心を刺す神の御思い

2015年12月27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

律法を守られたイエス様

イエス様は8日目に律法の規定に従い割礼を受けました。人としてお生まれになったので、人がなすべきことを踏襲されたのです。これは神の謙遜、へりくだるお姿です。イスラエル民族がエジプトから出る時に神はエジプトの罪を裁きました。それが「過ぎ越し」です。ある夜に、神は王宮からエジプト全土にいる人間から動物に至るすべての初子を打たれたのです。ただし、家の門の鴨居に小羊の血を塗ったイエスラエルの民の家は死の御使いは通り過ごして、災いを下さなかったのです。小羊が犠牲にされました。その血が民を他の民族と区別し分けたのです。民が救われるために傷のない小羊が殺されたのです。これが、イエス・キリストが十字架で人類の罪のために血を流された犠牲の予表でした。イエス様は生まれて十字架の死に至るまで、律法の要求を完全に満たしてくださったのです。十戒は心の鏡のように一つ一つ読んで心に照らすと、自分の罪に気づくのです。謙遜にさせられるのです。律法が悪いのではなく、私たち人間があまりにも神から離れていて良心が曇り自分の罪に気づかないのです。イエス様は私たちが満たすことのできない律法の要求を私たちに代わって、また、人類の代表として成し遂げてくださったのです。それゆえ神は、キリストを信じるものを裁くことができないのです。

引き上げてくださる神

シメオンは神を恐れ敬う人でした。イスラエルの慰められることを待ち望んでいました。救い主を求めていたのです。何よりも聖霊が彼の上にとどまっておられた。救い主イエス・キリストについて預言します。キリストはすべての人の救いであるといいます。「異邦人にとって啓示の光、イスラエルにとっては光栄です。」啓示とは、神が人に良く分かるように現れ示すことです。人間は自分からは神を理解し見出だすことはできないので、神のほうから私たち人間に近づきご自身を現してくださったのです。それがキリストです。人間は真の造り主である神を失っているために、むなしくなっています。日本人の多くは神を信じていないので自分の何かを頼りにして生きているのです。それは自分の良識、理性というものかもしれません。しかしそれはいつか終わります。人間は年を取るにつれて多くのものをあきらめていくのです。「仕方がない」という言葉があります。年を取ると仕方がないことが増えていきます。最後はあきらめです。人間は神を失っていることから、神の子としての尊厳を失い、卑屈になって自らをその哀れな状態にとどめているのです。そのような人間を引き上げるために神は、人間となってきてくださったのです。年をとっても神の栄光を見るまで死なないと宣言したシメオンのように、私たちも自尊心と勇気を取り戻して、終わりの時まで神の栄光を見続けさせていただきたいと思います。

人の心を刺す神の御思い

シメオンはまた、両親を祝福して、母マリヤに預言します。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」イエス様によって、すべての人は選択に迫られます。ある人は信じないで滅びに定められ、ある人は信じて世の抵抗にもかかわらず立ち上がります。中間はないのです。「反対を受けるしるしとして定められている」というのは、続く迫害の時代を暗示しています。神は、すべての人をイエス・キリストによって、二つに分けられるのです。歴史はイエス・キリストにより、紀元前と紀元後に分けられています。人間も分けられるのです。羊飼いが羊とヤギを分けるように、すべての国民を分けると書いています。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いを信じて義とされます。神は、神の申し出でに対する応答として、信仰という方法を与えてくださいました。信じると、教会に行かなければならないし、献金もしなければならないので反って大変だと言う方がいます。それは、大変な誤解です。救いも信仰生活の祝福も神の恵みです。それらは神の無償の愛から出ています。それに対する私たちの応答は感謝することです。感謝があると神様のために何かをしたい、自分ができることはないだろうかと考えるのです。その時、イエス様のお言葉が届くのです。「心と思いと力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。自分と同じようにあなたの隣人を愛しなさい」と。

<聖書>
2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
2:23 ──それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──
2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

クリスマス・喜びの知らせ

2015年12月20日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

栄光に照らされた羊飼いたち

羊飼いは当時、社会の底辺の人たちでした。字も読めず、宗教的儀式を守ることもできない者として疎まれていました。その人々に最初に、良き知らせが届けられたのです。エルサレムにいる王侯貴族、祭司や律法学者でもなく、最も貧しい社会的な地位も低い羊飼いたちに。なぜ、最初に、最も貧しい羊飼いたちと異邦人に救い主の知らせが届いたのでしょうか。これは、イエス・キリストの救いはユダヤ民族ばかりでなく異邦人を含めてすべての人間の救いであることを示しています。そして、羊飼いたちや博士たちは、神を求めていました。神は求める者にご自身を現してくださるのです。それに対して、エルサレムの指導者たちは高慢になり自分の正しさを誇示していました。かくして、心低く待ち望んでいた羊飼いたちは神の栄光を見たのです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」心低い人に神はご自身を現してくださいます。

すばらしい喜びの知らせ

天使が伝えた喜びは、イスラエルに来てくださる救い主キリストです。イスラエルの民、そして指導者たちもメシヤを待ち望んでいました。彼らが描いていたメシヤは、政治的、軍事的な解放者でした。しかし、神が与えようとしている喜びはその範囲を超えて、全人類、万民の救いからの喜びでした。それは、楽しいことや嬉しいことがあったときの感情的あるいは感覚的な喜びではありません。また、事業が成功したり良い働きができたり、健康が支えられたり、家族が皆守られている事から来る喜びでもありません。この『すばらしい喜び』はどのような状況でも決して消えることのない喜びです。何物も消すことのできない喜び。といえます。イエス様は十字架を目の前にしてこの喜びを持っておりました。イエス様は父なる神の愛の中にとどまることが喜びであると言いました。その喜びは、イエス様から発してイエス様の弟子たち、そして、今は、イエス様を救い主と信じる者たちに受け継がれています。それは死も奪い取ることのできない喜びと言えます。今から十五年ほど前、松本さんという方が、肺がんを患い一旦治癒したのですが、事業を息子さんに譲って、空気のよい滝沢市に移ってこられました。しかし、約十年ほどまえに、肺がんが再発されて、大学病院に入院されていました。もう長くはないと聞いていましたので、家内とお見舞いに行きました。病室に入ると、松本さんは起き上がって笑顔で迎えてくださいました。鼻から酸素を吸入しながらでした。「いかがですか。痛みはどうですか」「ものすごく痛いです。でも、すごく嬉しいのです。」「私はもうすぐ、逝きます。しかし、天国で仕事が与えられたのです。」といって聖書を開き、詩篇のみことばを読んでくださいました。面会は15分くらいでしたが、最後までにこやかにうれしそうでした。お祈りして別れました。次の日に静かに天に召されました。痛みがあって、死が間近に来ているのに、心には平安と喜びがあるのです。これが、キリストが与える喜びです。聖書には、すべての人は罪を犯したから、神の栄誉を受けることができない、と書いています。罪は心から平安と喜びを奪い、人の心を奴隷として死の恐怖に縛り付けているのです。

創造の時点では、人は神の愛の中にとどまり、人は自由で喜びに満たされていたのです。しかし、人が神に背を向けて歩み出したときから、人は良心の命令に従う力を失いました。すなわち、真の喜びを失い役立たずになったということです。すなわち、神との関係が失われているのです。人間の罪は神への負債と言えます。負債を支払わなければ関係は正されません。人間関係においても負債や負い目があれば正しい関係は築かれないのと同じです。そして、聖書は人間の罪に対する対価は死であると書いています。この幼子こそが私たち人類の罪の裁きを身代わりとなって受けてくださった方なのです。罪の負債をご自身の死をもって支払ってくださったのです。この幼子のイエス・キリストを信じ心にお迎えする者には、この「すばらしい喜び」が与えられるのです。何物もその喜びを奪うことができません。

喜びを探し当てた羊飼いたち

羊飼いたちはこの喜びを探しあてることができました。この喜びは、イエス・キリストです。イエス・キリストを心にお迎えした人はこの喜びをいただくのです。パウロは、ローマで捕えられて牢獄につながれました。そこから、ギリシャのピリピという都市のクリスチャンに書かれた手紙は喜びの手紙ともいわれます。獄中でつながれ、さらに裁判で死刑の判決を受けることも覚悟していました。しかし、この手紙には喜びが満ち溢れています。そして、パウロは喜びの勧めをしています。その根拠はイエス・キリストです。クリスマスは、喜びの知らせです。今朝、イエス・キリストをいただいていることを喜びたいと思います。

<聖書>ルカによる福音書2章8~20節
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

飼い葉おけに寝ている贈り物

2015年12月13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

イエス様は贈り物

ルカは、「マリヤは月が満ちて、男の初子を産んで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」と記述しています。ナザレからベツレヘムまで、妊婦にとっては危険で過酷な旅であったでしょう。そして、ベツレヘムに着いても泊まる場所がなかったのです。救い主が世から拒絶され疎外されたのです。結局、最も不潔で、危険な家畜小屋でのお産になったのです。飼い葉おけに布にくるまれた幼児、それは、私たちに与えられた神からの贈り物です。イエス様の生涯そのものが福音と言えます。イエス様を神からの贈り物としていただく人には、イエス様が心の内に住んでくださいます。イエス様が持っているものは何でしょうか。第一に神の子ですから、永遠の命です。そして、罪の赦しです。御国の世継ぎ、相続者です。神の愛です。正しい思いと行いです。罪からの勝利、悪魔からの勝利。父なる神へのゆるぎない信仰です。イエス様を心にいただいた人には、それらの徳のすべてがその人のものになっているのです。

謙遜の限りを尽くされた神

神の御子が人となってきてくださった。神は天地万物の創り主ですから、全知全能です。その神が自分の首をもたげることもできない無能と言える赤子として来られました。神は、誰にも助けられる必要のない方です。それが、保護し助けなければ生きていけない者として来られたのです。偏在、世界中どこにでも臨在することができる方、そして、光り輝く天の栄光をまとっている方が、薄暗い洞窟の中の冷たい飼葉おけの中におられた。これらは何という逆説でしょうか。神は人間を救うために、最もへりくだられて、もっとも貧しい、最も不潔なところへ降りてきてくださったのです。ピリピの教会では、自分の栄誉や利益を追求して、自分が認められることに熱心であったようです。それに対して、パウロは、「へりくだった心で互いに自分より優れた者と思いなさい」と勧めています。イエス様の謙遜な生涯を模範とするように勧めたのです。イエス様は当然受けるべきすべての栄誉や栄光を求めませんでした。むしろそれを隠しておられました。イエス様の動機は、堕落した人間を救済し引き上げることでした。イエス様は自分のことを忘れて他の人の幸福のために熱心でした。イエス様は一人の人間としても考えられる限りの謙遜を味わわれたのです。「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」とあります。私たちが受けるべき罪の呪いを代りにその身に負われて死なれたのです。しかも、それは通常の死ではなく、恥ずべき十字架の死でありました。そこまで低くなってくださった神なので、イエス様は、心優しくへりくだっています。どんな苦しみ、どんな重荷を持った人もキリストに近づくことができるのです。

イエス様は模範

イエス様は私たちの心の中に住んでくださって、私たちが今まではできなかったことをしてくださっています。私たちは罪に勝つことができないのですが、代わりにイエス様が勝利してくださいます。すなわち罪の力から解放してくださいます。悪い習慣や偽りごまかしから解放してくださいます。また、悪魔の力から解放してくださいます。また、最大の敵である死の力からも解放されるのです。イエス様が持っておられる永遠のいのちは信じる者のものだからです。イエス様は私たちの代わりに罪の罰を受けてくださいました。同時に私たちに代わって十戒にある神の要求すなわち律法をすべて代わりに満たしてくださいました。そして、御足の後についてくるように言われました。私たちはイエス様を模範として喜んで歩むのです。それは罪びとを愛し罪人に仕えたイエス様のお姿です。もし皆さんの中で、重荷を負って悩んでいる方があれば、もう悩む必要はなくなりました。イエス・キリストがあなたの罪と重荷と死とを負ってあなたのために十字架につくためにお生まれになったのです。今、イエス様は外に立って、あなたの心の扉をたたいています。心の扉を開いてイエス様に来ていただきましょう。イエス様はあなたと共にいてくださる、また、あなたの中にいてくださるのです。なんと心強いことでしょうか。
<聖書>ルカの福音書2章1~7節、ピリピ人への手紙2章6~8節
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

ピリピ
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 

受胎告知

2015年12月6日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

受胎告知

ガリラヤのナザレの一人の処女に神は目を止められました。マリヤは、ヨセフのいいなずけで、結婚は決まっていても、まだ、同棲はしていなかったので、天使ガブリエルの話に、彼女はひどく戸惑ったのです。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」当時の律法では、その時期にみごもることは、姦淫罪として裁かれます。重い場合は石打の刑に処せられます。なぜ、イエス・キリストは処女降誕でなければならなかったのでしょうか。神が人として来られたのがキリストです。永遠からおられる方が、人としてお生まれになったのです。ですから、神の性質と人の性質の二つをもっておられました。神としては、全知であり全能であり、罪のない聖い神としての性質を完全に備えておられました。人としては、キリストは罪がないことを除いて私たちと全く同じということです。人の罪の身代わりとなることのできる方は全く罪のない方です。神が人となった目的は、人類の罪を背負って十字架につけられて身代わりとなって裁きを受けすべての人の罪を取り除くためです。神はそうまでして、人間をその罪の呪いから救おうとされているのです。その動機は神の愛です。

幸せの宣言

マリヤは主なる神をほめたたえ、喜びます。この卑しいはしために目をとめてくださった。取るに足りない無価値なものに目をとめてくださった。私たちクリスチャンも神が目をとめてくださった者たちです。マリヤは「これからどの時代の人も私を幸せ者と思うでしょう」と主に目をとめていただいたがゆえに、自分を幸せ者であるというのです。私たちも、主に選ばれ、神の子とされているということは、何にもまして、幸せなことです。マリヤは受胎告知を受けたすぐ後に、彼女は試練と苦しみを連続の人生を歩むのです。姦淫の女とあざけられたその日から、わが子キリストの十字架のもとでその身苦しみを見なければならないでその時まで、救い主の母として、波乱万丈の人生を送るのです。マリヤは自分を特別な人間として高慢になって誇ることもなく、自分のようないやしいはしために主が目をとめてくださったという事実だけで、満ち足りた幸せを持っていたのです。

地上に神の国の到来

マリヤは、賛歌の中で、地上に神の国が来ることを宣言しています。地上の神の国は、この世の国とは違います。この世で偉い人、権力を持っている人が治めます。しかし、神の国で偉い人は、低い人です。神との関係に生きる人、謙遜と信仰の人です。マリヤのように、神の前で自分は卑しい罪人であることを知っていて、へりくだり、いつも神様を仰いでいる人です。神の国は、キリストが王として支配している国です。すなわち、キリストを救い主として仰いでいる全世界の教会と言えます。神の国は、私たちのために命を捨ててくださった方が王で、愛と赦しが尊ばれる国です。神の国の国民は天に宝を積むことに励みます。仕事は自分のためばかりでなく周りの人々の命のために神に託された働きです。そのように仕事や労働を神との関係で見るようになります。クリスチャンにとっては、仕事や働きは神への奉仕であり、隣人愛の実践ということになります。人生の目的や意義を創造主である神様との関係でとらえていかなければ私たちの人生はむなしいのです。神の国の国民となる資格は、人格、功績など何もいりません。信仰のみです。マリヤが預言したとおり、この地上で、神の国は二千年来拡大し続けています。教会は全世界に及んでいます。しかし、また、私たちの周りの人々にも福音を届けなければなりません。

<聖書>ルカの福音書1章26~56節
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
1:39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
1:56 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。