信仰は神と繫ぐいのちのパイプ

2016年09 月25 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書20章19~29
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

<要約>

この世に生きる不安

わが国は人口減少に入っています。過疎地ではますます過疎となり、やがて町や村が消失していきます。経済の面では、少子高齢化による労働人口の減少と社会保障費の増加により、国の収支は破たんしています。環境はどうでしょうか。福島原発事故から5年が過ぎ、福島では放射線被害によるがんの患者が発生しています。原発を考えると将来が不安になります。高齢により、身体が利かなくなった時に自分はどのように身を処したらよいのか、はっきりした見通しはありません。周辺の国では戦争の不安もあります。平安で生きるのが難しくなっています。平安は心の状態です。変わったことがなく穏やかな心です。人間は穏やかな心で日常を過ごすことが必要です。それが乱されると不安になり憂鬱になります。そして、それが続くとうつ病になります。現代はうつ病が増加しております。現代社会ではそれだけ平安を保ち続けることが難しくなっているのでしょう。もう一つは、私たち人間は死ぬ存在であるということです。そのことをあまり真剣に考えないで生きているのが多くの方の現状だと思います。修道院での修道士たちのあいさつでは、「あなたは人間が死ぬものであることを心に刻め」という意味の言葉を交わすそうです。死の意味がわかって初めて生きる意味がわかるのです。もし、あなたがすべては死ねば終わりと思っていれば、目に映るものはすべて、一時的なものとなります。今の平安も一時的なもの、この世は不確実で真の平安はないと言えます。

罪により滅びに向かう人間と人間社会

全能なる神は、人間のために、それぞれの人々に賜物や才能、知恵をお与えになり、それぞれを様々な領域に遣わしています。神は国家に為政者を立て、国民が安全で快適に過ごせるように社会を整えてくださっています。医学の分野では、新しい薬の発明などで病気も治るようになっています。それは神の恩寵です。その一方で、資源の使い過ぎから来る環境破壊、民族や国家間での対立から来る戦争が起きています。それらは自己利益を追求して留まることのない人間の性質から来ているのです。それらが、人類は滅亡に向かわせているともいえます。それは、人間が生まれながらに引き継いでいる罪の結果です。滅びに向かっていく原因は人間の罪と言いました。神から離れた人間は、その内側、すなわち心に浮かぶ悪によって、汚されるのです。国家レベルでも民族レベルでも、個人レベルでも、皆同じです。この世の中は、人間の罪により、本来あるべき姿から大きく外れているのです。このままでは、すべての人は滅びへと定められるのです。

キリストが与える真の平安

ここで、恐怖と不安で集まっていた弟子たちにイエス様は最初に「平安があなた方にあるように」と言われました。イエス様の平安は、この世のものとは全く違います。どんな状況にも決して失われることのない平安です。死の影の谷を歩むようなことがあっても、失われない、それは、復活の主がともにいてくださり、永遠である神のいのちにつながっているからです。人間の罪が死と滅びをもたらしていると言いました。そのために、イエス様は来てくださり、十字架で私たちのすべての罪の呪いを代りに受けてくださいました。全人類に及ぼす罪の裁きを神の子が代わりに一身に背負ってくださったのです。イエス・キリストを信じる者はその罪の呪いから完全に解放されます。世の平安は一時的です。しかし、イエス・キリストの与える平安は、罪赦されて神のいのちにつながることから来ます。永遠のいのちがあるので、平安は永遠であると言えます。すなわち、失われることのない、確固たる平安です。

信仰を通して受け取る平安

イエス様は、トマスに会うために来てくださったのです。そのように主は個人的にあなたに近づいてくださるのです。イエス様は、前の週に弟子たちに現れて、彼らは大喜びでトマスに話しました。「私たちは主を見た」と。しかし、トマスは、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったのです。それをイエス様は知っていて「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」と言われました。イエス様は、トマスの思いを知って、ご自身をよく見て触って、確かめなさいと勧めました。イエス様ご自身が神であり永遠のいのちであることをわからせるために、来て、見て、触りなさいと勧めたのです。トマスは、復活の主を仰いで、「わたしの主。わたしの神」と告白しました。復活の主をその目で見て信仰告白に至ったのです。

イエス様は、トマスが、自分はイエス様の体を見て確認しなければ決して信じないと言ったことを受けて、信じる者になりなさいと言われました。見て、あるいは確認して、信じるというのは、実は信仰ではありません。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とある通り、目に見えない、目で見ていないけれど見ているかのように信じることです。見て信じることは信仰ではありません。神との関係は信じること、信仰からすべては始まります。信じるということがなければ何もわからないのです。また、神を喜ばせることは、ただ、神を固く信じることなのです。「 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とある通りです。私たちクリスチャンも、この世にあって様々な患難があります。時には不安になることもしばしばです。しかし、イエス様が与える平安は世のものと違って一時的なものではありません。永遠に続く平安です。何があっても大丈夫なのです。あなたのために用意された平安をイエス・キリストを信じて受け入れてください。信仰は、神とあなたを繫ぐいのちのパイプです。信じるならあなたは永遠のいのちを得るのです。

 

王としてしもべとして生きる

2016年09 月18 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マルコの福音書10章32~45節
10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

<要約>

祝福への道には十字架がある

誰もが偉くなりたい、将来よい地位につきたいと願います。親も自分の子どもたちにはそのように思います。ヤコブとヨハネの願いは、イエス様のナンバーツー、ナンバースリーになりたかったのです。その話を聞いて他の十人は、ヤコブとヨハネに腹を立てたとあります。抜け駆けされたからでしょう。みな、多かれ少なかれ同じような願いがあったのでしょう。彼らには、大きな誤解がありました。弟子たちは、イエス様がイスラエルで再び王となって、かつてのダビデ、ソロモンが打ち建てた王国を打ち建て、大国の圧政から民を解放してくれると期待していたのです。そのために、今、エルサレムに向かうものと考えていたようです。彼らは、地上の事ばかりが関心事だったのです。私たちの関心事は何でしょうか。地上のことばかりでしょうか。そのための神頼みでしょうか。受験合格、良縁の結婚、交通安全、商売繁盛、など日本人の多くはご利益を求めて何らかの宗教とかかわっています。何かの利点、メリットを求めて、キリスト教に来る人々もいます。また、悩みがあって教会に来る人もあります。そのことは悪くないのですが、解決したらもう来なくなる人々もいます。真の救いを得ることなく去っていく人たちです。それは、地上のことしか関心がないからです。しかし、聖書は永遠について語っています。イエス様を信じれば、家庭も祝福される、仕事も祝福される、健康も祝福される。その通りです。しかし、この地上での功利的な求めは、もし、そう行かなかったときにどうなるのでしょうか。神はいないと言って、信仰を捨てるのでしょうか。あるいは別の神へ行くのでしょうか。そこには何の平安も喜びも見出すことはできません。祝福の道には、時には、苦難と思われる十字架があることを知っていただきたい。たとえ苦難や悩みがあっても、それの先に必ず永遠に至る祝福と喜びがあるのです。神のみ思いは人間の思いよりはるかに高いのです。自分の思いと神のみ思いはしばしば違います。私たちは、自分の思いに神を合わせようとするのではなく、神のみ思いに自分を合わせるのです。イエス様のご生涯を見てみましょう。神の御子は十字架の苦難を通って、栄光にお入りになりました。イエス様は苦しみのあとを見て満足されたのです。人類の罪の咎を担って、十字架で「完了した」と言って、息を引き取られました。イエス様は、人類の救いの御業をなし終えて、満足と喜びに満たされたのです。それと同じように、私たちクリスチャンにとっても、喜びと祝福への道には時として、十字架があるのです。そして、信じる者は必ず栄光のゴールに至るのです。それは神が約束しておられる天国の祝宴です。

上に立ちたい人間としもべとなられた神

弟子たちの問題は、他の人々に力を振りかざして支配し、従わせ、自分に仕えさせたいということです。イエス様は、異邦人の間では、支配者とみなされる人は権力を振りかざして民を支配するのですが、あなた方はそうであってはならない、と言われました。ここでイエス様が戒めているのは、権力を求めて自分の思いのままに人を動かす、人に仕えられることを目指す生き方です。これは人類が始まって以来続いている問題です。歴史は、人間同士の争いの歴史です。共産主義者は富が平等になれば争いはなくなると考えたようですが、共産主義体制をとっても、階級闘争が表れて、人間同士権力を求めて争うのです。それは人の上に立って仕えられたい、人を思うように動かしたい、という人間の性質のためです。国家レベルでは、最近の中国、ロシア、北朝鮮などを見てもその通りです。領土を海に作ったり、ミサイルを発射させたり、自分の国を優位に立たせて、周囲の国々への支配権を持とうとしています。個人レベルでは、職場やその他のグループの中では、人々とお互いに平和に事を進めようとします。しかし、時に、人はわたしを見るときに、私に力をふるおうとすることがあります。そこで私もその人に力をふるおうと反応するのです。たがいに仕えあいなさい、とみことばに言われても、その隣人はもはや、仕えていく相手でなくなるのです。自分は人の上に立ちたいなどと思わないといっても、相手の出方で変わってくるのです。結局、自分は、利己的な愛と自己中心のうちに根を下ろしているのだということに気づかされます。その人間の性質はどこから来ているのでしょうか。もともと人間は、神のために創造されました。万物の中心は神です。人間は神の作品であり良い行いをするために造られた(エペ2:10)と書いています。作品は作者のものです。作品は作者の目的ために造られたのです。人間は神のために造られました。神が創造した秩序の中で、人は神との喜びに満ちた交わりがあり、神中心に物事を考え判断していく力がありました。しかし、ある時にサタンの誘惑に会い、高慢になり、神の戒めを破って自分中心に物事を考え見るようになったのです。背きの罪により、人間は神から離れて、自分中心に生きるようになりました。その堕落により、神を心の内から追い出して、心の王座に自分を据えました。それが受け継がれた罪です。自分を優先していきたい、自分を先に立ちたいという思いはそこから来ています。私たち人間の本質は自分が尊ばれて、持ち上げられたいのです。それに対して、神はしもべになってくださったのです。万物を支配しその御手の中に治めている神が、しもべとなり、仕えるものとなり、十字架でいのちを差し出してくださいました。それは、人間を死と滅びから救い出して真の人間として生きるためです。その動機は神の愛です。

クリスチャンは自由なしもべ(奴隷)である

パウロはコリント人への第一の手紙の中で、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」と語っています。自由であり奴隷であるというのはどういうことでしょうか。一見相矛盾することがどうしてクリスチャンの中で成り立っていくのか、説明したいと思います。ルターは、キリスト者の自由という本の中で、以下のようにクリスチャンを定義しています。「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由の王であって誰にも服従しない。同時に、キリスト者はすべての者に仕えるしもべであって誰にでも服従する」と。まず最初に、クリスチャンはすべての者の上に立つ自由の王であるということを説明します。クリスチャンは、キリストを信じる信仰により、すべての罪が赦されて、滅びの呪いは取り去られています。正しいものとされ、十戒の要求は満たされて、すべての責めから解放されています。死からも自由にされています。この肉体は滅んでも永遠の命があります。それはまさしく自由の王だということです。ですから、その自由をもって、すべての人に仕えるしもべになることができるのです。何者にも強制されないその自由な意思をもって、神を愛し、人を愛するのです。神への愛と隣人への愛、その二つの愛に生きるのです。愛とは、愛するものに仕え服従することです。つまり、愛とは、愛する者のしもべとなることです。隣人を愛するというのは、具体的にはどういうことでしょうか。隣人を愛するというのは、与えられた使命に生きて、人々に仕えることです。与えられた職業、職務に最善を尽くすことです。今、皆さん、それぞれが遣わされている家庭、職場、学校、教会で最善を尽くすことは隣人に仕えることです。皆さんの周囲の人々が幸せになるために遣わされているのです。また、神はクリスチャンを通して、罪の赦しによる救いの福音を私たちの隣人に届けようとしております。機会あるたびに、家族、友人、知人を教会にお誘いしましょう。

究極の使命

2016年09 月11 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

 

<聖書>ヨハネの福音書21章3~17節
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

<要約>

罪と死からの救い主

かつて、弟子たちは、イエス様はイスラエルを大国から解放するメシヤであると考えていました。しかし、主イエスは彼らが思い描いていた権力で国を治める王ではなく、預言されているような「苦難のしもべ」であったのです。ペテロがその目で見て、触れて体験した主イエスはだれなのか、ということについて語っています。ペテロは、主イエスの十字架がすべての人の罪の故であったこと、無実の神のみ子が身代わりとなって十字架で罪を負われたこと、信じる者は罪赦されて永遠の命が与えられること、など。キリストが全人類の救い主であるという理解に進んだのです。以前、私が勤めていた病院の医師から、質問されたことがあります。「キリスト教は、厳しい戒律があり、それを守っていくことが救いなのですか?」と。「守るべき十戒はありますが、かえって自由ですよ」と返答したように覚えています。十戒の一つ一つには禁止と奨励があります。そして、十戒が戒めている領域は、「心」と「ことば」と「行い」の領域に及んでいます。例えば五戒の「殺してはいけない」ということですが、イエス様は友を心で憎んだら殺人だと教えています。六戒の「姦淫してはならない」は、妻以外の女性を見て情欲を抱いたなら姦淫だということです。奨励では、夫婦はお互いを尊重して自分の身体のようにいたわりなさい、というものです。そうみると、十戒の基準はとても高いということです。十戒は、すべての人間に対する神の要求です。十戒によって罪を示して、罪が人間を刺殺すのです。その私たちの罪から自由にするためにキリストは来られたのです。キリストが代わりに罪の呪い、刑罰を受けてくださった。キリストが代わりに十戒を全部守ってくださった、ということです。ですからキリストを救い主と信じる者は罪と死から自由になるのです。

食卓を用意し招いてくださる主

彼らが魚を引いて陸に上がられると、そこに炭火とその上にのせた魚と、パンがあるのを見ました。そして、イエス様は「あなた方が今、取った魚を幾匹か持って来なさい」と言われ、それも一緒に焼いて、弟子たちに言われました。「さあ、来て朝の食事をしなさい」と。イエス様は、ご自分で前もって、魚とパンを用意してくださっていました。調理しておられたのです。そのうえで、彼らがとった魚を加えて、朝食を整えました。これは、何を象徴しているのでしょうか。彼らはこれまで、魚を取る漁師でした。これからは人々を神に導く伝道者として用いられるのです。ここでの漁は、神と人との共同作業でした。すなわち、宣教、伝道はクリスチャンが人々をイエス様に連れて行き、イエス様が救ってくださるのです。主の弟子として召された皆さんも、人々を主イエスのもとに連れて来ましょう。お救いになるのはイエス様です。

目的と使命を与える主

食事のあと、主イエスはペテロに質問します。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエス様は同様な質問を三度致しました。これを聞いてペテロは思い出していました。イエス様がいわれた通り、イエス様が捕えられた時、皆逃げたのです。そして、ペテロは、鶏が二度鳴く前に三度、イエス様を「知らない」と言ったのです。その時、イエス様は振り向いてペテロを見られました。この時の、イエス様の愛と赦しのまなざしを思い出していたのでしょう。そのような大失敗を経験していたので、「あなたはわたしを愛するか」の問いに対して、ペテロは、胸を張って、「はい、私はあなたを愛している」と言えなかったのです。なぜなら、主を愛するということさえ、主の恵みであるとわかったからです。この質問は、直接的にはペテロへの質問ですが、イエス様を信じる者に問われている質問です。「あなたはわたしを愛しますか」と主イエスは問うています。それは個人的な質問です。「他の人のことではなくて、あなたはわたしを愛しますか」です。次に、「私の羊を飼いなさい」というのです。「わたしの羊」というのはクリスチャンのことです。または、クリスチャンになる前の人々をも含んでいると思います。しかし、もっと広く考えると、「わたしの羊」というのは「イエス様がご自身のいのちを捨てるほどに愛しているすべての人々」を指していると言えるのではないでしょうか。すなわち「あなたの周りにいる人々をお世話しなさい」と言い変えてもいいと思います。すべてのクリスチャンが、主イエスの弟子と言われるように、ペテロや牧師ばかりでなく、すべてのクリスチャンに対して、主は命じているのです。「わたしを愛しますか。そして、あなたの隣人をお世話しなさい」と。

 

失敗から生かされる人生

2016年09 月04 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書22章31~34、54~62節
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
22:55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

<要約>

自分の力で生きる挫折

ペテロは、最後の晩餐の過ぎ越しの食事の時に、以下のように断言しました。「イエス様、あなたと一緒になら牢獄でもまた、死の覚悟もできています。命も捨てます、決して知らないなどとは言いません。」と。マタイ、マルコの福音書では、他の弟子たちも同じように言ったとあります。しかし、主のおことばは、「あなたは今日、鶏が鳴く前に、三度私と知らないという」でした。イエス様の言われた通り、主の逮捕の場面で、ペテロも他の弟子たちと同じようにあっさり逃げてしまいました。彼らは、なぜ逃げたか、それは恐ろしかったのでしょう。主イエスと一緒に自分たちも捕まえられて処刑されるかもしれない、という恐怖に捕らえられたのです。ペテロはいったん逃げましたが、ついて行って大祭司の家で、屋敷の中庭で、火を焚いて一緒に座っていたのです。群衆にまみれて、そっと様子を見ていたのです。するとある女中が、焚火の明かりで照らされたペテロの顔をじっと見て、「この人も一緒にいました」と発言しました。最初は、それを打ち消して、あの人は知らない、と言いました。そうしたら他の人が、「お前もあの連中の仲間だ」と言い出したのです。また、別の人が、今度は「確かに、この人も一緒だ、ガリラヤ人だから」と言ったのです。今度は、ペテロは呪いの言葉を口にしながら、「そんな人は知らないと言ったのです。」ペテロは、その時まで、自分の力に頼って生きてきました。ペテロも他の弟子たちも、自分たちの力に過信していたのです。高慢になっていたともいえます。これは、自分に死んでいない弟子たちの姿です。自分を捨てていない弟子の姿です。自分を捨て、というのは自分のいのちを主イエスのために捨てるということです。弟子たちの姿は、自分の力で生きる人生でした。結局、自分のために、イエス様について来たのです。それは、自分中心の生き方であったといえます。私たちはただ、恵によって救われ、恵によって神の子とされています。私たちが何か取り柄があったから、あるいは人格が良いから、品行方正だから、救われたのではないのです。救いは神の一方的な業です。なぜなら、私たちは自分では気づかないような小さな罪、やるべきことをやらない、やってはいけないことをしてしまう。そのような小さな罪も、自分では取り除くことはできません。私たち信じる者たちが赦されているのもイエス・キリストが身代わりとなって罪の代価を払ってくださった事によるのです。私たちは自分に根差してはいけません。キリストの十字架の赦しと愛に根差して生きるのです。伝説によると、ペテロは十字架で逆さつりにされて殉教しました。ヤコブはヘロデに殺されました。彼らは、最後は信仰を全うして証しを残しました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」このみことばの意味をもう一度覚えたいと思います。

失敗から神に生かされる人生へ

主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出しました。このイエス様の視線は、ペテロを咎めるものではなく、愛と赦しだったです。主イエスは、父なる神からも捨てられ、弟子たちからも捨てられて、ただ一人でこの十字架の苦難を受けなければならないことをご存知でした。ペテロは、その主の視線を受けて、外に出て激しく泣いたとマタイ、マルコ、ルカの福音書は書いています。主は「私はあなたを赦しているよ。私は祈っていたよ。立ち直って、他の弟子たちを励ましなさい」と。ペテロはこの時、自分に絶望しました。そして、自分に死んだのです。同時に、主のまなざしを受けて、思いを変え、生き方を変えたのです。すなわち、悔い改めて、主イエスの愛に生かされる人間となったのです。自分に頼らないで、主イエスの恵みに生かされる人生です。聖書には、実の多くの失敗者が出てきます。信仰の父と言われるアブラハムは、自分の妻を妹と偽って、当時の権力者の後宮に妻を送ってしまうという大変な失敗をしました。信仰の見本とされているダビデ王も、自分の部下の美しい奥さんが欲しくなって、部下を殺してしましました。イサクやヤコブも皆失敗しています。しかし、それぞれが皆、このキリストにある神の愛と赦しのまなざしを受けて悔い改めました。主に立ち返り主の恵みに生きるようになったのです。それぞれが失敗を通して謙遜になり、神に用いられる器に変えられたのです。私たち信者は、神の恵に生きるのです。すなわち、主があなたのためになしてくださった事実、十字架と復活に立たなければなりません。十字架から流れる愛と赦しの言葉に耳を傾け、生き方を変えなければならないのです。

不動の恵みに立つ人生

一般に、恵みという言葉は、よいこと、幸運という意味です。「今日の雨は農作物には恵みの雨だ」と言います。しかし、聖書に言う恵は、「受けるに値しないものに注がれる祝福」という意味です。私たち人間の決心や信念は変わりやすいものです。しかし、主イエスの恵みは不動です。私たちは不動のものに根拠をおいて生きなければなりません。イエス・キリストは不動であります。キリストはアルファでありオメガである方、最初であり終わりである方です。イエス・キリストの恵みも不動です。それはすべての人に注がれる一方的な愛です。罪の赦しと信じる者に与えられる永遠のいのちです。不動のものは、神のことばです。聖書のことばと約束です。私たちは不動のものをしっかり握って動かされることなく、信仰生活を全うしたいと思います。