嵐の海を歩いてこられるイエス

2016年08月28 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

 

<聖書>マタイの福音書14章22~33節
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。

<要約>

神を悟らず断絶にある人間

群衆も弟子たちもイエス様が真の神であるという理解には至っていなかったのです。すなわち、神を悟らないのです。これも、現代社会に生きる人間の問題点です。「神の存在など考えることもない。また、信仰を持っていても目に見えない神が共にいてくださるという実感は持てない。でも、聖書によると、神は、私たち人間一人ひとりにかかわりを求めておられます。また、被造物を通して神の存在を知ることができるとも言っています。自然科学は目覚ましく発展しました。電子顕微鏡によりミクロの世界を見ることができるようになりました。単細胞生物である大腸菌の持つ鞭毛は移動するための道具です。大腸菌体の根元にある約25種類のタンパク質からできたモーターでそれを回転させることで移動するのです。その大腸菌モーターの回転数は約一分間に2万回転です。このことを見ても、デザイナー無しで世界は偶然にできるわけがないのです。素直に考えれば、創造主がおられるということは自明の理と言ってもよいと思います。創り主である神がわからない、神を認めない、これらはどこから来ているのでしょうか。それは、人間の罪から来ています。アダムの堕落以来、受け継がれた罪は、神に反抗しているのです。なぜなら、人間は自分を神の上に置いているからです。人間はもともと神のために作られたのです。ですから、神が人間に求めておられることは、何にも増して神を愛することです。しかし、一般に人はそれを認めることができません。なぜなら、人間の心には潜在的にしても神への敵意があるからです。人間の罪の堕落以来、神と人間の間には深い断絶があって、それが、人間を死と滅びに向かわせるのです。そのままでは人間は真の神を見出すことはできません。神のいのちにつながるまことのいのちを失っています。幹から切り離された枝についているつぼみがしばらくすると花になりますが、やがて枝も枯れて死んでしまします。神のいのちにつながっていない人間も同じことです。やがては滅んでしまうのです。そこで、神は人間をその滅びから救うために、人となって来てくださったのです。それがイエス・キリストです。

近づいてくださる主イエス

弟子たちは夕方から深夜まで湖の真ん中で漕ぎ悩んでいました。疲労し暗黒の闇に苦しんでいました。嵐の海、そして強風に悩む人たちは何を表しているのでしょうか。それは、この世の中にあって、恐れを感じ、困難を経験している人間を表していると思います。目的地があって、漕いでも、漕いでもなかなか到達できない状況。先が見えない人生の旅路です。このような状況は私たち現代に生きる者たちにも起こり得る相通じる問題ではないかと思います。家内と私は2011年から14年まで、隣の老人施設を経営しておりました。様々な逆風があって、事業は思うようには進みませんでした。身寄りの薄い高齢者を預かっていたので、事業をやめるわけにもいかず、ちょうど海の真ん中で漕ぎあぐねていたのです。イエス様が、早く海を渡って来てくださいと祈っていました。ある時、詩編のみことばが与えられました。「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。【主】がその手をささえておられるからだ。」事業はやめることにしましたが、下で、主が御手をもって支え守ってくださるということです。その後、何とか廃業することができ、今は、事業を別の会社が担ってくださっています。人間は神と断絶状態にあると言いました。それは元をたどれば人間の罪により、神を認めない社会、神を敵とする社会にとらわれているからです。そのために、神は世の支配から神の支配に招き移し、いのちを与えようと主イエスを送ってくださったのです。イエス様は、ご自身が神であり、救い主であると同時に、人間でしたので空腹や疲れも覚えられました。ただ一つ、イエス様が他のどの人間とも違うことは生涯一度も罪を犯したことがない罪のない人でした。主イエスは乙女マリヤが聖霊によって身ごもり生まれました。なぜ、神が人とならなければならなかったのでしょうか。人間の身代わりになることができるのは人間でなければなりません。聖書はアダムの罪以来すべての人は罪を犯していると言います。その全人類の罪を罪のない神の御子が十字架で身代わりとなって代価を払ってくださったのです。そのことを信じる者は罪赦されて決して死を味わうことがないのです。主イエスは、海の上を歩いて船に近づきました。弟子たちはそれを見て、幽霊だと思ったのです。しかし、主イエスは「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない」とおっしゃいました。この私だ、というのは「私は私自身だ」という意味です。これはイエス様の自己宣言です。「わたしは世の最初から居り、今も後もとこしえまでも存在するものである。天地万物の創り主であり、同時に万物を保持し、全能の神である」という宣言と言えます。主イエスはご自身を神と宣言しました。主イエスは、助けを求める人、苦しめる人、悩みにある人、悲しんでいる人に自ら近づいてくださるのです。

招いて救ってくださる主イエス

主イエスは「来なさい」と言われ、ペテロは船から出て、水の上を歩いてイエス様の方へ行った、と書いています。ペテロはイエス様をじっと見つめて歩き出したのです。しかし、強い風と波に目が行ったときたちまち怖くなり、沈みかけました。「主よ。助けてください」とペテロの叫びを聞いてすぐに手を伸ばしてくださいました。そして、「信仰の薄い人だな。なぜ、疑うのか。」と言われました。ペテロはイエス様の「来なさい」という招きのおことばを受けて、一歩踏み出したのです。教会に集っておられる皆さんも、今日、イエス様がみなさんに近づき、「来なさい」と招かれて今日来られたと思います。このようにイエス様は個人的に皆さんに近づき、「私に来なさい」と招いてくださっています。ペテロはイエス様から目をそらして、沈みそうになりましたが、イエス様は手を差し伸べてくださいます。信仰生活は一様ではありません。私たち信者もイエス様から目を離してしまう時があるのです。ですから、み言葉にあるように、決してイエス様から目を離すことのないよう自らを戒め励ましていこうではありませんか。ガリラヤ湖の北西岸にあるゲネサレの地では、大勢の病人が連れてこられて、イエス様に触れた人はみな癒されたのです。その地域に福音が届けられたのです。イエス様一行は、町々村々を歩かれて、病人をいやし、悪霊を追い出し、救いの訪れを宣言したのです。イエス様の訪れ、それが福音です。私たちの国にも、約500年前に海を渡って来てくださいました。そして、今日も私たちの所に来てくださり、「わたしに来なさい」と招いてくださっています。その招きに応えて、主イエスを信じて救いをいただきましょう。罪と悪魔と死からの救いです。それらに支配されないということです。信じる者にはイエス様が中に住んでくださり、新しいいのちに生きるのです。朽ちて滅びるようなものではなく、いつまでも続く新しい人生です。

 

 

 

雄々しくあれ、強くあれ

2016年08月21 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

 

<聖書>ヨシュア記1章1~11,16~18節
1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。
1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。
1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
1:10 そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。
1:11 「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、【主】があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから』と言いなさい。」

1:16 彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。
1:17 私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、【主】が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」

<要約>

神は悔い改めるのを待っておられる

カナンを占領する戦いは、人間的には困難極まりない戦いでした。なぜなら、そこにはたくさんの先住民族がおり、イスラエルの民はそれらを戦い取っていかなければならなかったからです。しかも、神の命令は聖絶でした。これを聞くと、愛の神がみな殺せというのは残酷ではないか、と思うかもしれません。そしてこれは侵略でないか、と言われるかもしれません。かつて神がアブラハムに約束された土地には先住民が住んでいました。アブラハムの子孫がそこに戻ってくるまでには約四百年を要するというのです。すなわち、そこの先住民の罪が満ちるときまで神はその裁きを伸ばしておられたということです。神は先住民の悔い改めを待っておられたのです。しかし、罪は満ちて天にまで達したのです。そして、イスラエルを神の剣として用いたのです。聖絶は何を教えているのでしょうか。それは、人間の罪と神の裁きです。自ら滅んでも仕方がない人間の罪の深さ大きさです。他にも、神に滅ぼされた町にはソドム、ゴモラがあります。創世記にそれらの町の罪深さが描かれています。私たち人間は、最初の人アダムの堕落以来、生まれながらの罪人です。アウグスチヌスもルターも人間の霊は腐敗していると言いました。創り主を認めないことが最大の罪であると言いました。私たち人間は普段罪がわからず、自分が罪人であると気付くこともありません。旧約聖書のヨナ書を読むと逆に救われた民族もいます。ヨナは、ニネべの人々の罪に対して神の裁きの到来を宣言しました。しかし、ニネべの人々は悔い改めて神を信じたのです。それで、神は滅ぼすことをおやめになったのです。神は義なる方ですから、どんな小さな罪をも見逃すことはできません。必ず裁かなければならないのです。しかし、神は待っておられるのです。何を、でしょうか。そうです、悔い改めです。

呪いか祝福の選択

申命記には、「もし、あなた方が主の御声に聞き従い、主のすべての命令を守り行うなら、あなた方は必ず祝福される。しかし、もし、あなた方が主の御声に聞き従わず、主の命令を守らなければ、あなた方は呪われる。」と。神の御声に聞き従い、右にも左にもそれないで主のおきてと戒めを守りなさい」というものでした。これが申命記のメッセージです。神は、信仰を問うています。信じて生きるか、信じないで滅びるかということです。私たちに求められているのは神への信仰です。信仰があれば、神を愛し、恐れ、信頼するから神に従います。信仰がなければ神に従うとか、神のみことばを守るということはないでしょう。神を信じるものに、無条件に与えられるのが罪の赦しです。父なる神は裁きを与える代わりに赦すために、罪のないご自身のひとり子を与えてくださいました。神は正しい方ですので、罪に対しては必ずさばきを下します。しかし、あなたが裁かれ滅ぶのを惜しまれて、あなたために身代わりにご自身の子を十字架で裁いたのです。そして、神はキリストの十字架の罪の赦しを全人類に提供しておられます。人は誰もが、死を恐れています。死の向こうにあるものがわからないからです。霊魂は無に帰するのではなく、神の前に立たされて、生きていた時の様々な罪に対して裁かれるのです。その得体のしれない裁きを恐れるので、死を恐れるのです。死はさばきであり呪いと言えます。私も20代の時に、洗面器いっぱい血を吐いて自分では死ぬかもしれないと感じました。しかし、大学病院に入院して、点滴し出血は止まりました。しかし、同室の30台の方はある夜突然吐血して最後まで止まらずになくなりました。その時、死は絶望であると思いました。死の向こうに何があるのかわからずに悩みました。その後、イエス様とお会いして、死の恐れから解放されました。「罪からくる報酬は死です。神のくださる賜物は主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とある通りです。私のすべての罪はキリストの十字架により赦されて、神は、罪から来る死と呪いを転じて祝福といのちに代えてくださいました。みなさん、救いはここにあるのです。あなた方のただ中にあるのです。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」決して渇くことのない、永遠のいのちへの水は、みことばと礼拝の中でいつも頂くことができるのです。魂の渇きをどこで満たそうとしますか。どうして人生に絶望しているのでしょうか。水を汲んで飲みましょう。それはイエス様を信じることです。

神の約束に立つ

ヨシュアは「だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」というみ言葉をいただきました。また、「強くあれ、雄々しくあれ」と。また、「あなたとともにいよう」と神の約束をいただきました。これは何と大きな励ましのことばでしょうか。勝利に勝利を約束しています。この神の命令のことば、励ましの言葉は、誰のものですか。直接的には、ヨシュアに与えられた神のことばです。そして、イスラエルの民に与えた言葉です。さらに、この言葉は神の民であるクリスチャンに与えている言葉です。信仰によって受け止める者に与えられる約束です。自分に与えられた神の約束です。決してあなたを見捨てず、あなたとともにいよう。心を強くして、勇敢であれ、勝利はあなたのものだ、と。信仰によって受け止めましょう。聖書ははっきりと述べています。キリストを信じて受け入れる者は神の子どもとされる、と。また、信者は聖なる国民、神の国の相続人、です。神のすべての約束は信仰によって所有するものです。信じれば、み言葉はあなたのものになるのです。神が用意されたすべての恵み、祝福は信仰によって自分のものとなるのです。

 

罪への怒りととりなし

2016年08月14 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>出エジプト記31章18節~32章14節
31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。
32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
32:2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。
32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは【主】への祭りである。」
32:6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
32:7 【主】はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。
32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」
32:9 【主】はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。
32:10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」
32:11 しかしモーセは、彼の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。
32:12 また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる』と仰せられたのです。」
32:14 すると、【主】はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

<要約>

見えない神を信じ続ける

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、「私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と言いました。人間は見える神を持ちたがります。見えない神を信じることができなくて、偶像をつくるのは、人間の弱さです。民の要求に対して、アロンは、民の金の耳輪を集めて、それを溶かして、金の子牛を作りました。その金の子牛の像をもって、神だと宣言したのです。人間が神を作りそれを礼拝したのです。これを、聖書は淫行と言っています。すなわち夫や妻を裏切って結婚外の人と関係を持つことと同じだと言っています。金の子牛は、民が持っていた金の耳輪を基にできました。欲望が神となった。偶像は人間の欲望から生まれるのです。偶像の背後にあるのが悪魔、サタンです。人間は、家内安全商売繁盛、災害や病気が来ないように願います。誰でも幸せを願うことで悪いことではありません。しかし、私たち人間には私たちにいのちを与え、私たちを愛している創り主なる神がおられます。その神を無視して、自分に都合のよい神をつくってよいのでしょうか。イスラエルの民の姿は普遍的な人間の姿です。かつて、教会で熱心に励んでいた人で、誘惑に落ちてクリスチャンとしての歩を捨ててしまった人がいます。非常に残念なことですが、人間には誰でも罪に陥り堕落しやすい性質があるのです。神の民として新しく出発し順調に事が進んでいるときに、民は落ちるところまで落ちたということです。私たちも一つの大きな試練を乗り越えた時に、あるいは手掛けた事業が順調に進んでいる時に、サタンの大きな誘惑が来ます。自分がしてきたことにおごりが出るから、高慢になるからです。私たちはそのような時にこそへりくだり身を慎まなければなりません。そして、見えない神を信じ続けましょう。

十字架により神のいのちにつながる

主はシナイ山にいるモーセを呼んで、言われました。神は、「今はただ、わたしのするままにさせよ。私の怒りを燃え上がらせて、民を滅ぼす。」というのです。ここに、「神の怒り」を見ます。それは、神の義、神の正しさからくる神のご性質の一面です。人間の罪に対する怒りと容赦のない裁きです。現在、この神の怒りがあまり語られなくなったと言われています。誰もが怒りのことばより優しい言葉を求めているからです。しかし、聖書に表わされている神のメッセージを薄めてはいけません。神のメッセージは二つあります。一つは、神が人間の罪を憎み、そして、その罪を怒っておられるということです。もう一つのメッセージは、神は、悪魔と罪と死に支配されて滅んでいく人間をあわれみ、愛しておられるということです。神の怒り、神の愛、それら一見矛盾しているような事柄に筋を通したのがキリストの十字架です。神のみ心は人間を滅ぼすことではありません。神のみこころは、すべての人が信じて救われることです。人はだれでも母の胎にいるときからいのちを与えられ生まれて来ました。しかし、すべての人がやがて死を迎えます。その一つ一つのいのちに対する神の顧みがあるのです。神は人のいのちとその一生をかけがえのないものとして顧みられています。どうでもよいいのちなど一つもありません。そして、そのいのちを、信仰と洗礼を通して神のいのちにつなげて、永遠の祝福に入れようとなさっています。もし、肉体のいのちしかないと考えるなら死は恐怖としか言えません。罪のために滅んでしまうばかりです。しかし、人は神と出会い、キリストの十字架の贖いを信じる時に肉体の死は永遠の祝福に至る入り口となるのです。

キリストにとりなされ隣人をとりなす

その神の怒りとさばきに対して、モーセはとりなしの祈りをします。モーセは嘆願して言いました。「あなたが偉大な力と力強い御手をもって導きだした民です。怒って、途中で投げ出すのですか。すでにあなたはエジプトで幾多のみわざを起こして、ご自身の栄光を表されました。今、彼らを滅ぼしたら、エジプト人は何というでしょうか。あれは民を滅ぼすために導きだした悪い神だと言わないでしょうか。そして、あなたは父祖たちに約束されました。これらの約束が水の泡になってもよいのでしょうか。最後まで、責任とってください。」と、こんな具合です。モーセはみことばと約束に根拠をおいて大胆に祈りました。とりなしの祈りのポイントは、みことばと約束に立って祈るということです。なぜ、神はモーセにご自身の怒りと裁きを告げられたのでしょうか。それはモーセに民のためにとりなしの祈りをさせるためにです。同様に、神はこのとりなしの祈りを私たちクリスチャンに求めておられるのです。なぜなら、父なる神はみ民であるクリスチャンのために、聖霊と御子イエスをとりなし手として立てておられるからです。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ですから、私たちも隣人の救いのために祈るべきなのです。私たちクリスチャンは、この神の怒りを知っていて、このままでは滅んでしまう家族や知人を知っています。ですから、キリストの十字架により彼らの罪を赦されて、永遠のいのちに至ることができるように真剣に祈らなければなりません。神の怒りに対して、十字架の和解を受け入れることができるように祈りましょう。神の約束を握って、神に訴えるのです。

十戒

2016年08月07 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔誠宰

<聖書>出エジプト記20章1~17節
1:1 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。
1:2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ。
1:3 イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。
1:4 ダンとナフタリ。ガドとアシェル。
1:5 ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。
1:6 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
1:7 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。
1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。
1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」
1:11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。
1:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、
1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。
1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。