無限大の赦しと無限大の罪

2015年8月30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

神の赦しは無限大

ペトロは、「兄弟が私に対して罪をおかした場合、何度まで赦すべきですか。7回までですか。」と聞いています。それに対して、イエス様からは予想外の返答がありました。7の70倍赦しなさいとのことです。それは、何回でも赦しなさいということです。イザヤ書には「わたしは、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」とあります。神の赦しは、その罪を思い出さない、忘れるということです。私たちは、赦したように見せても、また、同じことを繰り返されると前のことが思い出されて赦せなくなるのです。

無限大の人間の罪

イエス様は例話を使って、なぜ、赦さなければならないかを説明します。例話の王は、神様です。しもべは私たち人間です。すなわち、私たち人間は死んで神の前に立たされます。そして、地上にあったときの罪の負債を清算しなければなりません。このしもべは王様から一万タラント借りていたということです。一万タラントというのは、今のお金に換算して六千億円ということです。王様は返済を命じました。しかし、彼は泣きついて王に懇願します。王様は彼をかわいそうに思い、あわれんで、負債を免除してくださったのです。彼が喜んで彼が王のところを出ていくと今度は自分がお金を貸していたしもべ仲間に会いました。ところがかれは、多額の借金を赦されたのにも関わらず、しもべ仲間を赦そうとはせずに牢屋に入れたという話です。皆さんは、この例話はおかしい、6千億円もチャラにしてもらったら、100万円くらいいいというのが当たり前、と思うでしょう。それが狙いです。「どんなに神があなたをあわれんで赦していてくださるかを考えなさい、そうすれば、あなたに対するどんな罪も赦すことができるはずです。」自分はそんなに罪があるとは思えない、みんなと大体仲良くやっている、うそをついたりごまかしたりしていない、税金も納めている、約束したことは守っている、テレビのニュースに出たあの人殺しの様な罪人ではない、今日一日罪らしい罪は何もなかった、と自分の正しさを誇るでしょうか。ルカの福音書にパリサイ人と取税人の祈りがあります。パリサイ人は自分の正しさを誇りました。取税人は自分の罪を悔いてひざまずいたのです。私たちもいつの間にか心の中でこのパリサイ人の祈りをしていないでしょうか。自分の罪を自覚するにはどうすればいいのでしょうか。熱心に悔い改めることです。イエス様が教えてくれた主の祈りに、私の負い目をおゆるし下さいとあります。デボーションの時、思い出す罪があれば祈りましょう。三つの領域で悔い改めるのです。思いにおいて、言葉において、行いにおいて、一日を振り返って、自分を吟味するのです。また、二つの対象について悔い改めましょう。一つは、神に対する罪です。次は隣人に対する罪です。このように三つの領域、二つの対象について自分の心を探り悔い改めていくのです。その時、自分の罪が自覚されて、更に神にゆるされていることの幸いを覚えるのです。一万タラント6千億円の負債の代価は何でしょうか。ロマ書には罪から来る報酬は死です、とあります。すなわち私たちの罪が要求しているのは死をもって払うしかないのです。この死は永遠の滅びを意味しています。私たち人間の罪は測り知れなく大きく、私たちは、罪によって死に定められているということができます。

罪を赦してくださる神

測り知れない罪の代価を神の御子が十字架で払ってくださったということです。赦しの根拠は十字架です。十字架は愛と赦しのシンボルです。十字架と赦しとはどう関係あるのでしょうか。十字架は死刑の道具です。罪を犯したことのない無実の神のみ子イエスキリストが私たちの身代わりとなって死んでくださったのです。神の無限の赦し、十字架の愛を説明できる例話はありません。王様から「悪い奴だ」と言われたその男は、自分に借金のあるしもべを赦さないで牢獄に入れました。その結果、自分も牢獄に入れられたのです。これは、赦さない人は結果的に自分を牢獄につないでしまうということです。赦すなら、相手も自分も解放されます。1945年フィリピンのキリノ大統領は、十万人の国民を虐殺した日本軍の戦犯137人(うち78人は死刑判決)全員に対して、国民感情を押し切って大統領権限で特赦を出しました。「赦さなければ、我々が前に進めない」「赦さなければ平和はない」と説いたのです。謝罪されなくても赦す人は、自由になるのです。イエス様は、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と宣言しました。赦しは宣言です。赦すことは勝利です。赦すことは自由を得ることです。イエス様は、十字架の上で、自分を十字架につけののしる人々のために祈りました。「父よ。どうか彼らを赦して下さい、彼らは何をしているかわからないからです。」そして、赦すことは愛することです。私たちも、キリストの十字架の贖いを信じる者を神は赦してくださるというみことばを握って歩んでいきましょう。
<聖書>マタイの福音書18章21~35節
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向き合ってくださる神

2015年8月16日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

向き合うことのできない人間

ある律法の専門家がイエス様に質問をしました。「永遠のいのちを得るには何をしたらよいですか」と。イエス様は、その人に「聖書には何と書いてありますか」と逆に質問しました。彼は、聖書のみことばから『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と答えました。これは、律法の中心である十戒の戒めを包括する教えであり、的を得た答えです。イエス様は、「その通りです。それを実行しなさい。」と言われたのです。「しかし彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った」とあります。彼は、「隣人とはだれですか」とイエス様に質問します。イエス様はその質問には答えないで、「良きサマリヤ人のたとえ」のお話をされたのです。このたとえ話を通して、隣人はすべての人で、敵をも含まれているということです。強盗に襲われた、ユダヤ人を助けたのは、敵視していたサマリヤ人の男でした。またこれには、同時に、「全身全霊を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。」との勧めがあります。その意味は、神との関係をただしなさいということです。神は人をご自身の形に似せてつくられました。最初の人間の心は神を理解し、神を知り、神のみ心を行うことができたのです。しかし、人間は神と向き合うことをやめて、自分を神の上に置きました。そして、神から遠く離れてしまったのです。ですから、神を知ろうともせず、神と向き合うということもわからないのです。そのことを父である神は怒り、罪に対して容赦のないさばきを下すのです。リトアニアの領事館で、杉原千畝さんは約6000人のユダヤ人に日本へのビザを発行してナチスドイツから救いに導いたことはよく知られた事実です。インタビューで杉原千畝さんの答えは一言。「人として当然のことをしたまでです。」実際には、他にも多くの外交官がビザを書くことはできたはずです。他にも命を救うことのできる立場にあった人々は大勢いたはずです。「人として当然」のことを行使できない人間の姿があると思います。神との関係がこわれて、神から離れている人間は、本来の人の姿から大きくずれているのです。それは、神と向き合っていない人間の姿です。ここに私たちすべての人間の罪の本質があります。

向き合ってくださる神

イエスさまは、そのような人間の本質をご存じです。私たちに向き合って下さるのです。そして、罪のために本当の命を失って人間は滅びに向かっていると聖書は主張しています。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という言葉は重いのです。自分の家族や愛する人のために自分のいのちを犠牲にする人はいるでしょう。しかし、敵であり憎んでいる人のために自分のいのちを捨てることはできないのです。この分厚い聖書の中心となる言葉は何かといいますと、ヨハネ3:16です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これが神様のお心です。私たち人間がそのままでは自らの罪によって滅んでしまうのを惜しみ、独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架にかけ罪に対するさばきをお与えになったのです。その神が、ここにおられる皆さん一人一人と向き合ってくださいます。私たちのすべての罪を十字架の上で赦し信じる者に永遠のいのちをお与えくださいます。ここにおられる皆さんは、今日のたとえ話では、良きサマリヤ人であると思います。しかし、同時に私たちの内側には祭司やレビ人の心があるのです。皆さんが自分自身と向き合っていただきたいと思います。そして、あなたに向き合ってくださっている神と向き合っていただきたいと思います。
<聖書>ルカによる福音書10章25~37節
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神に切に祈り求める

2015年8月9日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

ヤコブ約束の地に帰る

ヤコブは兄エソウの復讐を恐れました。兄エソウは自分をも、自分の家族をもほろぼし尽くすかもしれない、と。彼は神様の下さった約束に訴えています。「あなたはわたしを必ず幸せにし、子孫を海辺の砂の様に増やしてくださるとおっしゃいました」と。これは信仰者の祈りです。自分に根拠があるのではなくて、あくまでも神のお言葉に根拠を置いています。彼がすがったのは、神のことばです。私たちもいのります。み言葉、聖書の約束に立って祈るのです。不安はわたくしたちを祈りに導くのです。苦しみや苦難も私たちを祈りに導くのです。神は助け出すと約束しております。病気や苦難や困難にあって、私たちが祈ったとき、祈りの答えが自分の思い通りのものでなかったとしても、最後には平安が与えられるのです。聖書は、絶えず祈りなさい、と勧めています。イエス様は主の祈りを教えてくださいました。私たちには祈りが必要であることを神様はご存知だからです。私たちは、祈るたびに、神様が真実な方であること、あわれみ深い方であること、そして、今日も守っていてくださるのだなと感じます。祈らなければ、実はわからないのです。祈らなければ神を知ることはできません。祈らなければそばにいて見守っておられる神を感じるということもありません。

ヤコブの願い、神との格闘

ヤコブは、もともと、押しのけてでも人の先に立とうとする人でした。貪欲であったともいえます。名前の通り兄を押しのけて、父イサクから跡継ぎの祝福を横取りしました。

ヤコブが一生懸命祈り始めた時にある人が、突然ヤコブに挑んできたのです。二人は組み合ってまるで相撲を取るように一晩中戦いましたが、勝負がつきません。すると、その人はヤコブの腿を打って私を去らせなさいと云いました。ヤコブは、いいえ、私を祝福してくださらなければ放しません、と必死にしがみついたのです。その人は言いました。「ヤコブよ。あなたはこれからイスラエルと呼ばれる。あなたは神とたたかって勝利したからだ。」その人は、神のみ使いだったのです。ヤコブを祝福して立ち去りました。

ヤコブは人にではなく神に対して貪欲になったのです。ヤコブは神様の祝福を貪欲に求め見事にそれを得たのです。神様は、同様に私たちが貪欲に神様の求めることを望んでいるのです。神様は私たちを思いっきり祝福したいのです。クリスチャンは神の相続人です。神の子とされており、キリストの十字架の代価によって贖い、買い戻された子どもなのです。大いなる富を所有している王様が、これまで奴隷であった者を買い戻して世継ぎとしました。王子の身分を与えました。王は彼に言います。「何が欲しいか言ってみなさい。」王は自分の大いなる栄光を現したかったのです。ところが、元奴隷だった男が、ただその日の食事と泊るところを求めたらどうでしょうか。王はがっかりするのではないでしょうか。私たちは、神様に、大いに祝福してくださいと祈ってもよいし、祈るべきなのです。とにかく、私たちは毎日、切に神様を求めましょう。神はあなたの必要を満たし、あなたの悩みにこたえ、あなたに祝福の雨をそそぎたいと願っているのです。

神の祝福と和解

ヤコブは兄エソウと会いまみえ抱き合ってともに泣いたのです。和解がなされました。和解した二人は、それぞれ別の方向へと進んでいきました。神の祝福は、和解という形でヤコブに訪れました。実はこの和解こそイエス様が十字架にお掛りになった目的なのです。十字架の目的は、人が神様と和解することです。神と人との間には、罪によってもたらされた敵意があるというのです。しかし、十字架によって、敵意が取り除かれたので、神様は私たちを愛とあわれみでしか見ることができません。となりの保育園には十字架が立っています。実はその十字架には避雷針がついていますので、どんな雷の日でもその下にいれば安全です。今日も信じる者をキリストの十字架が覆ってくださいます。神の怒りは過ぎ去りあわれみと愛が注がれているのです。
<聖書>創世記32:1~12、22~30、33:1~5
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神に本当に出会うとき

2015年8月2日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

孤独な旅路

ヤコブは兄をだましたことから兄エソウの怒りをかいました。エソウはヤコブを殺そうと考えました。そこで、イサクはヤコブを祝福して、リベカの兄ラバンのところへ送り出すのです。あるとき日が沈んで暗くなってきました。ヤコブは淋しさと心細さでいっぱいであったと思います。これから自分はどうなってしまうのだろうか。苦しみと後悔もあったでしょう。心配と不安を抱えながら夜を迎えるのでした。旅の疲れもあって、いつの間にか眠り夢をみたのです。不思議な夢を見ました。天まで届く梯子のようなものが地面に立ち、天使たちがそれを上ったり下りたりしているのです。ふと気づくと、何と神様がヤコブのそばに立っていらっしゃいました。神様は、わたしはアブラハム、イサクの神である。わたしはあなたが横たわっている土地をあなたにあげる。地上のすべての民族はあなたとあなたの子孫によって祝福される。あなたをこのところに連れ戻そう、決してあなたを捨てない。これは、アブラハムに、そしてイサクに神が与えた祝福の約束でした。その同じ約束が、ヤコブに継承されたのです。

神との出会い

ヤコブは眠りから覚めて、「私はここに神がおられるのに、私はその方を知らなかった」といいました。ヤコブは父イサクから、真の神について聞いていました。地上のすべての民族は自分と自分の子孫によって祝福されるという約束。それらを、おそらく何度も聞いていました。ヤコブは、神を知識としては知っていました。でも、今まで神様と出会っていなかったのです。神と出会って、ヤコブは、恐れおののきました。私たちは神と出会うと、恐れおののくようになるのです。この恐れは、怖いという恐れではありません。畏敬という言葉が当てはまります。目の前に現れてくださった神は、責めることも咎めることもなく、ただ、アブラハムとイサクにお与えになった祝福の約束を伝えました。神は祝福の神です。私たちの罪を責めるためではなく、罪を悔いているものを赦し立たせてくださるお方なのです。罪のない神の御子が、人類の罪を背負い身代わりとなって十字架で死んで下さったのです。そこに、人間に対する愛と赦しがあるのです。十字架は赦しのシンボルです。次に、ヤコブは枕にした石で柱を作り、それに油を注いで神を礼拝しました。神に出会った人は、神を礼拝するのです。次に、神と出会った人間は、感謝の応答と献身を表明するのです。

神の一大事業

梯子が天から地上に降りており、そこを天使が上がり降りしている情景は何でしょうか。これは、この後、約二千年後に神が人となって人類救済の事業を完成なさったことと関係あります。人類の歴史を二分することが起きました。それは救い主イエス・キリストが誕生したことです。今日の幻は、イエス様が、ヨハネの福音書で(ヨハネ1:51)「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」といわれた情景と同じです。天使が激しく天地を行き来しているというのは、これが神の一大事業として執り行われようとしていることです。

神が人となって罪に沈む人間を救いだすというご計画を悪魔は黙って見ていません。何とか阻止しようとします。悪魔の激しい抵抗に遭うのです。サタンはイエス・キリストとその存在の意義を消し去ろうと躍起になっているのです。イエス様が天と地を繫ぐために来られた、神の国を地上に広げるために来られたのです。イエス・キリストは全人類を救うために来られたのです。神は救いの道を完成させてくださいました。イエス・キリストの救いは現在に至って、すべての国民に知れわたりつつあります。いつでもどこでもだれにでも提供されている救いです。神はあなたに個人的に出会いたいと願っておられます。条件は何でしょうか。あなたの空の手をさしだして、「イエス・キリストを慎んで頂戴いたします」といって、信じて受け止めればよいのです。
<聖書>創世記28章1~3節、10~22節
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