全世界に届けられる福音

2016年06月26 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き28章16~31節

28:16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。
28:17 三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。「兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
28:18 ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。
28:19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません。
28:20 このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。」
28:21 すると、彼らはこう言った。「私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。
28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。」
28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」
28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

<要約>

パウロ、ユダヤ人に伝道

パウロは、ローマについて、軟禁されて番兵付きの自分たちで借りた家に住むことができました。外に出て活動することはできなかったようですが、自宅に人々を招いて、福音を語ることができました。パウロはここでも、異邦人に福音を語る前に、まず、ユダヤ人に神の国のことを語っています。兄弟たちと呼び掛けて、パウロはなぜ、ローマで裁判を受けるために連れてこられたかを説明しました。ローマ人も自分の無実を認めたが、ユダヤ人たちが反対したためにやむなくカエサルに上訴したことを説明しました。そして、自分は「イスラエルの望み」のためにユダヤ人から訴えられているのだと説明しました。長老たちも、「この宗派についてはいたるところで非難があるのを知っている」というのです。そして、直接パウロから話を聞きたいと言い、皆が集まる日を決めて帰って行きました。

イスラエルの望みを語る

パウロは福音を語りました。パウロは心をこめ、言葉を尽くして、イエス・キリストにより成就した神の救いの全貌を旧約聖書から説明しました。ユダヤ民族は選民思想を持っていました。ユダヤ民族は、かつての歴史の中で、エジプトで400年間奴隷として扱われていましたが、神の大いなる御業により解放されました。それにもかかわらず、度重なる民の不信の罪により民は祖国を追われて離散の民となりました。常に、祖国は大国に支配されて、虐げに苦しんでいたのです。歴史を振り返り、ユダヤ人たちは自分たちの過去を反省しました。神の律法を軽視して真の神から離れ、偶像礼拝に走ったことの結果としての今があると考えていたようです。そして、その反動から、彼らは律法を守ることに集中し、律法主義に陥ったのです。大国の支配下にあっても、彼らは望みを持っていました。それは、アブラハムに与えられた民族祝福の約束と旧約聖書に預言されたメシヤ、民族をローマの圧政から解放してくれる政治的な救い主です。そこで、パウロは、イエス・キリストこそがイスラエルの望みであるメシヤであると説得しました。そしてこの救い主はイスラエル民族に与えられて、世界のあらゆる民族にも及ぶ救い主であることを説いたのです。ところが、ユダヤ人たちは、律法の表面的な規定を破っていたイエス・キリストを異端者と決めつけました。さらに、イエスが自分を神と言ったので、それは神への冒涜だと責め、十字架で亡き者にしたのです。人は生まれながら「律法主義者」であると言われます。すなわち、だれでも自分の成績、実績に自分自身の存在意義を置くのです。どこまでも、人間は自己の中にある何物かを誇ろうとするのです。それが人間の本質です。ユダヤ人たちの律法主義に対して、パウロは、ユダヤ人の先祖アブラハムは律法の行いによってではなく、彼の信仰によって義と認められたことを話しました。アブラハムは内向きではなく、すべてを益と変えてくださる神を見上げていました。パウロは行いによる義ではなく信仰による義を説きました。律法を守ることによっては、かえって自分の罪を示されるのです。なぜなら、律法の要求は外側でなく心の内側に向けられているからです。律法を守ろうとすると逆に守ることができない自分を知らされるのです。そして、罪を悔いて神を仰いで赦しを得るのが正しい信仰であると説いたのです。神をないがしろにしてきたことお悔い改め、思いを変えて真の神であり父である方に帰るのです。そして、キリストを信じる事こそ、天地万物を造られ、私たちをつくり、愛している神に立ちかえることであると説いたのです。

福音が異邦人へ広がる

パウロの説得による結果、「ある人々は信じた、ある人々は信じようとしなかった」のです。イザヤ書の預言の通り、イスラエルの民へもたらされた救いはもはや、彼らが受け取らず拒否したために異邦人に送られたのです。「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」で終えています。パウロは、その後スペインへ行ったかどうかわかりませんが、紀元67年ころローマで捕えられて処刑されたと言われています。神は御子のいのちに代えてこの救いの道を備えてくださいました。ここに神の真剣さと熱心さが見えます。この使徒の働きはここで終わっていません。全世界に福音が届けられつつあります。神のみことばはその通りになることを示しています。神の真剣さと熱心さは私たちに向けられています。神のものとされた私たちも、真剣さと熱心さをもって神に応答していきたいと思います。

聖徒であり主の弟子として歩む

2016年06月19 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き19章8~20節
19:8 それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。
19:9 しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。
19:10 これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。
19:11 神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。
19:12 パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。
19:13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
19:14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
19:15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。
19:16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。
19:17 このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。
19:18 そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。
19:19 また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。
19:20 こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。

<要約>

聖徒として弟子として生きる

パウロ一行はエペソにつきました。パウロは、いつものように、最初にユダヤ人の会堂で、パウロは三か月間大胆に、神の国を語ったのです。その中で、信じた人々も起こされました。しかし、ある者たちはかたくなになり、み言葉を聞き入れずに、会衆の前でこの道を罵ったのです。弟子たちと一緒に出て行ったのです。教会では、クリスチャンのことを弟子といいます。イエス様についていく人が弟子です。弟子は、いつも師と共にいて、師から学び師に仕える者たちですね。弟子はいつも師から学び続ける人です。私たちもいつも聖書を学んで、イエス様のみこころを知ることを続けましょう。もう一つ、信者は何と呼ばれているでしょうか。エペソ人への手紙によると、信者は永遠のみこころによって聖徒として召されているということです。信者はキリストの弟子、聖なる人、神から選ばれた聖い人です。でも依然、私たち信者はたくさんの問題を持っています。罪を犯します。失敗もよくします。不信仰になります。イエス様は、「この世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしは世に勝ったのです。」と言われました。私たち信者は罪人である自分から目を背けてはいけません。直視しながら、同時に、この聖徒であり弟子であるというアイデンティティーに生きるのです。

聖霊の働きと奇跡

パウロが身に着けている手ぬぐいや前掛けを外して病人にあてるとその病気が去り、悪霊は出て行ったというのです。この当時は、そのような驚くべき奇跡が日常のこととして起こったのです。それは、顕著な聖霊の働きです。新約聖書が完成される前の時代、当時の人々が信じるために見える形で聖霊の働きが現れたと考えます。ここで見られる奇跡は、それを通して人々が真の神を信じるためでした。今、聖書が完成した現代は、不思議な現象を見なくても、聖霊が働いてイエス・キリストを信じることができます。現代もパウロのような奇跡は見ないかもしれませんが、奇跡は常に起こっています。人が悔い改めてイエス様を信じるということは最大の奇跡です。今から20年ほど前のことです。家内の父親が危篤なのですぐ来るようにということでした。義父は、呼んでも反応がない状態です。医師からは脳こうそくだということでした。親戚家族が集まっていました。私には、みことばが与えられていました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と。教会でも祈ってい頂きました。そうしたら、それから6か月後には杖をついて自分で歩いて盛岡に来たのです。そこで、義父は、自分が危篤であったときのことを話してくれました。ある夜、枕辺に立つ人がいて、「生きなさい」と自分に声をかけたそうです。そんなことが三回あったそうです。そうして、その通り、自分は元気になったと話していました。その尋ねてきた方はイエス・キリストであると気づいたのです。義父は次の日曜日に洗礼を受けて救われました。奇跡は今も起こっています。信じて踏み出すと、信じてキリストに従うときに私たちの手を用いて奇跡が起こされるのです。それは聖霊のみわざです。

神への恐れから罪を悔い改め生きる

スケワと7人の息子たちは、裸にされるほどに暴力的な仕打ちを悪霊から受けたのです。彼らは神の名を私利私欲のために用いたのです。現代社会はこの恐れを失った社会だと思います。なぜなら、現代社会は神を認めないので、神を恐れることもなくなってしまいました。そのような中で、人間関係は希薄化しています。人間疎外、孤独、孤立化が特に高齢者で見られます。独居老人もふえています。子どもは親の面倒を見ない社会です。近所の人がわからない、他人に関心がない。離婚率の増加。結婚倫理の喪失、不倫が珍しくない社会通念。そのためにどんなに多くの人々が傷つき悲しんでいます。それに対する神の悲しみと怒りも無視してはいけません。聖書は、神を恐れ、愛し、信頼しなさいと勧めます。しかし、神はそのような失われた人間を探しておられます。一匹の迷子の羊を求めて、99匹を野に残して探し求める羊飼いのように失われた人を探しておられるのです。神の愛は、神の怒りを凌駕しました。神は、人間を愛して、滅んでしまうのを惜しまれて、御子イエス・キリストを送ってくださいました。そして、人間の罪に対する神の怒りを十字架上の独り子イエスに落としたのです。イエス・キリストの身代わりによって人間の救いの道を開いてくださいました。その動機は、神の愛です。今日も、教会を通して、神は招いておられます。イエス様を信じて、永遠からの神のみこころである救いを受け取りましょう。神はあなたを聖徒として選び、弟子としてお用いになるのです。問題の多い現状から目を背けてはいけません。むしろ直視して、主の弟子としてこの時代にあって愛の実践をしていくのです。それが、聖徒であり弟子である者の使命です。

神中心の人生へ転向

2016年06月12 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き17章16~34節

【新改訳改訂第3版】
使
17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。
17:17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
17:18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。
17:19 そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。
17:20 私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」
17:21 アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。
17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
17:29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
17:34 しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。

<要約>

アテネ人と現代人

アテネ人は現代人と似ています。アテネは知的活動が活発な都市でありました。哲学、芸術、科学の町でした。人々は面白い話や興味のある話に飢えていました。すなわち情報に飢えていたということです。現代人も情報を求めています。そういう点では、アテネ人も現代人も新しい知識を求めているということです。知性を満足させようと知識を求めるのです。そこで、文明や科学が生まれました。科学は人間中心の知的活動です。そこから生み出されるのは人間中心の世界観です。パウロが説いた復活は、普通起こりえないことです。だから、アテネの人々は、そんな愚かなことと言って話を聞かなかったのです。現代人も同じです。人間の知性が最も求めているのは、なんといっても人間の起源でしょう。あるいは、万物の起源でしょう。どうして世界ができたのか。創造主なる神を認めない人間は、進化論に行きつきました。世界は偶然の積み重ねによって下等な生命が生まれ、さらに偶然が繰り返されて、環境に適合して進んだ者たち、進化したものたちが世界を支配していると考えました。現在、進化論は自然観察の中で実証することができないので、仮説の域を出ていません。進化論にはかなりの無理があると多くの科学者が気づいています。そこで、新しい理論ができました。それが、インテリジェントデザイン論です。宇宙万物、そして、すべての生物は「知的存在によりデザインされてできたのだ」という理論です。この知的存在は、聖書に、「初めに神が天と地を創造した」の創造主の神を表していますが、博士と言われる人々は、プライドにかけて、神を認めるわけにはいきません。アダムの罪以来、人間中心の世界観が世界を覆っています。人間が主となっている世界です。それは、はっきり言って、人間が神となっていることです。

パウロの伝道説教

パウロはアテネの人々に世界の創造主なる神について語ります。神が私たちを必要としているのではなく、私たちが神を必要としているのです。なぜなら、神がすべての人にいのちとすべての必要を与えておられるからです。人間は、自分のいのちのことも自分ではどうにもなりません。神が定めておられる間この地上で生きるのです。ひとりの人からすべての人ができた、と聖書は語ります。それも神はご自身に似せてつくられたひとりの人です。人類の先祖は神に似せてつくられた特別な存在です。しかし、現代の日本の学校教育では進化論に則り、サルから人間に進化したと教えます。ですから、進化論は人間の自尊心を傷つけるだけです。進化論からは人格教育は生まれてきません。人間は神の中に生きているにもかかわらず、心は神から遠く離れています。それは、最初の人アダムが「あなたは神のようになれる」とサタンにそそのかされて、神の地位に自分を置いたからです。その人間の高慢の罪によって、霊的ないのちは失われたのです。それ以来、愚かにも人間には神に対抗して神に負けたくないという潜在意識があるのです。ですから、創造主なる神を拝まず、自分の欲望を自分で作った偶像に投影して、それを拝んでいるのです。その結果、神から遠く離れているのです。それが、アテネ人、現代人を代表とするすべての人類なのです。やがて、復活したキリストがすべての人間について、正義の裁きを下すのです。あなたが、神の前で正しいか、正しくないか、すなわち罪があるか罪がないかを判定するというのです。そして、罪ありと判定された者は、それは恐ろしい、永遠の滅びへ落とされるというのです。すなわち、神から離れているすべての人は自らの罪により滅びるのです。神は愛とあわれみをもってすべての人をおしんでおられます。そこで、罪のない神の御子が十字架で人間の罪の裁きを代りに受けてくださいました。そして、信じる者は罪なし、すなわち義であると宣言してくださるのです。キリストが和解となってくださったのです。

人間中心から神中心へ

神は、私たちすべての人間に、「悔い改め」を命じておられる。すべての人は、自らの罪に気付き、「このままではいけないのだ」と思い、罪を悲しみ、思いを変えて神を信じなさいというのです。悔い改めという言葉は、メタノイア、思いを変える、という意味です。考え方、価値観の転回です。人間中心から神中心です。コペルニクスの時代に、天道説から地動説に大転回が起こりました。今、すべての人に求められているのは、人間中心から神中心への転回です。具体的には、悔い改めて、キリストを信じることです。思いを変えて、神であるキリストに人生を導いていただくことです。自分で頑張って生きる人生から神に頼って生かされる人生への転回です。そして、神のいのちとつながるいきかたです。それは聖書が約束する永遠のいのちです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

 

祈りと賛美が状況を変える

2016年06月05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き16章12~34節
16:12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。
16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。
16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。
16:16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
16:17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。
16:18 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

<要旨>

神のご計画

私たち人間が立てる計画と神のそれとは違っている事がよくあります。パウロとシラスは困惑しながらいったん北上し、その後西の方へ移動します。そして、トロアスに着きました。そこで、「マケドニヤに助けに来てほしい」という幻を見たのです。トロアスは地中海沿岸にある古い都市で、海を渡ればすぐマケドニヤです。パウロは、「主はこの幻を見せるために私たちをこのトロアスに導いたのだ」と確信しました。マケドニヤ地方の第一の植民都市であるピリピに到着し伝道しました。そこで、信仰に入った人々や家族が起こされました。そこにピリピの教会の誕生を見ます。神はみ心の全様を前もって示すのではなく、一歩一歩目の前のことを示されていくことが多いのです。それは、私たちが神を信頼して歩むためです。次がわからない、でも目の前の一歩は示されているということです。ずっと後になって、振り返ると主が私に歩ませてくださった地は乳と蜜の流れる地であったことがわかるのです。クリスチャンライフは、結果オーライの人生です。最終的なゴールは天の御国です。永遠のいのちです。想像できないくらい素晴らしい天国です。そこに至るまで、聖霊は、みことばを灯台のようにして、私の道の一歩先を示してくださいます。勝利のゴールは約束されています。その根拠は、十字架です。イエス様が神の子としての身分を捨てて、十字架で人間の罪の身代わりとなってくださったことにより、罪を取り除いてくださいました。そして、神との関係回復の道が完成されました。最初の人アダム以来受け継いできた罪がとりのぞかれたことにより、神との関係は創造の最初の秩序に戻ったのです。イエス・キリストを信じる者は神の子どもとされる特権を与えられる、とある通り、天の御国は信者のものとなるのです。

拘束されたパウロとシラス

ピリピの町で、宣教していたパウロたち一行にまとわりつく若い女性がいました。パウロはこの女性から悪霊を追い出しました。彼女の主人たちは彼女に占いをさせて儲けていたようです。悪霊が出ていくと女性は正気になって、占いをする力もなくなりました。彼女の主人たちは儲けるのぞみがなくなってしまいました。彼らはそれを恨んで、言いがかりをつけてパウロとシラスを訴えるのです。長官たちは二人をよくとり調べることもせずにむち打ちの刑に処して、牢に入れました。彼女は悪魔の奴隷でありました。そして同時に、複数の人間の奴隷でもありました。罪は人間を道具として、彼女から搾り取るのです。人間を自分の利益のために利用するのです。それは、人を自分の思うように使い、支配したいという欲望です。私たち人間が持っている罪の性質です。パウロとシラスは、何度も鞭で打たれて、役人は二人を奥の牢に入れて、足に足かせをかけて厳重に番をさせたのです。しかし、真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ神を賛美し続けていました。彼らは静かに祈り、人が聞き入るような美しい賛美をささげていたのです。彼らは、主の臨在を覚えていたのでしょう。「主に信頼していこう。必ず主は助け出してくださる。」と信じる信仰が与えられていたのです。苦しくて悲しいときにこそ、祈りと賛美が必要です。苦しみや悲しみに会うときにこそ神は近くにいてくださり、私たちを強め慰めてくださるからです。私たちは苦しい悲しいときにこそ聖歌を開いて、そして神に祈りましょう。神は必ずあなたの近くにおられてあなたにみことばを与え、生きる力で満たしてくださるのです。

看守一家の救い

突然、強大な地震が起きました。慌てて駆け付けた看守は牢の扉が開いているのを見て、皆が逃げてしまったと思い絶望します。そして、即座に自殺しようとするのです。その時、パウロの声が彼の耳に入るのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と。看守は彼らの前にひれ伏して、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言いました。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。看視は、思わず、彼らを神と思ったのでしょう。「救われるために、何をしなければなりませんか。」それに対して二人は、主イエスを信じなさいと答えました。そして、彼と家のもの全部に主のことばを語りました。当初看守は絶望して、死ぬより仕方がないと思い、腰に帯びた剣を抜いて自害しようとしました。家族のことが心に浮かんだでしょう。自分が死んだら、妻や子どもたちをだれが面倒見てくれるだろうか。その時に「自害してはいけない」そして、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とのことばを聞いたのです。そしてその通りに、看守の家族は全員バプテスマを受けて救われたのです。この時以来、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」のみことばは、家族の救いを願うすべての信者に約束として与えられています。私たちは、この約束を信じて祈っていく必要があります。私の家族を考えると、一人ひとり神様は救いに導いてくださいました。私たちは、家族の救いのためにどんな困難と思われる状況も主が開いてくださると信じ、主を信頼して毎日祈りましょう。