いちいち文句を言わずにすべてのことを感謝すべきです。

ひとりの王を立ててくださる神

神は民の要請に応えて、「ひとりの王」を約束して下さいました。ベニヤミン族のサウルが選ばれて、サムエルがサウルに油を注いで初代の王として立てられました。サウルが王権を確立する事件が起こりました。それは、敵国のアモン人の王ナハシュが、ヤベシュ・ギルアデの人々に陣を引いたのです。そして、ヤベシュの人々はとても勝てる見込みはなかったので、ナハシュに申し出ました。「契約を結んでください。そうすれば自分たちはあなたに仕えます」と。そうしたら、ナハシュは、「ヤベシュの人々全員の右の目をえぐりとることだ。そうしたら助けてあげよう」というものでした。その知らせが、ギブアのサウルに届いたので、サウルは立ち上がり、全イスラエルから兵を徴収しアモン人を打ちのめしたのです。その時から、イスラエルは王制を取るようになりました。サウルは戦士として大変その力と指導力を発揮して、周辺の敵を打ちのめすのでした。サウル王は、最も小さい部族のベニヤミン族の出身で、最初は大変謙遜でした。しかしやがて、高慢になり、罪を犯し、最後はペリシテ人との戦争で戦死するのです。その後、神はユダ族からダビデ王を立ててくださいました。そして、このダビデの子孫に王の王、主の主と呼ばれるイエス・キリストを誕生させるのです。このように、神を退けた民の行為も、神はあなたや私の救いのためにご計画のうちに組み入れてくださったのです。人間の罪や失敗をも神は益と代えてくださるのです。このように歴史をつくられる神は、すべてのことを働かせて益と変えてくださるのです。私たちもそのことが無かったら、イエス様とお会いすることもなかったと思われるような様々な苦しみ、病気、困難があったのではないでしょうか。また、今私たちが抱えているマイナスと思われるようなことも神はプラスに変えてくださる方です。私たちはそのことを信じて、神様のご計画に委ねる人生を送りたいと思います。神はいない、神は必要ないと言って、神を退けてきた人の願いにも耳を傾けてくださり、忍耐をもって待っておられるのです。キリストのゆえにその失敗や罪を赦し、永遠のいのちを与えようと待っておられるのです。

王キリストとこの世の君サタン

イエス・キリストは王として聖書に表されています。エペソ書には、以下のようにあります。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」それに対して、サタン、悪魔はこの世の君として聖書にしるされています。目に見えない霊的存在です。しかし、人間を罪過の中に閉じ込めて、支配しています。今クリスチャンである人たちも、クリスチャンになる前は自分の罪過と罪の中に死んでいた。そして、この世の君サタンに従って歩いていたと書いています。しかし、今はイエス様を信じて救われて、神の国の国民とされています。イエス・キリストの救いとは、サタンが支配しているこの世からキリストが支配している神の国へ移されることです。そして、教会は御国の主張所です。依然、私たちは、この世に属しこの世の中で生きていますが、クリスチャンはこの世にあっても世のものではないのです。イスラエルの民は、サムエルに王を立ててほしいと願いました。自分たちを正しく導いて、周囲の敵から守ってもらいたかったからです。現在、イエス様は王として、日々信じる者たちをその囲いの中で養ってくださいます。ですから、世にあっては様々な困難や試練がありますが、イエス様は圧倒的な勝利者として、信じる者たちを保証してくださっているのです。私たちクリスチャンは、先に救われたものとして、まだ、御国の民に移されていない人のために祈り導く役目が与えられています。教会に連れてきましょう。そして、福音に触れさせるのです。

聞く者に御思いを知らせる主

2016年10 月02 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>第一サムエル記2章22~26節、3章8~14節
2:22 エリは非常に年をとっていた。彼は自分の息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終、それに彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということを聞いた。
2:23 それでエリは息子たちに言った。「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。私はこの民全部から、おまえたちのした悪いことについて聞いている。
2:24 子たちよ。そういうことをしてはいけない。私が【主】の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。
2:25 人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が【主】に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころであったからである。
2:26 一方、少年サムエルはますます成長し、【主】にも、人にも愛された。

3:8 【主】が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。そこでエリは、【主】がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『【主】よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。
3:10 そのうちに【主】が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。
3:11 【主】はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。
3:12 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。
3:13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。
3:14 だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」

<要約>

み思いを語られる主

サムエルは神の箱が安置されている主の宮で寝ていました。早朝でまだ薄暗い時に、サムエルに主がお語りになったのです。サムエルは主の声とわからず、エリのところへ行きます。そのようなことが三度あったので、エリは、それが主の声であるとわかって、今度は「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言いなさいと命じました。この時から、サムエルはイスラエルの預言者として、活躍していくのです。聖書が完成している現代では、サムエルのように直接、神の声を聴くことは全くないとは言えませんが、少ないです。神はみことばを用いてお語りになります。わたしは早朝に起きて、机に向かって座り、「主よ、お語りください」と祈ります。そして、聖書を読んで、思いめぐらすときに神はお語りくださいます。教会の方々のためにも一人ひとりを心に浮かべて、その人の守りと必要のためにお祈りします。いろいろな課題や悩みもありますので、お祈りします。その時間は神との対話の時間です。対話は、話しては聞く、聞いては話す、というものです。ですから、祈りは対話です。聖書を読んで祈るのです。毎日のことですが、神は豊かに語ってくださるのです。クリスチャンは毎日みことばを読んで心に蓄えておく必要があります。また、礼拝で説教を聞き、みことばをいただく必要があります。聖書を全然読まなければ、神との対話は途切れており、いつの間にか神もわからなくなります。また、私たちは日常の中で、様々な決断をしなければなりません。まず、神のみ心は十戒に表されています。ですから、十戒に照らし合わせて考えていくのが良いでしょう。第一戒の神以外を神としてはいけない、つまり、神の国とその義を第一としなさい、ということから始まって、みこころを求めていくのです。現代に生きる神の民であるクリスチャンには、サムエルの時代のように神のことばはめったにないということはありません。聖書のみことばと説教により神は豊かに語ってくださっているのです。共にいて声をかけてくださるイエス様と歩む幸いを覚えたいと思います。

祝福と呪い

期せず、少年サムエルに最初に与えられた神からのメッセージは、エリの家への裁きの預言でした。その内容は、実に、祭司エリの家への神からの恐ろしい裁きです。「エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげものによっても、永遠に償うことはできない」とあります。これは、どういう意味でしょうか。聖書には、どんなことでも赦されると書いてあります。そのことと矛盾するでしょうか。確かにどんな罪もキリストの十字架によって赦されます。しかし、赦されるためには、まず、罪を悲しむことがなければなりません。悔い改めて信仰によって受け止めるのです。エリの息子たちは父の言うことを聞こうともせず、不遜にも悔いる心もありませんでした。一向に改めることのない人々にはキリストの無代価の赦しは届くことがないのです。モーセもヨシアも、自分が死を迎える前に、民を集めて言いました。神のみを信じ、神のすべての命令を守り行うなら、祝福と平安があるが、神に従わず、神のすべての命令とおきてとを守り行わないならば、祝福は奪い去られ代わりにのろいが来ると申し述べました。祝福と呪いは、行いの法則です。すなわち、律法です。これは、神の民のあるべき姿への要求です。しかし、一方、そのような律法の要求に到達しようとしてもできない人間の姿があるのです。そこで、人間は律法の要求に対峙した時、あるいは聖い神と対峙した時に、どのような心の態度になるかを神は見ておられるのです。エリの息子たちのように神のことばを無視して、高慢にも自分たちの欲望を果たそうとするのか、あるいは、心打ち砕かれて、心低くして、神の前でへりくだり、悔い改めるか、それを神は見ておられるのです。「 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」この聖句はダビデがイスラエルの王として君臨していた時の歌です。彼は、自分の部下の妻を見初めました。そして、部下が戦地に行っている間に姦淫を犯し妊娠させてしまったのです。さらに、その部下を激戦の最前線に送ってわざと敵の手に渡して戦死させたのです。その罪を預言者ナタンから指摘されて、ダビデは罪責にうちのめされて、苦しみます。しかし、彼は自分の罪を素直に認めて、悔い改めます。神は、砕かれた心をもって主の前でへりくだっている人の罪を豊かに赦し、そしてそのような人を喜ばれるということです。

神と人の仲裁者

当時、罪を犯した人は、律法の規定により動物や穀物を祭司のもとに持っていき、それをその人の罪の贖いの代価としました。その人は、自分の罪を動物に着せて、祭司が動物を殺して血を流すことにより、罪の赦しの宣言がなされました。動物を用意できない貧しい人は穀物を持って来て、祭司がそれを火で燃やすことによって罪の赦しの宣言がなされました。これらの儀式は、「来るべきものの影であって、本体はキリスト」なのです。つまり、旧約時代の人間の罪も、キリストの十字架の贖いによって赦されていたのです。キリストは祭司として、罪のない神の小羊であるご自身を贖いの代価としてただ一度ささげられました。そのことにより繰り返し動物をささげることは無くなりました。ただ、動物の犠牲をささげることにより人の罪は自動的に赦されたということではありません。罪人は動物を携え持って、自らの罪を信仰によって悔い改めて赦されたのです。エリが言った言葉を見ましょう。「人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が【主】に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」エリの息子たちは祭司でありながらその勤めを冒涜し、著しい違反行為を続けていました。そのため、民の罪を贖い罪の赦しを宣言する勤めをする者がいなくなっていました。神の前に仲裁に立つ人がいなくなっている状態でした。そのことをエリが指摘して、祭司の勤めをちゃんと行うように言いましたが、彼らは聞く耳を持たなかったようです。また、エリはやがて来られる真の仲裁者、とりなし手であるキリストを指していると思います。「 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」私たちのために仲裁してくださるのです。と言い換えることができます。真の大祭司であるキリストが、私たちのために仲裁者としてとりなし、ご自身の血により、罪の赦しを宣言してくださっています。クリスチャンライフは、神との生きた交わりの中で、約束された祝福された人生を歩むことです。