捧げ尽くす神

2015年9月27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

人間に大きな期待を持つ神

旅に行く人は、復活して天に昇り、やがて戻ってこられるイエス様を指します。しもべはクリスチャン、あるいは地上のすべての人を指します。主人は、各々の能力に応じて、五タラント、二タラント、一タラントをそれぞれ預けました。一タラントは六千万円で大変な金額です。一タラントあれば、私たちは一生食べていけるのです。その能力に応じての能力は、最低でも一タラントですから、私たち人間はどの人でも神様は、相当の能力を与えておられます。また、私たち人間に大きな期待をもっておられることがわかります。期待を持っているのは、愛しているからです。私たちは、それぞれが違う賜物を持っています。また、それは質的にもまた、量的にも違っています。しかし、優劣はないのです。それぞれが神様には高価で尊いのです。クリスチャンとしてどれだけ奉仕したかは問題でないのです。奉仕の量ではなく、奉仕の質を問題にしておられます。神が見ておられるのは心の動機です。それは感謝して、みことばに従うことなのです。主人に対する愛と献身なのです。神様がほめたいのは、忠実に与えられた賜物、能力を用いて努力したということです。才能、能力の大小ではなく、忠実に生き抜いたということを神様は評価しています。神に忠実であるという徳はどこから来ているのでしょうか。それは、神を恐れ、愛し、信頼しているところから来ます。別の言葉では、神様との関係を大切にして生きる生き方です。それに対して、主人の言葉は「よくやった」です。神様からお褒めの言葉をいただいたのです。さらに、たくさんの物を任され、ともに喜んでくれ、と言われたのです。これは神の世継ぎとしての祝福です。私たちも、この「よくやった」と一言いただければ、この世のすべての労苦や悲しみも感謝と喜びに代わるのではないでしょうか。

不信仰により神を怒らせる人間

それに対して、一タラント預ったしもべは、主人を信用せず、憎み、侮っています。これは、自分中心の人間の姿です。真の神との関係を正しく築くことを拒否した人間を意味します。ところで、このイエス様がなさった例話を読みながら、皆さんは、ご自分はどの人に属していると思いましたか。私は恥ずかしながら、説教を準備している時、この五タラントか二タラントの人に自分を置いていました。しかし、本当にそうだろうかと、考えました。何よりも神様を恐れ、愛し、信頼しているのだろうか、自分に問うてみました。神様を恐れて、罪から離れているだろうか。神様を本当に愛しているのだろうか。神様をいつも喜ばせたいと思っているだろうか。どんなことがあっても本当に神様を信頼しているのだろうか。実は、この一タラントのしもべは自分であることに気づいたのです。パウロは、ピリピ人への手紙の中で、私たち人間の本質を鋭く指摘しています。ピリピ2:21「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めません。」私たち人間の本質は自分中心です。神のしもべといいながら神を利用しているのです。神のためと言いながら自分のためなのです。それが、パウロが指摘している人間の姿なのです。ですからこの一タラントのしもべは私たちの姿と言えます。本質的に自分中心な罪のために滅びに向かうところから神様は私たちを救ってくださったのです。それが、イエス・キリストの十字架です。神の怒りが無実の神の子キリストの上に落ちたのです。そのことによりわたくしたちのすべての罪の刑罰を無にしてくださったのです。

捧げ尽くす神

主人は一タラントのしもべに応えていいました。「わたしが蒔かないところから刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。」イエス様はこう言っているようです。「わたしの父は蒔かない所から刈り取り、散らさないとこから集めるひどい方だと本当に思うのですか。」「わたしの父は少しもがめつく意地悪な方では断じてありません。逆に、父を無視し、逆らい、侮辱するもののために、そのひとり子イエス・キリストの命さえ惜しみなく与えるお方です。ひとり子は父にとってすべてなのですよ。それをお与えになることは父にとって大損害なのですよ。」「天の父は捧げ尽す神です。」神様はどれほどのものを私たち人間にお与えくださったのでしょうか。すべては神から出ているのです。神は御国を私たちにあたえて下さっています。神様の所有物はすべて私たちのものです。私たちは神の共同相続人となっています。御子をさえ惜しまずに私たちに与えて下さるということはどんなに大きな想像を絶する神の愛でしょうか。それほどまでに私たち一人ひとりを愛してくださる神様に感動して、どんなことがあってもつぶやかず、疑わず、神様に従っていくのです。
<聖書>マタイの福音書25章14~30節
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油とともし火を備える

2015年9月20日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

天国の祝宴に備える

ご自身の最後が近いことをご存知であったイエス様は、十字架の苦難と死、そしてその後の復活、また、再び来られることをお話しになりました。世の終わりの時にイエス・キリストが再び来られて信者たちを天国の祝宴に招いて下さるということです。その時に備え、目を覚まして信仰を失わないようにしなさいということです。イエス様は、やがてこの花婿のように、教会のクリスチャンたちを迎えに来るとおっしゃっています。そして天国で婚宴の席にあずかるのです。10人の娘たちは、花婿が花嫁を迎えに行って帰ってくるのを待っていました。祝宴は夜に行われました。10人のうち5人は愚かで 5人は賢かったとあります。待ちくたびれて娘たちはみなうとうとして眠りはじめたのです。ところが、到着を前もって知らせる者が来たのです。娘たちは皆起きて、自分のともしびを整えました。愚かな娘たちの油は尽きてしまいました。そして、愚かな娘たちが、賢い娘たちに油を分けてくださいと頼みました。しかし、分けてもらえなかったのです。「ともし火」は何を指しているのでしょうか。それは、信仰です。信仰は分けてあげられないのです。その人個人の物です。友達に信仰を分けてあげることはできません。信仰はそれぞれが持つものです。世の終わりの時、また、私たちそれぞれがこの世のいのちを終える時に、ともし火があるかないか、信仰があるかないかが問われるということです。

信仰により天国に招いてくださる神

油は何を指しているのでしょうか。油は聖霊ということができるでしょう。聖霊は、私たちに救い主イエス・キリストを教えてくださいます。ですから、「油とともし火」は、救い主イエス・キリストについての信仰と言えるでしょう。神様は、すべての人が天国の祝宴に入ることを望んでおられます。神は人をご自身のイメージに作られました。しかし、ある時、人は高慢になって、自分を神の上に置いたのです。そして、神を霊の中心から追い出してしまったのです。その時以来、人は神のイメージを失いました。創造主である神を認めず、無視しており、神の上に自分を置いています。それが罪です。そのように自らの罪によって滅びに向かっている人間をあわれみ、惜しんで、何とか救おうとなさってくださったのです。神は、独り子であるキリストを身代わりとして人間のすべての罪の刑罰を彼の上に下したのです。信じるすべて人の罪は赦されて神のいのちに与るのです。イエス・キリストはすべての人に与えられた神からの愛のプレゼントです。罪の赦しによる救いと永遠のいのちはすべての人に提供されています。また、信じる者には神のイメージの回復が起こります。神がどのようなお方かを知ることができます。愛情についても、今までは自分を愛してくれる人しか愛することができませんでしたが、自分と反目している人をも愛することができます。意志についても悪いと思われる事柄をなかなかやめることができませんでしたが、神が喜ばれることを選び取ることができます。あるクリスチャンの詩人が「いのちより大切なもの」という詩を書きました。「いのちが一番だと思っていたころは生きるのが苦しかった。いのちより大切な者があると知った日生きているのがうれしかった。」彼は事故で、脊髄神経を損傷して、首から下は全く動かすこともできない状態になりましたが、イエス様とお会いして、生きるのがうれしくなったのです。いのちより大切なもの。それは、イエス・キリストを信じる信仰であると思います。

聖霊を受けて神のいのちとつながるならば、天国の祝宴はその人の中に始まります。

詩人は事故で首から下は全く動かすことができなくなりました。そして、「生きるのが苦しかった」のですが、イエス・キリストとお会いして、「生きるのがうれしかった」と言える人生に変わったのです。今日、ここにおいでの皆様が、イエス・キリストを言う、うれしい約束を受け取っておかえりになっていただきたいと思います。

<聖書>マタイの福音書25章1~13節
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キリストを着るだけでOK

2015年9月13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

神の招きを拒絶する人間

この例えでも、王は神様です。王子はキリストです。結婚の披露宴は神の国です。キリストが王となっておさめる神の国です。客は王の招待であるにもかかわらず、誰も来たがらなかった。これは常識的に考えても、とんでもないことです。王の招待を無視するなんて考えられないことです。今度は、王は再度招いたのです。彼らは王の申し出に対してそれを気にもかけずに畑に行ったり、商売に行ったりしていました。また、王の使いに恥をかかせて、殺してしまったのです。そこで怒った王は軍隊を遣わして、その人殺しどもを滅ぼして彼らの町を焼き払ったのです。この例えは、メシヤを拒絶することによって、選民の特権を取り上げられたイスラエル民族の姿です。神様は人類を祝福し、人類を罪から救うために最初にイスラエル民族を選ばれました。しかし、イスラエル民族は、神以外のものを神として、偶像礼拝に走りました。神から離れてしまったのです。これは一見イスラエル民族だけの問題のようにとらえられますが、私たち人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、見えるはずの王である神を見ることができなくなっています。さらに、神の存在さえも心で否定しているのです。神は確実におられるのです。イエス様が、わざとあり得ないお話をした狙いは何でしょうか。それは、神を無視することなんてありえないくらい愚かなことですよ。それに気づきなさいということです。

どんな人をも招いてくださる神

そこで、王は大通りに行って、出会った人々を誰彼もなく皆宴会に招くように命じました。良い人でも悪い人でも出会ったものをみな集めたので宴会場も一杯になったのです。これはユダヤ人でも異邦人でも皆、そして、良い人でも悪い人でも、とは、律法学者やパリサイ人のように道徳的に正しい人でも、取税人や遊女などの律法の外にいて罪びと言われる人々も含まれています。「全世界に出て行ってすべての国民に福音を述べ伝えなさい」と言われるように、どんな人をも招きの中に入れられたということです。これは、すべての人が救われるのが神のみ心だということです。神は神の御子のイエス・キリストの祝宴にすべての人を招いています。キリストの祝宴、それはキリストが支配する神の国です。教会は神の国の出張所あるいは大使館であるということもできるでしょう。教会は、罪の赦しとそれに伴う永遠のいのちが提供されるところです。

キリストを着せてくださる神

王は王子の祝宴に来た人々に関心を寄せています。これは神様はキリストのもとに来る人に関心を寄せているということです。そこで、礼服を着ていない人を一人見つけました。本来ここに来た人々は大通りで連れてこられた人々ですので、礼服は王が準備し、一人ひとりに支給されたものです。ですから、この人は礼服を支給されたが着なかったということです。王は、やさしい言葉で、「あなたはどうして礼服を着ないでここに入ってきたのですか」と問うています。原文では問いかけの言葉の冒頭に親愛に情をこめた「友よ」という言葉が入っています。しかし、彼は黙っていた、とあります。高慢になって、自分にはこのままでも宴会場に入る資格があると思っていたのでしょうか。あるいは王を見下げて、自分を上においていたのでしょうか。不思議な話ですが、これは神のせっかくの申し出を拒絶する人間の姿を現しています。そして、彼は手足を縛られて外の暗闇に投げられたのです。礼服は、キリストを表しています。クリスチャンは、神様からいただいたイエス様という礼服を着ているということです。この例話から大通りにいたすべての人、悪い人も良い人も招かれているのです。神様の救いに与る条件は神様が提供してくださっている礼服であるイエス・キリストを着るということだけでよいということになります。イエス・キリストを救い主として信じることでよいということです。これが神の恵みです。

<聖書>マタイの福音書22章1~14節
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