信仰によって近づく

2015年4月26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

つまずき倒れる人生

この女性は、出血性の婦人病で、12年間も患っていました。多くの医者からひどい目に合わされて、財産もすっかり使い果たし、病気もさらに悪くなっていたのです。そして、人間不信となっていたのです。また、当時律法により、血の漏出があるため、けがれたものとして、他の人々との接触が制限されていました。益々、社会から疎外されて孤立していたのです。12年前にこの病を患い、そこから彼女の人生は真っ逆さまに落ちてしまったと思われます。人生はこのように一つのマイナスが連鎖反応を起こし、たちまち奈落の果てに落とされる事があるのです。大震災に会った被災者の方が「何ともない平穏な生活がその瞬間から全く暗転してしまった」と語っていました。わたしたちは、不確実な世界に生きているといえます。何が起こるかわからない、明日は我が身かもしれない。しかし、確かなものがあると聖書は教えています。それは、「神はあなたを愛している」ということです。そのことに気づくと、自分の生きてきた過去のすべてはこの時のためであったと感謝するのです。

イエス様に近づく信仰:

この女性は、けがれたものとされていました。他の人が自分に触ればその人も汚れるという律法の戒めを知っていたでしょう。ですから、人に近づくことははばかられていたのです。しかし、できない、規則だから、イエス様をけがしてしまう、見つかったら大変だ、としり込みしたでしょうか。否、誰にも知られることなく、イエス様から癒していただきたいと願ったのです。彼女は失望に失望を重ねてきた女性でしたが、希望を持ったのです。それは、イエス様なら自分の病を治すことができるという。お着物にさわるだけでも、きっと治ると信じたのです。彼女はなりふり構わず、イエス様に近づきました。イエス様の周りに人垣ができていました。おそらく、何重もの人垣をかき分けてやっと近づいたのですが、最後の人の壁は強く、腕一本の隙間しかなかったでしょう。イエス様の後ろ姿がやっと目に入りました。人の隙間に手を入れてイエス様の着物にその指先がふれたのです。そうしたら、「たちまち痛みが去り、病気が治ったのです」はっきり自分の病気が治ったのを自覚できたのでしょう。12年前の健康であった時の感覚が戻ったのです。

救いを与えてくださるキリスト

イエス様は、振り返って、だれが私の着物に触ったのですか、と問われました。女性は恐れおののき御前にひれ伏したとあります。イエス様はすべてをご存知です。この女性のことも知っておられました。でも、「誰が私の着物に触れたのですか」と言って、彼女を呼び出しました。それは、この女性を祝福し、彼女の身に起こったことを信仰によって受け止めるようにさせるためでした。彼女は信仰によって病ばかりでなく、罪の赦しと永遠の命をいただいたのです。これがイエス様のお与えになる救いです。罪の赦しと永遠の命です。この後、十字架にかかり人類の罪を贖ってくださったのです。イエス様の周りには大勢の人がいて、この女性以外にもイエス様の着物に触れた人々はたくさんいたでしょう。しかし、イエス様の癒しの力をいただき救いをいただいたのは、この女性でした。信じて求める人にご自身の力を現してくださるのです。
<聖書>マルコによる福音書5章25~34節
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渇くことのない生ける水

2015年4月19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

渇き続ける人間

このサマリヤの女性は、ほかの女性たちを避けて、だれも来ない真昼に水を汲みに来ました。彼女は、心の癒えない渇きを持っていたのです。イエス様は、そのことをご存知で、「わたしに水を飲ませてください」と語りかけます。イエス様は「この水を飲むものは誰でも、また、渇きます。しかし、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちのへの水がわき出ます。」と言われ、彼女に本当に必要なものについて話を進めます。彼女は、孤独で、疎外感を感じていました。それが霊的渇きから来ていることがわからないのです。霊的渇きというのは永遠なるものを求める人間の魂と言えます。一時的でない永遠なるもの、絶対的なもの、変わらないもの、それらに対して人間は渇きをもっています。人間は最初に土で作られて、神からの霊のいのちを吹き込まれて生きるものになったのです。しかし、アダムの罪以来、魂の中心から神を追い出してしまった人間は、その空洞を何かで満たそうとしています。それが霊的渇きです。「この水を飲むものはまた渇きます」とイエス様が言われ、この霊的渇きに気づくよう導いたのです。

キリストが与える水を飲む

渇くことのない水をください、という彼女の心を知って、イエス様は「あなたの夫を連れてきなさい」と彼女の罪の問題に切り込みを入れます。彼女の抱えていた問題は人間関係のことです。結婚、家族の問題と言えるでしょう。人間関係の根本にあるのは、神との関係です。礼拝は神との出会いです。そして、礼拝は神との関係回復の道なのです。どのようにして、イエス様はわたしたちと神様との関係回復の道を開いてくださったのでしょうか。その罪を取り除くために、十字架で罪の贖いをしてくださったのです。神への礼拝は場所が大事なのではなく、神を霊とまことによって礼拝しなければならないというのです。それは、心から神を恐れ、愛し、信頼することです。まこと(真実)をもってというのは、人と神の間の唯一の仲介者キリストを通して、神を礼拝しなさいということです。イエス様が「わたしが与える生ける水を飲みなさい」というのは、イエス様を信じなさいということです。

救いの喜びに満たされる

「わたしの言うことを信じなさい」とイエス様は、信仰の決断を迫ったのです。そして彼女は、心でイエス様を信じました。決して渇くことのない生ける水を心にいただいたのです。孤独と疎外感でずっと苦しんでいた彼女の心に永遠の命の水が泉となってあふれたのです。彼女に劇的な変化がきました。人目を避けてきたこの女性が街に出かけていって、イエスのことを人々に伝えたのです。真の救い主を受け入れて、心の渇きが癒されると、生きる喜びに満たされます。私たちも心にその生ける水をいただくことができます。それは、真の救い主イエスキリスト心の内にお迎えすることなのです。
<聖書> ヨハネの福音書4章3~26節
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死を復活の希望に

2015年4月12日(日) 主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

死と別離に悲しむ弟子たち

イエス様は十字架で死なれて、墓に納められました。弟子たちは絶望して嘆き悲しんでいました。人は、年を重ねるにつれて、別離を多く体験して行くのです。死がもたらす別離の悲しみを多くの人が経験してきたことでしょう。人の死は、自分の死を見つめる機会となります。人は自分の死を受容しなければならないし、最後は受容するようになるのです。イエス様は全人類の罪を背負って、罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださったのです。そして、死者の中から復活して、私たち人間にとって最後の敵である死を滅ぼされたということです。信じる者には、神からのプレゼントとしての永遠の命があるのみです。そのことを知らない人々には、死の別離は抜け出ることのできない悲しみであり、また、自分の死もあきらめて受け入れていかなければならないものに違いないのです。

主のもとから離れない信仰者

イエス様は、最初にマグダラのマリヤに表れました。彼女が他の弟子たちと違っていたところはいつも主のもとにとどまろうとしていたことです。十字架の時も十字架の下で主を最後まで見ていました。埋葬の時も墓に納められるところまでついていきました。十字架で死なれたのは金曜日です。3日目の朝、マリヤは、待ちきれずに朝まだ暗いうちにイエス様にお会いしたくて、墓にやってきたのです。どんな時も一刻たりとも主の元から離れない女性だったのです。主の元から離れない信仰者の代表でした。わたしたちの思いはどうでしょうか。普段は、イエス様は全く心にいなくて、日曜日の朝にだけいらっしゃるのではないですか。主のもとから離れないマリヤを見習いたいと思います。彼女は、主の復活の証を歴史に残す女性となったのです。

復活し会いに来てくださるイエス様

死は諦めと思っていた私たちに、神の方から近づき、「なぜ、悲しんでいるのですか」と問うてくださるのです。キリスト教会では、このイエス様の復活の日を記念して、毎週礼拝をおこなっております。それは、今でも、死に打ち勝って復活されたキリストと同様に私たちも復活し永遠の命の希望があることを聖書は教えているからです。彼女は死んだイエス様ではなく、よみがえって生きておられるイエス様に会ったのです。深い悲しみは大きな喜びに、絶望は大いなる希望に変えられたのです。これがクリスチャンライフに起こることです。イエス様を求めて、イエス様から離れない信仰者に起こることです。人生で希望を失って、絶望を感じる時もあるでしょう。しかし、イエス様から離れないクリスチャンには、マイナスはプラスに、悲しみは喜びに変えられるのです。マリヤは、イエス様に縋りつきました。そのマリヤの思いをイエス様は読み取られ、「わたしはまだ、天に上っていないのだ。」と言われたのです。イエス様が天に上っていかなければ、聖霊が来て、この救いを全人類に広げる教会の時代に入らないからです。イエス様は、信じる者に神の子となる特権をお与えになり、神の国の相続者にするために聖霊を送ってくださったのです。罪の奴隷であったものが、自由の王となり、御国の世継ぎとなったのです。この奥義はあまりにも深くて、十分には理解できません。しかし、言えることは、それほどまでに、人間を愛し、大切な存在として、神の全人格をかけて人間を救ってくださったということです。言葉で言い尽くすことのできない、神の恵みを恐れつつ感謝するものでありたいと思います。
<聖書>
ヨハネの福音書20章1~18節
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