あわれみと裁きの神

2015年6月28日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

ロトの悩み

ロトはアブラハムと別れてヨルダンの低地全体を選び取りソドムの近くで、天幕を張って遊牧生活をしていました。家畜や金銀に恵まれて豊かになっておりました。やがて、ロトはそれまで得た資産を手にしてソドムの街に住むようになったのです。ロトはソドムの住人の無節操な好色な振る舞いに悩まされていました。しかし、そこでの生活には経済的な面や社会的な地位など外面的な豊かさもあって、ロトはそこで安逸をむさぼっていたのです。ロトは神様を知識として知っていました。しかし、彼はアブラハムの様に神様と出会っていなかったのです。彼は、神について来たのではなく、叔父のアブラハムについて来たのです。ロトは神の国のことより地上の生活に関心の中心を置く人物でした。ロトの一家はソドムとの罪の関係を深めて、滅びの道を歩んでいたと言えるでしょう。

門のところに座って、夕陽を見ながら、取り返しのつかない過去を思って回想していたと想像します。ロトは、自ら真剣に神様を求め、神様に近づこうとしたことは一度もなかったのです。叔父のアブラハムを思い出していました。「アブラハムと一緒にいた時は自分も祝福されていた。自分もその神様にお会いしたいものだ」と。

ロトの祈りと神のあわれみ

ロトは、「彼らを見るなり、立ち上がって、彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ」とあります。その二人にただならぬものを感じたからそのような行動に出たと思います。そして、彼らにロトの家で食事をして泊まるように誘いました。今まで、それほどまでに真剣に主に祈り懇願したことはなかったのです。ロトは、主からのみ使いと知って、命を懸けて守ろうとしました。ロトは二人の客人を娘のいのちを引き換えに守ろうとしました。結果的にはそのようなことにならないで済みました。その行為を非難されてもほめられる行為ではなかったと思います。しかし、神様はアブラハムのゆえに、そして、ロトの祈りにこたえて、彼とその家族を救出なさったのです。

ソドムとゴモラのさばき

食事が終わって、彼らが床に就かないうちに、町中の若者から年寄りまですべての人がロトの家を取り囲んだとあります。そして、二人の旅人を知りたいと責めよるのです。アブラハムのとりなしで10人の正しい人はいなかったということが明らかになりました。神から離れた人間は、その罪により無軌道な文化を築くのです。現代社会を考えると、神から離れた人類の歩みの姿が見えてきます。人間の知恵により、科学が発達し、経済の面でも医療の面でも日進月歩ということができます。しかし、人間の人格はどうでしょうか。人間の徳性はどうでしょうか。戦争は決して終結しません。テロも抑え込むことができません。これらは憎しみの連鎖を生んでいます。人類は教育によっても、憎しみの連鎖を断ち切ることはできません。罪の性質を変えることができないのです。創り主から離れた人類の状態について聖書は言及しています。ソドムとゴモラは特別な街ではなく、創り主から離れた人間の行き着くところを表しているのです。神様は、アブラハムの後、二千年後にアブラハムの子孫であるユダヤ民族に救い主イエス・キリストを誕生させてくださいました。キリストは十字架で全人類の罪を贖って、死んで三日目によみがえり、救いを完成してくだしました。イエス・キリストはいつも私たちのことをとりなしておられます。私たちの小さな信仰でも、神様は私たちを滅びの中から救い出してくださるのです。
<聖書>創世記19章1~16、29
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とりなしを求める主

2015年6月21日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

主はアブラハムにご計画を知らせる

日差しの強いお昼頃、アブラハムが木陰にあるテントの入り口に座っていたとき、三人の旅人が立っていたので、アブラハムは駆け寄って声をかけ、食事のおもてなしをしました。ところが、アブラハムが旅人だと思ったこの三人は、実は神様と二人のみ使いだったのです。お話を聞いているうちにアブラハムはそのことに気づきました。食事の後、イサクの誕生の告知がありました。その後、一行を見送りに来たアブラハムに対し、神様はある計画を打ち明けることにしました。

とりなし手となるアブラハム

主ご自身がしようとしておられることをアブラハムに知らせようとしておられます。これは、アブラハムと親しい関係にあるからです。アブラハムは神のしもべではなく、神の友となっていたからです。主人はしもべには、しようとすることを知らせないが、友には知らせるのです。私たちクリスチャンに対して、神様は親しい友としての関係を求めておられるのです。神のなさろうとしていることをアブラハムが知り、神にとりなしの祈りをするように期待なさったのです。ソドムとゴモラの町で人々が犯した罪からの叫びが神様に届いていました。その罪は積もり積もって、ついに裁きの時を迎えるのです。罪はどんな罪でも消しゴムのように消し去ることはできません。主の言葉を受けて、二人のみ使いはソドムの方へ進んでいったとあります。主はそこに立っておられたのです。そしてアブラハムも主の前に立っていました。ソドムとゴモラの町を滅ぼすという神様の意志を知って、ソドムに住んでいた甥のロトのことを心配したのです。アブラハムはとりなしを始めました。アブラハムは神様の御心を探り求めました。アブラハムが最初に申しあげた言葉は「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」という言葉でした。神の義、神は正義であり、悪いものに裁きを下すのは理解できるが、正しい人も悪者と一緒に滅ぼすようなことをするのだろうか。主は赦しの神です。主は正義の神です。アブラハムは祈りによって、そのことを知ること、あるいは確認することができたのです。主は、一人も滅びることを望まず、人々が悔い改めて、神様の立ち返ることを忍耐して待っておられるのです。

イエス様のとりなし

イエス様は私たちにとりなし祈ることを求めています。私たちの家族のために周りの人たちのために、まだ、この福音がわからない人々のために、救われていない人々のために、苦しんでいる人々のために、危険にある人々のために、また、為政者のためにも、さらに迫害するものや敵対する者のためにも祈るように求めておられます。イエス様は、父なる神の右の座におられて、私たちのために父にとりなしていてくださるというのです。罪のために神様に対立あるいは敵対しているあなたのためにイエス様が父なる神に、とりなしてくださったというのです。イエス様があなたの罪を背負い、身代わりとなって十字架で刑罰を受けたので、あなたのすべての罪は赦されたと宣言してくださっているのです。イエス・キリストを信じて神に近づく人をどんな人でも完全にお救いくださるのです。ですから、私たちは何も恐れることなく大胆に神に近づくことができるのです。この和解の福音はすべての人々に提供されています。私たちはこの福音の伝達者として、立てられているのです。また、罪によってとらえられている人々をその滅びから救いだされるようにとりなしの祈りに励みたいと思います。
<聖書>創世記18章16~33節
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信仰によって義とされる

2015年6月14日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

神の約束を信じる

神様から子孫を地のチリの様に増やすという約束をいただいてから、10年がたちました。しかし、依然として彼には世継ぎとなる子供が与えられませんでした。彼は、不安と恐れにあったと思われます。神様の御心は何だろうか。悶々としていたところだったのです。そのアブラハムに、神様は言われたのです。「アブラムよ。恐れるな。」「わたしはあなたの盾である」。そして「あなたの受ける報いは非常に大きい」と。

そして、アブラハムを外へ連れ出して、天の星を見上げさせたのです。無数の子孫が与えられると仰せられたのです。そして、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

ここから、「信仰義認」という教理が生まれました。簡単に言うならば、信じるだけで救われるということです。その根拠は何でしょうか。イエス・キリストが私たち人間の罪から来る報酬に十字架の死という罪の代価を払ってくださったからです。そして、復活し、信じる者に死の滅びではなく永遠のいのちを与えてくださったのです。アブラハムがはるかに仰ぎ見ていたのは、それは、やがて来られる贖い主イエス・キリストでした。その時から現在に至るまで、信仰によるアブラハムの無数の子孫は空の星のように起こされています。私たち信者です。それは、教会ということもできるでしょう。贖い主イエス・キリストを信じる信仰によって罪の赦しが全人類に提供されています。信仰による救いが全世界に訪れているのです。

契約の更新

アブラハムには子供が与えられませんでした。そこで、再び、人間的な解決策を講じます。妻サラは、エジプトから連れてきた女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、ハガルによってその子イシュマエルを得たのです。しかし、神のみ心から離れた行動にはトラブルがつきものです。ハガルは身ごもったことで横柄になり、サラを見下すようになったのです。そして、それから13年たちました。アブラハムが99歳になったときに、再び主はアブラハムに現れました。最初に神様はご自身を「わたしは全能の神である」と宣言いたしました。私たちが壁に突き当たったとき、神は「わたしは全能の神だ」と語りかけてくださいます。私たちには全能の神がついています。無から有を作ることのできる神がおられることをもう一度心におぼえるべきです。神様はアブラハムと契約を更新し、以前立てた約束を確認させるのです。

世継ぎ誕生の預言

アブラハムは100歳でサラが90歳の時に、約束の子イサクが与えられたのです。最初にアブラハムに神が現れてから25年の歳月が流れました。アブラハムは、何度も恐れや不安を抱いたと思います。そのたびに、神は彼に語りかけたのです。25年間も待ち続けました。人間的な方策も講じました。サラが高齢になり、閉経して子供とつくる望みも消えた時に、アブラハムは、自分の世継ぎはサラの奴隷ハガルの子、イシュマエル(神は聞かれる)であると信じたでしょう。しかし、イサク(笑う)の誕生の預言をいただきました。それを聞いたとき、彼らは、「こんな老人にそんなことがあるものか」という嘲笑ともいえる不信仰な笑いを心の中でしました。しかし、神はそれを祝福の笑いとしてくださったのです。神は私たちの不信仰な祈りも聞いてくださるのです。私たちも祈っても、祈っても状況が開かれないと思うことがあります。主は全能ですべてを御心のままに最善をなしてくださることを信じ続けることが大切です。自分にとって良いと思っていることと神様が最善としておられることにはギャップがあるのです。私たちは全能者である神をどんなときにも、どんな状況にあっても信頼し続けるのです。それがアブラハムから教えられる信仰者の姿であります。
<聖書>創世記15章1~6節、17章1~5節、15~19節
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祝福の約束を待ち望む

2015年6月7日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

神の約束を待ち望む

アブラハムは、カナンの地を与えるという神の約束をいただきました。また、神様はアブラハムを祝福し、彼を通してすべての国民を祝福すると約束されました。しかし、アブラハムの子孫であるイスラエル民族がカナンの地を征服するのはそれから約千年後のことだったのです。へブル書に「アブラハムは固い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とある通り、アブラハムは目先の約束ではなく、はるかに御国を目指して、この世では旅人であり寄留者であることをその生き様で証しました。私たち信者が待ち望むところは、来るべき神の国です。そこが、最終ゴールです。そして、アブラハムは後に来られる贖い主をはるかに望んでいたのです。

肉の人ロト

アブラハムは神の約束通り、物質的にも祝福されました。そして、ロトも豊かになりました。そして、多くの家畜のために広い牧草地が必要となり、別れて生活することになりました。アブラハムはロトに土地選びの優先権を与えました。ロトはアブラハムに遠慮することなく祈ることもなく有利と見える所を選んで出ていきました。ロトは、肉に属する人でした。パウロは人間を三種類の人に分類して説明しています。一つは「生まれながらの人」です。それは、神との交わりもなく、霊に属することには何の関心もない人です。もう一つは「霊の人」です。その霊が生かされて、神との交わりに入り、聖霊にその生活が導かれている人です。三番目は「肉に属する人」です。人間的な罪の性質に支配されて行動する人です。ロトの関心は神の栄光のことより、自分の欲得のことでした。結果的に、ロトはすべての財産を失い、二人の娘だけを連れて山に逃れたのです。ロトは、肉的なクリスチャンでした。イエス・キリストを信じて、聖霊をうけても、聖霊に従うことなく自分の古い罪の性質に従うクリスチャンです。世に同化して、世に埋没して、しまいには信仰を失うのです。

霊の人として生きる

聖書は言っております。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と。パウロは「聖霊のみ思いをいつも選んで歩みなさい、そうすれば肉の欲望を満足させるようなことはない」と勧めています。クリスチャンは洗礼を受ける時に聖霊を受けます。すると、内側には聖霊に従おうとする新しい人が生まれるのです。しかし、自分の古い罪の性質に従おうとする古い人も生きています。葛藤が起こります。しかし、常に聖霊に従いなさいというのです。具体的には聖霊の言葉である聖書を読んで神の御心を求めて祈る人です。そして、自分の思いより御心を優先して生きるのです。平安と喜びがついてきます。
<聖書>創世記13章2~18節
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