行いに表れる信仰

2015年1月25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<要約>

洗礼者ヨハネは、民に悔い改めを迫り、そのしるしに悔い改めのバプテスマを受けるように訴えました。彼は神の義の代弁者として大胆に断罪したのです。しかし、ヘロデの罪を指摘したことにより怒りを買い殺されてしまいました。最後まで神の使命に生きました。ヨハネの死後、イエス・キリストは受難に会い、十字架にかかり、死に、そして、復活に至ったのです。創造者の神が人となって、人類に介入されたのです。イエス・キリストは御国をこの世に持ってきてくださいました。そのため、世と神の御国との間には激しい戦闘が起こったのです。それは今も続いています。私たちクリスチャンには三つの敵があります。一つはサタンです。もう一つは世です。もう一つの敵は、私たち自身の内にいる肉と呼ばれている古い人です。み言葉に従いたくないという罪の性質です。その三つの敵に勝利するように絶えず祈らなければなりません。聖書の主要なメッセージは律法と福音です。十戒を中心とした律法は私たち一人ひとりの心を照らし、罪を断罪します。最終的に死刑を言い渡すのです。それに対して、福音は、イエス・キリストの十字架による罪の赦しを提示し、信仰による救いを与えるのです。そのようにして救われた者は、責められるところのない、一点の罪のしみもない者となります。赦されている人は人を赦します。正しいとされた人は正しい行いに進みます。隣人愛の実践と良い行いに励むのです。私たちは古い自分に従うのではなく聖霊により生まれた新しい自分に従って生きるのです。「知恵の正しい事は、その行いが証明します」、とあるように、私たちの信仰は行いに現れてくるのです。
<聖書>
マタイによる福音書11章2~19節
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主イエスを渇望する

2015年1月11日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<要約>
イエス様は収税所に座っているマタイに「私について来なさい」と言いました。収税人は、ユダヤ人でありながら、ローマの手先となっている者たちでした。みんなに嫌われていました。マタイはイエス様のうわさを聞いていましたが、嫌われ者の自分とは関係のないお方だと思っていたのです。しかし、呼ばれて、マタイはすぐに立ってイエス様についていきました。マタイは罪の意識を持ちながら、そこから抜け出ることのできない弱さを持っていました。イエス様はそれらの思いをすべてご存知でした。イエス様は私たちが、みことばを素直に受け取る事を願っておられるのです。イエス様は十字架の上で私たち人間のすべての罪を完全に赦してくださいました。そればかりでなく復活により永遠の命の約束を与えてくださいました。しかし、もし、イエス様のこのプレゼントを受け取らないならば、あなたのものにならないでしょう。マタイは救われた喜びでイエス様を招いて感謝の食事会を持ちました。宴会を見ていたパリサイ人たちはイエス様が罪人といわれる人々と一緒に食事をしているのを見て、批判したのです。しかし、イエス様は、「正しい人を招くのではなく、罪人を招くために来たのです」といわれました。この罪人というのは、自分には罪があるということを自覚している人です。イエス様が招いておられるのは、そういう心の低い人、へりくだった人です。しかし、神の愛は、「自分こそは正しい人間である」と思っている人の心にも届き、その人を照らし、罪をわからせます。そして、福音の光が、イエス・キリストの救いを指し示すのです。そこにイエス様の招きの素晴らしさがあるのです。主イエス様をしたい求めましょう。主は必ず答えてくださるのです。
<聖書>
マタイによる福音書9章9~13節
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どっちが大事、罪の赦しと癒し

2015年1月4日(日) 主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

イエス様がカペナウムの家に帰られたとき、群衆はイエス様を求めて集まってきました。そこに中風の人を床のままでイエス様のもとに運ぼうとしましたが、人がいっぱいで入り口の扉からは入れないので、屋根に上り天井をはがして穴をあけてイエス様の目の前に床をつり下ろしたのです。イエス様は、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と、罪の赦しの宣言をなさったのです。イエス様は、困難にあきらめることなく信じて進んで行った彼らの信仰を見られたのです。イエス様はこの男に罪の赦しをお与えになりました。罪は私たち人間の根源的な問題です。罪とは何でしょうか。神は人を神のかたちに、神に似せて、神のイメージに創られました。そして、人は神の代理として、地に遣わされたのです。しかし、人は悪魔に誘惑されて高慢になり、神の位置に自分を置こうとしたのです。代理人の身分を超えて代表者となろうとしたのです。その結果、神のイメージを完全に失い本来あるべき姿を失ったのです。すべての存在の中心におられるお方は万物の創造者である神です。そのことに気付くことさえない罪深い人間社会、そして罪深い私たち一人一人のために、神はこの上もない寛容を示し、救いのために御子イエス・キリストをくださいました。すべての人は罪によってまことの命を失っています。イエス・キリストの十字架による罪の赦しをいただかなければ誰もこのいのちを取り戻すことができません。なぜなら、イエス様は、罪を赦すために来られて、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったからです。十数年前のことです。友人でクリスチャンのお医者さんが、がんの末期となっていました。ある日の夕方におみまいに行きました。彼は、私の顔を見るなり、「森田先生、僕の罪は赦されているだろうか。僕は天国に行けるだろうか」と。最後の時に私たち一人一人が問われることは、「罪が赦されている」かどうかです。永遠が決まるからです。永遠の命に至るか永遠の滅びに至るかです。罪の赦しは神ご自身が一方的にくださる恵みです。誰でもそれをいただくことができるのです。あなたが思いを変えて、空の手を差し出して、イエス・キリストの救いを受け取るだけでいいのです。
<聖書>
マタイによる福音書9章1~8節
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