イエスの権威と力

2016年01月31日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔 宰誠

<聖書>ルカの福音書4章31~44節

4:31 それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。
4:32 人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。
4:33 また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。
4:34 「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
4:35 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け」と言われた。するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。
4:36 人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」
4:37 こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。
4:38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。
4:39 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。
4:41 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。
4:42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。
4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
4:44 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。

福音の三つの内容

2016年01月24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

信仰を求める神

イエス様は郷里のナザレで、安息日に会堂に入り立って旧約聖書を朗読しました。そこにいる人々は、イエス様のことを幼い時から知っていたのでしょう。イエス様の力ある技や癒しや奇跡に興味や関心がありました。しかし、彼らはイエス様をメシヤとして信じることはできなかったのです。興味や関心はあった、しかし、信じることはなかった。彼らには、固定観念あるいは先入観がありました。この固定観念によって真理を見ることができないのです。思いを変える、発想の転換が必要になります。それはとりもなおさず、悔い改めることです。最近では、宗教は怖いという先入観があります。他には、日本人の持っている進化論も固定観念だと私は思います。神はいない。今の科学の時代に神を信じるなんて、愚かだ。人間は他の動物と同じで進化してきたのだ。それは固定観念、あるいは先入観と言えます。また、信じることができない理由として、イエス・キリストというお方を知っていても、自分との関係でとらえることがないからです。キリストは自分にとって何だろうか。

神は、私たち一人ひとりに関心を持っておられます。聖書の言葉は「あなたはどうですか。」と個人的に問いかけているのです。これを自分に対する問いととらえて初めて、神との関係が正されるのです。多くの人は信仰に興味がない、自分には信仰は必要ないと言います。しかし、聖書に記されていることは歴史上の事実であり、人間が考え出したことではありません。そして、そのメッセージは、「よかったらどうぞ」というものではないのです。私たちを真剣に求めておられる神は忍耐をもって待っておられます。私たちも思いを変えて、方向転換して、神を真剣に求めたいと思います。神はいつでも答えてくださるのです。

罪の赦し、解放、自由を与える福音

イエス様はイザヤ書を朗読なさいました。それはメシヤ預言です。イエス様はその預言が今、成就したというのです。それは、「とらわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを、虐げられている人は解放されて自由を、主の恵みの時が来たことを知らせる」という内容です。ここに、福音の三つの内容が書かれています。一つは、赦免、すなわち罪の赦しです。罪は人と神との関係を断絶させています。罪の赦しはイエス様の福音の中心です。福音のもう一つの内容は、心の目が開かれることです。見えなかったことが見えるようになります。私は大学生の時に、十二指腸潰瘍の出血で大量の血を吐いて大学病院に入院しました。点滴で出血は止まり回復に向かったのですが、隣のベッドにいた40代の方は黄疸が次第に強くなり、ある夜、吐血しました。医師と看護師が懸命に処置をしたのですが、血をとめることができずにそのまま亡くなりました。その時以来、人生の行き着くところが死で、絶望であれば、人生に何の希望があるのだろうかと思い悩んでいました。そのような時にイエス・キリストにお会いしました。死は絶望ではなく永遠の命への門であることがわかり、人生の意味そして生きる目的がはっきり見えてきました。福音の三つめは解放です。束縛からの解放です。私たち人間は様々なものに縛られて生きています。イエス様を信じる者はすべての恐れから解放されて自由になるのです。不幸と言われるような災害や死別、ガンなどの病気になることは誰でも嫌です。しかし、天地をつくられ私たちに命を与えておられる全能の神、三位一体の神が全霊をもって愛しておられるので心配いらないということです。どんなことが起こってもすべてを支配しておられる神のみ手の中にあることを知っているので、平安があるのです。このように、イエス様の福音は信じる者に、罪の赦しと心の目が開かれること、そして、解放と自由を与えるのです。

イエス様の恵みのことば:

当時の人々は、メシヤを待ち望んでいました。民を苦境から救い出してくれるダビデの再来を願っていたのです。しかし、イエス様は軍隊を持つことはなく、人々を扇動して力で対抗するようなこともありませんでした。「その口から出てくる恵のことば」によって、民を救おうとなさったのです。イエス様はマタイの福音書で以下のように言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」

パンは、食物ですが、このパンは、私たちが生きるために必要なもの全部、すなわち、家庭、家族、学校、職場、安全な政府や警察、病院、道路や交通手段などを意味します。

人間は外面的なものだけで生きることができるように見えるが、けっして真の満足と平安を得ることはできないというのです。神の口から出る言葉である聖書のことばによって人は生きるのです。聖書は神の口から出る恵のことばです。郷里の人々の中には、イエス様の口から出る恵みのことばに驚いた、とあります。私たちも、是非、聖書のことばに驚いて、感動して神の真実を褒め称えたいと思います。

<聖書>ルカによる福音書4章14~22節
4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
4:22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。

人間として試練を受けたイエス様

2016年01月17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔 宰誠

<聖書>ルカによる福音書4章1~13節
4:1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、
4:2 四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
4:5 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
4:6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
4:7 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
4:8 イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」
4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
4:10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、
4:11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」
4:12 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」
4:13 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。

自分中心から神中心へ

2016年01月10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

バプテスマのヨハネの使命

ヨハネが来たのは、神との関係をただして、人間社会の秩序を回復することです。

そのために、ヨハネは悔い改めを説きました。悔い改めは、メタノイアです。思いを変える、方向転換とも言えます。何から何へ、ですか。自分中心から神中心の生き方です。

悔い改めは、ヨハネが初めに言い出したことではなく、旧約聖書はずっと、語っていました。方向転換です。思いを変えることです。自分のために生きるのではなくキリストのために生きるのです。それはとりもなおさず、神が世界を創造された時の人間の状態なのです。創造の秩序の回復なのです。造り主である神との関係の回復といえます。その関係回復のために、人のほうからではなく、神のほうから近づいてくださったのです。神と人間の関係を隔てている人間の罪を十字架で取り除くためにキリストは来てくださいました。そして、関係回復の道を完成してくださったのです。近づいていてくださるのです。罪人を招いておられるのです。今日も神は、あなたとの関係を回復したいと招いてくださっているのです。

ヨハネの問いと人々の反応

荒野で悔い改めなさいと叫んだヨハネのところに来た人々は心を刺されて、「私たちはどうしたらよいのでしょうか」とヨハネに問い返します。この問いかけこそ、罪人が神に向ける本質的な問いかけです。健康が一番であると言います。しかし、健康も次第に奪われていきます。若い人も病気で倒れてしまうことがあります。命は限りがあるからです。そして、いのちの先にあるものが見えないからです。それが、実存の不安です。これがベースにある不安です。人間の良心には神のかたちが刻まれています。だから、正義を愛し悪を憎む心があります。しかし、その良心は曇ってしまっていて、自分の基準で善悪を判断しますので、独りよがりになるのです。心の律法は罪に判決を下します。すなわち罪の結果は死であるというのです。ですから、罪に対しては罰があることを認めています。潜在意識の中に「死後裁かれる」という思いがあるのです。死んだあと何もなくなるのではなく、生きていた時犯した罪は神への負債となり返済を要求されるのです。「私たちはどうしたらよいのでしょうか」、この問いに導かれた方は幸いです。ご安心ください。イエス様はその根底にある不安を取り除くために来られました。キリストを信じる者には、神との和解が与えられて、神との関係がただされます。神の命につながるので、何の心配もいりません。どんなことがあっても奪われない根底からの平安があなたをいつまでも支えます。

自分中心から神中心へ

イエスさまは、川で悔い改めのバプテスマをヨハネから受けました。イエス様は、ヨハネは立場が逆だと言って断ろうとしたのに対して、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と言われました。イエス様は私たちにふさわしい、と言いました。二人の共通点は、自分に死んで神のために生きるということです。自分中心ではなく神中心にスタンスを置いたということです。自分のために命を使う、というのは自分のためばかりに生きようとするとき、反って命は細くなって貧しくなっていくというのです。逆にキリストのために、ひいては他の人のために生きることを目指す人は、生き生きとなり、その命は豊かになるという霊的原則があるのです。今回ノーベル賞を受賞した大村智さんはアフリカなどで風土病とされていた人フィラリヤ感染症の特効薬を開発した功績により受賞となりました。大村氏は、小さい時から自分のために生きるのではなく人のために行きなさい、と教えられて、その通り自分の命を用いた人です。ここに神の定められた霊的法則があるのです。「ご自身を喜ばせることをしなかったイエス様」のご生涯を学び、彼を信じて受け入れれば必ず、平和と繁栄の素晴らしい人生を送ることができるのです。

三位一体の神が共同で救われる

イエス様は水から上がられると、聖霊が上にとどまり、天の父なる神から声がかかりました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」イエス様は、聖霊の助けを受け、天の父からの愛の信任を受けて公生涯のスタートを切ったのです。三位一体の神が、一丸となって人類を救うために立ち上がったと言えます。神の愛に応えて、キリストを救い主と信じる者に、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と同じ言葉をかけてくださっているのです。神はキリストに抱いているのと同じ愛と喜びで信じる者に思いを寄せてくださっているのです。イエス様以来、私たちは造り主なる全能の神を、「天のお父様神」と呼ぶのです。神は、今日も、「私はあなたを愛しているよ。あなたは私の喜びだよ」と言ってくださっているのです。神にとって、クリスチャンをこの上もなく喜びなのです。

<聖書>マタイの福音書3章13~17節

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

キリストを模範として

2016年01月03日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

普通の人として歩まれた神の子イエス

少年時代のイエス様についての記事は四つの福音書の中でもここだけです。ルカが12歳のイエス様の記事をここに書かなければイエス様の幼年時代は何もわからなかったでしょう。この記事によって、イエス様が、普通の家庭の長男として、育てられて、知恵が進み、背丈も伸びて、両親に仕えていたということがわかるのです。そして、神と人に愛される好人物であったことがわかります。

イエス様の誕生から公生涯に入る30歳ころまでの生き方がおおよそわかってきます。それは、ユダヤの田舎で普通に両親に愛され育てられ、両親に仕え、地域の人々ともかかわりながら普通に過ごしたことがわかります。イエス様は、罪は犯されませんでしたが、他の人と同じように病気になり、傷を負われました。悲しみの人で病を負われたとイザヤ書にある通りです。イエス様がこのように普通の人間とし、神の在り方を捨てることを良しとして人間となってくださり、十字架にまで従ってくださったのは、それは実に私たちの罪を贖うためでした。ここに神のご愛、黙々と人を救うためにすべてのことを耐え忍んでくださった神がおられるのです。

神を父と宣言したイエス

12歳の時に、過ぎ越しの祭りの期間を過ごして帰路に着いたのですが、一日の道のりを行って、イエス様をエルサレムに残してきたことに気づいたのです。ヨセフとマリヤは探しながらエルサレムに引き返しました。三日かかって、宮で教師たちの真ん中に座って話し合っているイエス様を見つけるのです。母が言います。「お父さんもお母さんも心配して捜し回っていたのよ」それに対して、イエス様は「自分は必ず自分の父の家にいる」と。神を父と呼んだのです。神を自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。イエス様は、被造物である私たち人間には近づくことも顔をあげて向き合うこともできない崇高で遠い存在である神を、「お父さん」と呼べる近い存在にしてくださったのです。父なる神と私たちの距離を親子の距離に縮めてくださったのです。父母の神、父祖の神ではなく、神はイエス様の父であると宣言したのです。これは、イエスのメシヤ宣言のプロローグということができると思います。

神と人に愛される人生

「イエスさまは知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人に愛された」とあります。ここに、全き人の姿、理想的人間像が見えてきます。現代日本では、学校教育において、知育、体育、徳育という三つの分野で力を入れています。しかし、すべての人には、もう一つ、霊育が必要です。徳育が、人に愛されるように育てるということに対して、霊育、それは神に愛されるように育てるということです。幼い時から心に真の神を入れてあげるのです。すべてを知っておられる聖いそして正しい神を教えるのです。神の前で自分の良心をただしていくという生活に導かれるならば、子どもは、人が見ていようが見てなかろうが、神を相手に生活します。幼い時から、愛なる神を知り、神を仰いで生活する子どもであれば、たとえ人に認められなくても、また、反対に誰からも強制されなくても感謝の心から善に励むのです。イエス様は、神と人に愛された、とあります。私たちもイエス様を模範として歩むのです。神と人に愛される人に育つためには、ヒントがあります。それは、父なる神と一つになっておられたということです。

イエス様は神と人に愛され、最後まで神に従いとおしました。十字架さえも従いとおしたのです。敵をも愛し、敵のために自分の命をも差し出したのです。私たちはいつも自分を優先して物事を考え進めています。また、自分に対してよい思いを持っていない人は避けます。しかし、イエス様はご自分に危害を与える人々とも向き合いました。

イエス様は、「私の後についてきなさい。しかも、自分の十字架を背負って従ってきなさい」と命じています。

神の求めていることは、感謝と喜びの応答です。主に感謝して喜んで、奉仕や礼拝出席、献金、隣人愛の実践に励むのです。そのことを主は大変お喜びになるのです。皆さん、誤解しないでください。神は全能です。ですから、偶像のように人間が運んであげたり、世話してあげないとダメな神ではありません。私たちの献金や奉仕がなければご自身を維持できないという方ではありません。では、なぜ、イエス様は私たちに自分の十字架を負ってついてきなさいと命じているのでしょうか。それは、私たちを祝福にあずからせたいからです。天にあるあらゆる祝福を信じる者に与えたいのです。神に少しでもお役に立てることを喜ぶのです。。現に、私たちが本当に感謝して奉仕し、捧げるときに、私たちの内側に起こることです。

そうです。「神様は真実な方だ、このように私を守り、奉仕する力を与え、お捧げすることもできる、十分に与え支え守っていてくださるのだな」と実感するのです。私たちが、感謝と喜びから献身するときに、神の栄光、真実、祝福の中に置かれていることに気づかせられるのです。

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
2:39 さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。
2:40 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
2:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。