クリスチャンと成長する教会

2016年05月29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き11章19~30節

11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。
11:28 その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。
11:29 そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。
11:30 彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

<要約>

最初の異邦人教会

ステパノのユダヤ人たちによる迫害によって、信者たちはエルサレムから散らされて、異邦人の地に行きましたが、ユダヤ人以外には誰にもイエス・キリストのことを話さなかったのです。イエス様の救いが全人類に及ぶものであることまでは理解が進んでいなかったようです。ところが、北の大都市アンテオケに移り住むようになったユダヤ人たちはユダヤ人以外にも福音を伝えるようになりました。そこでは、多くのギリシヤ人たちがイエス・キリストのことを信じたのです。そのことを聞いたエルサレム教会は聖霊と信仰に満ちた人バルナバをアンテオケ教会に派遣します。そこで多くの人々が救われて、バルナバは、パウロをアンテオケに連れてきて、一年の間、アンテオケ教会の信徒を訓練するのです。キリストこそ全人類の罪を贖ってくださった方であることを大胆に伝えました。十字架と復活により、罪の赦しと、それに伴う永遠の命の約束が与えられます。自然界も人間の罪により呪われたものになったと聖書に書いています。そのため、自然界は秩序を失ってきています。地球温暖化も自然災害もその通りです。私たちの世界は、不条理と思われることで満ちています。最大の不条理は、人間は死ぬということです。聖書は、人間は肉体のいのちを失った後、霊は神の前に立たされて、罪に対する裁きがなされると書いています。ですから、死に対して漠然とした恐れがあります。同時に、人間には、永遠を思う心があります。決して変わらないもの、一点の偽りもない真実なもの、決して見捨てない方、永遠に続くもの、絶対者である神へのあこがれです。そこで、父なる神がそのひとり子イエス・キリストを人間の罪の裁きの代価として十字架にかからせたのです。キリストの身代わりの死によって罪は取り除かれました。信じる者は罪赦されて神と和解し、神に近づくことができるのです。神の動機は、愛です。聖書は、私たちが想像し経験するすべての不条理を覆い包む方、決して見捨てず、最後まで愛し貫いてくださる方、永遠なる方、絶対なる方、真実な神、一点の汚れもない聖い方、がおられて、あなた個人を愛していると宣言しています。

主の恵みにとどまる教会

バルナバは、アンテオケの教会を見て、「神の恵みを見て喜んだ」のです。アンテオケ教会には、当時、迫害を免れて祖国を去って来たユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがおりました。両者の間には生活習慣に大きな違いがありました。異邦人クリスチャンには、割礼や食物についての規定はありません。ユダヤ人の信者の場合は、割礼を受け、様々な律法の規定に生きていました。そこで生じたのは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの対立です。そのような状況も読み取って、エルサレム教会は信仰と聖霊に満ちたバルナバを派遣しました。バルナバは、ユダヤ人と異邦人との問題を取り上げるのではなく、「神の恵みを見て喜んだ」ことです。そして、みな心を固く保って、常に主にとどまるようにと励ましています。教会には様々な問題があります。罪人の集まりですから、反対やつまずきなどもたくさん起こります。しかし、私たちは、そこに神の恵みを見ていくということが大切です。これは個人の人生においても同じです。人生の旅路は困難や戦いはつきものです。しかし、文句を言うのでなく、神の恵みを見ていくという視点がその人の人生を変えます。

隣人愛と宣教に生きる教会

エルサレムから預言者アガポが来て、飢饉が起こると預言しました。そこで、アンテオケ教会は救援の物資をユダヤに住んでいる兄弟たちに送ることに決めました。彼らはそれぞれの力に応じて捧げました。それは祝福される教会の姿です。これは祝福されるクリスチャンの姿とも言えます。イエス様は、クリスチャンにすべての律法を包括する教えとして、次のように言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』そして、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」と。全身全霊をもって真の神を愛しなさい、そして、自分のように隣人を愛しなさい、というのです。この後、アンテオケ教会は宣教師を送りだします。このように教会の使命は、隣人愛の実践と宣教ということになります。これはクリスチャン一人一人に託されている使命と言えます。

回心し主の恵みに生きる

2016年05月22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き9章1~22節
9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
9:12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
9:21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

<要約>

残酷で無慈悲なパウロ

サウロは、宗教人としても誰にも負けない律法の知識と神への忠誠心を持っていました。さらに、ローマの市民権も持っていたので、エリート中のエリートでした。パウロの誇りは律法の順守です。自分自身について、「律法による義についてならば非難されるところのない者」だと言明したほどです。そのサウロが「あなたは律法を守っていない、聖霊に逆らっている」と言われて怒り心頭に達して、この道のものを迫害することに熱心になったのです。人間の誤った熱心は、どんなにか恐ろしいものであるかを示しています。当時、パリサイ人や律法学者という人々は、律法を守っているので、神の前で正しい、すなわち、義であると自らを考えていました。神に近づいていると錯覚していますが、実は神から遠く離れているのです。神を喜ばせる信仰ではなく、自己中心の信仰です。彼らにはキリストの十字架は必要ない、十字架に敵対して歩んでいると言えます。律法は神のみこころですので、律法を守ろうとするのは良い事です。その時に、律法を守ろうとしても守ることのできない自分の心の罪に気付き、謙遜にされるのです。そして、神を見上げ、神の恵みの中に生きようとします。それが、神との正しい向き合い方です。しかし、律法主義は、「自分自身の義を立てようとする」ことです。すなわち、自分を神の前で正しいと自己主張するのです。自分は律法を守っていると誇示するのです。パウロ自身は熱心に律法を守り、そして、律法による義なら非難されるところがないとまで言いきりました。しかし、心の罪には気づかなかったのです。回心の後、パウロはそのことに聖霊により気づいたのです。

呼んで会ってくださるイエス様

イエス様から「サウロ、サウロ」と呼ばれたこのダマスコ途上の出来事が使徒の働きの中に三回記されています。パウロは、生涯この事件を思い起こしては慰められて励まされていたのだと思います。パウロは、様々な試練や問題に突き当たったとき、イエス様とお会いしたことを思い起こしては何度も強められたのです。皆さんもパウロほどの劇的な体験はなくても、イエス様とお会いした時、回診したとき、あるいは洗礼を受けた時を思い起こすのです。そして、神様の恵みと憐れみを思い起こして立ち上がるのです。それがクリスチャンライフです。パウロは、アナニヤの祈りによって目が開かれるとすぐに、「イエスは神の子」であると諸会堂で述べ伝えました。聖霊ははっきりとパウロに、イエス様は神の子であり救い主であることを伝えたのです。パウロは「では、なぜ、神が十字架で死ななければならなかったのか」という問いについて、多くの日数の間、アラビアに退いて聖書を読み直したのではないかと想像します。神の御子が人間の罪のためになだめのかおりの供え物になったのです。かつて、イスラエルでは、罪を贖うために傷のない動物を神殿に携えて、自分の罪をそれに着せて、殺し血を流しました。それにより、祭司はその人の罪は赦された、と宣言します。それらは律法に定められてきたことですが、罪のない神の子イエス・キリストの十字架の予表であったのです。動物は何度も贖いの代価としてささげられたのですが、イエス・キリストは人類のすべての罪の代価としてただ一度だけ十字架で身代わりとなって死んでくださった事によりそれを信じ受け止める者の罪は赦されて永遠のいのちに与るのです。神のみこころは私たち人間が聖くなることです。すなわち、罪汚れのないものとして、神の前に立つことです。しかし、律法によって、人間は神の聖さから遠く離れていることに気付くのです。神と人間の間の隔ての壁になっているもの、それが人間の罪です。キリストの十字架によって、罪が取り除かれてはじめて、神の前で聖いものとされるのです。

主のために苦しみ喜ぶパウロ

神はパウロが、キリストの名のためにどんなに苦しまなければならないかをパウロに示すつもりであると言われました。イエス様に選ばれたものは苦しまなければならないということです。それはパウロのことで、私たち一般のクリスチャンには関係ないと言わないでください。聖霊は、このみことばを読者一人ひとりに投げかけておられるのです。イエス様を信じ、洗礼を受けて、聖霊をいただいたものは皆、聖書のことばは一点一画も落ちない、すべてのことばは神の霊感によって書かれたものであると信じなければなりません。クリスチャンは、神から特別に選ばれた者たちです。そして、神から使命が与えられています。それが、イエス様を運ぶ器であるということです。大きな器も小さな器もあるでしょう。しかし、すべての信者は器なのです。土の器だけれども、イエス様を運んでいるのです。すなわちイエス様を届ける使命があるということです。イエス様の救いをまだ信じていない人々に伝えるということです。家族、知人に伝えるということです。イエス様の素晴らしい救いです。神のいのちです。他のどのような宝も比べ物にならない祝福です。パウロは苦しみましたが、また、喜んだ人でした。ピリピ人への手紙を読むと獄中から、喜びの手紙と言われるくらい喜びという言葉がたくさん出てきます。本当にパウロは喜びにあふれた人であったのです。これはイエス様を信じる者たちに与えられる特権です。

教会を産み育てる聖霊

2016年05月15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章22~42節
2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

<要約>

聖霊とみことばによる教会の誕生

復活の主が天に昇られるときに弟子たちに聖霊降臨の約束をしました。その後、弟子たちはエルサレムの部屋で120名ほど集まって祈っていました。イエス様の昇天から10日ほどたった五旬節、ぺンテコステの日に、聖霊が弟子たちに下りました。ペテロの説教により悔い改めて洗礼を受けた人が三千人ほどが加えられてエルサレムで最初の教会が誕生しました。教会は、聖霊によって生み出されました。エルサレムで始まった教会はギリシャ・ローマ社会に広がり、全世界に広がり、現在も神の国は述べ伝えられ続けています。この時以降、聖霊の時代が続いていると言えます。ペテロの説教以来、説教の声は教会の中に途絶えることはなかったのです。現在も、全世界の教会で語られる説教を通して、すべての人々に福音が届けられているのです。また、クリスチャンの証を用いて宣教が拡大しています。聖書のことばは食物のように毎日読むように私は皆さんに勧めています。なぜなら、神様は聖書のことば、みことばを用いてお語りになるからです。聖書を読むときは祈り心で読んでいただきたいと思います。そうすると、み言葉が皆さんの心に響き、あなたの生活に行く道を教えてくださいます。

ペテロの説教

エルサレムにはユダヤの祭りのために、内外からユダヤ人たちは大勢集められていました。そのような中でペテロが立ち上がり、説教をしました。ペテロは、イエス・キリストについて語り、十字架と復活を語りました。神があらかじめ人間を救うために計画し、実行されたことでありました。その方キリストは、人類の罪の清めをなし、神の右の座に着かれました。イエス様は全人類の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれ死んでくださった、そして、死んだばかりではなく、神の力により復活して天に昇られた。そして、信じるすべての人を罪と死と悪魔の力から救い出してくださいます。次に、ペテロは群衆に、「約束の救い主イエス・キリストをあなた方は十字架につけたのだ」と断罪しました。ここには、イエス様を十字架につけることには直接かかわっていない人々ばかりでした。お祭りのために外国から来た旅行中の人々でした。しかし、ペテロは「あなた方が十字架につけたのだ」と断罪しました。聖霊は教えています。このペテロのメッセージは当時のユダヤ人だけでなく、全世界の人々、全時代のあらゆる人々に向けられているのです。ですから、ここにおられるあなたに向けられているのです。聖霊は伝えています。罪のない神の御子が極悪非道の者として処刑されなければならないほどに人間の罪は重いのです。人々の悪口は、人の心にある悪い考えから出てきます。心で人を殺し、そして、言葉で殺すのです。高ぶりや愚かさはどうでしょうか。人のことを非難するけど、自分のことは棚に上げているのです。姦淫や不品行はどうでしょうか。四十歳くらいのカップルが妊娠をしたということで相談にきました。彼ら双方ともそれぞれ結婚していました。彼らは自分たちの恋愛を切なく美しいものと思っていたようですが、他の人の目にはそれは非常に不潔で汚いものでした。このように、どんなに汚らわしい事でも、人間は自分のことは純粋で美しく思えるのです。人間の心は腐りきっていると聖霊は指摘しています。「人々はこれを聞いて心を刺され、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』とペテロのメッセージを自分のことと受け止めたのです。罪を示されて悲しだのです。ペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」新しい人に生まれ変わるのです。賜物として聖霊を受けるのです。洗礼を受けると聖霊なる神があなたの中に住んでくださいます。神のいのちが与えられています。永遠のいのちです。十字架により罪の束縛から解放されています。

教会の成長

ペテロは、「この曲がった時代から救われなさい」と勧めます。また、世と調子を合わせてはいけませんと勧めます。クリスチャンはこの世と分離しなければなりません。しかし、世の中に出て行って世の中に浸透していかなければなりません。世の中の人間関係を大切にしながらキリストを伝えていくのです。クリスチャンライフの中心に置くべきことが書かれています。一つは、聖書の教えを学び、それを実行するということです。聖書に生きるということです。二つ目は、「交わりをする」ことです。これは、教会の礼拝に出席して兄弟姉妹の交わりを大切にするということです。次に「パンを裂き」というのは聖餐式です。聖餐式はキリストが定めた特別な恵みと祝福です。これを守りなさいというのです。「祈る」ということは、教会で、家庭で、そして個人の生活の中で、祈り続けなさいと勧めます。クリスチャンライフは決して、難しいものではありません。みことばと聖霊が教えてくださるように歩いていけばよいのです。新しい命に生きる喜びをぜひ自分のものとしていただきたいと思います。

求め続ける者に無限の恵み

2016年05月08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書15章21~28節
15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

<要約>

願い叫び求める信仰

カナン人の女性が、叫び声をあげて、イエス様に近づきます。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と。イエス様は彼女に一言も声をかけないでいました。ここを読んで「えっ、イエス様らしくないよ」と思われたでしょうか。ここでイエス様が黙っておられたのには、意味があったのです。彼女は叫びながらついてくるという状態です。しかし、イエス様の答えは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」でした。すなわち、異邦人に注ぐ恵はないと言わんばかりでした。神は、私たちの信仰を試すためにすぐにはお答えにならないことがあります。その願いが本物であるかを見られるのです。彼女は、カナン人であると書いています。カナンにはバアルとかアシュタロテ等偶像の神々があります。魔術師もいました。そのようなものの一つとして、イエス様を見ていた可能性があります。この女性は結果的には違いました。しかし、次の様にして近づいてきた人も多くあったと思います。「イエスという方は悪霊追い出しの特技を持っているそうだ。そのご利益にあやかりたい、とにかく、ひれ伏して大声で叫んでみよう。もしかしたら、通じるかもしれない」と。利益追求の信仰は、人格的交流がありません。神は人格を持っておられます。そして、人格的交流を求めておられます。わたしたちの創造主で父である神の求めは、私たちが神を恐れ、愛し、信頼することです。神以上に大切に思っているものを持ってはいけません。何にも増して神を優先しなければなりません。神を第一にしなければなりません。それが、神が私たち人間に求めていることです。イエス様は、この女性の信仰を試されました。一旦、イエス様はこの女性の申し出を断った形です。しかし、女はその冷ややかな応答にもめげず、「主よ。私をお助けください」と食い下がりひれ伏して懇願します。

立派な信仰

この女性は、主のみこころにかなう応答をしました。自分が子犬であることを受け入れて、謙遜にされて、機知の富んだ返答をしました。この女性は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」「イエス様が子どもたちのパンを取り上げて子犬に投げてやるのは良くない」と言われたとき、この女性は、とっさに食卓での状況をイメージました。食卓のテーブルに向かって子どもたちが座って食事をしています。そのテーブルの下で、しっぽを振りながら子供たちを見ている子犬です。それは、野良犬ではなく愛玩用のペットです。この女性は、現にメシヤがこの異邦人の地まで来ておられるという事実を見て取ったのです。そして、こう言いたかったと思います。「メシヤが、選民であるイスラエルの民のために来られたことを十分に承知しています。ですから食卓に着くべきは選民です。しかし、選民が十分に食べた後、主人に愛されている子犬が食卓の下にいます。余ったパンをいただいてもいいではありませんか。イエス・キリストの救いはイスラエル民族を超えて異邦人の世界にもあふれ出ているのではないですか。」この女性はこの真理をつかみ、とっさに機知に富んだ返答をしたのです。イエス様は、彼女に応えて、娘は癒されました。私たちクリスチャンも執拗に熱心に祈ることを主は勧めています。求め続ける時に、逆に信仰が強められるのです。神に試みられるとき、求め続けます。それは忍耐がいることです。忍耐するときに練られた品性が生まれ、練られた品性は希望を生み出すのです。この世にあって、様々なことが起こります。でも、失望しないで、主に祈りましょう。諦めないで主を求めましょう。主はそのことを勧め、また、そのような信仰を喜んでくださっているのです。

無限の恩寵に生きる信仰

神はアブラハムを選びました。アブラハムの子孫であるイスラエルを祝福し、次にイスラエルを通して、世界の諸民族を祝福すると約束されました。イエス様もその順序に従い、イスラエルに神の国の祝福をもたらしました。しかし、イスラエルがメシヤであるイエス・キリストを拒んだので、異邦人にこの福音は届けられてすさまじい勢いで全世界に広がっているのです。この女性は、神の恵みが異邦人にも及んでいることを直感していたのでしょう。そして、神の恵みが豊かであることも信じていたのでしょう。食卓から落ちるパンくずもパンに変わりはないのです。この女性は、自分の子どもの癒しのために大胆に主に求めたのです。自分は恵みを受ける資格のないものかもしれないが主のあわれみは尽きないはずだ、余ったパンの信仰です。その信仰を主は誉められました。キリストの救いの恵みは尽きることがなく無限の恵みであるということです。イエス様の十字架は全知全能の神の完全な行為です。異端は、イエス様の十字架は神の失敗であると言います。絶対そんなことはありません。イエス様は神で全く罪のないお方でした。全く罪のない神が人類のすべての罪を負って身がわりとなってくださった。これは完全な神の完全な行為です。キリストの罪の赦しの無限性であります。すなわち、どんな罪でも赦されるということです。福音の無限の恩寵です。無限の恩寵というのは、あなたの未来に向けられていることです。過去を振り返るのはやめましょう。過去の罪はすべて赦されたのです。あなたがイエス・キリストの十字架を信じ続けるならば、未来にわたって永遠にあなたは神の恵みの中に生き続けることができるのです。無限の恩寵に対する応答は無限の感謝です。

失われた人を探し新しくするイエス

2016年05月01日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書19章1~10節
19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
<要約>

失われた人ザアカイ

税金を取り立てる取税人は、ローマの手先となって民から税金を徴収するので嫌われていました。そして、彼らは決まった額以上に取りたて、私腹を肥やしていたようです。ザアカイは金もうけに人生をかけていた人です。お金があれば何でも手に入ると思っていました。それで、人一倍努力したでしょう。しかし、ザアカイは孤独でした。人々からはのけ者にされていたからです。ザアカイという名前は、正しい人という意味だそうです。日本人の名前で言えば、義人というところです。彼はユダヤ人ですから、律法も、十戒も知っていました。かれは人からお金をだまし取っていたのです。最初は、罪責感もあったと思いますが、自己正当化をして罪の意識もなくなってしまったのです。本来良心が私たち人間に心の叫びとして罪を示し、神のみ心を教えます。しかし、受け継がれた罪により、私たち人間の良心は全く曇ってしまっています。あるいは良心はマヒしています。十戒は心の鏡として、私たちに罪を教えるのです。十戒は神のみ心です。十戒は神の要求です。そして、十戒は、人間のうちにあるすべての罪を探しだすのです。十戒はすべての人に鋭く罪を指摘し罪に対しては容赦のない裁きを下すと言うのです。ですから、「神を恐れることは知識のはじめです」と箴言にありますが、子供から大人まで、神を恐れることを学ばなければなりません。そして、罪を放っておくことはできないこと、日々イエス様の十字架を仰いで罪の赦しを受ける必要があることを知らなければなりません。ザアカイの姿は、神から遠く離れた人間の姿です。神を無視し、神のみ心を求めることもない人間の姿です。神のいのちを持たない、あるいは神のいのちを失った人間は、どんなに富やお金、あるいは社会的な名誉や地位を得ても真の満足はありません。アウグスチヌスは言いました。「人間の心には造り主である神にしか満たすことのできない空洞がある。」と。その空洞を満たそうと人はいろいろなものを求めます。しかし、創り主である真の神以外はそれを満たすことができないのです。ですから人間が求めるものはみな神の代用品です。富も名声や地位も神の代用品です。心がむなしくなって、真の神ではない神、偶像を求めるのです。一時的に満たしてもすぐ渇くのです。なぜなら、人間は創り主のために造られたからです。ですから、創り主である神を知らず、神から離れている人間を、聖書では「失われている」と言います。

探して声をかける イエス

そのザアカイが、そこを通られるイエス様を何とか見たいと思いました。イエス様については、取税人や遊女や罪人と言われている人々を差別することなく、むしろ彼らの友として歩んでくださった。そのような人々に近づいてくださる愛の方であると聞いていたでしょう。自分のようなものを受け入れて愛してくださるだろうか。走り出てイエス様が通られる道端にあるイチジクくわの木に登って待っていました。イエス様は、上を見上げて、「ザアカイ、降りてきなさい。」と名指しで声をかけられました。ザアカイは大喜びで降りてきました。考えてもいない突然のことでした。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と。「あなたが私を選んだのではない。私があなた方を選んだのです。」とある通りです。私たちは自分でイエス様を信じたと思っています。しかし、イエス様の方から私たちを選んでくださったのです。私たちに声をかけてくださったのです。ザアカイは今まで登る人生でしたが、これからは下る人生に、集める人生から与える人生に変えられたのです。今までは出世をすることが目標でした。それが、へりくだり謙虚になってみこころを行うことが目標となったのです。ザアカイは立って、主に言った。「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」それは、ザアカイが福音の素晴らしさを見出したからです。人は罪を指摘します。しかし、イエス様はザアカイの罪を指摘するよりもザアカイを救いに導いたのです。最初に、彼を呼び、受け入れ、今日、あなたの家で泊まることにしているからと言って、ザアカイに愛を示したのです。イエス様が、人を裁くためではなく救うために来られたと言われた通りです。そして、イエス様は、失われた人を捜して救うために来たのです。ザアカイは、心のあるいは霊の空洞を埋めるものを求めて、これまで、懸命に生きていたということもできると思います。イエス様が彼を探して彼の罪を赦しその心に聖霊を与え、永遠のいのちをお与えになったのです。

救いの祝福を分け合う人生

ザアカイは、イエス様に呼ばれて、イエス様を神と信じて、自分の罪を赦していただきました。ザアカイは、救いの福音の素晴らしさを発見しました。福音は良い知らせです。グットニュースです。それは人間の耳に、そして心に全く新しいことです。神が人となって来てくださり、人間をその罪の縄目から救ってくださったこと。そればかりでなく、私たち一人ひとりの罪を贖い清めてくださったこと。そのために神のひとり子が全人類の罪を引き受けて身代わりとなって十字架で死と呪いの裁きを受けてくださったことです。そのことを信じて受け入れる者は救われて、神の子とされる、天国の一員となる、永遠のいのちが与えられるということです。天国行の切符をいただくということです。福音は天国の国籍をいただくこと、ともいえます。天国の素晴らしさを教えるためにイエス様はたとえ話をされました。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、良い真珠を捜している商人は、すばらしい値うちの真珠を一つ見つけて行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。福音の素晴らしさを本当に知ったら、持ち物全部を売り払ってもそれを手に入れようとするというのです。それほど、素晴らしく値打ちのあるものなのだ、ということを教えているのです。そしてそれは、無償で神が与えてくださると聖書は述べているのです。イエス様は、それを所有しなさいと勧めています。イエス様が完成してくださった十字架の救いを信じることです。あなたのために十字架で死んでくださったことを素直に信じ受け入れることです。これからの人生は神に信頼し、神に頼っていくのです。新しい生き方です。また、天に宝を積む生き方です。自分の利のためではなく、神と隣人の利のために生きることです。そのように生きるなら祝福されると約束しています。是非、この新しい人生を選び取って行っていただきたいと思います。