十字架は究極の愛

2016年02月28日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書13章1~14節
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
<要約>

今日も生きて働かれているイエス様

この福音書の目的は、これを読むすべての読者が、イエス様が神の子キリストであることを知り、信じて救われるためであると、すなわち、永遠のいのちを得るためであるとヨハネは述べています。これは、聖書全体の目的であります。ですから、聖書のことばを聞く方々は誰でもこれは自分に対する神の言葉であると知っていただきたいのです。福音書は神の宣言です。神がこう言って宣言しているようです。「わたしは、あなた方のところに来て罪を取り除き、あなた方にいのちを与えるために十字架刑を受け、救いを完成したのだ。私を信じて救われなさい」福音書のどこを開いても「イエス様は今日も生きて働いている」と宣言しています。

極みまで愛してくださっている神

イエス様にはこの地上での最後の食事となります。ここに、「過ぎ越しの祭の前」と書かれています。イエス様の十字架と過ぎ越しの祭との関連がうかがえます。神の小羊と言われたイエス様が、全人類の救いのために十字架で血を流してくださいました。その血を受ける者、すなわち信じる者は神の裁きを免れるというのです。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」弟子たちを、残るところなく愛された、とあります。他の訳では、最後まで愛された、この上もなく愛し抜かれた、と書いていました。その思いをイエス様は弟子の足を洗うという行いの中に込められたのです。イエス様が極みまで愛しておられたその対象には、ユダも含まれていたということです。悪魔はユダの心にイエス様を売ろうとする思いを入れていました。創世記3章では、最初に人間は罪を犯しました。人類はこの罪を確実に譲り受けて、すべての人は罪を犯した、と聖書にある通りです。この時まで、誰もユダがイエス様を裏切るなどとは考えていませんでした。罪の性質は、ユダにはあって私たちにはないというものではありません。誰もが持っている罪の性質です。「魔がさした」という言葉があります。「悪魔が私たちの罪の性質に働いて悪を行わせるのです。」聖書が指摘する罪とはどういう物かをルターは以下のように書いています。「このゆずりうけた罪は、非常に深く、かつ恐るべき性質の腐敗であるので、人間の理性によっては知ることができない。」それは、みことばと聖霊によってしか気づくことができないのです。人間はそのままでは罪の滅びに向かって進んでいくのです。イエス様はその罪の呪いを身代わりとなって受けるために来てくださいました。罪人であるが故に愛されているのです。父なる神の動機は愛です。残すことのない愛、完全な愛、この上もない、極みまでの愛、それは実は父なる神の愛です。その思いを今、イエス様に託したのです。イエス様は弟子たちの足を洗いました。洗足という行為によってその愛を表されたのです。キリストの弟子である私たちクリスチャンはお互いに仕えあうことによってその愛を全うしなさいというのです。

洗足に隠された十字架と復活の意味

この洗足というイエス様の行為には、別の深い意味をヨハネは示したかったようです「上着を脱ぎ」という言葉と「上着を着けて」という言葉があります。この「脱ぎ」と「着る」の原語は、「いのちを捨てる」と「いのちを再び得る」という言葉でつかわれています。すなわち、上着を脱ぐというのは「十字架で命を捨てる」ことを意味して、上着を着るというのは復活を意味しているのです。洗足も十字架も、神の私たちへの愛の行為です。徹底的な残すことのない愛、究極の愛、捧げ尽くす愛です。また、洗足も十字架も罪の汚れを取り除くためになされた行為です。足の汚れは何でしょうか。それは、私たちの罪です。イエス様は私たち一人ひとりの罪を洗い清めてくださるのです。私たちも、他の人に自分の汚い足を洗ってもらうというのは、抵抗を感じることでしょう。しかし、本当に謙遜にされて自分の罪を認めて、イエス様に自分の汚いところを差し出して、清めていただくのです。イエス様は十字架で私たちのすべての汚れや罪を身代わりになって負ってくださったのですから、喜んで罪を洗い清めてくださいます。イエス様に足を洗っていただかなければ、私たちはイエス様と何の関係もなくなってしまいます。信仰によって罪を赦していただくのです。日ごとに私たちは罪を告白して、足を洗っていただき清めていただくのです。同様に、私たちは兄弟姉妹の罪を赦すのです。それが、互いに足を洗うことの意味です。クリスチャンは日ごとに主に足を洗っていただく者であり、同時に兄弟姉妹の足を洗う者たちです。

ラザロの復活

2016年02月21日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔 宰誠

<聖書>ヨハネの福音書11章17~44節
11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。
11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

 

嵐の中であなたは何を信じる?

2016年02月14日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書8章22~25節
8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。
8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

<要約>

全き平安の主イエスを信じる

ある日の夕に、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われました。船で渡っている間に、イエス様はぐっすり眠ってしまわれたのです。まもなく、突風が起こり「弟子たちは水をかぶって危険になった」とあります。なぜ、イエス様はそのような大荒れの天候の中でも眠ることができたのでしょうか。それは、父なる神への全き信頼から来ています。

嵐にもてあそばれている船の中の弟子たちと舟底に寝ておられるイエス様、それは、この世の中を航行するクリスチャンライフ、あるいは教会と考えることができると思います。

人生を航海に例えることが良くあります。風や嵐にもまれて、今にも難破しそうになるような旅路もあるでしょう。長い人生を歩んできた方々にとって、過去を振り返ると様々なことが起こり、その都度、ここの弟子たちのように「イエス様、私は溺れて死んでしまいそうです。イエス様、私がおぼれても構わないのですか」と叫んできたのではないでしょうか。しかし、難破しそうになりながらも、「信じて進んできた」のかもしれません。苦しい状況がずっと続いている、いつになったらこの状況から脱出できるのだろうかと悩んでおられる方もいるでしょう。しかし、舟底にはイエス様が確実におられるのです。インマヌエルの主、ともにいてくださる主、それは何にもまして確かなことなのです。「主がともにいてくだされば、どんなことがあっても大丈夫である」という信仰をクリスチャンは持つべきなのです。また、持つことができるのです。

叫びと願いを聞いてくださる主イエス

イエス様は、「起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。」とあります。主は私たち信じる者の叫びと願いを聞いてくださる方です。しかし、イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。「これまで、あなた方は私と一緒にいて奇跡の業を見て来たではないですか。あなた方の信仰はどうしたものでしょう。」と。弟子たちは、イエス様の数々の奇跡を見てきました。病をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせました。しかし、自然界に対してのこのような圧倒的な力と権威をこれまでは見ていなかったのです。

救い主であるイエス様を信じる

自然界は私たち人間にとって恵みであると同時に、恐るべき脅威であるともいえます。東日本大震災からもうじき5年になります。先週は台湾で大きな地震があり4階建ての集合住宅で多くの人々が閉じ込められています。しかし、イエス様はこの自然界をも支配されており支えておられるのです。神がもし、一秒でもこの恐るべき自然界から手を引かれたら万物は崩壊して、たちまちカオス、混沌という状態になってしまうのです。生ける神の子キリスト、人間を救うために神が人となって来てくださった。イエス様は、全知全能の真の神であると同時に、乙女マリヤから生まれた真の人間でありました。それは、人間の最も根源的な罪と死の問題に解決を与えて、人間の罪を除いて命を与えてくださるために来てくださったのです。どんな罪を犯してもキリストの十字架のゆえに赦される、無条件の赦し、これが福音です。これは人間の心には決して浮かばない教えです。もう一つの聖書の教えには、律法があります。律法は人間の罪に対する容赦のない裁きです。神とはいったい誰だろうか?という疑問を多くの人々が持ちます。もし、神が愛ならば、どうしてこのようには多くの不幸や大震災などの災害があるのだろうか、と。はっきり言って、誰も回答することはできないでしょう。しかし、十字架を見てごらんなさい。神は、そのひとり子のいのちを犠牲にして、十字架の苦しみをもものともせずにご自身を私たち人間に与え尽くしてくださったという事実があるのです。十字架を見れば、神は愛であるということが少しでもわかるのです。

みことばの権威と力

2016年02月07日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明(代読:森田淑子)

<要約>

資格のないものに注がれる神の恵み

ローマから派遣されてきた官僚や軍の司令官や隊長は金のためには熱心であったようです。しかし、この百人隊長は違っていました。彼はユダヤ人から尊敬されていたのです。ユダヤ人を愛してユダヤ人のために会堂を立ててくれたというのです。このことから、この百人隊長はどのような人物であったか想像するわけですが、ユダヤ人に親切であり、ユダヤ人の会堂を立ててくれた、ということから信仰にも相当な関心と理解があったと思います。そして、真の神を信じていたと思います。イエス様のうわさを聞いたばかりでなく、イエス様の癒しを見聞きしていたと思われます。長老たちは、「この人は資格あり」とイエス様に訴えました。その後、イエス様は彼らと一緒に行かれたとあります。しかし、イエス様は百人隊長のユダヤ人への功績を聞いて、動かされたのではないようです。イエス様の恵みを受けるには何の資格も条件もいりません。イエス様の恵みは無代価で提供されています。イエス様の癒しと救いは神の無償の愛から出ています。

神は行いがある無しに係わらず、すべての人間を愛しておられます。罪人を愛しておられます。ですから、無条件の愛を示してくださいました。それが、十字架で示された神の愛です。十字架で死んでくださった、それにより、ご自身の私たちに対する愛を明かしされたのです。

神は信仰を喜ばれる

イエス様はこの百人隊長の信仰をほめました。ここにおいても、信仰が問われています。「信仰がなくては、神に喜ばれません」とあります。百人隊長の信仰から出た行為が神を喜ばせたのです。信仰は神の命につながるパイプです。信仰を通して、神に祈り、神のみ心を尋ねます。信仰を通して、神の恵みを受けます。信仰を通して、神に感謝します。信仰はライフラインです。信仰がなくなれば、神につながるライフラインは途切れて、いのちを失います。私たちクリスチャンは、どこにおいても主を認めていくことです。すなわち、仕事でも学校でもすべての働きの上に神を認めるのです。神が自分をそこに遣わしてくださっていることを認めるのです。

このように、神は信仰者を祝福してくださいます。信じる者を神の子としてくださっています。神はどんなに信じる者たちをお喜びになっているでしょうか。一人の人が信じて神に立ち返るとき、天ではファンファーレがなり、天国で大きな喜びの声が上がると聞いたことがあります。それは真実です。神はそれほどまでに私たち信じる者をできる限り高く上げてくださっているのです。私たちが立派であるからでなく、私たちに何かいいところがあるからではなく、私たちに働きがあるからではなく、神を信頼し、より頼んでいるがゆえに高く高く引き上げてくださるのです。

みことばの力に信頼する

最初は、イエス様に来てくださいと懇願したのですが、あとから、わざわざ来ていただくわけにはいかない、と心が変わったのです。それは、イエス様のみことばの力に触れて、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言ったペテロと同じです。イエス様が近づいてこられるので、百人隊長は自らの罪に目覚めて、「主に来ていただく資格は自分にはない」と言ったのです。

イエス様に近づくと、人間は罪を示されて、謙遜にされて、そして、悔い改めて神を仰ぐのです。すなわち、信仰が与えられるのです。

百人隊長は、自分のしもべの癒しのために、イエス様のおことばをいただきたいと言いました。かれは、イエス様の言葉を握って、信仰の通りになりました。神の言葉を全身全霊をもって信頼したのです。聖書は神の言葉であるとクリスチャンは信じています。

神のことばは力があり、無から有を作り出すのです。聖霊が、預言者や使徒たちに働いて、聖書が書かれました。聖書全体は、誤りのない神のことばです。聖書には、イエス・キリストによる全人類の救いが書かれています。

天地万物は何によってできましたか。それは、神のことばによってできました。創世記の全世界の創造の記事を見るとそのことがわかります。イエス様のことばは神のことばです。そのように聖書のことばは権威と力があります。

百人隊長は、神のことばの権威と力を体験しました。私たちもますます、神のことば、聖書のことばの権威と力を日々体験してゆきたいものです。

<聖書>ルカによる福音書7章1~10節
7:1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られた。
7:2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
7:3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
7:6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
7:10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。