教会はキリストのからだ

2015年5月31日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

教会はキリストのからだ

教会はキリストのからだです。聖霊は信者に賜物をお与えになります。それによって、信者は教会の中で役割や働きを担い活動し成長していくのです。ところが、コリントの教会には聖霊の賜物についての混乱がありました。どうもコリントの教会では、異言の祈りをする人は信仰的に優れていて、それによって、教会の信者に優劣をつけていたようです。そこでパウロは、教会をからだに例えて、信者はいろいろな点で違っていても優劣はなくそれぞれが器官であり互いに必要とされていることを説いています。キリストが頭となって、教会はキリストの思うところをなし、キリストの望むところを探り行うのです。教会では、かえって、劣った人、弱い人、貧しい人を尊ぶのです。これは頭であるキリストのご性質そのものだからです。キリストのご生涯を見ると、病人を憐れみ、貧しい人をいたわり、子どもを愛し、劣っているものを励まし、悲しんでいる人を慰め、苦しめる人をお助けになりました。教会も当然そのように行動するのです。

教会はキリストの花嫁

また、聖書は「クリスチャンと教会をキリストの花嫁」として描いております。キリストは教会のためにご自身を捧げられました。さらに、花嫁として、シミやしわやそのようなものが何一つない、清く傷のない栄光の教会としてご自身の前に立たせてくださるというのです。キリストは人間のために天のみ位を捨てて、聖なる神としての身分を捨て、最も卑しい人間となり、へりくだられて来てくださったのです。そして、人類のすべての罪を負われて十字架で極悪の罪人として裁きを受けて死んでくださいました。それは、聖なるキリストがけがれた私となってくださり、代わりにけがれた私が聖なるキリストにならせていただいているということなのです。

苦しみと喜びを共にする教会

パウロは、弱い人や尊くないと思えるような人々を大切にしなさいと勧めています。しかし、わたしたちはなかなかそのように行動することができないのです。なぜでしょうか。多くの人が神の上に自分を置いているので、気づかなくても、自分が一番と思っています。自分があがめられたいのです。ですから、隣人の喜びを素直に喜べないのです。神様のしもべとなり、キリストの十字架のもとにひれ伏すとき、苦しむ人とともに苦しみ、悲しむ人とともに悲しむことのできる人間に変えられるのです。
<聖書>Ⅰコリント12章12~27節
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教会の誕生

2015年5月24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

聖霊降臨

イエス様が天に昇って行かれた後に、弟子たちはエルサレムに帰り、部屋で祈っていました。それは、イエス様が約束してくださった聖霊を待ち望んでいたのです。約10日後、すなわちユダヤの暦で五旬節の日に、聖霊が彼らに下ったのです。聖霊はイエス様が約束された助け手であり、三位一体の神の一位格です。聖霊が各人にとどまったときに、彼らは聖霊が話させる通りに他国語で話し出したのです。五旬節は、ユダヤでは七週の祭というお祭りの時期で、エルサレムには大勢の人々が集まっていました。聖霊は信者のところに来てくださり、内に住んでくださり、私たちとともにいてくださるのです。そして、父なる神の御心を教え、すなわち、聖書の真理を理解できるように私たちに働いて、真理に立つことができるように励ましてくださるのです。また、神である聖霊は聖書の真の著者であり、教会の生みの親ということができます。

ペテロの説教

この時、イエス・キリストの十字架と復活の事件は当時では耳新しいことでした。ペテロは声を張り上げて群衆に語りかけました。旧約聖書の預言の言葉を引用して、イエス・キリストについて、聖書の預言から話しました。ダビデ王はキリストの復活を預言しました。そして、その通りになり、自分たちはその復活の証人であることを明言したのです。ペテロは大胆に、聴衆に言います。「あなた方はイエス・キリストを十字架につけたのだ」と。行為としてはないにしても、イエス・キリストが全人類の罪のために、その贖いとして十字架にかかったとしたら、全人類の罪はイエス・キリストが十字架にかかった原因となっているのです。ペテロの「あなた方がイエスを十字架につけたのだ」という言葉は、聖書を読むすべての読者に投げかけられているのです。現にすべての人は罪を犯していると聖書は言います。具体的には、私たちの心には創り主なる神を敬う思いはありません。神を認めないし、心は神から遠く離れています。聖書では人類は神に敵対しているとある通りです。しかし、罪を取り除くために神であるイエス様は全人類の罪を背負って十字架でその裁きを受けてくださったのです。キリストは人類の代表として、父なる神に完全に従い十字架という苦難の盃を飲み干してくださいました。それゆえに、キリストを信じる者を神は罪なしとして、義としてくださります。群衆は心刺されて、自分の罪を認めて悔いて痛み悲しんだのです。

教会の誕生

洗礼を受けて、クリスチャンになった人々がその日に三千人もあったということです。最初の教会はこのようにしてできました。教会の誕生です。教会はその時以来全世界に広がり、現在でも広がり続けています。聖書もあらゆる言語に翻訳されて、全世界のほとんどの人が自分の国の言葉で神の言葉を聞くことができます。
<聖書>使徒の働き2章1~4節、36~42節
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どうしても必要なこと

2015年5月10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

もてなすマルタとみことばを聞くマリヤ

さて、イエス様一行は旅をしてベタニヤに入られました。マルタは喜んでイエス様一行をお迎えしました。イエス様のために、おいしい食事を用意していたのでしょう。そのためにマルタは一生懸命だったようです。それに対して、マリヤはイエス様の足元に座ってみことばを聞いていました。ついにマルタはイライラして、先ほどの「喜んで」が「イライラ」に変わり、ついに「怒り」に変わってしまったのです。マリヤは何をしているのか、と思ったでしょう。私たちも、自分が一生懸命だと、一生懸命でない人を批判する傾向があります。他人と比較して自分の立ち位置を図る、自分を他と比較して評価する、そういう傾向にあります。マルタの心には、「マリヤだけがイエス様のそばにいて良い思いをして、わたしは忙しく食事の準備をしている、不公平だ」という思いです。神が、わたしを愛して、わたしにとって最善を導いてくださっているという確固たる神への信頼を持っていれば、わたしは不平や不満を抱かないはずです。わたしたちは他人と比較して、自分に対する神の愛を量ってはいけません。たとえ、自分だけ不利に立たされていると感じても、神はそのことを知っておられて、あなたにとってそのような試練やマイナスが必要であり、最後にはあなたのためになることをご存知で許されていることを知らなければなりません。

不平と不満に変わる人間の愛

マルタはイエス様を愛していました。しかし、その愛は不平と不満に変わっていきました。イエス様のためにという思いは、次第に、自己愛に変わってきたのです。神様を愛しているといいながら、突き詰めれば自分よがりな自己愛なのです。何もしないマリヤを憎らしく思いました。そればかりでなく、イエス様に対しても、不平不満を漏らしました。このように私たち人間の愛は、自分が不利に立たされると不平不満に変わりやすいのです。

そのことを神様は知っていながら私たちにこの上もない寛容を示しておられます。「マルタ、マルタ。」と主は繰り返し名前を読んで、やさしくお声をかけておられます。

どうしても必要なこと

マルタの関わったいろいろなことは、必要なことではありました。しかし、どうしても必要なことではなかったのです。イエス様はどうしても必要なことは、一つだけだといいました。それは、みことばです。現在、私たちは神のみことばを聞くことができます。説教を通して、また、個人で聖書を読むことにより、みことばを聞くことができます。聖書を読んで祈るというのは、クリスチャンの日々の営みです。日常生活の色々な要素の中で、最も必要なことです。イエス様は、ブドウの木のたとえでそのことを教えられました。イエス・キリストはブドウの木で私たちはその枝です。もし、枝が幹につながっていなければ、実を結ぶことができないばかりか、枯れていのちをうしなうというのです。枝は幹にとどまり続けなければ命を失うのです。聖書は、人間が真のいのちに生きるために、どうしても必要なものがあると教えています。聖書はよりよい生き方を教えているのではありません。ベターライフの教科書ではありません。どうしても必要なことを伝えているのです。聖書が伝えるどうしても必要なこととは何でしょう。それは、ずばり、みことばであるイエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちを罪と死からの救ってくださるのです。そして、キリストのうちに永遠のいのちがあるのです。わたしたちは自らの罪のために死すべき存在です。真の神でありまことの人間であるキリストが人類のすべての罪を背負って犯罪人として十字架刑によって処刑されたのです。それゆえ、十字架を通して神は私たちのすべての罪を赦してくださっているのです。そのことを信じる者には、罪の赦しに伴う、永遠のいのちが与えられます。聖書(マタ16:26)に「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのち(永遠のいのち)を損じたら、何の得がありましょう。」とある通りです。
<聖書>ルカの福音書10章38~42節
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罪を赦すイエス

2015年5月3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

他者の罪を訴える人間

イエス様はエルサレムの宮に入られて、お話をされていました。その所に、律法学者とパリサイ人は、姦淫の現場でとらえられた女性を連れてきて言いました。「先生、この女は姦淫の現場で捕まえられたのです」と。「モーセの律法は、このような女性は石打の刑と命じています。」「ところで、あなたは何と言われますか。」その動機は、イエス様を訴える口実を見つけるためでした。彼らは、イエス様にしつこく質問を投げつけます。彼らは、悪知恵を働かせて、イエス様がどう答えようとも、違反になるよう、逃れられないように策略しました。女性は恐れおののいていたでしょう。殺されるかもしれない。現場をとらえられたので、言い訳できないことも知っていました。ただ、イエス様にすがるようにイエス様を見ていたのではないかと想像します。「神の御子とうわさされ、多くの病人をいやされ、救い主と言って多くの群集が言っている方だ、もし、そのような方であったら、わたしを憐れんでください。」

イエス様の答え

女性を連れてきた人たちは、この女の悪い行為を責め立てたのです。しかし、すべての行為の前に動機があります。心があります。イエス様はその心をいつも問題にされています。イエス様はおもむろに立ち上がって、言いました。「あなた方のうちで、罪のないものが最初に彼女に石を投げなさい。」イエス様から「あなた方のうち罪のないものが」と言われた時に、聖霊が、そこにいたすべての人々の心に働いて、それぞれが自分の罪に気づいたのです。彼らは正義を装ましたが、心の中で殺しをもくろみ、イエス様の評判を貶めようと画策しました。私たちは、内面を見られる神のみ前ではみな罪びとです。ここに登場する律法学者とパリサイ人たちは、自分たちはこの女と全く違う人間だ、この女のような罪人ではない、と思っていました。しかし、イエス様の言葉を聞いて、聖霊に示された時に、自分の罪に気づいたのです。年長者ほど、自分には人を裁く資格がないことに気づいたのです。しかし、自分の罪に気づいたにしても、彼らは悔い改めず、イエス様を救い主として受け入れませんでした。イエス様が、お与えになる「罪の赦し」を受け取ることなく、立ち去ったのです。

罪を赦すイエス様

「イエス様、私は罪びとです。この女性を断罪する資格のないことがわかりました。あなたを信じます。どうか私のお罪を赦してください。」と悔い改める人をイエス様は求めておられます。そこには、信じる者は誰もいなかったのです。イエス様はもう一度身を起されて、女性に尋ねます。「婦人よ。誰もあなたを罪に定める者はいないのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」この女性は、イエス様がお与えになる「罪の赦し」受け取ったのです。この後、イエス様は、罪のない神のひとり子、全人類の罪をその身に負われて、十字架にかかり、罪の贖いをしてくださいました。ですから、イエス様は「罪の赦し」を与えることができるのです。彼女は、イエス様を信じて立ち上がったのです。悔い改めて、罪から離れたのです。
<聖書>ヨハネによる福音書8章1~11節
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