キリストの支配に移された男

2016年04月24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書8章26~39節
8:26 こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。
8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。
8:28 彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」
8:29 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。
8:30 イエスが、「何という名か」とお尋ねになると、「レギオンです」と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。
8:31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。
8:32 ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。
8:33 悪霊どもは、その人から出て、豚に入った。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。
8:34 飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。
8:35 人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。
8:36 目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。
8:37 ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。
8:38 そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。
8:39 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

<要約>

イエス・キリストは圧倒的な勝利者

イエス様はゲラサ人から悪霊を追い出すために、湖を渡ってこられました。イエス様には悪霊を追い出す力がある。悪魔に対しても圧倒的な勝利者であるということを示しています。神は二種類のいのちあるものを造られました。目に見える者と見えないものです。目に見えないいのちの主なものは天使です。天使は、神をほめたたえるために造られ、神のみこころをなし、神が創造されたものに仕える力ある霊的存在です。悪霊とは悪い天使です。ある時、高慢と不従順のゆえにサタンと共に、神に逆らい、神のみこころを拒み堕落した天使で悪い天使です。そして、サタンと言われる悪魔とは、悪霊のかしらで、エデンの園でアダムとエバを誘惑し、続けて神に背き神の子たちすなわち信者に敵対するものです。人間は自分の力では悪魔や悪霊に勝つことはできません。イエス様の力と恵みによって私たちは勝利することができるのです。悪魔は人殺しで、真理がない、偽り者です。すべての悪の策略はサタンから出ています。人間を陥れて、殺すこと、ゲヘナ、すなわち地獄へ落とすことに一生懸命です。また、聖書は、サタン、悪魔は「告訴するもの」であると書いています。罪を神に訴えるのです。クリスチャン達をサタンは神に訴えています。ですから、クリスチャンは、常に信仰が問われているのです。

悪魔の支配下にある人間社会

この世界はこの悪魔と無数の悪霊によって、支配されています。最初の人間の堕落以来、すべての人は罪過と罪の中に死んでいるとあります。現代の人間社会もサタンの支配下にあります。サタンは人類を操り人形のようにして、悪いとわかっているけど、いけないと思うのだけれども、行わざるおえなくしているのです。人類の歴史を見ても、争いと殺戮の歴史と言えます。戦争がない時代はないと言われるとおり、地球上のどこかで絶えず戦争が行われています。テロは民族や宗教を超えて、多くの若者が格差や差別に対する復讐心にかられてアイエスに参加しているのです。悪霊に着かれたゲラサの男から、悪魔の支配下にある人間の様子がわかります。人間は、悪魔や悪霊の支配下にあるとき、このゲラサ人のように多かれ少なかれ罪の力によって苦しめられていると言えます。多くの人々は真のいのちを持っていません。現代では、自分と折り合いをつけるのが難しくなってうつ病など心の病になっている方々も多くいます。また、罪の束縛によって自由を失っています。たばこや酒に飲まれて、やめられないというのは自由を失っているということです。悪い生活習慣から離脱できないのです。もう一つ、今日の箇所で注目したいのは、悪霊を追い出され、正気になった男を見たゲラサ地方の民衆の反応です。彼らはすっかり恐れて、イエス様にこの地方から立ち退いていただきたいと願ったことです。恐れによって、神の子イエス様を遠ざける人間の姿です。現状の安定により、真の救いに心を向けることができない人間の姿です。

神の支配下に移してくださるキリスト

この男は、救われました。これはイエス様の一方的なみわざでした。サタンの支配下からキリストの支配下に移されたのです。イエス様を信じる者は、神により、イエス様の支配に移されているというのです。この男は、悪霊を追い出していもらい、同時に罪の赦しを得て救われたのです。信じる者は神の支配に移されたと言っても、目に見えない世界でのことです。依然としてこの世に生活している者たちです。ですから、イエス様は言われました。「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったからです。」イエス様は信じる者と共にいてくださいます。イエス様は信じる者のシェルターになってくださっています。サタンの攻撃も及ばないのです。今日のお話で、イエス様に対する応答は二通りありました。一つは先ほど述べたゲラサ地方の人々の応答です。イエス様に、離れていただきたいという反応です。もう一つは、悪霊をおいだしてもらった男の応答です。しきりにお供をしたいと申し出ました。しかし、イエス様はその土地にとどまり、福音の証人として、神の大いなるみわざ、そして神の大いなるあわれみを家に帰って話しなさいと命じました。かれは、イエス様のことを夢中で町中に広めたのです。これが私たち、キリストの支配に移された者たちの使命と言えます。神は、聖書を通して、福音に対する応答を求めています。あなたは、近づいてくださるイエス様を拒絶するのか、また、イエス様を信じ従うのか、今日も応答を求めておられるのです。心の中で「はい」といって、喜んで信じて従う者となっていただきたいと思います。

目が開かれ神の栄光を見た男

2016年04月17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書9章1~12、38,39節
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。

9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

<要約>

人生の不条理の中でイエス様に出会う

イエス様一行は旅を続けていました。イエス様は道の途中で生まれつきの盲人に目をとめられます。弟子たちが、イエス様に質問します。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と。それに対して、イエス様は「この人でも、その両親でもない、誰の罪でもない。」と言われました。「神のわざが現れるため、神の栄光が現されるためだ」と言われたのです。このイエス様の言葉は、この盲人にはこれまで聞いたことのない言葉だったのです。一般に障がいは因果応報で罪の結果と考えられていました。人間は不条理なことが起こると、何が悪い、誰が悪いと言って、原因を探求して責める傾向になりやすいのです。しかし、イエス様はそれらを通してあなたに向き合ってくださるということです。悲しみや苦しみを通してイエス様はあなたを招いてくださっているのです。苦しみ悩む者に近づき、悩みの中で神の恩寵である福音を教えてくださるのです。その福音とは、神のみ子イエス・キリストが私たちの身代わりとなってすべての罪を背負い、呪われたものとなって十字架で死んでくださったこと。さらに三日目に復活しでくださったこと。そのイエス・キリストを信じる者は罪赦されて永遠の祝福の命が与えられるということです。決して奪われない復活のいのちの希望に生きることができるのです。

世の光としいて目を開いてくださるイエス様

イエス様はいのちの源、いのちをお与えになる方、いのちの創造者です。私たちのいのちは創造者である三位一体の神から来ています。その方が光となって臨んでくださいます。目の見えない人が見えるようになります。心の闇に光を与えます。物事の本質を照らし真理を明らかにするのです。イエス様は唾で泥を作って彼の目に塗ります。そして、シロアムの池に行って目を洗いなさいと勧めます。その通りに実行して彼は見えるようになりました。これは、イエス様がメシヤ、救い主であることの証明でした。また同時に、見えると思っている者が実は本質を見ることができないことに気付かせるのです。肉体の目は開いていても心のあるいは霊の目は盲目であるというのです。「わたしが世にいる間、私は世の光です」と言われました。イエス様が世にいる間とは、福音の時代を指します。イエス様は目には見えませんが、現代も働いています。世の光として世界を照らし、人々に真理を示して、救いの福音を提供しています。福音を聞ける時代は今のうちだというのです。現代も多くの人が、心の目、霊の目の視力を失っていると言えます。イエス様を信じて目を開いていただきましょう。

神の栄光を見させていただく人生

「この障がいは神のわざ、神の栄光が現されるためのものである」とは、どういうことなのか、彼は、これまで聞いたことのない言葉の意味を考えていました。イエス様が唾で泥を作って目に塗ってくださいました。そして言われた通りシロアムの池に行って目を洗ったのです。神のわざ、それは、輝く栄光の御業です。彼はどんなに喜び踊ったことでしょう。帰って来て、おそらく喜び飛び跳ねていたので、近所の人々や通りがかりの人々も驚いたようです。彼は、彼自身の上に神の栄光があらわされたのを見ました。彼はイエス様を信じ拝し、信仰告白したのです。全盲の福音歌手である新垣勉さんは、1952年に、メキシコ系アメリカ人と日本人の母との間に生まれました。出生後まもなくして不慮の事故で全盲となりました。1歳の時、両親は離婚し、父は米国に帰り、母は再婚し、母方の祖母に育てられました。その後、14歳で祖母を亡くし、天涯孤独の身となりました。ある時、ラジオから流れる教会の讃美歌に心を惹かれて、教会に通うようになり、そこでイエスさまと出会いクリスチャンになりました。この世に生まれ事故で盲目となり、両親に捨てられて、実に不条理な人生を歩んできました。その苦しみを通してイエス様に出会い、そして父親を恨み殺そうとしていたものが、その父に感謝するものに変えられたのです。ここに神のわざの栄光を見るのです。今日もここに集っている方々は、イエス様が招いてくださって、それに応じてきてくださった方々です。あなたを通して神の栄光を現そうとしておられるのです。信じる者に神は栄光の現れを約束してくださっています。信じて、あなたの上に表される神の業を見せていただきましょう。

罪の滅びから見出された男

2016年04月10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書5章1~18節
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」
5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
5:16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

<要約>

罪によって失われた人生

この男はイエス様から、「よくなりたいか」の質問を受けて「はい。良くなりたいです」とは答えずに、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」と言いました。このベテスダの池は間欠泉であって時々、池の水が噴き出る時に最初に池に入った者は病気が癒されるという言い伝えがあったのです。長い間、彼の人生の目標は、池の水が動くタイミングに、一番先に池の中にはいることでした。そればかりではなく、移動することのできない彼のお世話に誰かが来てくれていたのでしょう。誰かが運んで日中は物乞いをしていたのかもしれません。そして、普段はベテスダの池の回廊で雨露をしのいでいたのでしょう。長い惰性の生活の中で、本来の目的を失って、池にはいることが目的となっていました。彼は肉体ばかりでなく、心も病んでいました。誰も自分を池に入れてくれる人はいない。責任転嫁と弁解の人生。人任せで無気力な人生。これは、失われた人生と言えます。イエス様は「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。」と言われました。彼の病は罪と関係していたものの様です。聖書は、病気には罪が起因して起こるものと神の栄光が現されるためのものがあります。現代でも罪に起因した病気はあります。不摂生や暴飲暴食もそうでしょう。悪い生活習慣で起こす病気もあります。自分の身体を正しく管理しない罪です。しかし、最初の人アダムの罪によって人間に死が入りました。それ以来すべての人は、病と死を経験するようになったのです。人間は自分を神の上に置こうとしました。それ以来、人類は神に対抗して歩んできました。創り主である神を認めようとしません。現に多くの人々は神から離れて人生を送っています。その状態が罪の状態です。聖書は、すべての人はその罪により失われているというのです。この男のように、心がやむ、孤独、傷つく、自分よがり、自分さえ良ければよい、責任転嫁と弁解、無気力は、現代も世界中の人々を覆っている大きな問題です。個人レベルでも、民族レベルでも、国家レベルでも、人間を支配しています。

主はみことばにより信仰に火をともしてくださる

なぜ、イエス様は「よくなりたいか」と質問されたのでしょうか。それは、かれに、思い起こさせるためでした。「そうだ、自分は38年前に神に病気を治していただきたいという一心でこのベテスダにやってきたのだ。」イエス様の顔を見上げて、彼は自分の記憶を呼び覚ましたのです。イエス様は、彼の消えかかっていた信仰に火を灯したのです。みことばが「記憶を呼び覚まさせて」、聖霊が、みことばに働いて、私たちの信仰を奮い立たせてくださるのです。また、「死者の中からよみがえったキリストをいつも思っていなさい」と聖書は勧めます。そのためには、私たちは絶えず、みことばを新しく聞く必要があります。イエス様の十字架と復活の救いの福音は、神の行為で人間が作り出したものではありません。それは人間の心には全く新しいものです。前代未聞のものです。ですから、福音は理解できてもひとり子を死に渡された神の傷み、そして、その背後にある神の愛の深さを人間は実感できないのです。神のすべてを人間が説明できないように、福音の素晴らしさの全容を人間は説明できないと思います。ですから、絶えずイエス様の福音を聞いていなければならないのです。そして、聞くたびに新しいのです。毎週説教を聞かなければなりません。毎日聖書を読まなければなりません。なぜなら、信者の信仰生活全体、イエス様との交わり、これらすべてがみことばにかかわっているからです。この男は、「よくなりたいか」と言われて、信仰が与えられました。そして、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」との宣言をいただき、立ち上がったのです。私たちは本当に幸いな時代に生きています。この一冊の聖書を通してみことばをいただいています。みことばは、私たちにイエス様をいつも思い起こさせて、日常の生活の中で様々なことがらに対応できるようにしてくださいます。また、イエス様の十字架と復活に思いをはせて、赦しをいただき強められて、神に喜ばれることを進んで選び取って生きるのです。それがクリスチャンライフです。

罪を赦し立たせてくださる主

この記事と内容が似ている記事がマルコ2章にあります。中風の男が癒された記事であります。四人の友達が屋根をはがして中風の男を床のまま、イエス様の前につり下ろしました。イエス様はその男に「あなたの罪は赦された」と最初言われました。そのあと、「起きて床をたたんで歩きなさい」と言われたのです。すなわち、罪の赦しと病の癒しが宣言されているのです。ベテスダの池の回廊で伏せっていたこの男は、思いを変えて、イエス様の言葉を信じて立ち上がったのです。彼はイエス様から、罪の赦しと救いをいただいたのです。イエス様は、罪によって失われている人間を救うために来てくださいました。今、みことばを聞いている方々に罪の赦しと永遠のいのちが提供されています。キリストの十字架の贖いにより無代価で提供された罪の赦しです。そして同時に信じて受け止める者には罪が完全に赦されて決して滅びることのない永遠のいのちが与えられます。今日も、イエス様はあなたに「よくなりたいか」と問うておられます。それは、あなた自らの罪に気付き、このままではいけないことに気付き悔い改めて神に立ち返ることです。この男のように顔を上げてイエス様を心にお迎えしていただきたいと思います。

喜びと感謝をささげに来た男

2016年04月03日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書17章11~19節
17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
17:14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

<要約>

イエスに病を癒された人々

ここに出てくる十人は、イエス様のことを聞いていたのでしょう。イエス様が、病をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせる神の力を持った方であると聞いていたのです。そして、自分たちはイエス様から離れたところに立って、「イエス様、先生、どうぞあわれんでください」と叫んだのです。イエス様は彼らに、「祭司のところへ行きなさい」と言われました。途中で癒された、とあります。彼らはイエス様の言葉を信じその通り実行して癒されたのです。ルカの福音書には様々な癒しの記事があり、言葉だけをいただいてそれを信じて癒された人、イエス様が、触って、あるいは抱いて癒された人もいます。汚れた者を触ると汚れるという律法の規定にとらわれず、イエス様は私たちの弱さに同情しあわれんでくださる方であります。さらには、身代わりとなって自らのいのちを差し出してくださったほどに愛してくださっているのです。

病の癒しと共に救いを得たサマリヤ人

イエス様の癒しに対する応答が二通りに分かれました。それは、途中で癒されたのを知って、神を褒め称えながら引き返して、ひれ伏して感謝をささげたサマリヤ人と、病気の癒しを受けるだけで終わった9人のユダヤ人たちの二通りです。イエス様はこのサマリヤ人を指して、「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」と言われました。イエス様が、声をかけられて、彼ら十人は一緒に祭司にところへ上って行く途中で清められたのに気付きました。しかし、そのうちの九人はそのまま祭司のところへ急ぎました。戻ってきて神を褒め称えて、感謝をささげたのはこの外国人だけでした。そして、そのサマリヤ人は、イエス様から救いのみことばをいただいたのです。この人はイエス様を神の救い主として信じて病をいやされたばかりでなく、罪の赦しと永遠のいのちをいただいたのです。この後、イエス様は続けて十字架への旅を続けます。人類のすべての罪の身代わりとなって十字で裁かれるのです。それはひとえに私たち人間の罪を取り除き、罪の呪いから神の祝福と愛の交わりへと移してくださるためでした。救いは移動と言えます。引っ越しです。罪による悪魔の支配からキリストのご支配に移されることです。それは、同時に滅びと死から永遠のいのちの祝福に移ることです。どうしたらよいでしょうか。悔い改めて、思いを変えて、イエス・キリストの十字架は自分のためであったことを信じることです。何の努力も功績もいりません。ただ、神が提供くださるイエス様をいただくことです。

神の目的に生きるとき喜びと感謝で満ちる

イエス様は「九人はどこにいるのか」と問うておられます。イエス様は残念に思われたのです。九人は病の癒しだけをいただいて、イエス様の救いをいただかなかったからです。現代も、病の癒しあるいは問題の解決をいただきたくて教会に来る方々はいます。病の癒しあるいはその問題の解決を通して真の神に出会ってイエス様を信じて救われる人々もいます。しかし、教会に来て自分の問題が解決するとあとは来なくなる人々も多いのです。なぜ、そのようなことが起こるのかなと思います。それは信心が自分の利得のためであるからです。私のための神、私のためのキリスト、自分のための信仰であるからです。私たちは、創造者なる神の作品です。すなわちつくられたものです。被造物です。被造物は創造者の目的があってつくられるのです。神は、あなたを神の目的のために造られました。 この腕時計を例にあげましょう。これを作った人の目的は、人の腕にはめられて時を知らせることです。その通りに使えば、大変役に立つものです。そうでなければ全く価値のないものです。神はあなたにご計画を持っておられるのです。エレミヤ書には、それは、あなたに平安と将来と希望を与えると書いています。もし、あなたが神の御許に帰り、イエス様を主として仰ぐならば、神は、あなたの中に働いて志を立てさせ、ことを行わせてくださるので、あなたは喜びと感謝で満ちるのです。このサマリヤ人は「大声で神をほめたたえながら」イエス様のもとに帰ってきました。それは大きな歓喜と感謝の叫びだったでしょう。感謝と喜びの人生は今日、イエス様の救いをいただく私たちのものなのです。もし、まだ、イエス様を救い主として受け入れていない人はイエス様を信じて感謝と喜びの人生を自分のものとしていただきたいと思います。