神の王子の身分を受け継ぐ

2015年7月26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

神の選びと導き

イサクの妻リベカも、不妊の女性でした。イサクもリベカも一生懸命に祈ったことでしょう。主は祈りにこたえられた。やっとできた子供です。しかし、子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになった。「こんなことではいったいどうなるのでしょう。」とリベカもイサクも神に祈ったのです。すると【主】は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」それは、弟が世継ぎとなる、ということです。ここに神の選びの不思議さがあります。私たち自身のことを考えても不思議です。私たちクリスチャンはどうして自分が選ばれたのか、と思うのです。でも、神の選びは誰にでも提供されている選びです。神はすべての人が救われ真理に進むことを願っているのです。私たち自身の中に根拠があるのではなく一方的に神が先に救ってくださったのです。

神の約束の軽視

ある日のことです。エソウが野から帰ってきた時に、ヤコブはおいしい煮物を似ていました。エソウはお腹がすいていたので、ヤコブにその煮物を求めます。イサク家の長子の権利は、アブラハムから受け継いだ特別な契約と使命の継承です。エソウはその重大な意味を認識せず、軽率にも一杯の食物で長子の権利を売ってしまったのです。エソウは目に見えない神の祝福がどれほど尊いものであるかに心をとめず、楽しみや豊かさを大事にする人でした。それに対して、ヤコブはどんなことをしても神の祝福を手に入れたいと考えていました。イサクは年を取り、目がよく見えなくなったときに長男エソウを呼びました。自分が死ぬ前に祝福し、エソウを後継ぎとする遺言を残そうとしました。しかし、それに気づいたリベカはヤコブと共謀して父イサクをだますのです。イサク家は分裂してしまったのです。ここに家族の人間関係のもろさが見えます。それぞれが、神に窺うこともなく自分の考えをそのまま通すことで、主のみ心を排除してしまったのです。家族の危機はどのような家庭にも起こりうるのです。大切なことは、私たちの家庭に神様をお迎えして、常に祈りみ心を求めることです。ヤコブは兄の怒りを買い、逃亡します。ハランまでの旅の途中、神のみことばがありました。「地上のすべての民族はあなたとあなたの子孫によって祝福される」という約束です。ヤコブはイサクの世継ぎの約束をいただき、やがて再びカナンの地に戻ることになるのです。

神の約束に生きる祝福

神は、一人の人を通して全人類を祝福する計画を立てられました。アブラハム、イサクヤコブの子孫がイスラエル民族です。イスラエル民族の中にダビデ王が出て、その子孫にイエス・キリストが誕生したのです。そしてイエス・キリストを通して全人類が祝福されているのです。私たちはキリストを通して罪のゆるしを得て、さらに神のこどもとなる特権を与えられているのです。「お前を呪うものは呪われ、お前を祝福するものは祝福される。」この言葉は、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰による子孫とされた私たちクリスチャンに与えられているのです。イスラエルという名前には「神の王子」という意味です。丁度、王様がその最愛のこどもである王子を愛する愛と似ています。王は王子に悪さをするものをゆるしません、逆に王子に良いことをするものを王は喜び、宮廷に招き、ごちそうをするのです。それは神が私たち信じる者たちを特別のものとして扱ってくださっているということです。エソウは神からの祝福の約束より、一杯の食物、目に見える今の快楽を優先しました。そして、俗悪なものと言われるようになりました。ヤコブは祝福の約束を求め続けました。ヤコブは目に見えない神との関係を第一に求めました。私たちも「神の王子」とされていることを覚えたいと思います。キリストにより、天にあるあらゆる祝福を受け継ぐものとしてくださっているのです。
<聖書>創世記25章27~34節、27章1~10節、26~29節
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神の祝福を繫ぐしもべ

2015年7月19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

神の約束を受け継ぐ

アブラハムは、アブラハムの全財産を管理していたしもべに命じます。アブラハムの郷里のハランへ行ってイサクの嫁を連れてくるようにとのことです。アブラハムと誓いをして、旅の成功を祈り出発します。アブラハムは彼に誓わせました。一つは、自分たちが住んでいるカナンの人ではなく、郷里の民からイサクの嫁をめとりなさいというのです。もう一つは、イサクをアブラハムとサラの郷里に戻してはいけない、カナンの地で家庭を構えなければならないというものでした。それは、イサクが真の創り主である唯一の神への信仰を持ち、約束の地に住むことが絶対的な条件でした。

私たちクリスチャンも神の民とされています。創り主である唯一の神への信仰は絶対条件です。そして、それぞれがいろいろな職場やコミュニティーに遣わされています。それはあなたにとってのカナンの地です。神が遣わしてくださったところにとどまることです。

また、アブラハムは、神の約束を大事にしました。人生は選択です。何を選んでいくかで決まります。アブラハムは神との関係を優先いていきました。神の国と神の義を第一としなさい、そうすれば他のすべての必要はあてられるという約束を握っていくべきです。

イサクの嫁の条件

しもべがイサクの嫁に会わせてくださいという祈りはすぐに聞き遂げられました。リベカという女性が目の前に現れました。彼女は、まず健康で美しい人でした。そして、やさしい人でした。親切なそして心配りに富んだ人です。しもべとの対話から見ても明るく率直な人だったのです。結婚と夫婦の関係についてはエペソ書5章、コロサイ3章に書いています。エペソ書5:28には、「夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」と書いています。結婚には、お互いの人間性が問われています。クリスチャンであればだれでもいいということは絶対ありません。ノンクリスチャンでも人間性を見る必要があります。わがままでなく、やさしく、親切で、心配りがあり、支配的でないことです。お互いを自分の道具にしようとしてお互いの心を縛るような関係はいけません。夫婦の関係は教会とキリストの関係に例えられています。これは、愛と信頼によってつながっているのです。

祝福を仲介するしもべ

しもべは、アブラハムの命にこたえました。良く祈る人でした。そして、主人の利を第一優先しました。かれは、キリストのしもべとしての私たちの在り方のモデルです。リベカはこのしもべが祈った通りの人物でした。彼は、思わず、「やった」と叫びたかったのではないかと思います。しかし、その成功に高慢になったのではなく、ひざまずいて主を礼拝したのです。このしもべの祈りから、物事が順調に言って成功した時の信仰の姿勢を学ぶことができます。私たちのすべての働きは天の神が成功させてくださるのです。すべての成功は背後の神によるのです。栄光を神に帰すのです。このしもべは、神が自分に立てたアブラハムに従いました。私たちも、神が私たちに立てた上司あるいは上の者に従うのです。家庭では一番身近な上の者は、親と言えるでしょう。あなたは神があなたに立てた親に従うのです。それは、神が立てた権威として従うのです。このしもべは自分の持っている良識、堅実なものの見方、思慮深さなど、自分の能力を最大限に発揮してアブラハムの命に従いました。私たちも、今おかされているこの社会に懸命に仕え、自分の分を果たさなければなりません。このしもべの働きから教えられることは、私たちクリスチャンは、この社会や家庭で与えられた秩序の中で神から託された能力や才能を用いて、人々に仕えていくのです。それが隣人愛の実践ということができます。
<聖書>創世記24章34~48節
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神の傷みと神の愛

2015年7月12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

アブラハムの試練

ある時、神はアブラハムに命じました。イサクを全焼のいけにえとして主にささげなさいと。彼は神に反抗するでもなく、翌朝早く、準備をしてイサクとしもべ二人を連れてモリヤの山に向かうのでした。アブラハムはこれまでの人生には常に葛藤がありました。神の約束があったのですが、現実の生活の中では世継ぎが与えられていないことでした。しかし、やっと、神様の預言の通り、約束の通り、イサクが与えられた。イサクを全焼にいけにえとしてささげる、そのようなことが自分にできるのだろうか。今の自分には、神のご計画が理解できないが、イサクが世継ぎとなることは間違いないはずだ、神にはイサクを死者の中から取り返すこともできるはずだ、と考えたのです。かくして、アブラハムは、自分にはわからないが神様を信じて、約束を疑わずに進んでいったのです。アブラハムの中に神は完全な信仰を築いてくださったのです。

イサクをささげるアブラハム

アブラハムはモリヤの山に向かいました。三日目にその場所がはるかかなたに見えました。アブラハムは神に告げられた場所で祭壇を築き、たきぎを並べてその上にイサクを縛って置いて、刀を振り上げて自分の子を屠ろうとしたその時、神様の「待った」が入ったのです。

苦しみにより神に近づく

アブラハムが味わった苦しみは、最愛の子を死に渡さなければならない時の父の苦しみと痛みです。それから約二千年後に起こったイエス・キリストの十字架は、神様がご自身の御子キリストを全人類の生贄として、死に渡されたときの父の苦しみ、父の痛みを予告しているのです。私たちは、神の傷みをその通りに体験することはできません。しかし、同じ生身の人間であるアブラハムが体験した苦悩を思い描くことができます。それを通して、神様がひとり子であるイエス様を十字架にお渡しになったそのみ苦しみを想像し神の痛みに近づくことができるのです。私たちが神の痛みに近づく意味は何でしょうか。それは、神の痛みの背後にある神の全人類に対する愛を知るためです。わが子を犠牲としてささげることもいとわない愛とは何だろうか。これほど強い愛に支えられていれば、人生に何があっても大丈夫だということです。どんなことがあっても神のみ手はあなたを支えておられるのです。

イエス・キリストを受け取る

試練は私たちの信仰が本物であるかどうかをテストします。その中でも苦しみながらでも神に信頼して従うならば、神はその信仰にこたえてくださるのです。神を信じるというのは、今はわからなくても、後でわかるということです。祝福された人生を自分は歩みたいと願わない人はいないと思います。「求めなさい、そうすれば与えられます。」「もしあなたが信じるなら、神の栄光を見る」とイエス様は言っておられます。聖書は祝福の約束の本です。イエス・キリストはすべての人に提供されている救い主です。イエス・キリストを、まだ、受け取っていない方々はぜひ、受け取ってください。今日も目に見えませんが、イエス様はここにおられて、皆さんの心の戸をたたいています。
<聖書>創世記22章1~19節
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信仰は約束を受け取ること

2015年7月5日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

主の約束は必ずなる

アブラハム夫婦がカナンの地に導かれて、二十五年が過ぎ、アブラハムは99歳、サラは89歳になりました。彼らにとって、ずっと心にあったことは、祝福の契約をだれが継承するのかということです。サラが産む子どもが跡継ぎになると神の言葉がありました。サラは彼らの後ろの天幕の入り口で話を聞いていました。自分が妊娠して来年には子供が生まれるという話です。新約聖書のへブル書には以下のように書かれています。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」信仰が与えられました。「神には不可能はない」と信じたのです。神様は、全能の方です。できないことはないのです。

イサクはキリストのひな型

神は不妊の女であるサラの胎を開かれ約束を果たされました。二人の間にイサクが生まれたのです。イサクは不妊のサラから生まれたということで、キリストのひな型です。イエス・キリストは超自然的に処女マリアから生まれた神のひとり子だからです。しかし、イサクはアブラハムの種によって、サラから生まれました。奇跡的なことと言えますが、イサクは私たちと同じ人間です。それに対して、イエス・キリストは処女マリアが聖霊によって身ごもったとありますから、これはあり得ない奇跡です。人類史上ただ一回起こったのです。それは私たち人間をその罪の呪いから救うためでした。私たち人間は皆アダムの子孫で、罪の性質を持って生まれてきているのです。生まれながらの罪人です。罪ある者は皆、罪のために呪いの下にあります。他の罪人を救うことはできません。罪の呪いの下にある人間を救うためには罪のない人間が代わりに罪の呪いを受けなければなりません。聖霊によって身ごもったイエス・キリストは神であり同時に人間です。神であるがゆえに生涯一度も罪を犯したことがない罪のない人です。キリストはすべての人の罪を背負って十字で死んでくださいました。人類をその罪から救ってくださったのです。

神様の約束を受け取る

アブラハムもサラも、神様からのイサクの誕生の告知を受けた時に笑いました。不信仰というより、自分たちの年齢のために、そして子どもを産める体ではなくなっているということを覚えてのことでした。アブラハムは、信仰の父と呼ばれるようになりました。彼は、望みえないときにも望みを抱いて神様を信じ続けることができるようになりました。神様から信仰の訓練をうけた人です。すなわち、彼は、そのような信仰を神様から与えられた人物です。それはすべての信者の模範となるためでした。彼は信仰の試練を受けて困難を経験するたびに不信仰になるのではなく、信仰がますます強くなり、神に栄光を帰すことができるようになったのです。神様は私たちに贈物として与えてくださったイエス・キリストを信じることを求めておられるのです。信仰は受け取ることです。イエス・キリストをわたしの救い主として受け取ることです。信仰は約束を受け取ることです。サラは、生まれたばかりのイサクを布にくるんで寝かせたでしょう。それは神様からの夫婦への贈り物でした。イエス様は布にくるまれて飼い葉おけに寝かされました。イエス様は全人類への贈り物です。そして、今日みことばを聞いている私たちへの贈り物です。受け取るものはだれでも罪の赦しと永遠の命をいただくことができるのです。今日、今、受け取って新しい人生を再出発したいと思います。
<聖書>創世記18章9~15節、21章1~7節
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特別伝道会

2015年7月4日(土)午後4時
マウントオリーブミニストリーズ 中野雄一郎牧師
説教題「男の幸せ女の幸せ」

<聖書>エペソ6章1~4節
6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。